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伊弉諾神宮
兵庫県淡路市多賀
祭神--伊弉諾大神・伊弉冉大神
                                                              2014.0127参詣

 延喜式式内帳に、『淡路国津名郡 淡路伊弉諾神社 名神大』とある式内社で、淡路国一の宮。

 淡路島の中央部西寄、西海岸・郡家から島を斜めに横断する国道88号線沿いに鎮座し、右隣に多賀小学校がある。

※由緒
 社務所で頂いた栞・幽宮(以下、幽宮という)によれば、
  「古事記・日本書紀には、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾大神が、御子神なる天照大御神に国家統治の大業を委嘱され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に『幽宮』《カクリノミヤ》を構えて余生を過ごされたと記される。
 その御住居跡に御陵が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが、当神宮の起源である。
 地元では『いっくさん』と称され、日之少宮・淡路島神・多賀明神・津名明神と崇められている」
という。

 伊弉諾大神(イザナギ・イザナキ)の幽宮(カクリノミヤ)について、記紀は次のように記している。
*古事記
 ・真福寺本(現存最古の写本・1372頃)--其のイザナギ大神は、淡海(アフミ)の多賀に坐す(マシマス)
 ・伊勢本(1424年の写本)--其のイザナギ大神は、淡路(アワジ)の多賀に坐す也
*日本書紀
 ・是を以て、(イザナギ尊)幽宮を淡路の洲(クニ)に構(ツク)りて、寂然(シヅカ)に長く隠れましき。
 ・亦曰く、イザナギ尊、功(コト)既に至りぬ。是に天に登りまして報命(カヘリゴトマウ)したまふ。仍(ヨリ)て日之少宮(ヒノワカミヤ)に留り宅(ス)みましきといふ。

 これによれば、イザナギの幽宮は淡路(当社)と淡海(近江、現滋賀県犬上郡多賀に多賀大社あり)の2ヶ所があることになり、古来から論議を呼んでいる(書紀にいう日之少宮とは天上に帰っての宮で幽宮ではないという)

 これについて、本居宣長は古事記伝(1798)のなかで
  「多賀 式に近江の国犬上郡多何(タガ)の神二座と見ゆ、和名抄に田可の郷あり。是れなるべし。書紀に“幽宮を淡路之洲に構りて云々”とあるは、此記と合ざるに似たれども・・・」
と記し、
  「古事記も本は淡路だったのが、路の字を海と写し誤ったとも疑われるが、古くから淡路に多賀の名は聞こえず、近江には今も名高い御社(多賀大社)もあることから、元々から淡海なり」
と注記し(いずれも大意)、イザナギの幽宮は淡海(近江)の多賀大社なりとしている。

 これに対して、西郷信綱の古事記注釈(2巻・1989)は、
 ・古事記の伝本のうち一番古い真福寺本(1372)に「淡海」とあり、「古事記伝」もそれに従っているが、これは伊勢本(1424)によって「淡路」と訂正さるべきであろう。
 ・近江にも多賀神社があり、神名帳に犬上郡田何(多賀)神社二座とあるが、社格は小社である。古事記でイザナギを祭るとの由緒を有する社が神名帳で小社にとどまるとは、ちょっと考えにくい。
 ・近江の多賀神社がもてはやされ、“お多賀さんには月参り”などといわれるようになるのは、おもに近世に入ってからであろう。
 ・古事記にいう多賀が、淡路伊邪那伎神社(名神大)の鎮座する淡路国津名郡郡家郷の多賀を指すものであることは、ほぼ疑えない。
 ・また、書紀の記述と照らしても、「淡海」は「淡路」であって、写本時の誤記とみられる。
 ・それに、淡路島は国生みにおいてギ・ミ双神が最初に生んだ島であるから、イザナギが淡路に鎮まったというのは、話としてもすこぶる相応しい。(以上大意)
として、真福寺本にある淡海は淡路の誤記で、イザナギの幽宮は淡路にある当社だとし、多くの識者もこれを有力視している。


 当社の創建年代は不明。
 由緒は“神功(カムワザ)を終えたイザナギが余生を送られた地に創建された、わが国最古の神社”というが、これは神話と現実とを混在させたもので論外。

 当社の古史料上での初見は、新抄格勅符抄(平安時代の法制書)に載る大同元年牒(806、奈良時代以降、神社寺院に与えられた封戸の記録)
  「伊邪那岐命神 五戸 淡路国 同年9月13日官符
との記録で、これからみて9世記初頭に実在していたことは確かだが、当社が何時の頃に創建されたかは不明。

