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伊 和 神 社
兵庫県宍粟市(シソウシ)一宮町須行名(スギョウメ)
祭神--大己貴神
                                                         2013.03.28参詣

 延喜式神名帳(927)に、『播磨国宍粟郡 伊和坐大名持御魂神社 名神大」とある式内社で、播磨国一ノ宮。
 社名は“イワニマス オオナモチノミタマ”と読むが、“イワノオオナモチノミタマ”ともいう。

 中国自動車道・山崎ICから国道29号線
(因幡街道)を北上(約11km)、道の駅“いちのみや”の反対側に広がる大きな森の中に鎮座する。

※由緒
 当社配布の“伊和神社御由緒略記”によれば、
 「御祭神  大己貴神
(オオナムチ)--大名持御霊神、大国主神、又は伊和大神とも申し上げる

  創 祀   大己貴神は国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、或いは医薬の法を定めて、治癒の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。
 大神は播磨国に特別の恩恵を垂れ給い、国内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里(当社のある地方)に至りまして、我が事業は終わった“おわ”と仰せられて鎮まりました。ここに於いて人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当社の創祀であります
 一説に、成務天皇甲申歳2月11日丁卯
(144)、或いは欽明天皇25年甲申歳(564)の創祀とも伝えております」
とある。

 しかし、古い社記
(1670・江戸前期)や古書・峯相記(1348・南北朝時代)には、
 「成務天皇甲申年
(社記)あるいは欽明天皇25年(峯相記)に、伊和恒郷(イワツネサト)に『我を祀るべし』との神託があり、此の地へ社殿を建立したと伝えられる。その時、石の上に、白い鶴2羽が北に向かって眠っていたので、北面して社殿を造った」(大意)
とあり
(式内社調査報告・1980)、当社社殿背後に鶴が眠っていたという石(鶴石)がある。

 当社の創建について、由緒略記及び社記には成務天皇甲申
(キノエサル)歳、峯相記には欽明天皇25歳とある。
 欽明25年は甲申歳であることからみると、当社創建を甲申歳とする伝承めいたものがあったのかもしれない。しかし、60年に一度廻ってくる甲申歳を成務朝又は欽明朝に充てた由縁は不明。
 また、由緒略記は成務天皇甲申歳を西暦144年としているが、書紀がいう天皇在位年数は、中国伝来の讖緯
(シンイ)思想によって大きく引き延ばされた架空のもので(神武即位を西暦前660年とするのも讖緯思想による)、成務を一般にいわれるように4世紀後半頃の天皇とみれば、その甲申歳は西暦384年となる。また欽明在位年次は大きな差異はないと思われることから、その25年(甲申歳)は西暦564年とみても間違いはないだろう。

 当社を創建したという伊和恒郷の人物像は不明だが、播磨国風土記の飾磨郡・伊和里条に
  「伊和部
(イワベ)とよぶのは、積嶓郡(シサワノコホリ、宍禾郡とも記す、現宍粟郡)の伊和君(イワノキミ)らの族人がやってきてここに住んだ。だから伊和部という」
とある伊和君氏の一族であろう。

 この伊和君なる氏族は、播磨国風土記以外の古文献には見えないため、その実像は不詳だが、
 ・宍粟郡を本貫とする氏族で、播磨全域に勢力をもっていたと推測される。
 由緒略記などによれば、伊和恒郷の後裔・恒雄が天平宝字2年
(758)に神領を寄進した伝えられ、当社社家・大井祝(ハフリ)の祖とされるが、大和朝廷の勢力が播磨地方に広がってからはその勢力は衰えたとみられる(式内社調査報告)

 ・風土記・宍禾郡
(シサワノコホリ)に、
  「石作(イシツクリ)の里
(もとの名は伊和)  石作と名づけるわけは、石作首(イシツクリノオビト)らがこの村に住んでいる。庚午の年(670)に名を改めて石作の里とした」
  「伊和の村
(もとの名は神酒-ミワ)  伊和大神が酒をこの村で醸したもうた。だから神酒(ミワ)の村という。また於和(オワ)の村という。大神は国作りを終えてから後、於和(オワ)と仰せられた。於和は美岐(ミキ・神酒)と同じである」
とあり、伊和君一族の居住地が現宍粟郡で、そこは伊和大神信仰圏でもあったことを傍証する
(日本の神々2・1984)

