[トップページへ戻る

射 水 神 社
A:越中総社射水神社(二上射水神社)
富山県高岡市二上
B:越中総鎮守射水神社(射水神社)
富山県高岡市古城(古城公園内)
祭神--二上神
                                                2013.09.25、古城公園内の射水神社のみ参詣

 延喜式神名帳に、『越中国射水郡 射水神社 名神大(出雲本)』とある式内社。その後継社として上記2社があるが、式内社の後継を争う論社ではなく、元宮(二上射水神社・上記A)と新宮(射水神社・上記B)の関係にあるという。社名は“イミズ”と読む。

※由緒
 現射水神社(上記B)境内に掲げる式内・射水神社の由緒(以下、由緒という)によれば、
  「祭神 二上神
  北西5キロの二上山に、この神の降臨は悠久の古代に属し詳ではないが、天武天皇の3年(675)正月奉幣が与えられた伝承を以て鎮座の年と定めた。
  次いで慶雲3年、初めて新年奉幣の例に入り、宝亀11年従五位下の神階をに叙せられ、延喜の神名帳には越中唯一の名神大社に挙げられた」
とあるが、
 社務所で頂いた参詣の栞(以下、栞という)によれば、
  「御祭神 瓊瓊杵尊を奉祭し、二上神とも称し奉る。
  創始は太古のことであり年代は詳ではないが、御祭神である二上神は光仁天皇宝亀11年(780)に従五位、更に清和天皇貞観元年(859)に正三位を賜り、又延喜式神名帳では越中国34座の内唯一の名神大社である。
  伝によれば養老年間(717--24)、僧行基二上山麓に養老寺を建てこの神を祀り、二上権現と称した。当時の領域は二上荘67村・社寺は二上全山に亘り、22万坪に達したといわれ、越中全土の各戸より毎年初穂米一升奉納の制があり、盛大を極めた」
と、異なった由緒を記している。
 なお、射水神社明細書(1903・明治後期)には、
  「往古より越中国射水郡二上村二上山の麓に鎮座なり。鎮座年月未詳。養老元年(717)、勅によりて僧行基、其地に仏閣を建て養老寺と称し、社地殿閣広大なりしと云う」
と、栞と略似た由緒を記すという(式内社調査報告・1985)

 由緒がいう“天武3年正月の奉幣”に関連して、栞には
  「特に昭和50年4月には、日本書紀に天武天皇3年(皇紀1335年)正月、奉幣に預かったことがみえることより起算して鎮座1300年式年大祭を斎行、畏きあたりより奉幣の栄に浴した」
とあり、当社創建時期を天武3年(西暦675=皇紀1335)に求めている。
 しかし、書紀・天武3年条には当社への奉幣記録はなく(天武紀には、神社への奉幣記録は皆無に近い)、この時代に当社があったかどうかははっきりしない。

 また栞によれば、元正天皇・養老年間(717--24)、僧・行基(668--749)が養老寺との寺を建立し、その鎮守として創建されたのが二上権現すなわち神と仏が習合した射水神社となるが、これに対して、日本の神々8(1985)には、
  「養老年間の(養老寺)開基については疑問を呈する向きが多いが、この養老寺は中世に別当寺として当社を支配したあと、中世末期の戦乱によって衰微した」
とあり、
 また、その“疑問の向き”に関連して、式内社調査報告は、
  「中世、射水神社(二上大権現)の別当寺として養老寺が存在したことは事実だが、その創建については何ら史料がない。
 養老元年、勅により行基が開創したとは、後世僧侶の捏造した虚説である。射水神社に別当寺(神宮寺)ができるのはもっと遅い時代であろう。
 また、養老寺という寺号も後世の僭称である。寺院号に年号を称するのは、延暦寺・仁和寺など格別重大な寺について許されることであり、越中という田舎で、しかも養老という古い時代に養老寺などと称えることは許されることではない。これは、紀綱の乱れた室町時代からの呼称であろう」
という。

 養老年間頃の行基について、続日本紀・養老元年4月23日条に、
  「いま小僧・行基とその弟子たちは、道路に散らばって、みだりに罪業と福徳のことを説き、徒党を組んでよくないことを構え、家々をめぐり、よいかげんなことを説き、無理に食物以外のものを乞い、偽って聖道であるなどと称して、人民を惑わしている。・・・
 これは釈迦の教に違反し、法令を犯している。・・・
 今後、そのようなことがあってはならない。このことを村里に布告し、つとめてこれを禁止せよ」(大意)
とあるように、朝廷から“人民を惑わす小僧行基”として、その活動を禁止・抑圧されていた時代であり、
 また、行基開山とする寺院は近畿を中心に各地にあるが、管見のかぎりでは、近畿以東では愛知県までで北陸地方には見えないことから、その行基が、養老年間に“勅により”養老寺を建立したというのはあり得ないと思われる。

 なお、その小僧・行基の活動が朝廷に認められだしたのは天平3年(731)頃からといわれ(続日本紀に、行基に従う私度僧の内61歳以上の者の得度が認められたとある)、その後、聖武天皇から東大寺建立の勧進僧に任じられ(743)弟子等を引き連れて東大寺建立に尽力し、天平17年(745)大僧正に任じられている(続日本紀)