 神階授与記録としては、三代実録(901)の清和天皇・貞観元年(859)正月27日条に、
  「淡路国无(無)品勲八等伊邪那岐命に一品(イチホン・イッポン)を授け奉る」
と、突如として、それまでの無位から一足飛びに一品(神階でいう正一位に相当する)という最高位が授与されている。

 この貞観元年の神階授与は、
 ・授与記録の冒頭に、「京畿七道の諸神の階を進め、及び新たに叙するもの、総て267社」とあるように、
 ・諸国の神々の殆どに対して神階を進めたり新たに与えたりしたもので、新叙された神より昇叙に預かった神が多いなか、
 ・それまで無位であったイザナギに一品という最高位が与えられたのは、
 ・この年が、記紀の神話的系譜をはじめて宮中における神々の序列に適用した年であったからのようで、
 ・同じく無位であったタカミムスヒなどにも従一位という高位が与えられている。
 ・このように、当社が最高位の神階を得たということは、神話における皇祖神の最近親者という系譜が公に援用され、神々の最高位に格付けされたのであろうという(日本の神々・1974・松前健)

 なお、ここで授与された一品とは、律令制下において親王・内親王に与えられた品位(ホンイ・一品から四品まであった)で、後世になって神にも与えられたもので(正史上での初見は、孝謙・天平勝宝元年-749-の八幡大神に対する一品授与)、六国史終了時点(887)で品位をもつ神社が、一品が伊邪那岐神(当社)・八幡神(宇佐)、二品が吉備津彦命(備中)・八幡比売神(宇佐)だけだったように、朝廷と関係が深い特別の神に限られている。


 現在の本殿位置について、幽宮には
  「本殿の位置は、明治時代に背後の御陵地を整地して移築されたもので、それ以前は禁足の整地であった。御陵を中心として神域の周囲に濠が巡らされたと伝え、正面の神池や背後の湿地はこの周濠の遺構という」
とある。
 神陵(御陵)とはイザナギを葬った古墳ということだろうが、それは、イザナギが淡路の地に隠れたという伝承によって幽宮即ち陵墓に充てたもので、本来は、古く当地を支配していた豪族の墓であろう(ただ、ここに古墳があったとする確証はない)

 ただ、イタリア・バチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂が、古代ケルトの墓所の上に建てられていること(地下に古代の墓があるという)、わが国でも古墳上あるいは隣接して鎮座する神社が多々みられることなど、聖地というのは、その宗教・祭祀が変わっても聖地として継続している例が多く、、当地も古代からの聖地(古墳)であった蓋然性は否定できない。

※祭神
 今、当社の祭神は伊弉諾大神(イザナギ)・伊弉冉大神(イザナミ)二座となっているが、延喜式に一座とあることからみて、イザナギ一座とするのが本来の姿と思われる。

 しかし、近世の頃には一座説・二座説が混在していたようで、淡州神社考(1711・江戸中期)には
  「津名郡郡家郷多賀村に祭る所の神二座 伊弉諾尊・伊弉冉尊」
とあるが、幽宮御記(成立時期不明)
  「イザナギ尊の鎮座したまふ幽宮の御遺跡なれば御一座に坐せること既に疑なき事なるべし。縁起書をはじめ棟札等、近世のもの多くは二柱の如く伝へられたるは返々も畏し」
として、祭神はイザナギ一座としている(式内社調査報告)

 それが現在の二座になったのは、昭和6年(1931)の神社古文書写が所収する“祭神に関する願上書”に
  「当社はイザナギの幽宮との伝承をもつ神社で、神位も一品の極位を授けられており、社格も官弊大社に列している。二柱の神が国土を修理固成し神々を生み、力を合わせて大業をなされたのであり、延喜式神名帳所載の座数に関係なく御二柱が祭祀されているのが当然のことで、棟札等にも見えている。
 しかるに明治3年名東県(ミョウドウケン・明治初年、旧阿波国・淡路国を合わせて設置された県)よりイザナギ尊御一座と定められた。攝末社が公認されているのに比べて不当の処置である。昭和5年、本殿修理のため開くと、イザナミ尊も伝来のまま祭祀されている。
 そこで考証の資料を添えて願い奉る」
として、イザナミを合祀して二座とすることを請願したのに対して、昭和7年(1932)内務大臣から
  「諸祭神を配祀として増加の件聴届く」
との通達があり、これによって正式にギ・ミ二座となったという(日本の神々2)


