トップページへ戻る
吉備津神社(備中)へリンク

吉備津神社(備後)

広島県福山市新市町宮内
                  祭神--大吉備津彦命                                                                                            2013.03.27参詣

 JR福塩線・新市駅から県道26号線を約1.5kmほど北上した西側に鎮座する。
 近世までは吉備津彦大明神・一の宮大明神・吉備津宮・吉備津彦神社などと呼ばれ、現社名は明治以降という。
 備後国一の宮の社格を誇るが、延喜式内社ではない(備中・吉備津神社-式内社-の分社であるためであろう
 参道入口の東側に神池があり、北東角に小祠・胡神社があり、池の北側に厳島神社が鎮座する。

※由緒
 
参詣の栞によれば、
 「備後国総鎮守一宮、御祭神は吉備津彦命を奉齋してあります。一宮(イッキュウ)さんと親しみをもって呼ばれています。
 第七代孝霊天皇の皇子で、第十代崇神天皇の御代四道将軍に任ぜられ、山陽道に派遣されて人民を愛撫して、農業に海陸の交通に、地方開拓に偉大な功績のあった吉備開国の恩恵神であります。
 大神の御高徳を仰ぎ尊んで、初めて宮内にお祀りしたのは、平安時代第五十一代平城天皇の大同元年(806)であります」
とある(境内にある案内もほぼ同意)

 栞には、大同元年の創祀というが、通説では、大宝律令(701・飛鳥時代末期)制定にともない、旧吉備国が備前・備中・備後の3ヶ国に分割された後、備中・吉備津神社を勧請分祀して創建されたといわれるが、その分祀時期は不明。
 3ヶ国分割以降ということでは、上記栞にいう“大同元年創建”もあり得るが、確証はない。

 ただ、当地に残る江戸時代の地誌・福山志料(1809・江戸後期)には、
 「今按ずるに、はじめ吉備の中山にのみ鎮座ありしを(備中・吉備津神社)、三国に分かれし時、各国にわかち祭りし由伝われとも、延喜式に備中のみ見えて前後の国はのせず。国内最大の社にて其の数に洩れしをみれば、延喜以降にわかれ玉ひしなるべし」
とあり(日本の神々2・1984)、10世紀以降の創建とみている。

 備後国の最有力神社である当社が式内社でないことからすれば、この疑問は起こりうることだが、延喜式編纂の頃には、当社は備中・吉備津神社(旧吉備国の総鎮守)の分社と理解されていたとすれば、式内社に列しないことはあり得ることで、これを以て、当社創建は延喜式制定後と断定はできない。

 福山志料によれば、当社の初見は永万元年(1165)の神祇官年貢進納諸社注文字なる古文書とあり(久安4年-1148-の八坂神社文書ともいう)、当社は12世紀前半(平安後期)にあったことは確かといえる。
 ただ
 ・同じ福山志料に、「かつての鎮座地は芦田郡土生村用土(当社の西約4km・現府中市土生町-ハブ町-付近か)」とあること(日本の神々2・1984)
 ・当社旧由緒に、境内から12世紀以前の遺物が確認されていないとあること
           (古遺物が出土しないことは、当地には何も建っていなかったことを意味する)
などを勘案すれば、当社は、備後国が分立した8世紀以降のいずれかの時期に芦田郡土生村の地に創建され、12世紀前半頃に現在地に遷座したとも推測される。

 その後の経緯ははっきりしないが、
 ・源平争乱のとき平家方に荷担したため、鎌倉初期には一時社領ち没収
 ・永仁5年(1297) 六波羅探題から、社領16000貫寄進
 ・寛喜元年(1229) 社殿焼失
 ・元弘2年(1332) 社殿焼失(下記)
 ・永和年間(1375--79) 社殿再興
 ・慶安元年(1648) 社殿造営(現社殿)
という(日本の神々2)

※祭神
  主祭神--大吉備津彦命(オオキビツヒコ)
           孝霊天皇の皇子で、崇神天皇の御代、四道将軍の一人として山陽道に派遣され吉備国を平定したという
  相殿神--大日本根古彦太瓊命(オオヤマトネコヒコフトニ)-第7代孝霊天皇(オオキビツヒコの父)
          細比売命(クワシヒメ)--孝霊天皇皇后(オオキビツヒコの実母ではない)
          稚武吉備津彦命(ワカタケキビツヒコ)--大吉備津彦命の異母弟(キビツヒコとともに吉備国を平定したという)

 当社が備中・吉備津神社からの勧請分祀ということから、主祭神は同じだが、相殿神は異なっている。
  (大吉備津彦・稚武吉備津彦の出自・事蹟などについては、「吉備津神社・備中」参照のこと)

