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厳 島 神 社
広島県廿日市市宮島町
祭神--市杵島姫命・田心姫命・湍津島姫命
                                                          2019.02.03参詣 雨

 延喜式神名帳に、『安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社 名神大』とある式内社で、安芸国一之宮。世界遺産(1996)

 当社は、厳島(宮島)の最高峰・弥山(H=530m)から北東に下った湾中の、三笠浜と呼ばれる州浜(干潮時に砂州となる海辺)に鎮座する。
 本土側の宮島口から船にて渡島、到着した宮島桟橋から海沿いの参道を南へすすんだ先に一の鳥居が立つ。

 
厳島神社・全景(資料転写)
 
参道途中に立つ一の鳥居

※由緒
 当社公式HPには
 「厳島神社の創建は、推古元年(593)、佐伯鞍職(サエキ クラモト・藏本とも記す)によると伝えられます。
 平安時代後期の仁安3年(1168)に、佐伯景弘が厳島神社を崇敬した平清盛の援助を得て、今日のような廻廊で結ばれた海上社殿を造営。本殿以下37棟の本宮(内宮)と、対岸の地・御崎に19棟の外宮が設けられ、全て完成するまでに数年が費やされたといいます。
 社運は平家一門の権勢が増大していくにつれ高まり、その名を世に広く知られるようになりました。

 鎌倉時代から戦国時代にかけて政権が不安定になり荒廃した時期があったものの、弘治元年(1555)、厳島の合戦で勝利を収めた毛利元就が神域を支配下に置き庇護したことから、社運は再び上昇、天下統一を目前にした豊臣秀吉も参詣して武運長久を祈願しており、その年安国寺恵瓊に大経堂(千畳敷)建立を命じています。

 厳島神社は、社殿が州浜にあるため海水に浸る床柱は腐食しやすく、また永い歴史の間には幾度となく自然災害や火災にみまわれてきましたが、その度に県内外の人々の篤い信仰心に支えられて修理再建され、今日まで平安の昔 さながらの荘厳華麗な姿を伝えています」 
とある(社頭の案内は簡略化している)

 上記の推古元年創建とは、仁安3年(1168・平安末期)に上申された伊都岐島神主佐伯景弘解以下「佐伯景弘解」という)によるといわれ、そこには、
 「推古天皇即位元年、厳島の住人・佐伯鞍職が神託によって宮殿の創立を朝廷に奏聞し、勅許を得て厳島の三笠浜の地に創建して三神を勧請し、初代の神主には佐伯鞍職が任じ、以来、その子孫が代々神主を務めた」
とあるという(日本の神々2・1984)

 佐伯鞍職の生没年は不明だが、出身氏族とされる安芸の佐伯部(サエキベ)について、書紀・景行天皇51年条に
 「日本武尊が熱田神宮に献上した蝦夷(エミシ)どもは、昼夜喧しく騒いで出入りにも礼儀がなかった。
 倭姫命は『この蝦夷らは神宮に近づけてはならない』といわれ、朝廷に進上されて三輪山の辺に置かれることになった。
 いくらもたたぬ中に、三輪山の木を伐ったり里で大声を上げたりして村人を脅かしりした。
 天皇はこれを聞かれ、群卿に詔して、『かの三輪山の辺に置かれている蝦夷は、人並みではない心の者どもだから、中央には住ませ難い。その希望に従って、それぞれ畿外に置け』といわれた。
 これが播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波など五つの国の佐伯部の先祖である」
とあり、
 ・佐伯部とは、日本武尊の東征によって征服され、中央に連れてこられた関東以北の人々(蝦夷)の後裔で西国に配され
 ・これら地方の佐伯部を統率した有力者には直の姓(佐伯直、サエキノアタイ)が与えられ
 ・佐伯直は中央の佐伯連(ムラジ、後に宿禰)によって統率された
 ・鞍職は飛鳥時代の人で、姓(カバネ)は直(アタイ)、安芸国の佐伯部を統率した有力者であろう
という。

 佐伯鞍職の厳島創建にかかわって、
*伝承1
 ・推古元年、大和国・印南の野に七色の声で鳴く鹿が現れ、天皇が「ぜひ見たい」と仰せられた
 ・公卿の中には捕らえにいく者がなく、宮廷警護を任務としていた佐伯鞍職が捕らえにいくことになった
 ・鞍職は印南の里に行って鹿を捕らえようとしたが、鹿の動きが素早く生け捕りできなかったので、やむなく弓をもって射殺し、天皇に披露した
 ・その鹿の毛色が金色であったことから、公卿たちは、これを神の使いであるとして、神使の鹿を殺したことは重罪に処すべきである と騒いだ
 ・天皇はやむなく鞍職を罪人として流刑に処し、鞍職は小舟に乗せられて瀬戸の海に流され、安芸国の沙々羅浜(本土側の現大竹市元町付近)に流れ着いた

 ・ある日の夜明けの頃、はるか因賀島(厳島)の西から紅の帆を張った舟が大竹の入り江に入ってきた
 ・よくみると、それは舟ではなく瑠璃ガラスの壺であり、中から3人の女神が現れ、「吾らの名はイチキシマヒメ・タキリヒメ・タキツシマヒメである」と名のり
 ・「吾らは西国にいたが、思うところがあって この地にまでやってきた。ここに住もうと思うので案内してくれ」と告げた
 ・鞍職が因賀島(厳島)の七浦を案内したところ、三笠の浦(現厳島神社付近)まで来たとき、三女神が「あら いつくしい」といわれた。それからこの島を「いつくしま」と呼ぶようになった

 ・三女神は、鞍職に「この浦に神殿を造営して、我らを祀れ」と託宣した。鞍職が、自分は罪人だからと逡巡すると、三女神から「奏上の時に瑞兆が現れるだろう」と告げられ、これを信じて都に上り、三女神の託宣を天皇に奏上した
 ・奏上した時、宮廷北東の空に不思議な客星が光り輝き、千羽のカラスが榊の枝をくわえてきて、樹上で鳴き騒いだ
 ・これを見た天皇は、鞍職の奏上に間違いはないとして、鞍職の罪を許し、神社創建を許可された
 ・安芸に帰った鞍職が、託宣にしたがって三笠の浦に造営した神社が厳島神社の始まりである
   (要約、なお、平家物語長門本巻5・源平盛衰記巻13にも略同様の伝承が載っている)