 ・忌輪
(イミワ、祭祀関係の大型土器)の製作に当たった職業集団の首長だが、その来歴は不明。播磨では広汎な活動範囲をもち、宍粟郡の伊和村を根拠としたが、播磨の主要な古墳所在地に居住した痕跡があるにもかかわらず、風土記以外の文献には見えず、おそらく古墳時代の終末とともに消滅したと考えられる(東洋文庫版・風土記の注・1969)
などという。

 これらからみて、当社は伊和君なる一族が、在地の神・伊和大神を奉斎したものといえるが、境内に鶴石と称する石があることからみると、素朴な磐座信仰が原点かもしれない。

 古史料における当社の初見は、
 ・新抄格勅符抄
(平安時代の法制書)にひく
   大同元年牒(805・平安初期・奈良時代以降、神社寺院に与えられた封戸の記録)--播磨伊和神 十三戸
   同播磨国諸神新封本封之外合加私注付--伊和大名持御魂神 五戸
で、以下、
 ・三代実録(901)貞観元年(859)正月27日条--播磨国・・・伊和坐大名持御魂神・・・並びに従四位下を奉授
 ・同天慶5年(942)6月29日条--播磨国従四位下勳八等伊和坐大名持御魂神に従四位上を奉授
 ・正歴2年(991)--正一位
 ・左經記(11世紀初頭)・寛仁元年(1017)10月2日条--一代一度の幣帛神宝を奉る
とあるという。
 左經記がいう“一代一度の幣帛神宝奉斎”とは、天皇即位後、その即位を報告するため伊勢神宮や各地の有力神社に勅使を派遣して幣帛神宝を奉る神事で、この記録は、寛仁元年に後一条天皇(1016--36・平安中期)が各神社に即位を報告したことを指す。

※祭神
 主祭神--大己貴神(オオナムチ)
 配祀神--少名彦名神(スクナヒコナ)・下照姫神(シタテルヒメ)

 主祭神をオオナムチとすることには、
 ・延喜式(927)より早い大同元年牒に“伊和神”及び“伊和大名持神”とあり、同じ神を指すと思われること
 ・社名を“大名持御魂神社”と称すること
 ・延喜式神名帳(皇学叢書3巻・1927所載)の注に『伊和村に在り、大己貴神を祭る当国の一宮也』とあること
などから、諸資料ともに異論はない。
 ただ、播磨国での有力な神として伊和大神(イワ)があり、大己貴神と伊和大神とが同神かどうかについては、古来から論議がある。

 由緒略記では、伊和大神とオオナムチとは同じ神となっているが、
 ・播磨国風土記に見える神としては、“伊和大神”18ヶ所(他に御子神10柱あり)・“大汝命”(大己貴神)8ヶ所・“葦原志許乎命”(アシハラシコオ)6ヶ所を数え(他に、天日槍命-アメノヒホコ・少名彦根命-スクナヒコネがあるが少数)、その過半を伊和大神が占めていること
 ・オオナムチと伊和大神の事蹟は別々に記され、伊和大神の国内巡歴が“(大神が)国占めされた時云々”との表現で各所にあり(6ヶ所)、播磨国全域に信仰圏をもつ有力神とみられること
 ・由緒略記では、国造りを終えたオオナムチが“オワ”と云ったとあるが、風土記では伊和大神の言としていること
から、この両神は本来別々の神であって、出雲のオオナムチ信仰の浸透にともない、その中に吸収・同化されたものと思われる。
 憶測すれば、当社の祭祀者が、一地方神である伊和大神を、記紀において国つ神の頭領とされたオオナムチと同一神とすることで、当社の社格格上げを目論み、それに成功したのかもしれない(延喜式の名神大社、後の一の宮)

