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吉備津彦神社(備前)

岡山県岡山市北区一宮
祭神--大吉備津彦命
                                                                 2013.03.27参詣

 JR吉備線・備前一宮駅の南約230m、吉備の中山の北東麓に鎮座する古社で、備前国一の宮
 駅東側を出て道路を右(南東方)へ、突き当たりの左(南西方)、踏切を渡ると神池に挟まれた参道がはじまる。

※由緒

 当社の創建由緒として、次のものがある。
①吉備津彦神社略記(昭和11年発刊・平成11年復刻)
 ・概説
  岡山県備前国の西部備前備中の境・吉備の中山の麓、風光明媚の地に鎮まりまし、世に聞ゆる国弊小社・吉備津彦神社は、孝霊天皇の皇子・大吉備津彦命を奉祀して居ります。
 鎮祭の年月は詳かではありませんが、孝徳天皇(文武天皇の間違いか)の御宇、吉備国より備前国を分け置かれましてより後は、其の国の宗祀と崇め奉るに至ったものであります。

 ・御鎮座
 大吉備津彦命薨去の後 、之を中山の南麓に葬り奉り、そののち命の曾孫・加夜臣中津彦命(カヤオミナカツヒコ)の子・奈留美命(ナルミ)が近傍の地に一社を創建して、命の英霊を鎮め奉ったと伝えられていまして、之は備中の吉備津神社の起こりであります。
 之と共に、御鎮座の年代は詳かではありませんが、中山のこちら側(東側)にも大吉備津彦命を鎮祭する一社を建てて祀ったのが即ち本社の起こりで、吉備国から備前国が分け置かれましてからは、国内第一の名祠として仰がれるに至ったのであります。

②冊子・吉備津彦神社-守分宮司“あとがき”(平成19年版)
  いにしえより神々の座す聖なる山、吉備の中山、その最も高い山頂(竜王山H=170m)に元宮の磐座(イワクラ)が鎮座し、吉備の中山の南の方の山頂に前方後円墳(中山茶臼山古墳・L=120m)があります。それが吉備津彦命の御陵墓(吉備津彦命陵墓参考地-宮内庁管理)です。そして、吉備中山の東麓に吉備津彦神社の本殿があります。
  ・・・・・
 当社の古文書・備前州一宮密記(時期不明)に「人皇十代崇神天皇六十年鎮座于此国」とあり、今《平成16年》より約2040前が吉備津彦命の祭祀の始まりとなる。
 亦、吉備津彦命は、吉備の中山の神々《元宮磐座に鎮座する神々》をお祈りしながら吉備国を平定したと云う。一体吉備の中山に神々が祭られたのは何時からか、悠久三千年を超えるとも言われる。

③当社HP(ネット資料)
  当神社は古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座《神を祭る石》磐境《神域を示す列石》を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。
 第10代崇神天皇の御代に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命も、この山に祈り吉備の国を平定し、現人神として崇められました。諸民と国を愛し、永住された吉備の中山の麓の屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社のはじまりとなります。
があるが、それぞれにニュアンスが異なっている(《 》内は原注)


 ①によれば、当社の創建は備中・吉備津神社(岡山市北区吉備津、当社の西南約1km)とほぼ同時期に創建されたともとれるが、当社は、旧吉備国が備前・備中・備後の3ヶ国に分割された後(文武天皇大宝元年-701-の大宝律令制定以降)、備中・吉備津神社からの勧請分祀というのが通説。

 また②では“崇神天皇60年の鎮座”というが、これは、崇神60年以降オオキビツヒコの名が正史に登場しないことから、この年を崩御年と解したものと思われる。
 しかし、崇神60年条には、勅命をうけたオオキビツヒコがタケヌナカワワケととも出雲国に進攻し出雲振根を誅殺したとあり、この年を崩御年とするのはおかしい。

 ②③がいうように、当地には、古くから吉備の中山(竜王山・H=175m)山頂にある巨大な磐座を神顕現の聖地とする信仰があり、当社が今でもこの磐座を“元宮”と称して祭祀(5月初旬-元宮磐座祭)をおこなっていることからみて、当社の原点は、この磐座信仰であり、磐座を拝するために山麓に設けられた里宮(祭祀の度に設けられる神籬-ヒモロギ-か、当社では、神池内の亀池にある環状列石を里宮跡としている)が当社の原姿と推察されるが、その開始時期は不明。