 前半の佐伯鞍職配流に関連して、時代は大きく遡るが、書紀・仁徳38年7月条に、
 「天皇が皇后と共に避暑をされていたとき、毎夜、兎我野の方から鹿の鳴く声が聞こえ、天皇は心を慰められていたが、ある夜、その鳴き声が聞こえなくなり、翌日、猪名県の佐伯部が大贄として大鹿を献上してきた。
 天皇は『この鹿は、あの兎我野の鹿であろう。私の心を知らないことから殺したのだろうが、疎ましいことである』として、佐伯部を安芸の渟田(ヌタ)に移された」
との記事があり、鞍職配流部分はこれを潤色加筆したものと思われる。

 また、資料・伊都岐島(当社刊・1995改訂・有料)には、
*伝承2
 ・安芸国に佐伯鞍職という者がいた。在る時、鞍職が部下を伴って大野瀬戸で遊漁していると、西の方から虹の帆を掲げた船が来た。
 ・鞍職に「お前は何者か」と問うたので、「私は佐倍岐の久良茂止(鞍職)と申して、開闢の時からこの島に居住する島の神です」と応えると、「汝の島を私にくれないか」と仰せられた。
 ・久良茂止が様子を窺うと、誠に神々しい姫神様だったので、「畏れ多いことです。仰せのとおりにいたしましょう」と申しあげると、「実は私はこの島に古くからいる者だが、今御殿を作りたいと思うので、お前は速やかに御殿を作ってくれ」と仰せられた。
 ・久良茂止は「謹んでお受けしますが、御殿を造るには朝廷のお許しがなければなりません。つきましては何か証しがなければなりませぬ。どうすればよろしいでしょうか」と申しあげると、
 ・「都に不思議な星が現れ、又御殿の内に烏が榊の枝を咥えて入るだろう。それが証しだ」とのことだったので、久良茂止は早速都に上り、この由を奏上したところ、果たしてその通りの奇瑞が起こった。
 ・そこでお許しが出たので帰って新しい船を造り、姫神様をお移し申しあげ、島を右に見ながら廻り、御神慮に適う所を伺うと、「私が高天原から連れてきた烏が案内するだろう」とのことであった。
   ・・・中略(浦々を廻る様を記す)・・・
 ・すでに島を廻ること半ば以上になったが、御烏は現れなかったので、久良茂止は粢団子をこしらえてお供えし熱祷すると、はるか御山の松陰から一双の御烏が飛来し、粢団子を咥えて更に進むので、その後に従った。[その御烏の霊を祀ったのが末社・養父崎神社である]
 ・御烏の跡にしたがって山白浜から須屋浦まで行き鳥翔村和幾の浦にきたとき、御烏の姿はみえなくなった。
 ・すると女神が、「私は此所が御殿を造るのに良い所だとおもう。お前も同感ならば此処に御殿を造れ」と仰せられた。
 ・それが今の御神殿の位置で、始めて造営のことがあった。推古天皇ご即位の年(593)11月初申の日の御鎮座であると伝えられている・
とある。

 伝承1と2を比べると、
 ・厳島の西から虹の帆をあげた船がやってきて、乗っていた女神が、鞍職に「吾が住む神殿を造れ」といった
 ・鞍職が「その証しとなるものを」と乞うと、「都に不思議な星が現れ、烏が榊の枝を咥えて飛来するだろう」とあったので、朝廷に神殿造営の許可を奏上し、そのときその奇瑞があった
 ・朝廷の許可を得て鞍職が島の浦々を廻り神殿を造るところを探し、女神の意に適ったところに神社を造営した。それが現在の鎮座地である
というところは同じだが、
 ・伝承2には伝承1にいう鞍職配流のことはなく、代わって鞍職は古くから厳島に住む在地の神とあり、また女神も古くから厳島に住んでいたようにもとれ、西方がやってきたというのと整合していない
 ・伝承2は、鞍職が神社造営に適した所を探して島内の浦々を廻ったことが詳記され、その時、女神が連れてきた神烏が案内したとあり、それが今に続く御島廻式あるいは御烏喰神事の由来だという
等が異なっている。

 由緒・伝承の何れもが、推古元年(593・飛鳥時代)、在地の有力者・佐伯鞍職が天皇の勅許を得て創建したというが、その傍証となる史料はなく、伝承の域を超えない。


 上記由緒とは別に「厳島の本地」(厳島縁起ともいう)との伝承があり、貞和2年(1346・南北朝時代)の奥書がある絵巻物以下数種が伝わっているが、その内容には差異があり底本となるものはないが、その粗筋は
 ・天竺にあった東城国の王子・善哉王は、国に伝わる扇に描かれた美女にあこがれて恋煩いにかかった。。
 ・心配した臣下が、この美女は毘沙門天の妹・吉祥天女ともうし人間界の人ではない。今、西域国の第三王女・足引宮が天下第一の美女といわれると告げた。
 ・善哉王は苦労して遠く離れた西域国におもむき、足引宮(アシヒキノミヤ)と契り、これを伴って帰国した。

 ・この宮の美しさを妬んだ父王の千人の妃たちは、この宮を亡きもとにしようと策略を巡らし、王に「吾らの病は北方鬼満国に生える薬草がなければ治らないが、そこまでは往復12年もかかる」と訴え、王は善哉王にこの薬草を採ってくるように命じ、王は止むなく足引宮と別れて鬼満国へと旅立つ。

 ・その留守中に、妃たちは武士たちに足引宮を殺すように命じ、武士たちは宮を引き立ててカラビク山で首を刎ねて殺し、その首を妃たちに渡した。
 ・その時善哉王の王子を懐妊していた足引宮は、王子を出産して首を刎ねられるが、その乳房は生きた人と同様に王子を養い、その後の王子は山神・狐狼野干等に守護され育てられた。

