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石上布都魂神社
岡山県赤磐市石上字風呂谷
祭神−−素盞鳴尊
                                                      2013.03.28参詣

 延喜式神名帳(927)に、『備前国赤坂郡 石上布都之魂神社』とある式内社で、備前国一ノ宮。
 社名は、イソノカミ フツノミタマと読む。

 JR津山線・金川駅の北北東約8km、県道265号線経由、同468号線を北上した西側山中に鎮座する。

※由緒

 当社参詣の栞によれば、
 「当社は延喜式神名帳に記載とれた『式内社』で、全国3132座のうちの一つである。備前国では128社の中で正二位に列せられた古社である。また、備前一宮として国司が参拝を指定されていた。祭神は素盞鳴命(スサノヲ)
 日本書紀に素盞鳴命が出雲国で八岐大蛇を退治され、大蛇の尾から草薙剣を取り出すが、その後日談として『一書曰 その素盞鳴命の蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部(カムトモノヲ=神主)の許に在り』と記している。吉備の神部とは当社のことである。
 大和(天理市)にある石上神宮は物部氏の氏神で、布津魂剣(フツノミタマノツルギ)を御神体とし、有名な七支刀を所持していることなどから、日本書紀による素盞鳴命の剣も、大和説が有力とされているが、岡山藩士の大沢惟貞が寛政年間(1789--1801)に編纂した“吉備湯古泌録”には、記紀をはじめ古代の文献を考証して、素盞鳴命が剣を納めた社は吉備の当社に間違いない、崇神天皇の御代に大和に移したとしている。
 もともと当社の御神体は大松山の頂上の巨石で、神が天下る磐座である。布津魂とは剣の霊のことである。なお当社の宮司も物部の姓である」
とある。

 栞がいうスサノヲの断蛇剣について
 古事記には
 ・ここに速須佐之男命、その佩かせる十握剣(トツカノツルギ)を抜きて、その蛇を切りはふりたまひしかば、・・・
 日本書紀(8段)には
 ・本文−−−時に素盞鳴尊、乃ち所帯(ハ)かせる十握剣を抜きて、寸(ツダツダ)に其の蛇(オロチ)を斬る
 ・一書2−−其の蛇を断りし剣をば、号けて蛇の麁正(オロチノアラマサ)と曰ふ。此は今石上(イソノカミ)に坐す
 ・一書3−−素戔鳴尊、乃ち蛇の韓鋤の剣(カラサヒノツルギ)を以て、頭を斬り腹を斬る。
         其の蛇を斬りたまへる剣は、今吉備の神部(カムトモノヲ=神主)の許(モト)に在り
 ・一書4−−素戔鳴尊、乃ち天蠅斫剣(アマノハハキリノツルギ)を以て、彼の大蛇を斬りたまふ
とあり、十握剣・蛇の麁正・蛇の韓鋤剣・天蠅斫剣などと呼ばれている(以下、十握剣という)

 一書3にいう“吉備の神部”について、岩波版日本書紀注には“当社を指すか”とあり、とすれば、当社が記紀編纂時(8世紀初頭)には実在していたのは確からしい。
 ただ、
 ・仁徳朝(崇神朝ともいう)に、当社の十握剣を大和の石上神社に遷したとの伝承があること
 ・明治7年に、石上神宮の禁足地から古墳時代(4〜6世紀)の遺構から多出する環頭太刀(カントウタチ)が発見され、これが十握剣とされること(詳細下記)
などからみて、古墳時代(崇神朝とすれば4世紀前半頃、仁徳朝とすれば5世紀前半頃)とみることもできるが、古墳時代に常設の神社があったとは思えない。

 なお、十握剣とは、書紀に「(イザナミが火の神・カグツチを産んで亡くなったとき)遂に所帯(ハ)かせる十握剣を抜きて、カグツチを斬りて三段に為す」とあり(古事記も同意)、イザナギからその御子・スサノヲに伝えられたとみられる。