 しかし、建立時期は不詳ながら、当地に養老寺なる大寺院(49院・3800坊あったという)があったのは事実のようで、その寺が衰微した後、その49院のひとつで江戸期まで残った金光院に、弘仁期(810--24・平安前期)の製作と推測される欅一本造の聖観音像があり、養老寺(ひいては当社)の起源の古さが偲ばれるという(二上山と修験道、白山立山と北陸修験道・1977所収)

 このように、当社の創建が何時頃かはっきりせず、由緒にいう天武朝(7世紀後半)あるいは栞にいう養老年間(8世紀初頭)云々も傍証となるものはないが、当社に対する神階授叙記録として、
 ・光仁天皇・宝亀11年(780)--従五位下(続日本紀--12月14日条に「越中国射水郡二上神・砺波郡高瀬神にそれぞれ従五位下を授く」とある)
 ・桓武天皇・延暦14年(795)--従五位上(日本紀略)
 ・仁明天皇・承和7年(840)--従四位上(続日本後紀)
 ・清和天皇・貞観元年(859)--正三位(三代実録--正月27日条に「越中国従三位高瀬神・二山神に正三位を贈る」とある)
とあることから、8世紀末に実在したのは確かで、最後には正三位という高位まで昇っていることから、都から遠い越の地にあるにもかかわらず、朝廷から相当に重視されていたことが窺われる。

◎一の宮について
 一の宮といえば、一国に一社というのが普通だが、越中国では、当社とともに伏木の気多神社他(高瀬神社・雄山神社)が一の宮を称している。
 これは、時代の推移とともにその地位が移ったためと思われ、
 ・能登国が越中国に併合されていた時期(718--57)の一の宮は、能登郡羽咋の気多大社(石川県羽咋市)で、射水郡二上の射水神社は二の宮であった。
 ・能登国の分立(757)以降、二の宮であった射水神社が一の宮とされたが、
 ・国府射水郡(伏木)近くに能登の気多神社が勧請されたことから、射水・気多両社間で争いが起こり、一の宮の地位が気多神社へと移った。
 ・その傍証として、白山記(1291書写・加賀国白山比咩神社所蔵)
  「能登国が聖武天皇御時・神亀年中(天平年中の誤り)に立国したので、それまで越中国二宮であった二神神社(フタカミ・射水神社)が越中国一宮となった。・・・
  その後、越中国に新気多(気多神社)が祀られたことから、二神と一宮を争ったが、二神には力なく、新氣多が越中国一宮となった」(大意)
との記述がある。

 いいかえれば、能登国分立後の越中国一の宮(能登国併合時代は二の宮)は当社であったが、伏木に気多神社が勧請されて以来、それが国府近くに立地し、古くから越(コシ)の国最高の神社という格式をもつ能登の気多大社の権威を背景とすることから、一の宮の地位を奪われたというのが実態らしい。

◎名神大社について
 由緒・栞ともに、当社は“越中国唯一の名神大社”とある。
 確かに、神名帳には「越中国三四座 大一座 小三三座」とあり大社は一座だが、今、一般に流布している神名帳では、当社と伏木の気多神社の2社が名神大社とされており、表記とは異なっている。
 今残っている神名帳写本の中で、当社を名神大社とするのは出雲本(書写時期不明)のみで、嘗てはこれが信じられていたが、その後発見され最古の写本とされる九条家本(平安末~鎌倉初期)および宮内庁書寮本には、伏木の気多神社に名神大社と記し、当社には名神大社との記述はないという。
 これによれば、当社が名神大社であるかどうかも疑問となるが、由緒あるいは一の宮論争などからみて、名神大社であってもおかしくはない。ただ“越中国唯一”というのには問題があるといえる。

※祭神
 今の祭神は“二上神”とあり、上記神階授与記録にも全て二上神と記されている。
 これは、当社が元々二上山を神体山・神奈備として祀る素朴な自然信仰に発することを示唆する。

 この二上神が如何なる神かは不詳で、古来から、
 ・建内宿禰(タケウチスクネ)--景行から仁徳まで5代の天皇に仕えたという伝説上の人物
 ・大河音足尼(オオカワトノスクネ)--射弥頭国造(イミズノクニノミヤツコ)の初代で建内宿禰の孫という
 ・天二上命(アルノフタノボリ)--天牟羅雲命(天村雲命・アメノムラクモ、尾張氏系譜では始祖・ホアカリ命の孫という)の別名
 ・大己貴命(オオナムチ)--大国主命
の4説があるが、いずれも根拠はないという(式内社調査報告)

 愚考すれば、当地との関係からみて、イミズ国造の初代・オオカワトノスクネ命が有力と思えるが、この名は先代旧事本紀の国造本紀に
  「伊弥頭国造 成務朝の御世に、宗我(ソガ)と同祖・武内足尼(タケウチスクネ)の孫・大河音足尼を国造に定めた」
とある人物で、郡名ともなった射水臣氏の一族と思われる。
 射水臣氏とは、射水川(小矢部川)下流域、特に射水神社(上記A)付近を本拠とし、河口付近の亘理津(国津)という港を押さえて、イミズ国造にも就任したと思われる古代豪族という(ネット資料-2005年氷見古墳フォーラムにおける鈴木景二氏の講演・文献からみた射水郡の豪族より)