※社殿等
 県道東側にある御池の向かいから西へ参道進み(角に胡神社との祠あり)、横断する道路を渡った先に鳥居(慶安元年-1648-水野勝成寄進)が立つ。
 鳥居を入った少し先に下随神門が、参道の突き当たり石段を上がった上に上随神門が建つ。
 上随神門背後の石垣上に拝殿、その先に神楽殿(県指定重要文化財)、最奥に本殿が東面(正確には東南東)して建つ。 

 ・本殿--正面に間口3間の向拝(千鳥破風・唐破風あり、間口3間)が付いて入母屋造平入・桧皮葺、 (間口7間-18.5m桁行4間-907m)
        現本殿は、慶安元年(1648)、福山藩主・水野勝成公の造営(参詣の栞)
        国指定重要文化財(昭和40年指定)
        正面に掲げる扁額には、社名ではなく“虎睡山”(コスイザン)とある。
        背後の山名からのものだろうが、明治以前の神仏混淆時代の名残ともいえる。

 ・拝殿--割拝殿(間口5間・桁行4間)、切妻造平入・銅板葺

  ・随神門(上・下2宇)--入母屋造・瓦葺き、
   参詣の栞によれば、
   「全国で随神門が二つあるのは当社のみで、10月神無月に全国の神々が出雲大社に集合されたとき、吉備津彦命のみが    欠席したので、心配した大国主命が二人の使者を派遣したところ、備後国は大祭の最中で、二人の使者は歓待をうけ、以後   吉備津彦の親衛の門番として仕えるようになり、上下の随神門が造られた、との伝承がある。以後、備後国は10月を神有月   という」(大意)
  とある。
  栞は、2棟の随神門があるのは当社のみというが、本宮である備中の吉備津神社にも二つの随神門がある。

 
吉備津神社(備前)・社殿配置図
 
吉備津神社(備後)・大鳥居
 
同・下随神門

同・上随神門 
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・神楽殿

◎境内社
*本殿右手(東側)
  ・十麻里二柱神社(トマリフタハシラ-トマリフタとはトアマリフタで12の古い読み方)--大吉備津彦命の親族12柱
    社殿の右隣に鎮座する社で、傍らの案内には、
     「石州街道の宮内の地に吉備津彦命と共に古くから旅人の安全を守るため御親族12柱を祀る」とある
  ・その右に、疱瘡神社(少名彦名命)・武内神社(武内宿禰命)・厩戸皇子神社(聖徳太子)・吉備津天満宮(菅原道真)・祖霊社(社家祖先の霊)の5祠が南北に並ぶ。
  鎮座由緒・時期等不明

*本殿左手(西側)--緩やかな坂の上に鎮座する
  ・多理比理神社(タリヒリ)
    延喜式神名帳に「備後国品治郡 多理比理神社」とある式内社でが、その由緒・祭神名等は一切不明。
    傍らの石碑には、祭神:息長帯姫神(神功皇后)・息長帯日子王とあるが、これが本来の祭神かどうかは不明。
    嘗ては品治郡服部村大字服部本郷神子原(現福山市駅屋町服部・当社の西北5kmの辺り)にあったが、いつの頃か当社内に遷座したという
  ・十二神社--吉備津彦命の親族12柱の神+大名持命(大国主命)
    多理比理神社の左手、石段を登った上に鎮座する。石段下の鳥居には“大名持神社”とある。
    参詣の栞には、「厄払いの神として崇敬され、毎年厄落としの方々がお参りされています」とあり、願掛け・厄よけの神という
  ・多理比理神社の下に、真名井神社(御井神)・山雷神社(雷神)の祠がある。鎮座由緒・時期等不明

*参道途中
  ・桜山神社--桜山茲俊命(サクラヤマコレトシ)他23柱
    桜山茲俊とは、後醍醐天皇が鎌倉倒幕を企てたとき(元弘の乱・1331--33)、東の楠正成と呼応してこの地で義兵を挙げ一時は近隣を制圧したが、正成の籠もる笠置が陥ち正成戦死との誤報が伝わり将兵の離散が続いたため、翌2年の1月自ら妻子を刺殺し、社殿に火をかけ一族郎党23人と共に自刃した武将。
    創建時期は不明だが、鎮座地は旧神宮寺跡というから、明治初年の神仏分離により寺が破却された後と思われる。
    参道東側の広場の奥に拝殿(切妻造・瓦葺)・本殿一間社(流造・瓦葺)が西面して建つ。
  ・参道西側に、大山祇神社(大山祇神)・秋葉神社・四所神社があるというが未見。

*境外社
  ・胡神社(蛭子神-エビス神)--参道と県道の交差点北東角に鎮座する小祠、
  ・厳島神社(宗像三女神)--道路の反対側、御池の北東角に鎮座(不参詣)

 
境内社・十麻里二柱神社
 
同・疱瘡神社
(武内・厩戸・真名井・山雷社も同形)
 
同・吉備津天満宮
 
同・多理比理神社

同・十二神社
 
同・桜山神社本殿

トップページへ戻る