 また栞にいう吉備温故秘録(1940)の著者は、記紀・古語拾遺・先代旧事本紀などの諸史料を見たうえで
 「私に曰、この数書を以て考ふるに、上古素盞鳴尊、蛇断の剣は当社に在る事明かなり。其後、崇神天皇の御宇、大和国山辺郡石上邑に移し奉るとあれども、当社を廃せられしとは見えず。
 又延喜式神名帳にも大和国と当国と両国に布都魂神社と載せられたれば、当国石上神社を大和国に勧請して地名も石上といいしならん。
 さすれば、当国の石上本社なる事も分明なり」
と記し、当社に奉祀する十握剣を大和の石上神宮(式内・石上坐布都御魂神社・奈良県天理市)に遷したことから、当社は奈良天理にある石上神宮の本社だという(当社を大和へ勧請したことを意味する)

 奈良天理の石上神宮の祭神は、布都御魂大神(フツノミタマ)・布留御魂大神(フルノミタマ)・布都斯魂大神(フツノミタマ)の三座(延喜式に一座とあり、フツノミタマが本来の祭神であろう、他に配祀神4座あり)で、同社由緒には、
 ・フツノミタマ−−神武東征の砌、国土平定に偉功をたてられた平国之剣(クニムケノツルギ、別名:フツノミタマ)の霊異を神格化したもの
           (記紀に、神武軍が熊野村で荒ぶる神の祟りで失神したとき、タケミカツチが降した平国之剣の威力で蘇生したとある)
 ・フルノミタマ−−鎮魂(タマフリ)の霊宝・天爾十種瑞宝(アマツシルシトクサノミツタカラ、物部氏の祖)の起死回生の霊力を神格化したもの
           (十種瑞宝−−先代旧事本紀に、物部氏の祖・ニギハヤヒが天降るとき、天神御祖神から授けられた霊宝とある)
 ・フツシノミタマ−−スサノヲが八岐大蛇を退治された天十握剣の威力を神格化したもの
とあり、フツシノミタマ(十握剣)は、
 「始め吉備の神部に祀られていたが、仁徳天皇56年(5世紀中葉か)、市川臣(孝安天皇の後裔・布留宿禰の子−新撰姓氏禄)が勅を奉じて大和の石上神社の高庭(神宝を収めたとされる禁足地)に遷し、地下の石窟にある霊剣・フツノミタマの左に埋め祀った」
と伝承されるという(別稿・石上神宮参照)。
 ここにいう仁徳朝と温故秘録がいう崇神朝のいずれが史実かは不明。ただ、石川臣という具体の人名があることからみると、仁徳朝というのが史実に近いかもしれないが、それを証するものはない。

 これらからみて、当社の奉斎する剣(十握剣)を石上神宮へ遷したとの伝承があったらしいが、
 ・石上神宮は、神武東征の際に降された霊験・フツノミタマを祀る社で(主祭神はフツノミタマ)、当社から遷したとされるフツシノミタマ(十握剣)は後世の合祀と思われること(古史料にはフツノミタマとフツシノミタマとの混同がみられるが、石上神宮の由緒からすれば別剣と見るべきであろう)
 ・古代大和朝廷は、地方豪族の服属の証として、その奉祀する神宝を献上させて石上神宮に収納したことから、当社の十握剣もそのなかで奉献させられたと思われること、
などから、この神剣遷移をもって、当社を石上神宮の本社というのは無理であろう。

 なお、明治7年(1874)の石上神宮禁足地発掘調査で、勾玉などとともに鉄剣1振が発見され、これが十握剣ということで(根拠不明、古文献・伝承などからの推測であろう)、天皇にお見せした後神宮に戻したという。
 この時発見された鉄剣は、刃長二尺三寸三分(約70cm)の環頭太刀(カントウタチ、柄頭に環状の飾りを付けた直刀で、古墳時代の遺跡から多く出土する)で、昭和9年(1934)に大正年間の記録に基づいて模造剣三振が作られ、そのうちの一振りが当社に寄進され今も所蔵されているという(宮司談)

 ただ、岡山県史(第3巻・1990)には、
 「石上布都之魂神社  日本書紀第8段第3の一書に『其素戔鳴尊断蛇之剣、今在吉備神部許也』、また同第2の一書に『其断蛇剣、号曰蛇之麁正、此今石上也』とあることから、素戔鳴尊が八岐大蛇を退治したときの剣が本社の神宝であるとする説があるが、実証的根拠に乏しい」
とある。
 確かに、当社が所蔵していた古剣を神話に語られる十握剣と称すること自体がナンセンスで、そこに実証的根拠を云々する要はない。