 これに関連して、当社公式HPによれば、当社は“朝日の宮”と称されたという。それは本殿・拝殿・随神門・鳥居と結ぶ線が、真東から30度北に振っていて、夏至の朝日が射しこむ方角と一致するためで、
 当社HPには、
 「夏至の日の出の太陽が正面鳥居の真っ正面から昇り、神殿の御鏡に入ることから『朝日の宮』と称されてきた。このことは、古代太陽信仰の原点、太陽を神と仰ぎ、豊穣発展と幸運を祈る神社として吉備津彦神社が創建されたことを象徴している」
とある。

 なお、この朝日の線を西へ延長すれば、中山山頂にある磐座に達することから、当地の磐座信仰は単なる山の神信仰というより、太陽信仰を原点とするより始原的なものだったかと思われる。

 また③に、オオキビツヒコが永住した屋敷(茅葺宮)跡に社殿を建てたのが当社の始まりというが、備中の吉備津神社でも茅葺宮跡が創建の地といっている。
 茅葺宮は吉備の中山の山麓に営まれたというから、この辺りの何処かではあろうが、伝承上のことでもあり確定はできない。

 いずれにしろ、当社は、吉備の中山山頂にある磐座を神の顕現地として拝した聖地に、吉備国の総祖神と崇拝されるオオキビツヒコを加上して創建された神社で、その時期は旧吉備国から備前国が分立した大宝元年以降の何時かと思われる。

 平安時代の正史(三代実録など)には神社への神階授与の記録が残っているが、何故か当社へ授与された記録はない。また、古い公的文書の中にも当社の記録は見えず、備前国分割後の創建とはいうものの、だいぶ後世になってからのことかもしれない。


◎一の宮
 当社は備前国一の宮と称している。
 一の宮とは、律令制にいう国のなかで、社格が最も高く、朝野の崇敬があつまる神社で、通説では、国司着任後まず行うべきマツリゴトが一の宮への奉幣だったという。
 一の宮信仰は10世紀末頃に始まり(資料上での初見は、天元5年-982-の越前国司による一の宮・気比神社への参詣という)、11世紀から12世紀にかけて制度として定着したといわれ、延喜式内の名神大社から選ばれるのが通例だが、式内小社あるいは式外社(延喜式に列しない神社)を一の宮とした例、あるいは同じ国内に二つの一の宮がある例もある。

 備前国の一の宮は、唯一の名神大社である安仁神社(アニ、現岡山市東区西大寺)がなるべきところであったが、同社が、藤原純友が起こした天慶の乱(939末--941初)に荷担したため、朝廷からその資格を剥奪され、代わって、天慶の乱平定の祈願に功績のあった備中・吉備津神社が一の宮とされるに伴い、その分社である当社もまた一の宮とされたという。

※祭神
  主祭神--大吉備津彦命(オオキビツヒコ、別名-比古伊佐勢理毘古命:ヒコイサセリヒコ、書紀ではキビツヒコ)
           第7代孝霊天皇の皇子で、勅命により山陽道に進攻して吉備国を平定したという
           ただ、その時期として、古事記では8代孝元天皇の御代、書紀では10代崇神天皇の御代とあり異なっている
  相殿神--吉備津彦命(キビツヒコ)--オオキビツヒコの御子、稚武吉備津彦命(ワカタケキビツヒコ)
         孝霊天皇(7代)--オオキビツヒコの父
         孝元天皇(8代)--孝元天皇の子、オオキビツヒコの異母兄弟
         開化天皇(9代)--孝元天皇の子
         崇神天皇(10代)--開化天皇の子
         天足彦国押人命(6代孝安天皇)--オオキピツヒコの祖父
         彦刺肩別命(ヒコサシカタワケ)--オオキビツヒコの同母兄
         大倭迹々日百襲比売命(ヤマトトトヒモモソヒメ)--オオキビツヒコの同母姉
         大倭迹々日稚屋日売命(ヤマトトトヒワカヤヒメ)--オオキビツヒコの同母妹
         金山彦大神(カナヤマヒコ)--金属・鉱山の神
         大山咋大神(オオヤマクヒ)--山の神

 主祭神・オオキビツヒコについては、別稿・吉備津神社(備中)を参照のこと

 相殿神のうち、
 ・キビツヒコは、オオキビツヒコの御子で別名・稚武吉備津彦とあるが、これは孝霊記にいう若日子建吉備津日子(ワカヒコタケキビツヒコ、書紀では稚武彦:ワカタケヒコ)のことと思われる。
  ただ、ワカヒコタケキビツヒコは記紀ともにオオキビツヒコの異母弟とされ、当社がいうオオキビツヒコの御子という系譜とは異なるが、ワカヒコタケキビツヒコはオオキビツヒコとともに吉備国を平定したとされ(古事記)、当社に祀られる由縁はある。

