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気多神社(越中国)
富山県高岡市伏木一宮
祭神--大己貴命
                                                                2013.09.25参詣

 延喜式神名帳に、『越中国射水郡 気多神社 名神大』とある式内社で、越中国一の宮。

※由緒
 社務所で頂いた「越中国一宮 気多神社略記」(以下、略記という)によれば、
  「養老2年(718) 行基が創建したとの伝承があります。
   天平4年(732) 能登国羽咋の気多大社より大己貴命の御分霊を勧請し、気多大神として御鎮座いただき越中国気多神社となったようです。
 けれども白山記では、この御分霊勧請の年を能登国が越中国から分立した天平宝宇元年(757)以降とし、当社は『新氣多』と呼ばれていたと記しています」
という。

 当社は、能登国一の宮である式内・気多大社(現石川県羽咋市)から分霊を勧請して創建されたものだが、その時期について、養老2年(718)説・天平4年説(732)・天平宝宇元年(757)説の三つがある。

*養老2年説(718)
  略記によれば僧・行基(668--749)の創建というが、この当時の行基は、朝廷からは民衆を惑わす小僧として布教活動を禁じられている(元正天皇霊亀3年-717、勅令により活動が禁止されている)にもかかわらず、多くの私度僧(シドソウ・官許を得ていない僧)等を率いて各地を廻り民衆教化と寺院建立に励んだといわれ、その範囲は近畿を中心に東は愛知県に達する(行基開基とする寺院が幾つかある)とはいうものの、北陸まで広がっていたとの史料はない。
 また、行基が建立したのは寺院であって神社ではなく、その意味でも、当社創建を行基に求めるのは無理で、近接する射水神社に別当寺(神宮寺)の開山を行基とする伝承があることから、これを模したものではないかという。

 なお、式内社調査報告(1985)が引用する神社明細帳(明治前期の編纂らしいが年次不明)にも
   「由緒不詳というが、養老元年越前国を割き能登国を置かれしとき、勧請の由伝来」(ただし、養老元年は2年の誤記という)
とあるが、これは略記にいう説をひいたものであろう。

*天平4年説(732)
  略記によれば、天平4年を当社創建の年次というが(境内に掲げる略史にも同文の記述あり)、その根拠は不明で、管見するかぎりでは天平4年説を称える他資料はみあたらない。
 後段にいう白山記云々について、白山記(ネット資料・近代デジタルライブラリー所収)には当社創建を天平宝宇元年以降とは明記されておらず(ただ、その可能性は大きい)、当社が新気多と呼ばれ射水神社と一の宮の地位を争ったとあることからの類推らしい。

 これら2説への反論の根拠として、越中国国司として赴任した大伴家持の存在がある。
 万葉歌人・大伴家持(718--85)は、越中国に能登国が併合されていた期間(741--57)に含まれる天平18年(746)から天平勝宝3年(751)迄の足かけ6年間、国司(越中守)として国府(伏木)に在勤し、万葉集(17・18・19巻)に多くの歌を残しているが、間近(国府の地・伏木)にあったはずの当社については一首もないことから(能登の気多大社については詠われている、4025番)、その頃当社は存在しておらず、その創建は家持帰京以降であった蓋然性が高い。

 なお、当社の創建に関係する越中国・能登国の設置状況は以下の通り。
  大宝元年(701)頃--古来の越国(コシノクニ)を分けて越前・越中・越後国を設置
  養老2年(718)--越前国から能登国を分立
  天平13年(741)--能登国を越中国に併合
  (天平18年・746~天平勝宝3年・751--大伴家持越中国司として在任)
  天平宝宇元年(757)--能登国が越中国から分立

*天平宝宇元年説(757)
  越中国から能登国が分立した以降の創建とするものだが、諸史料は次のようにいっている(日本の神々8より)
 ・伏木一宮気多神社(昭和らしいが刊行年次不明)
   能登国が越中国に併合されていた17年間は、社格からみて、能登の気多大社が越中国の一の宮だったはずであり、したがって、越中国府の所在地である当地に分霊が勧請されたのは、(能登国が分立した)天平宝宇元年前後であろう。
 ・高岡市史(1959)
   越中が能登を併合していた時代、国司か着任の際もしくは定期に参詣せねばならない国内随一の大社はとうぜん能登郡羽咋の気多大社であったが、越中国府から遠すぎるため、国府に近い場所にその遙拝所が設けられ、能登分立後に独立の神社になったのではないか。
 ・式内社調査報告(1985)
   大伴家持の越中守時代の歌に、伏木の気多神社(当社)に関する歌が一首もないことは(上記)、そのころ当社はまだ存在しなかったことを暗示する。
   延喜式神名帳で名神大社とされながら、射水郡十三座の最後に記されているのは、創立年次が最も新しいことを暗示するのではなかろうか。また当社について六国史にまったく記載がなく、これも不思議な現象とみるべきであろう。