 少名彦名神
  オオナムチが出雲の美保の御崎に坐したとき、海の彼方からやってきた小さな神で、神産巣日神(カミムスヒ)の御子神。
  オオナムチとともに国造りをなしたといわれ、農耕神・医療神・酒神の神格をもち、その後、熊野の御崎から常世郷(トコヨ)へ渡ったという。
  風土記では、スクナヒコナ単独というよりオオナムチと一緒に行動していることから(4ヶ所)、オオナムチと関係の深い神として祀られたとも思われる。

 下照姫神
  オオナムチの娘で、国譲り交渉の使者・天若日子(アメノワカヒコ)の妻。アメノワカヒコの死の場面に登場するほかに事蹟はみえない神だが、何故か子授け・子育ての神として各所で祀られている。
  オオナムチとの繋がり(妹神)で祀られたのだろうが、その由縁は不詳。

※社殿等
 県道脇に〆鳥居が立ち、杉木に挟まれた表参道中程の鳥居(両部鳥居-4脚の控柱がある)をくぐった先にある東随神門を入って左折(南へ)境内に入る。
 境内南寄りに拝殿(唐破風向拝付き入母屋造平入・銅板葺)が、その背後、弊殿を隔てて本殿(入母屋造・桧皮葺)が、北向きに建つ。
 街区全体を包む周囲は、杉・桧を主体とした鬱蒼とした森で、伊和神社環境緑地保全地域(5.2ha)に指定されている。

 
伊和神社・表参道〆鳥居
 
同・鳥居
 
同・東随神門

同・拝殿 

同・本殿 
 
社殿配置図(下が北)

◎末社
 本殿の左(東側)に、
 ・播磨十六郡神社(東八郡)--播磨旧16郡内の式内社(417社)のうち、東8郡に属する神々を祀る。
 ・五柱社--天照皇大神・宇賀魂神・国底立神・須佐之男神・猿田彦神
 ・御霊社--伊和恒郷命・旧神戸村(一宮町の旧称)の戦死者・万国の戦死者
との3社が並ぶ。
  なお、本殿右(西側)にも、西8郡の神々を祀る“播磨十六郡神社(西八郡)”がある。

 
末社・播磨十六郡神社(東八郡)
(社殿の右に同形の末社・西八郡あり)
 
末社・五柱社
 
末社・御霊社

 ・市杵島姫神社(イチキシマヒメ)
  境内右手(西側)に建つ西随神門を出たすぐ左の鳥居をくぐり、参道を南に進み朱塗り鳥居の先、方形の神池中の方形の島の中に鎮座する。
 イチキシマヒメは海神・水神だが、習合している“弁才天”(弁天さん)としての奉祀かもしれない。

 
西随神門
 
末社・市杵島姫社・鳥居
 
末社・市杵島姫社

 由緒略記によれば、旧境外摂社として、与位神社(素盞鳴尊・稲田姫命)・庭田神社(事代主神)・邇志神社(伊弉諾命・伊弉冉命・須佐之男命)築神社(大己貴命)・安志姫神社(安志姫命)があったというが、不参詣。

◎鶴石
 本殿の背後(南側)に突出した低地に、透塀と玉垣に囲まれて“鶴石”と称する自然石がある。
 当社由緒略記には
  「本殿の裏にあり。成務天皇甲申歳2月11日丁卯、一説に欽明天皇25年庚申歳、伊和恒郷の夢に「我を祀れ」とのご神託があり、一夜のうちに過ぎ・桧等が群生して多くの鶴が舞っており、大きな白鶴が二羽石上に北向きに眠っていたので、その所に社殿を造営したという。その名を鶴石といい、社殿が北向きなのもそのためであるという」
とある。
 当社の祭神顕現の場ということだが、この石を神顕現の聖地とする磐座信仰が(ただ、磐座というには小さい)、当社の原点であったかとも思われる。

 
鶴石の祠
 
鶴石

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