 ・12年後に帰国した善哉王は足引宮の死を知って嘆き悲しみ、カラビク山におもむいたとき、夢の中で殺された足引宮に出会い「カイライ国の不老上人に頼んで、我が骨を岩の下から取り出して元の姿に戻して欲しい」と告げられ、王子とも出会い互いに名のりあった。
 ・善哉王はカイライ国の不老上人を訪れ、足引宮を蘇らさせて欲しいと頼み、上人は、金板の上に宮の首と骨を並べて200日祈り宮を蘇らせた。
 ・喜んだ善哉王は、一家を挙げて飛車(トビクルマ)に乗ってシャカラ国に赴いむが、そこで善哉王が足引宮の妹に親しみ、宮を二の次とした
 ・これを恨んだ足引宮は、飛車に乗って日本へ渡り、伊予の石槌峯を経て安芸国に着き、佐伯鞍職に迎えられて厳島に祀られた。その本地は胎蔵界の大日如来である。
 ・その後、善哉王一家眷族も後を追って厳島にいたり、善哉王は客人宮(本地:毘沙門天)に、王子は滝の御前(本地:千手観音)に、不老上人は聖の宮(本地:不動明王)に祀られた。
とある。
 この本地譚は荒唐無稽の物語だが、紀州熊野に伝わる熊野の本地(五衰殿縁起)と大筋において類似していることから、熊野系修験者の関与が窺われるという。


 当社の文献上での初見は、日本後紀(840・平安前期)に記す
 「嵯峨天皇弘仁2年(811)己酉 安芸国佐伯郡速谷神・伊都岐嶋神 並に名神に列し四時祭に預かる」
といわれ、9世紀初頭にあったことは確かだが、その創建時期が何時まで遡れるのか、その頃の社が如何なるものだったかは不明(現在のようになったのは12世紀後半)
 ただ、ここで名神に列したのは伊都岐島神であって、市来島比売命ではない。

 古代の厳島(現地名:宮島)は全島が“神ノ島”として崇敬されてきたといわれ、厳島神社の始まりは、古く周辺沿岸の住民が厳島の山容に神霊を感じ、これを畏敬したことに求められ、それは、厳島(イツクシマ)との島名が「神霊を斎(イツ)き祀る島」即ち「斎島」(イツキシマ)からくるということからも推察される。
 その信仰は、最高峰・弥山(H=530m)に坐す神を崇敬した山の神信仰であって、伊都伎島神とはこの山に坐す神を指すと思われる。

 こうした厳島全島を神域とする信仰から、後年に至るまで島内での人の居住が禁止され、神官ですら対岸に居を構え、出産・葬送・墓所はもちろん農耕までも禁じられていたが、神仏習合が進行した鎌倉後期から室町前期にかけて神官・僧侶・庶民が島内にも居住するようになったいう。
 しかし、その後も死穢・血穢を忌む習慣は残ったようで、特に死穢(黒不浄)について、夏山雑談(1741)
 「西国周辺にて卑俗の諺に、死することを広島へゆくと云ふは、安芸国厳島は神地にて穢れを忌む故に、人死する時は其の死体を片時もおかず、息絶えぬれば、いまだ死せざるよしにて広島の地に渡し、彼の所にて喪を発し葬ることなり。・・・」
とあるように、島内での死者から発せられる死の穢れが、神地である島内に拡がることを忌んだという(古く、死者あるいはその家族に接した人を介して、死の穢れが拡がるという観念があった)
 また島内での出産もまた忌まれ、女性が出産するときになると船にて本土に渡し、血忌(出血に伴う穢れ・赤不浄)百日が終わった後に島に帰ったともいう(私の一宮巡詣記・2001)

 厳島が瀬戸内海の略中央に位置することから、何時の頃かに、神ノ島・山の神信仰が海上航行の守護神という信仰と習合し、山と海の境界に位置する三笠の浦に社殿が造営され、イツクシマとイツキシマの音韻類似から、伊都岐島神が水神であり海上安全の神である市杵島姫以下の宗像三女神と習合し、海上安全の守護神として沿岸の人々に加えて瀬戸内を行き来する船人等の信仰を集めたのが現在の厳島神社と推測される。


◎当社と平清盛
 今の当社は、海中に立つ朱塗りの大鳥居に象徴される豪華絢爛たる神社として観光客を集めているが、当社が現在の姿になったのは、太政大臣・平清盛(1118--81)による大改造(1168~、『仁安の修造』ともいう)によるといわれ(その裏には、清盛と結んだ神主・佐伯景弘の存在があったという)、その発端について、平家物語(1300年頃か、巻3・大塔建立条)には、
 ・清盛が安芸守だったとき(1146~56)、勅により高野山の大塔を修理した。
 ・修理が終わって、清盛が大塔・奥の院に参籠していたとき白髪の老僧が現れ、
  「大塔の修理は終わったが、安芸の厳島はなきがごとくに荒れ果てている。奏聞して修理したら、官加階は肩を並べる人もないようになるだろう」
と告げて消え去った。
 ・都へ帰り、この由を院に奏聞し、勅許得て鳥居を立て替え、社殿を造り替え、百八十間の廻廊を廻らすなど厳島神社を修復した。
 ・修復が終わって、清盛が厳島へ詣り参籠していたら宝殿の奥から天童が現れ、
  「吾は大明神の使い也、汝この剣を以て一天四海を鎮め、朝家を守るべし」
と告げられ、銀の蛭巻(ヒルマキ・太刀の装飾)をした小長刀を賜る夢を見、朝起きてみると、枕元に小長刀が立っていた。
とある(大略)

 清盛が厳島神社の大改修をおこなったのは事実とみてもいいが、それは
 ・安芸国国主となって瀬戸内海一体の制海権を確保した清盛が、内海一帯の政治的基盤をより堅固なものとするために、海上守護神たる厳島明神の加護を必要とした
 ・その後、保元・平治の乱(1156・1159)の乱を勝ち抜いて平家一門の繁栄を得た清盛が、これは厳島明神の加護によるものとして、当社を一門の守護神と仰ぎ、その信仰をいっそう深めていった
 ・こうした清盛の信仰が社殿の造営となり、一門あげての納経(平家納経)に連なったと思われ
 秘宝厳島(?)は、
 「仁安2年(1167)2月、太政大臣に昇進した清盛は、平家一門が協力した名高い平家納経の制作と平行して、彼自身と一門の栄達を感謝し且つ祈祷して、厳島社頭の面目を一新するための思い切った改造工事を実施したと思われる」
という(日本の神々2)