 これらのことからみて、当社の創建は、能登国が越中国から分立した天平宝宇元年頃(あるいはそれ以降)に新しい越中国の一の宮として創建されたとするのが妥当であろう。

 なお、当社の元宮である能登国の気多大社の由緒等については、別稿・気多大社(石川・羽咋市)参照。

◎一の宮
 通常、一国に一社であるはずの“一の宮”が、越中国には4社(射水神社・気多神社・高瀬神社・雄山神社)もあるが、式内社調査報告は、
 ・能登国が越中国に併合されていた時期の一の宮は、能登郡羽咋の気多大社が一の宮で、射水郡二上の射水神社(イミズ)が二の宮であった。
 ・能登国の分立以降、二の宮であった射水神社が一の宮とされたが、
 ・国府射水郡(伏木)近くに能登の気多神社が勧請されたことから、射水・気多両社間で争いが起こり、一の宮の地位が気多神社へと移った。
 ・その傍証として、白山記(1291書写・加賀国白山比咩神社所蔵)
  「能登国が聖武天皇御時・神亀年中(天平年中の誤り)に立国したので、それまで越中国二宮であった二神神社(フタカミ・射水神社)が越中国一宮となった。
  その後、越中国に新気多(気多神社)が祀られ、二神と一宮を争ったが、二神には力なく、新氣多が越中国一宮となった」(大意)
という。

 ・高瀬神社を一の宮というのは、平安末の一時期、国府が砺波郡(トナミ)に移されたことから、砺波郡の高瀬神社が一の宮を名乗るようになったのではないか。
 ・南北朝中頃(14世紀中頃)の編纂とされる神道集に、「立山権現 越中一の宮」とあり、中世のある時期、立山信仰の隆盛に伴い、その中心である立山権現(雄山神社)が一の宮とみなされていたらしい。
といわれ、時代の推移に伴う各社勢力の盛衰によって一の宮の地位がかわっていったことが窺われる。

 越中国においては、古くは射水神社が一の宮だったが、その地位を気多神社が奪い、中世から近世にかけて、越中一の宮であり日本国六十六部之経堂(中世頃から流行した六十六部巡礼が参詣して法華経を納める霊場-通常一の宮を充てる)であったことが、いろんな史料にみえるという(式内社調査報告)

◎名神大社
 延喜式神名帳には、「越中国 十三座 大一座 小十二座」すなわち大社(名神大社)は一座と記されているが、今、一般にみられる神名帳には、名神大社として当社と射水神社の2社が記されている。

 これについて、式内社調査報告は、
 射水神社を名神大社とするのは出雲本(書写年次不明)のみで、従来、これが信じられていた、
 しかし、後に発見された現存する最古の写本・九条家本(平安末~鎌倉初頭の写本)や宮内省図書寮本(江戸初期の写本)には、気多神社の下に「名神大」とあり、射水神社には何も記していない。
 また、富山県神社祭神御事歴(大13・1924)
  「気多神社 名神大 出雲本延喜式に射水神社を以て名神大社とするは非なり、今九条公爵家巻子本及び図書寮所蔵写本に拠りて改む
との注記があり、これらのことから、越中の名神大社一座とは気多神社を指すとしてよかろうという。

※祭神
 略記によれば、当社祭神は
   主祭神--大己貴命(オオナムチ)--又の名 大国主神(出雲大社祭神)・大穴牟遅神・八千矛神
          奴奈加波比売命(ヌナカワヒメ)--奴奈加波神社(糸魚川市)の祭神、大己貴命の妻神、八千矛神との問答歌の相手
   相殿神--事代主命(コトシロヌシ)--大己貴命の御子
          菊理媛神(ククリヒメ)--加賀国白山比咩神社(石川県白山市)の祭神
という。

 当社が能登の気多大社を勧請したものであることから、主祭神をオオナムチとするのに異論はないが、延喜式に祭神一座とあることからみると、ヌナカワヒメは後世に合祀されたものであろう(能登の気多大社の祭神にはヌナカワヒメの名はない)