 ・孝霊天皇から崇神天皇までは、オオキビツヒコに縁がある天皇ということで(祖父にあたる孝安天皇を祀る由縁は不明)
  ヒコサシカタワケ以下の3座は、オオキビツヒコの同母兄弟姉妹として祀られたのであろう。

 ・カナヤマヒコ・オオヤマクヒは、上記10座とは異質の神々で、
  カナヤマヒコは、古代の吉備国が製鉄製品を産出したことから、製鉄加工の守護神として、
  オオヤマクヒは、当社背後の竜王山に坐す山の神で(龍神社)
いずれも、キビツヒコ勧請以前からの在地の神として祀られたのであろう。

 ネット資料によれば、別伝として、次の神々(20柱)を祀るともいう。
   天御中主大神、高御産巣日神、神産巣日神(以上、造化の三神)天之常立神、国之常立神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、
   天照大御神(気比大明神・気比比売大神)、月読大神、素戔鳴大神、建日方別大神(ギミ双神の国生みで生まれた吉備児島の神格化)
   大山津見大神、宇迦之魂大神、大国主命、言代主命、少名彦命、神倭磐余彦天皇(神武天皇)、天津神、国津神、八百万神々

 これらの神々は、古事記にいう“造化の三神”以下の著名な神々をほぼ網羅したものだが、これらを祀る由縁は不明。
 吉備の中山山上にある磐座に鎮座する神として、これらの神々を当てたのであろうが、当社の原姿である磐座信仰における神は、素朴な山の神とみるのが妥当で、わざわざ記紀神話の神々を充てる要はない。

※社殿等

 神池中央部の東端に立つ鳥居をくぐり、左右の神池(北池に鶴島・南池に亀島あり)に挟まれた表参道を進んだ先に随神門(切妻造平入、瓦葺)
 その先、石段を上がった上に拝殿(向拝付き入母屋造・銅板葺)・祭文殿(入母屋造・銅板葺)・弊殿(入母屋造・銅板葺)が縦列し、
 その奥、正面に唐門をもつ透塀に囲まれた神域内に、本殿(三間社流造・桧皮葺)が、建つ。

 社殿の向きは東面というが、正確には東から30度北へ振っている。上記のように、この方角は夏至の朝日が昇る方角で、その朝日の光が、鳥居-随神門-拝殿を経て本殿にまで一直線に射しこむという。

 現社殿は、昭和5年の火災により、本殿・宝庫・随神門以外は悉く消失したものを、昭和11年10月に再建したものという(岡山文庫本)


吉備津彦神社・社殿配置絵図
 
吉備津彦神社・鳥居
 
同・随神門
 
同・拝殿-1
 
同・拝殿-2
 
同・祭文殿
 
同・本殿

◎攝末社
 社頭に掲げる社殿配置図では23社(当社略記によれば19社)を数える。(以下は案内図による)
 *神域内
  ・本殿の左右前方--楽御崎神社2宇(楽々森彦命・楽々与里彦命) ・岩山神社(建日方別命)
  ・本殿の左右奥---尺御崎神社2宇(夜目山主命・夜目麻呂命)
 *社殿の右方
  ・子安神社-摂社、(伊邪那岐命・伊邪那美命・木花佐久夜姫命・玉依姫命) 
  ・末社7祠--下社(倭比売命) ・伊勢社(天照大神) ・幸神社(猿田彦命) ・鯉喰神社(楽々森彦荒魂)
           ・矢喰神社(吉備津彦命御矢) ・坂樹神社(句々廼馳神) ・祓神社(祓戸神)
  ・天満宮(菅原道真)
 *社殿の左側
  ・温羅神社(温羅の和魂) ・十柱神社(吉備海部直祖他9柱) ・牛馬神社(保食神) ・祖霊社当社社家の祖霊)
  ・卜方神社(輝武命・火星照命之末社) ・稲荷神社(倉稲魂神)
 *神池の左右
  ・亀島神社(市寸島比売命) ・鶴島神社(住吉四神)
 *吉備山山頂
  ・龍神社(八代龍王)
 祭神個々の鎮座由緒等は不明だが、記紀神話に出てくる神々と、地元に残る温羅伝説にかかわる神々が祀られているらしい。

*参考資料
 ・日本の神々2-1984  ・吉備の古代史-門脇禎二1992 ・吉備の古代王国-鳥越憲三郎1974
 ・吉備津彦神社略記-1999復刻叛  ・備前一宮吉備津彦神社-2002

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