 当社社宝として有名なものに、「平家納経」と呼ばれる仏教経典33巻がある(国宝・1954指定)
 平家納経とは、長寛2年(1164、完成は3年後の1167年ともいう)清盛によって奉納された経典33巻の総称で、清盛以下の平家一門郎党が一人一巻を受け持って書写した法華経以下の経典32巻と、清盛自筆の願文1巻から成る
 経典各巻は、金銀をちりばめた料紙に写経するとともに、各巻のはじめに経の大意を描いた美しい見返し絵を描き、経典の表装あるいはこれを巻く軸には金銀・螺鈿等の装飾をちりばめるなど、豪華絢爛たる装飾経典となっている。

 当社に仏教経典が奉納されたことは、平安末期になると、神ノ島として神道の浄域だった厳島にも神仏習合の風潮が入ってきたことを意味し、鎌倉末期になると、島に僧侶が住むようになり、弥山を中心に修験行場としての寺院が建立されるなど、厳島は神仏混淆の霊域へと変化していったという。


◎御島巡式(オシマメグリシキ)と御烏喰神事(オトグイシンジ)
 当地の俚謡に、『安芸の宮島巡れば七里 浦は七浦 七えびす』とあるように、宮島周囲の浦には恵比須社7社の他小祠4社が点在し、これらを巡拝してまわる神事を御島廻式と称し、
 厳島講の人々は毎年5月15・16日に舟を仕立てて、厳島神社本社前を出発して、島を右手に見ながら長浜神社→杉之浦神社*→包浦神社→鷹巣浦神*→腰少浦神社*→青海苔浦神社*→養父崎神社→山白浜神社*→須屋浦神社*→御床神社*→大元神社と巡拝してまわるというは恵比須社)

 この御島廻式神事について、厳島道芝記(1714)
 「御島廻と申すは忝くも三柱の御神、此島に降臨ましまして鎮座の地を見そなはし給はんと、浦々を廻らせたまふ縁なり」
とあり、三女神鎮座の起源に由来するものという。

 その途中、養父崎神社(島の南東部に鎮座・祭神:霊鴉神)の沖合でおこなわれるのが御烏喰神事(オトグイシンジ)で、資料・伊都岐島には
 「養父崎神社沖では御烏喰式というのがあり、これが最も重要なのである。
  伶人が奏楽すると神烏が出て粢団子を啄むが、このとき御師(神職)は勿論、願主や船員にも忌みや穢れがあると、この事がない。忌みとか穢れとかは、身近な者に不幸があって日が浅いことは勿論だが、婦人が生理的な障りがあってもならないとしている。
  御烏喰が上がらなければ御島廻りの意味はなくなる。・・・」
とあり、
 養父崎神社の沖合に、3本の弊串を立てた方70cm程の薦筏を浮かべ、中央に供物となる粢団子(シトギダンゴ・米粉製の団子)を供え、山に向かって笛を吹き呼び声を立てて烏を呼ぶもので、それを聞いて神社の森から飛びきたった烏が、粢団子をくわえて飛びかえるかどうかで吉兆を占うといわれ、参列者の中で一人でも忌み穢れがある場合には烏は来ないという。

 また、伊都岐島皇大神御鎮座記(成立年不明)
 「比売神が天より降臨するとき、陪従として共に来たのが神烏である。比売神鎮座の後、神烏はその空より飛び降りた巌の上にいた岩城の老翁によって速八咫神として祀られた。
 その神烏とは八咫烏のことで、今も養父崎で御烏喰いをあがっている神烏の祖である。だから、この神烏の後継ぎがいなくなったら熊野の八咫烏神社に迎えに行く」
とあるという

 この御烏喰神事に因んで、今、東廻廊入口前の左右に立つ石灯籠(“御島廻”との刻銘あり)の笠石の上に、銅製の神烏が止まっている(明治34年・1901奉納)
 なお、島内に多くみかける鹿は市杵島姫のお使いで、それは奈良の春日大社からきたものという。

 
御島廻式・ルート図
 御烏喰神事・薦筏  
御烏喰神事
(烏が2羽薦筏の廻りを舞っている。資料転写)

石灯籠(左) 
 
神 烏 


※祭神
 当社祭神、市来島姫命(イチキシマヒメ)・田心姫命(タコリヒメ)・湍津姫命(タギツヒメ)とは、福岡・宗像大社の祭神・宗像三女神を指し、書紀6段本文には、
 「(アマテラスとスサノオのウケヒのとき)天照大神が素盞鳴尊の十握の剣を借りて三つに折り、天の真名井で振りすすいでカリカリと噛んで吹きだし、そのこまかい霧から生まれ出た神を、名づけて田心姫・次ぎに湍津姫・次ぎに市来島姫」
とあり、筑紫の宗像に坐す海神で航海安全の守護神という。

 当社祭神を市来島姫とする初見は大日本国一宮記(16世紀・室町後期)であって、それ以前は、神階綬叙記録(三代実録・901)
 ・貞観元年(859)正月27日--安芸国正五位下伊都伎島神(イツキシマノカミ) 従五位上
 ・  同     3月26日--安芸国正六位上伊都伎島中子天神(ナカゴノアメノカミ) 従五位下 
 ・貞観9年(867)10月13日--安芸国従四位下伊都伎島神 従4位上 正六位伊都伎島宗形小専神(ムナカタオトウ) 従5位下
とあるように、伊都伎島神を主祭神とし、伊都伎島中子神・伊都岐島宗形小専神を相殿神として祀っていたという。
 なお、資料によれば安元2年(1176・平安末期)に正一位まで昇階したという。出典資料は不明だが、これも伊都伎島神への授叙記録であろう。

 これについて、広島県史(1968--84)には
 「按に、厳島神社の主神は市来島姫命なり、国史にこれを伊都伎島神といふ。他の二前の神は国史には伊都伎島中子天神・伊都伎島宗形小専神と見ゆ。
 普通には、厳島神といへば、三女神を総括したる名なるが如きも、社格等に関する正式の場合には、祭神は市来島姫命一神の名のみ記せらる」
とあるという(延喜式神名帳での祭神は一座)
 ただ、中子天神・宗形小専神の出自・神格・合祀由緒は不明。