 イザナギ・イザナミ双神(以下、ギミ双神という)は、天地開闢のとき最初に成りでた天之御中主神以下の別天神(コトアマツカミ)五柱、続く国之常立神以下の神代七代(カミヨナナヨ)の最後に成りでた男女の神で(古事記、書紀本文では神代七代の最後)、神々の命をうけて大八洲の国を生み、続けて多くの神々を生んだとされ、皇祖神・アマテラスの親神という。

 そういう神であるにもかかわらず、
 ・延喜式神名帳にいう宮中神36座のなかにみられないように、宮中には祀られておらず、また延喜式祝詞にも登場しない
 ・イザナギを社名とする式内社は、当社を含めて8社(淡路-1・大和-3・摂津-1・伊勢-1・若狭-1・阿波-1)だけで、全国展開は見られない(瀬戸内を中心とする近畿のみ)
 ・皇祖神アマテラスの親神という重要な神を祀るにもかかわらず、当社は名神大社だが、大和と摂津・伊勢の3社が大社、それ以外は小社であり、社格に差がある
 ・又、これらの各社に対する神階授与をみても、当社は一品(正一位相当)という最高位が授与されているが、他は従五位上・同下という一般神社並みの神階であること(伊勢の神社は伊勢内宮の別宮であることから神階はない)
などからみて、古くは、それほど重要視されてはいなかったらしい。


 神代記を除くイザナギに関わる記事として、日本書紀の
 履中天皇5年(5世記中頃)秋9月19日条
  「天皇が淡路島で狩りをされたとき、河内の飼部(ウマカイベ)らがお供をして馬の轡をとった。その時、飼部の目先に入れた黥(イレズミ)の傷が治っておらず、島においでになるイザナギの神が祝部に神憑りして『飼部の目先の傷の血の臭いが堪えられない』といわれた。そこで、これ以後、飼部に黥をすることをやめた」(大意)

 允恭天皇14年(5世記後半頃)9月12日条、
  「天皇が淡路式に猟に行かれた。島中に獲物が満ち満ちているにもかかわらず一匹も捕れなかった。占うと、島の神(履中紀からみてイザナギと思われる)の祟りによるもので、『獣が捕れないのは私の心によるものだ。明石の海の底に真珠がある。それを採って私に供えたら、獲物は全て得られるであろう』といわれた。
 そこで海人を集めて真珠を採ってこさせようとしたが、海が深くて誰も底につくことができなかった。しかし、ただ一人・男狭磯(オサシ)という阿波の海人が深い海に潜り大きなアワビを抱いてあがってきて、その場で息絶えて死んでしまった。
 アワビを割くと、中に桃の実ほどの真珠があり、これを島の神に供えてお祀りをしたら、沢山の獲物があった」(大意)
という二つの記事がみえる(古事記にはみえない)

 これらからみると、5世記頃のイザナギは、淡路島に坐して、イレズミの傷跡の匂いが臭いとか、海底の真珠を採ってくるまで獲物は与えないといった祟り(意思表示)をなすローカルな島の神であって、そこには皇祖神の親神という面影はない。

 この島の神であるイザナギが皇祖神の親神へと昇華したことについて、松前健氏・岡田精司氏らの著書を参考すれば、概略
 ・イザナギは、元々は淡路の海人族・漁民集団が奉じるローカルな神で、そこでは素朴な国生み説話が語られていたと思われ、
 ・それが大和朝廷に知られるようになったのは、朝廷と淡路島との関係が緊密になった所謂河内王朝(5世記)以降のことで、
 ・その頃の淡路は、宮廷への食料(特に魚介類)貢納地だったといわれ、貢ぎ物を運ぶ淡路の海人・漁民たちが宮廷に出入りし、
 ・また大嘗祭に際して、諸国の古詞を奏上する7ヶ国27人の語り部のなかに淡路から2人があったといわれ、
 ・これらの語り部や漁民らが語る淡路の国生み説話が宮廷官人に知られ、
 ・記紀神話編纂のなかで、それらが取り入れられ、記紀にみるような系統だった国生み神話へと発展したのではなかろうか、
と想定され、その時期は7世紀頃ではなかったかという。