 宮司さんは、「二上神に個別の神名を充てるとすれば射水臣氏の祖神が有力だが、二上山に坐す神・二上神のままでもいいのではなかろうか」と話しておられ、順当な解釈であろう。

 なお、上記栞には「祭神 瓊瓊杵尊」とあるが、当社に天孫・ニニギ尊を祀る由縁はなく、栞が祭神・ニニギ尊とする根拠は不明。
 明治の古い神社明細帳にも“ニニギ尊”とあるようだが、式内社調査報告によれば、これは神仏習合思想による二上山由来記(養老寺所有)が説く妄説であるとして(中世の頃、神仏習合思想による記紀神話の見直しが流行したという)、大正11年に公式に訂正され、二上神に戻ったという。
 神仏習合思想云々とはいいすぎとしても、時期不明ながら、賢しらな人が二上神という自然神を、根拠もなく皇祖神系譜の始祖・ニニギ尊に充てたものであろう。

 今、越中国一の宮としての式内・射水神社といえば、旧高岡城跡にある射水神社(越中総鎮守射水神社)を指すが、これは二上山南麓(山頂の南約900m)にあったものを明治8年に遷座したもので、元宮の神格を引き継いでいるとはいうものの、歴史としては浅い。
 また、跡地には、今も元宮として二上射水神社(越中総社射水神社)があり、厳密にいえば上記の由緒等は、この元宮・二上射水神社にかかわるものとみるべきであろう。

【越中総鎮守射水神社(通称:射水神社)
 当社は今、高岡市内のど真ん中、JR高岡駅のすぐ北にある旧高岡城跡に鎮座する。
 元、高岡市の北方・二上山の南麓にあった“二上山大権現社”(神仏習合時の社名)を、明治8年(1875)に遷座し古名に復したもの。

 その遷座経緯は不詳だが、射水神社志(1924・大正末)
  「明治の初年、神仏混淆廃止となり、権現号は停止となり、射水神社と改称し、国弊中社に列格せられたが、当時の権宮司関守一氏は、社僧数百年の専横を悪むの余り、神代からの聖地であったにも係わらず、これを捨てて利長公築城・薨去の高岡古城址の一角に御遷座を企て、遂に成功して、明治8年9月16日を以て射水神社は御遷座となった」
とあるように、江戸時代(神仏習合時代)、当社神宮寺(金光院)の社僧が神主を差し置いて、神社本来の神事から経営までのすべてを支配していたことへの反発から、神社全体を移したという。
 (宮司さんは、「国からの指令により」といっておられたが、国の指令とは神仏分離令を指したものと思われ、国が遷座を指示したとすれば疑問がある)
 明治初年の神仏分離に際して、神社内から仏教色を排除した神社は多いが、神社そのものを遷すという極端な例は珍しい。

 江戸時代の神宮寺(別当寺)・金光院は前田家の祈祷所として繁栄し、また、越中全土から軒別一升ずつの知識米(初穂米)の徴収が許され、その徴収に当る山伏はカンマンボロと呼ばれて、泣く子も黙るほど民衆に恐れられたといわれ(日本の神々)、これもまた、遷座理由のひとつであろう。
 なおカンマンボロとは、山伏たちが念珠を摺りながら「怨敵退散カンマンボロン、家内安全カンマンボロン」と唱え歩いたことからで、カンマンとは不動明王の救呪(ジクジュ)で、ポロンは一字金輪呪だという(二上山と修験道)。密教教理にもとずくものだろうが、よくわからない。

 なお、その遷座の日、二上村の氏子たちは神輿に取りすがって別れを惜しみ、その三日後、新社殿までの道のりが遠いことを理由に、村に引き渡された旧社殿を以て射水神社の分社としたいと出願し、同10年に許可を得て祭祀が継承され、戦後になって独立したのが二上山南麓にある越中総社射水神社(二上射水神社)という(以上、式内社調査報告)

※社殿
 明治8年、旧高岡城本丸跡に造営された社殿が、同33年(1900)の高岡大火により類焼、同35年に再建されたという。
 栞によれば、平成18年(2006)に拝殿を移設拡張したとあるが、本殿・回廊等も補修されているらしい。

 銅板巻きの大鳥居を入り、広々とした境内正面に拝殿(神明造・銅板葺)が建ち、それに続く弊殿の奥、瑞垣に囲まれた中に本殿(神明造・銅板葺)が、いずれも南西方を向いて建つ。
 本殿は、弊殿から左右に延びる回廊から拝見できるが、瑞垣が高く屋根が見えるのみ。
 なお、神明造(シンメイゾウ)とは伊勢神宮正殿と略同じ神殿様式で、その特色は、建物全体が直線形で構成され切妻造・平入りという。


射水神社(新宮)・大鳥居 
 
同・境内
 
同・拝殿
 
同・本殿 

トップページへ戻る