 この伊都伎島神以下の三神と宗像三女神との関係について、日本の神々2は
 ・厳島本来の神はあくまでも伊都伎島神であって、市来島姫命とは別神であったと思われる
 ・そこに宗像信仰が入るに及んで「宗形小専神」が合祀され、イツキシマ・イチキシマの音韻類似から、やがて三神全部が宗像三女神に変わっていったのではあるまいか
 ・平安末期に平家一門の篤い信仰を得て社運は隆盛に向かい、安元2年(1176)には正一位まで昇りつめ、安芸国一の宮の位置を確立したが、この時代には、いまだ市来島姫命の地位は確立していなかったと思われる
という。
 航海安全の神として著名な宗像三女神の勧請に伴って、本来の祭神・伊都伎島神は忘れられたようで、今の当社には、海中に立つ大鳥居の神額(神社側)に「伊都伎島神社」とあるだけで((海側は厳島神社)、境内に伊都伎島神の痕跡はみえない。
 なお、当社名・厳島の文献上での初見は、九条兼実(1149--1207、平安末から鎌倉初期の藤原北家出身の公卿)の日記・玉葉(1162--1200間)という。

※社殿等
 厳島神社は、厳島北西部にある宮島桟橋の南約700mに鎮座する。

 
①厳島神社
社殿等配置図(資料転写)
②同・中心部
 
③同・古絵図
(文化12年-1815-版、資料転写)

 厳島神社は大きく本社区画(②中央部)と客社区画(マロウドシャ-②左上部)に別れ、東廻廊を入ってすぐに客社が、廻廊を進んだ先に本社(本宮ともいう)が鎮座する。
 社殿についての文献上の初見は、佐伯景弘解にいう「九間二面桧皮宝殿一宇」が本社本殿に、「八間二面二棟同拝殿」が同拝殿に当たることから、清盛の大改修時(仁安3年頃)に整えられたと思われ、主要な社殿構成はその後も変わっていないようで、江戸時代の古絵図③にも今と同じ社殿景観が描かれている。

 参拝経路は、東入口(上図②の左上)から入って東廻廊→客社→東廻廊→本社→西廻廊→出口へと至る一方通行で、本社前で平舞台・高舞台・火焼前(ヒタサキ)などを拝観するという順路となる。

【本社】
 ・海上に、南(山側)から本殿・弊殿・拝殿・祓殿が北西方を向いて鎮座し、祓殿の左右から東・西廻廊が延びる
 ・祓殿の前方(海側)に平舞台が広がり、その中央に高舞台がある
 ・平舞台の先に火焼前(ヒタサキ・桟橋状の建造物)が海に向かって突き出し、その先端に青銅製灯籠が立ち、その根元の左右に門客神社(カドマロウド)2宇が鎮座する
 ・火焼前の前方約160mの海中に朱塗りの大鳥居が立つ

◎本殿(国宝)
 ・社殿は寝殿造り風の建物で、正面・背面両方の屋根を長く延ばして庇とした“両流造”(通常の流造は背後の屋根が短い)・檜皮葺
 ・桁行(横幅、23.8m)の柱間は正面と背面で異なり、背面は9間(柱10本)、正面は右から5本目の柱を省いた8間(柱9本)で、梁間(側面、11.6m)は4間(柱5本) 

 
本殿・側面

左:本殿、右:拝殿屋根 
 
拝殿からみた本殿正面(奥)

*本殿内部
 ・本殿内部は内陣・外陣に分かれ、更に殿上と階下とに分かれていて、内陣には向かって左から第五・三・一・二・四・六殿の巡に玉殿と称する小祠が並び、第五殿の左は空座となっている(下模式図)
 ・その第一・二・三殿に宗像三女神が、第四・五・六殿には国常立尊以下の相殿神36柱(第五:11座・第四:16座・第六:9座)が祀られているという

 ・左端の空座を含めた社殿の中心は市杵島比売を祀る第一殿だが、拝殿・弊殿から延びる中心軸が第一・二殿の間を通っていることから、社殿としては左右非対象で、中心軸が右に偏っている。
 ・玉殿は仁安3年の造営で、その後貞応2年(1223)に焼失、仁治2年(1241)再建、元亀2年(1571)造替といわれ、現在のそれは明治になっての造替という。
 ・玉殿はいずれも切妻造・平入りで、中央の第一・二殿が最も大きく(桁行三間-約1.63m・梁行一間-約1.34m・高約1.60m、その左右の第三・四殿(桁行三間約1.48m・梁行一間約1.30m・高約1.57m)、第五・六殿(桁行1間約1.29m・梁間一間約0.84m、高約1.45m)と順次小さくなっている。(以上、国立歴史民俗博物館研究報告・2006より)
 ・この桁行三間・梁行一間の玉殿は、小さな神社の本殿規模(一間社流造が多い)を上回る規模で、それが6殿も並ぶということは当社への信仰が如何に篤かったを示すものといえる。

 ・向かって左端が空座となっている理由は不明。
  厳島絵図(江戸後期)の説明文に、
  「本社本宮に斎ひ奉る神 市杵島姫命を主とし相殿に五社已上六座 外に弁財天の像を安置す」
とあり、江戸時代までは、この空座の処に弁財天が祀られていたらしいが(今は大願寺に移されている)、それ以前のことは不明。


本殿内部を描いた古図

同・模式図


 
玉殿(第一殿)・正面図
(切妻造・平入)

◎弊殿(国宝)
 ・本殿と拝殿を結ぶ切妻造・檜皮葺きの建物で、妻部の屋根が本殿・拝殿に接続した構造で“両下造”(リョウシタヅクリ)という
 ・弊殿には、祭事のとき幣帛等の供物を並べて神に供えたというが、本殿と拝殿を結ぶ廊下でもある
 ・文献上では、仁治元年(1240)の古文書にみえる「楼台一宇」が初見とされ、清盛当時にはなかったという

◎拝殿(国宝)
 ・三つ棟造平入り・檜皮葺き 桁行10間 梁行3間
 ・本殿と同じく左右非対象で、右から5間目の柱間隔が広く、この部分に弊殿が接続している
 ・本殿に接しているため屋根の一部がみえるだけだが、屋根の妻側に庇があることから入母屋造のようにみえる


拝殿・屋根(東側より)
 
拝殿・内陣 

◎祓殿(国宝)
 ・拝殿の海側に建つ建物で、入母屋造妻入り・檜皮葺き 桁行6間 梁行3間
 ・柱の間に壁のない吹き放しの社殿で、夏冬の大祓などの儀式とか諸芸能奉納の場として使用されるという
 ・佐伯景弘解状にみえる「六間三面舞殿二宇」がこれに当たるが、祓殿との名称の初見は仁治2年の古文書という