 これらからみて、当社の創建は、早くとも記紀が編纂された8世紀初頭を遡る7世紀の頃と思われるが、あるいは、記紀にいう国生み神話が広く認知されたと思われる8世紀かもしれない上記のように、(9世紀初頭にあったのは確か)

※社殿等

 当社境内は、国道88号線脇の大鳥居を頂点とする南北に長い菱形(北側は扁平)をなしており、国道脇の大鳥居を入って参道を進み、中の鳥居(二の鳥居)から神池のくびれ部に架かる神橋(反り橋)を経て社殿域への入口・正門(四脚門・桧皮葺、神門ともいう、明治16年造営)に至る。 

 社殿域の正面に拝殿が、その奥、瑞籬と透塀で囲まれた中に、南から中門(切妻造妻入り・桧皮葺)・弊殿・本殿とが連続して建つ。
 ・本殿--三間社流造向拝付き・桧皮葺き
 ・弊殿--切妻造・妻入り
 ・拝殿--入母屋造(桁行五間・梁間二間)・銅板葺き、舞殿兼用

 上記したように、現本殿の辺りはイザナギの神陵と伝える禁足地で、円墳があったとも、自然石(葺石か)が積み重なった芝地であったともいわれ、当時の本殿は約100m程南にあったという。
 明治12年(1879)、その神陵を整地し、同15年、その上に移築されたのが現本殿で、その床下には葺石が残されているという。

 今の本殿域に神陵(古墳)跡との痕跡は見えないが、西側透塀の格子の隙間から覗くと、本殿と弊殿との間に自然石(40~50cm程のやや扁平な石)数個が見え、これが神陵上にあったという葺石だろうが、塀に近寄れずはっきりしない。

    境内案内図(部分)

伊弉諾神社・大鳥居 

同・中の鳥居

同・正門 
 
同・拝殿
 
同・中門(奥に弊殿・本殿と続く)
 
同・本殿

◎境内末社
 ・根神社・竈神社(ネ・カマド、合祀殿)--祭神不明
   本殿域背後の左手に建つ小祠で、境内案内には「酒造安全の守護神として崇敬される。除災・火防の信仰が篤い」とある。
   竈神社の祭神は奥津日子命(オクツヒコ)・奥津日女尊(オクツヒメ)だろうが(火の神・カグツチが加わっているかもしれない)、根神社は不明
 ・左右神社(サウ)--天照皇大神・月読尊
   本殿域右手にある小祠で、イザナギの左目から出現したアマテラスと、右目から出現したツクヨミを祀るという。
 ・鹿島神社・住吉神社(合祀殿)--祭神不明(タケミカヅチと住吉三神か)
   本殿背後の右手に建つ小祠で、境内案内には、「農業守護又武運長久の神徳を仰いで祀られた」とあるが、この両社が勧請された由緒は不明。
 ・淡路祖霊社
   社殿域の右手、桧皮葺き屋根を有する門で区画された一画に鎮座し、正面に鳥居が立つ。
   境内案内には、「淡路出身の先賢と日清・日露・大東亜の戦役で没した英霊並びに当社歴代の祝職を祀る」とある。

 
根社・竈社合祀殿

左右社
 
鹿島社・住吉社合祀殿
 
淡路祖霊社

◎その他
 ・夫婦大楠(兵庫県指定天然記念物)
   拝殿右手に聳える巨木、樹高約30m余で樹齢約900年。元は2株の木だったのが成長するにつれて合体した奇樹といわれ、玉垣でかこった南面に鳥居が立ち、根元に小さな祠・岩楠社がある。
   2本の楠が合体していることから、イザナギ・イザナミ双神の御神霊が宿るご神木という。
   境内一帯は楠を主体とする叢林に覆われており、“昭和天皇お手植えの楠”など大木も数多くみられる。
 ・放生の神池
   大鳥居からの参道左右にある池で(正門前の小川で連なっている)、嘗ての周濠跡というが確証はない。
   参道右側(東側)の神池に朱塗りの反り橋が架かり、池のなかに水神を祀る小祠(延寿宮)が、池の畔には放生庵(休憩所)がある
   幽宮によれば、黄泉国から逃げ帰ったイザナギが、この世とあの世の境であるヨモツヒラサカで、追ってきたイザナミが「一日千人を殺す」といったのに答えて、「吾は一日千五百人を生もう」といったという神話に因んで生き物の放生がおこなわれ、鯉あるいは亀などを放すという。


岩楠社 
 
夫婦大楠
 
放生の神池(参道右手部分)

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