 また、式内社調査報告(1979)が引用する赤磐郡誌(時期不明)には
 「この社の元あった風呂谷山頂(大松山)には、突兀(トツコツ)たる巌角が露れて、見るからに偉大なる感にうたれる。その前に本宮と称する小社がある。・・・
  この神社の起こりは、その山頂の巌角を目標とした原始的信仰による磐境(イワサカ)として始まり、適々(タマタマ)素盞鳴尊の御佩せの太刀を戴いて、この処に小社を営みて、霊剣を納めて奉斎したものが、現在の本宮(奥の院、赤磐市史跡・1984指定)であろう」
という。

 これらからみて、当社は、背後の風呂谷大松山山頂にある磐座(イワクラ)を神降臨の聖地とする信仰が原点で、そこに、当地を支配していた古代豪族が奉納した剣を、スサノヲの十握剣と称して記紀神話と結びつけることで、社格を高めようとしたのではないかと思われる。

 当社創建後の経緯は不詳で、中世の頃には衰微していたようだが、それにかかわる資料はない。
 近世以降の記録(撮要録・1723岡山藩編纂、他)としては、
 ・寛文年間(1661--73)−−岡山藩主・池田綱政が、山上に小祠を造営・再興
 ・延宝2年(1674)−−池田綱政が社領20石を寄進し、祠官を物部氏に復させ祭祀を務めさす
 ・宝永7年(1710)−−山上に社殿改築
 ・正徳6年(1716)−−木鳥居建立
 ・享保8年(1723)−−石鳥居建立
とあり、岡山県史には
 「神社はもと風呂谷頂上の巨岩の地にあったが明治40年(1907)に焼失し、大正4年(1915)に現在地に遷座した」
とある。

※祭神
 今の祭神は素盞鳴尊(スサノヲ)となっているが、
 ・吉備温故秘録−−布都御魂
 ・神社明細帳(明治初年)−−十握剣
とあるという。

 当社は、もともと十握剣を祭神(ご神体)としていたといわれ、それがスサノヲへ変更されたのは、当社が郷社に列したときという(明治6年)。宮司さんの話では、剣という物体を祭神とすることが忌避されたために、関係が強いスサノヲを祭神としたというが、詳細不詳。

※社殿等
 県道468号線脇の駐車場(空き地、余り目立たないが案内表示あり)から、杉の立木の中に立つ鳥居をくぐり、狭い参道(地道・石段等あり)を登った中腹に社殿が建つ。
 境内は、社殿のすぐ背後まで山が迫り狭い。周りは“布津美郷土自然保護区”(4.6ha)でシイの木が主体という。 


神南備・大松山(中央の山)
この山上に磐座・本宮がある
(駐車場横の路上より望む) 

駐車場脇に立つ案内図

道路脇に立つ鳥居

 境内西側に本殿(一間社流造、銅板葺)が、その前に唐破風向拝をもつ拝殿(入母屋造・瓦葺)が、東面(やや南に振っているか)して建つ。
 大正4年築という本殿は、それなみの古色を呈しているが、拝殿はまた新しい建物とみえる。


石上布津魂神社・拝殿 
 
同・本殿

◎本宮・磐座
 社殿左手から始まる本宮への参詣路(山道・約500m、やや急坂あり)を登った山頂、石段を登った上の石積基壇の上に本宮の小祠が建ち、背後を磐座群(巨石の集合体)が巡る。
 栞には、
 「当社の御神体は元来は大松山山頂の巨石で、神霊が宿る磐座である。現拝殿・本殿から急な山道を約0.5km登る。やがて磐座前にいたる石段が付けられており、本宮の祠がある。その後に屹立する巨石が磐座で、付近は禁足地となっている」
とある。

 磐座前に立つ案内板・「寛文9年(1669) 綱政公創建時之絵図」によれば、綱政公創建時の当社は、本殿・弊殿・拝殿が縦に並び、右に神楽殿を配する社殿群から成っていたらしい。

 
本宮直前に立つ 鳥居
 
本宮・磐座全景
 
本宮小祠
 
旧本宮・社殿配置図
(寛政9年当時・想定)
 
本宮直背の巨岩
 
本宮右手の巨岩群(数個の磐の集合らしい)

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