 
祓殿・側面
   
祓殿・高舞台を介した正面

◎平舞台

 ・祓殿の海側に突きだした板敷きの部分。全体はE字型で、幅が広い中央部が祓殿に、上下2本が廻廊に連なっている
  広さ約550㎡、一般神社での社殿前広場に当たる
 ・浅い海底に立てた石柱(毛利元就の寄進というから15世紀頃か)の上に根太を渡して床板を張った構造で、床板は高潮時に水圧がかからないように隙間を空けて張ってある
 ・資料上での初見は嘉嘉禎5年(1239)の古文書といわれ、元禄10年(1697)の古文書には平舞台と高舞台が現在とほぼ同じ位置関係で描かれているという
 ・旧暦6月17日の管弦祭に先立って、御座船を整える御船組(オフネグミ)の作業などが当舞台で行われる

 

平舞台付近

◎楽房(ガクボウ)
 ・平舞台海側に“楽房”と称する切妻造桧皮葺・四方吹き放ちの建物(桁行5間・梁行2間)が左右2棟あり、舞楽を演じるとき楽人が簫・笛・鞨鼓などを奏するという


左楽房と左門客神社
(手前の板敷きは平舞台の一部) 
 
右楽房
(左にみえる建物は右門客神社)

◎高舞台
 ・平舞台中央部、擬宝珠付き朱塗りの高欄を廻らす一段高くなった部分を“高舞台”と称し、当社伝来の舞楽が演じられる
 ・梁塵秘抄口伝集(巻10、1169)・仁安4年(1167)条に
  「安芸の厳島へ、建春門院に相ぐして参る事ありき。弥生の16日京を出て、同じ月26日参りつけり。・・・
   其国の内侍二名 唐装束をし、かみをあげて舞をせり。五常楽・こまぼこを舞ふ。伎楽の菩薩の袖ふりけむも かくやありけんと覚えてめでたかりき」
と、清盛時代に当社で舞楽が行われたことが記されている

 ・高舞台の初見は元和9年(1623)の古文書で、そこには「面三間(約5.4m)・入三間半(約6.3m) 欄干・階段有り」とあって、今とほぼ同じ大きさという(現在-正面:5.2m・側面:6.4m・高さ:0.6m、広さ約34㎡)

 
高舞台から大鳥居を望む(資料転写)
 
高舞台(祓殿側より)
 
高舞台(海側より)

◎火焼前(ヒタサキ)
 ・平舞台から海に向かって桟橋状の構造物が突きだし、これを“火焼前”と称する(思っていたより短い)
 ・その先端、石の台座の上に「寛文十年晩春」(1670)と刻した青銅製灯籠が立っている
 ・海上から神社に至る目印となるもので、嘗て、この場で龍神に捧げる燈火が焚かれたのかもしれない

 
火焼前
(大鳥居・灯籠を入れてのビューポイントのようで、
雨の中、多くの人が並んでいた)
 
青銅製灯籠

◎右門客神社・左門客神社(末社)
 ・火焼前基部左右の海上に“右門客神社”(ミギカド マロウド・東門客神社ともいう)・“左門客神社”(西門客神社ともいう)が鎮座し、右門客神社には櫛岩窓神(クシイワマド)・左門客神社には豊岩窓神(トヨイワマド)を祀る
 ・門客神社は鎌倉時代創建の社殿で室町時代再建という切妻造(桁行1間・約6m、梁行2間・約2m)平入り・栃葺き、中に一間社流造の玉殿が鎮座する

 櫛・豊岩窓神とは、
  古事記--(天孫・瓊々杵尊の降臨に従った神々の名は)「次ぎに天石戸別神(アメノイワトワケ)、亦の名は櫛石窓神と謂ひ、亦の名は豊石窓神と謂ふ。この神は御門(ミカド)の神なり」
  古語拾遺--(天照大神が天岩戸から出て新殿へ移られたとき)「豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門(ミカド)を守衛(マモ)らしむ」
とあり、いずれも“宮殿の門を守る神”というが、俚人は「沖の恵比須」と云い伝えているという。

 
右門客神社(左門客社も同じ)
 
右門客神社内の玉殿 

◎大鳥居
 ・厳島神社の沖合88間(桟橋前より約160m)の海中に(干潮時は州浜となる)に朱塗りの大鳥居(両部鳥居-柱の前後に控柱2本をもつ鳥居)が立つ。
 ・日本三大鳥居の一つといわれ(当社・奈良・春日大社、敦賀・気比大社)、厳島神社のシンボルともなっている。
   規 模    高:約16.6m、笠木の長:約24.2m、柱間:10.9m、重量:約60トン
   建立年次  推定:仁安元~3年(1166--68・平安末、平清盛時代の建立)
    弘安9年(1284)以降7回再建され、現在の鳥居は明治8年(1875)再建のもので、明治43年(1910)・昭和25年(1950)に補修という
 ・厳島社家縁起の追記(鎌倉末期か)
   「第一鳥居の御前之海底には蓬莱在之」
とある。
 海底にある蓬莱とは龍宮を指し、鎌倉時代には大鳥居前に龍宮に通じる穴があるとの伝承があったという。

 ・大鳥居は、2本の主柱を地中に立て込んだ構造ではなく、海底に密に打ち込んだ松杭の上部を固めた上に自重だけで乗っている構造で、自重を増すために箱型になった笠木の中に石が詰めてあるという。
 ・大鳥居上部には、海側に「厳島神社」、陸側に「伊都岐島神社」との神額が掲げてある。


大鳥居 
 
伊都岐島神社の神額


【客社】(マロウド、摂社、客神社とも)
 ・東廻廊入口を入ってすぐにある社殿で、海側(西)から祓殿・拝殿・弊殿・本殿が西面して連なり、祓殿と拝殿の間に東廻廊が通っている
 ・佐伯景弘解にみえることから、本社と同じく仁安3年(1168)の造営と思われる
 ・現地では、まず客社に参拝し、その後に本社に詣でる習慣があるという

 祭神
  天忍穂耳尊(アメノオシホミミ・天孫瓊々杵命の父神)・活津彦根命(イクツヒコネ)・天穂日命(アメノホヒ・出雲国造等の祖)
                       ・天津彦根命(アマツヒコネ・凡川内国造等の祖)・熊野櫲樟日命(クマノクスビ)