 ヌナカワヒメ(沼河比売とも記す)とは古事記にのみ登場する女神で、八千矛神(ヤチホコ、オオナムチの別名)が高志国(コシノクニの沼河比売(ヌナカワヒメ)を妻にしようと高志国に出かけ、比売の家の外から求婚の歌を詠み、比売がこれに答える歌を返して、翌日の夜に結ばれたとある。
 オオナムチの数多い后神のなかで、当社に近い糸魚川流域の女神であったヌナカワヒメを妻神として祀ったのであろう。

 相殿神のコトシロヌシ・ククリヒメと当社との間に特段の関係はみえず、当社に祀られる由緒は不明。

※社殿等

 伏木集落の西に迫る一の宮山の丘陵台地中腹の森の中に鎮座する。 
 集落の西側、丘陵の裾を南北に走る白山林道から77段の石段を登り、大鳥居をくぐり、両側に石燈籠が立つ参道(約700m)を進んだ先に又短い石段があり、その上が境内。

 境内中央に横長(間口7間)の拝殿(千鳥破風向拝付切妻造・瓦葺)が、拝殿に接続する弊殿の奥に本殿(一間向拝付三間社流造・柿葺-コケラフキ)が、いずれも東南方を向いて鎮座する。

 現本殿は、天文の兵火(1532--54、上杉謙信の越中進攻)によって焼失したものを、永禄年間(1558--70)に再建したもので、室町期の作風を残す国の重要文化財。
 昭和25年(1950)に解体修理されたという。

 現拝殿は、昭和27年(1952)に旧拝殿を境内西隅に移して倉庫とし、新たに新築されたものという。

 神社全体が深い森の中にあり、厳粛な雰囲気を漂わせる神社である。

  社殿配置図(栞より転写)
 
気多神社・鳥居
 
同・拝殿

同・本殿 

◎大伴神社

 拝殿の左(南)に大伴家持を祀る大伴神社がある。
 
 昭和60年(1985)、大伴家持の没後1200年を記念して創祀された神社で、栞には、「当社が越中国司の崇敬社(総社)であった故」とあるが、これは当社創建を養老2年とみてのことで、上記したように、家持国司時代に当社があったかどうかは疑問。

 ただ、境内右手に「越中総社跡伝承地」があることから、気多神社というより、この総社との関係で祀られたともいえるが、奈良時代には未だ総社は創祀されてなかったはずで(下記)、家持は、着任2年目に、遠く能登の気多神社をはじめとして国内の神社巡拝におもむいている(万葉集に気多大社を詠んだ歌がある)

◎越中総社跡伝承地

  境内右手(北側)、低い木柵に囲まれた中に10本ほどの高木(杉か)が聳える一画があり、東側に素木製の小型鳥居が立ち、注連縄を張った大木の傍らに「越中国総社跡伝承地」との木柱が立っている。

 奈良時代、国司が任地に入って最初におこなう仕事は、国内の有力神社全てを巡拝すことだったが(その後も、必要に応じて随時おこなわれたらしい)、平安時代になると、国府の近くにそれらの神々を合祀した神社を造営して総社と称し、そこに詣ることで、国内を回る労を省いたという

 その総社跡という伝承をもとに設けられたのが当区画だろうが、越中国の総社跡は未だ発見されておらず、ここに総社があったとする確証はない。 

     越中総社跡伝承地

同左(低い鳥居が立つ)

◎神輿殿

  拝殿と大伴神社の間に小さな舎屋・神輿殿があり、中に美麗な神輿一基と鎌倉時代の作といわれる古い木製狛犬(市指定彫刻)及び獅子舞に使われたと思われる古い獅子頭一対が納められている(偶々、神事の日であったことから氏子の方が集まっておられ、見せてもらった)

 栞に記す“神輿渡御”によれば、渡御は春期例大祭において、
  「厳粛な神事が本殿で執りおこなわれた後、御神体が拝殿前に控えている神輿にお乗りになり、渡御が始まります。
  神輿は、越中総社跡伝承地の土壇のまわりを三回半、右巡りし越中国の安泰を祈り、境内を一巡した後、御神体は神殿に戻られます。その後 にらみ獅子の奉納となります」
という。
 神輿そのものは、そう大きなものではないが金箔で美麗に飾られており、氏子8人で担ぐという。
 祭礼時の神輿は氏子地区をまわるのが通例だが、当社では氏子地区への渡御はなされていないという。その理由は不明

神輿殿 

神輿

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