 ・これら5柱の神々は、記紀によれば、アマテラスとスサノオのウケヒのとき、スサノオがアマテラスが身に付けていた五百津の珠を乞いうけ、これを天の真名井で振りそそぎカリカリと噛んで噴き出した霧の中から生まれたという。
 ・ウケヒの場で生まれたことから、本社の祭神・市杵島比売以下の3女神とは兄弟姉妹の関係にあり、その縁で本社の客人神(マロウドガミ)として祀られたかと思われるが、これら5柱の男神と当社との間に接点はなく、賢しら人による牽強付会の感がつよい。

 ・客社本来の祭神については“厳島命の御母説”(貝原益軒)・“祭神不明説”(田渕実夫)などがあるというが、大林太良氏は
  「私の考えでは、他の多くの神社の場合と同様、客神社とは実は地主神のことであろう。つまり海上からやってきて鎮座した女神よりも前に、この島の神として崇敬されていた土着の神である。したがって、本社より先に客神社を参拝するという順序になったのであろう」
という(私の一宮巡詣記)。客社という社名からみて、島の地主神即ち伊都岐島神を客人神として祀るとする説は魅力があるが、現在の玉殿5座という構成とは整合しない。

 社殿は寝殿造りの様式を残した建物で
  本殿(国宝)--両流造 桁行5間・梁行4間
   本殿内部は本社本殿と同じく内陣・外殿に分かれ、内陣には玉殿5座が鎮座するという
  拝殿(国宝)--切妻造 桁行9間・梁行3間(両端に庇が付くことから入母屋造にみえる)
   この両社殿を桁行1間の弊殿(国宝)がつなぐ
  祓殿(国宝)--入母屋造・妻入の社殿で東廻廊の海側に建つ 桁行4間・梁行3間
   本社祓殿前面にある平舞台に相当するものはなく、祓殿は直接海に接している。

 
左より拝殿・弊殿・本殿(資料転写)
 
本 殿
 
祓 殿


【その他】
◎廻廊(国宝)
 ・廻廊は、社殿域を四角に取り巻くように設けられるのが普通だが、当社の廻廊は社殿が海上に建つため、社殿間を結ぶ構造物(廊下)を廻廊と称している。
 ・廻廊は切妻造桧皮葺きで、東廻廊が45間(85m、途中で3度直角に折れている)、西廻廊が62間(109m、途中で4度直角に折れている)、全長107間(194m)だが、巷間では煩悩の数と同じ108間として百八廻廊と呼ばれている。

 ・初見が佐伯景弘解であることから当社創建当初からあったと思われるが、そこには113間とあり、その後の資料でも間数に違いがあることから、改修等に合わせて変動があったことが窺われる。

 
東廻廊・入口
 
東廻廊(部分)
 
同・内部

 東廻廊入口と西廻廊出口の上部構造は異なっている。
 資料・伊都岐島によれば、
  「現在の入口(東廻廊入口)は、はじめ出口であったから、廻廊の屋根も切妻であり、床板にも敷居らしい工作もしていない」
とある。
 これに対して西廻廊出口は唐破風を有する造りで、嘗てはこちらが入口だったといいうのも納得できる。


西廻廊(部分) 
   
西廻廊・出口
 なお、時宗の祖・一遍上人(1239--89)の生涯を描いた一遍聖絵(1300・鎌倉末期)の巻10に、
 「弘安10年(1287)の秋、安芸の厳島にまうで給ふに、内侍等帰依したてまつりて、臨時の祭をおこなひて妓女の舞を奏しけり」
とあって、右の絵が載せてある。 
 ただ、そこに描かれた廻廊は、拝殿から出て海上の舞台を取り巻く四角い形状で、そこに一遍をはじめとして多くの見物の人々が描かれているが、社殿配置等を含めて実際とは大きく異なっている。
 一遍聖絵の各場面は実際の姿を写しているというのが一般の評価だが、この絵が何故実際と異なるのかは不明。
 絵師が厳島神社を実見していないのかとも思われるが、別の理由があったのかもしれない。

一遍聖絵・厳島神社

◎不明門(アケズノモン)

 本殿背後(陸地部)は“後園”(ウシロソノ)と称する禁足地で、その南側を画する玉垣の中央に建つ門を“不明門”と称する。
 切妻造の屋根をもつ四脚門 瓦葺で 桁行1間 梁行2間

 不明門は、神が弥山から社殿に降りる際に通られる門で、人が通ることはないという。

 後園は玉垣で囲まれていて門の全貌は実見不能、屋根の一部が覗き見されるだけ。

 

◎能舞台(重要文化財)
 ・本社拝殿の西方海上に切妻造・桧皮葺きの能舞台があり、舞台西角から延びる“橋掛かり”を通って“能楽屋”に連なっている。
 ・資料・伊都岐島によれば、
  「正親町天皇の永禄年間(1558--59)に建てられたと伝えられ、古文書に『能舞台建立 慶長10年(1605)9月』とあり(福島正則建造という)、棟札には「延宝8年(1680)造立」との旨が記されているが(浅野綱長改修という)、何れも修繕だろうと思われる」
ちある。
 ・桁行一間梁行一間の切妻造桧皮葺きで、潮の干満があることから、通常の能舞台にある床下の壺(舞台での足踏みを反響させる装置)はなく、根太に工夫を凝らしているというが、それが如何なる構造かは不明。


左より能舞台・橋掛かり・能楽屋 
 
能舞台(東より)
 
能舞台(西より、絵葉書転写)

◎大黒社(摂社、重要文化財)
  祭神--大国主命
 本社本殿の西にある小社で、切妻造桧皮葺き 桁行4間 梁間4間
 西廻廊の途中から長橋に至る通路の右側に東面して鎮座し、元亀2年(1571)毛利元就の造営かという。
 昔は本社・客社に献ずる神饌を御供所から唐櫃に入れて当社の左で整えたという。
 東側正面の黒い格子戸の中に一間社流造の玉殿が鎮座しているが、暗くてよく見えない。

◎天神社(摂社、重要文化財)
  祭神--菅原道真
 大黒社の先(南)から右(西)に入った海上に建つ小社で、入母屋造・桧皮葺き 桁行3間 梁行3間 素木造り
 弘治2年(1556)毛利輝元による造営といわれ、明治半ばまで毎月連歌の会が催されたという。

 
大黒社(背面)
 
大黒社・玉殿
 
天神社

◎長橋
 西廻廊から大黒社前を通って南の陸地を結ぶ橋で、桃山時代の建立という。
 橋脚は石造だが橋板・高欄等は木造。今は通行禁止

◎反橋(重要文化財)
 長橋の西、西廻廊終端近くにある朱塗りの太鼓橋で、これも西廻廊と南の陸地を結び、上卿参向のとき使用した橋というが、今は通行禁止。
 擬宝珠高欄に「奉造営安芸国厳島曽利橋一宇木帽子四 丹那吉田住人毛利屋形大江朝臣輝元 元就為子孫繁栄息災所也 弘治三年(1557)卯月吉日 大願寺円海」との刻銘があり、弘治3年の毛利輝元による建立という。


長 橋 
 
反 橋 

◎朝座屋(重要文化財)
 客社前を過ぎた東廻廊の突き当たりに建つ建物で、桁行8間 梁間4間 桧皮葺きの屋根は西側が入母屋造 東側が切妻造と異なっているというが、西側の妻は実見不能。
 造営時期は不明だが、今の建物は桃山時代の再建という。


朝座屋(資料転写、右の建物は東廻廊) 
 
同・東部分


◎大経堂(重要文化財)

 ・客神社東方の小高い丘・塔の岡に建つ桃山期の巨大な建物で(右写真)、“大経堂”が正式名称だが末社・豊国神社の本殿とする資料もある。
 ・豊臣秀吉が天正15年(1587)、それまでの戦没者のために毎月一度千部経を転読供養するために発願着工されたが、朝鮮出兵とそれに続く秀吉の死亡(1598)によって中断され、天井・外壁など未完成のまま現在に至るという。
 ・入母屋造・本瓦葺、桁行13間(約40m)・梁行8間(約21m)の巨大建物で、畳857枚分の広さがあるといわれ一般に“千畳閣”と呼ばれている。

 降雨のため足下悪く、且つ時間の制約もあって遠望したのみ。

◎五重塔(重要文化財)
 ・大経堂の南に建つ朱塗りの五重塔で方三間(3.6m)、現在の塔は応永14年(1407・室町初期)の建立。塔高:27.6m・桧皮葺き
 ・嘗ての本尊・釈迦如来像、脇侍の普賢菩薩・文殊菩薩像は、今、大願寺に移されているが、塔内は白衣観音像・真言八祖像などが描かれているという。

 
五重塔
   
五重塔と大経堂(資料転写)

◎三翁神社サンノウ、摂社)
 本社本殿の東、厳島神社社域を東・南・西と取り巻く外周道路の向こう側にある小社。
 祭神  中央:佐伯鞍職・安徳天皇・所翁(トコロノオキナ)・二位尼・岩木翁・大綿津見命
      左殿:大己貴神・猿田彦神
      右殿:御子内侍・竹林内侍・徳寿内侍各祖神
  多くの祭神が如何なる由縁で当社に祀られたかは不明だが、下記するように比叡山の山王社を勧請したのであれば、左殿の大己貴命が本来の主神かもしれない。

 社頭に立つ案内には
 「御由緒・御鎮座の年月不祥
   伊都岐島社千僧供養日記(1177)に、比叡御社壇と記述があるのが現在の三翁神社と思われる
   明治以前は山王社(サンノウ)と称されていた」
とあり、資料・伊都岐島には
  「平清盛が近江の日吉山王を勧請して山王社と称したもの」
とある。
 道路脇に銅製の神明鳥居が立ち、朱塗り柵の奥に入母屋造の拝殿(桁行5間・梁行3間・瓦葺き)が、その奥に本殿3棟(一間社流造・桧皮葺き)が鎮座する。


三翁神社・正面 
 
同・拝殿(奥に本殿3棟が見える) 

◎荒胡子神社アラエビス・末社・重要文化財
 客社の東、外周道路沿いにある小社。
 祭神  素盞鳴命・事代主命

 入母屋造・瓦葺きの拝殿の奥、朱塗りの柵に囲まれた中に一間社流造・桧皮葺きの本殿が鎮座する。
 本殿は嘉吉3年(1443)の建造で、もと大願寺の子院・金剛院の鎮守で、その建物の中にあったという(資料・伊都岐島)

 
荒胡子神社・拝殿
 
同・本殿

【大願寺】
 西廻廊出口を出て小橋を渡った先にある寺で、正式名は『亀居山放光院大願寺』 真言宗

 頂いた縁起には、
 「大願寺は『厳島弁財天』(秘仏)を奉安しております。厳島弁財天は江ノ島・竹生島と並ぶ日本三大弁財天の一つで、弘法大師が唐よりの帰途、宮島に立ち寄られた折に、弁財天を厳島大明神として勧請し、厳島神社に祀ったと伝えられております。
 明治初頭に出された神仏分離令により、当寺にお迎えして以来、弁財天本堂ともいわれております。また当寺が奉安している仏像のなかでも、薬師如来・釈迦如来・摩訶迦葉尊者(マカカショウ)・阿難尊者は国の重要文化財に指定されています。 

 開基は久遠であり不祥ですが、建仁年間(1201--33)に僧・了海によって再興されたと伝えられています。
 当寺は厳島神社をはじめ箱崎宮・宇佐八幡宮など多くの寺社造営修理などを掌る普請奉行として、毛利元就・輝元による神社修復や豊臣秀吉による大経堂建立などに大きな役割を果たしてまいりました(以下略)
とある。

 当寺の秘仏とされている弁財天像は、江戸時代までは厳島神社本殿に奉安されていたもので、明治の神仏分離によって当寺に移されている。
 縁起には、弘法大師(734--835)が厳島神社に弁財天を勧請したというが、厳島に弁財天信仰が入ったのは戦国時代前期頃(15世紀中頃)といわれ、弘法大師云々というのは格付けのために大師の名を騙ったもので信用はできない。

 山門(元禄年間-1688--04の建立)をくぐった右手に“護摩堂”(平成18年再建・本尊:不動明王)が、その左奥に“本堂”が建つ。
 縁起には十一面観音菩薩像以下15躰の写真が載せられていて(明治初頭、島内の堂宇から多くの仏像が移されたという)、本堂本尊がどれかは不明。


大願寺・配置図 
 
同・山門
 
同・本堂
 
同・護摩堂

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