トップページへ戻る

吉備津神社(備中)
岡山県岡山市北区吉備津
祭神--大吉備津彦命
                                                                 2013.03.27参詣

 延喜式神名帳(927)に、『備中国賀屋郡 吉備津彦神社 名神大』とある式内社で、旧備中国の一の宮。

 古代律令制下の備前(岡山県東南部)・備中(岡山県西部)・備後(広島県東部)3ヶ国には、それぞれに“吉備津”を名乗る神社があり、当社はその総本社とされる。

 JR岡山駅の西方約5kmほどに位置する独立峰・“吉備の中山”の西麓北寄りに鎮座し、JR岡山駅から分岐する吉備線・吉備津駅の南東約600mに当たる。
 吉備の中山は旧備前・備中両国の境(東側が備前、西側が備中)に位置する山で(周囲8km、最高峰・竜王山H=175m)、古くは“歌枕”として知られていた。山上には吉備津彦尊の陵墓参考地(明治7年指定、宮内庁管理)とされる中山茶臼山古墳(前方後円墳、L=120m、4C初の築造と推定、被葬者不明)があり、北東麓には備前国一の宮である吉備津彦神社が鎮座している。

※吉備津彦命(キビツヒコ)

 古事記・日本書紀(以下、記紀という)によれば、キビツヒコは孝霊天皇の皇子で、
 ・古事記--比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリヒコ) 亦の名・大吉備津日子命--吉備上道臣の祖也
         異母弟--若日子建吉備津日子命(ワカヒコタケキビツヒコ、若建吉備津日子ともいう)--吉備下道臣・笠臣の祖也
 ・書紀---彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコ) 亦の名・吉備津彦命
         異母弟--稚武彦命(ワカタケヒコ)--吉備臣の祖也
とあり、その事蹟として
 ・古事記
   孝霊天皇段--孝元天皇の御世、オオキビツヒコ命とワカタケキビツヒコ命の2柱が、播磨の氷河(ヒカワ・加古川に比定)の前(サキ)に斎瓮(イワイベ・神事用の祭具-甕)を据えて神を祀り、播磨国を道の口(入口)として吉備国を平定された。
 ・書紀
   崇神天皇10年9月9日--(遠国の人を王化に従わせるために)大彦命を以て北陸に、武渟川別(タケヌナカワワケ)をもて東海に、キビツヒコをもて西道(山陽道)に、丹波道主命(タニワノミチヌシ)をもて丹波に遣わされた(四道将軍の派遣)
   同10年9月27日--(武埴安彦-タケハニヤスヒコ-が謀反を企て、タケハニヤスヒコは山背から、妻・アタヒメは大坂から都を襲おうとしたので)天皇は、キビツヒコを遣わして、アタヒメの軍を討たせた。キビツヒコは大坂で迎え撃ってこれを破った。
   同11年4月28日--四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告した。
   同60年--(出雲振根-イズモフルネ-が、弟・飯入根-イイイリネ-が自分の留守中に出雲の神宝を朝廷に献上したことを怒ってこれを殺したと、イイイリネの子らが、その様子を朝廷に知らせてきた)、そこでキビツヒコと武渟河別(ヌナカワワケ)とを遣わして、イズモフルネを殺させた。
とあり、古事記と日本書紀とで孝元期(8代)・崇神期(10代)という違いはあるが、いずれも孝霊天皇(7代)の皇子であるキビツヒコが命をうけて吉備の国を平定したという。

 キビツヒコの吉備国平定後の事蹟について、社伝によれば、
  「キビツヒコは吉備の中山の麓に“茅葺宮”(カヤフキノミヤ)を造って住み、281歳の長寿を保って茅葺宮で崩じた」
というが、記紀には、キビツヒコが吉備国に土着定住したことを示唆する記述はない。

 一方、書紀・応神天皇22年条には、
 「(春3月、天皇の后・吉備の兄媛-エヒメ-が父母を恋しがって里に帰ったので)秋9月、天皇は淡路に狩りをされ、淡路から吉備の小豆島に遊ばれ、そこから葉田の葦守宮(備中国賀屋郡足守・現岡山市下足守に比定)に移られた。
 そのとき御友別(ミトモワケ)が参上し、子孫を膳夫(カシワデ・料理掛)として饗応した。天皇はミトモワケが畏まり仕える様をみて喜ばれ、吉備国を割いてその兄弟・子弟に分け与えられ(下表)、また織部(ハトリベ・織物を業とする職業部、機織部・服部部とも記す)を兄媛(ミトモワケの妹)に賜った。その子孫はいまも吉備国にいる」(大意)

(氏  名)  (続  柄)  (封  地)  (国 名)  (系  譜) 
  稲速別 (イナハヤワケ)  ミトモワケの長子   川嶋県
  (カワシマノアガタ)
 
備中国   下道臣の祖→下道国造 
  仲 彦 (ナカヒコ)   同    次子   上道県
  (カミツミチノアガタ) 
備前国   上道臣・香屋臣の祖→上道・加夜国造 
  弟 彦 (オトヒコ)   同    末子   三野県
  (ミノノアガタ) 
備前国   三野臣の祖→三野国造 
  浦凝別 (ウラコリワケ)  ミトモワケの兄   苑 県 
  (ソノノアガタ)
備中国   苑臣の祖 
  鴨 別 (カモワケ) 同     弟  波区芸県
  (ハクギノアガタ) 
備中国   笠臣の祖→笠臣国造 

とあり、古代の吉備国(備前国・備中国)にはミトモワケを首長とする一族(以下、吉備一族という)があって、応神天皇によって、その一族が吉備国内の各地に封じられたという(国造補任は先代旧事本紀による)

 これは、吉備一族が古くから伝えてきた家系伝承を、応神天皇による分封という形で記したものと思われ、本来の姿は、高梁川を挟む地域(後の備中国)を支配下に収めた吉備一族が、
 ・その本貫の地である高梁川東部(川嶋県)をミトモワケが、
 ・西部の(苑県・波区芸県)を兄弟であるウラコリワケとカモワケとが統治し、
 ・東方(後の備前国)への拡大にともないミトモワケの子供であるナカヒコ(上道県)とオトヒコ(三野県)に分割統治させた(長子のイナハヤワケは川嶋県を継承)、のではないかともいう。

 その真偽は不明だが、当地に、系譜の中心に位置する始祖的人物であるミトモワケが本貫の地(下道臣の領域)に座り、その一族が備中・備前両国を分割統治したとの伝承があったのは確かであろう。

 記紀によるかぎり、キビツヒコとミトモワケとの繋がりははっきりしないが、両者をつなぐと思われる人物として、古事記・景行天皇条に、
 「天皇は、ヤマトタケルに『東方十二カ国の荒ぶる神や服従しない人々を平定し従わせよ』と命じて、吉備臣等の祖・御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)を副えて遣わされた」
と、吉備臣等の祖として“ミスキトモミミタケヒコ”なる人物名が記され、同じことが、書紀・景行天皇40年条には、
 「(ヤマトタケルの東征に際して)天皇は吉備武彦(キビタケヒコ)と大伴武日連(オオトモタケヒノムラジ)とを、ヤマトタケルに従わせられた」
と、“キビタケヒコ”の名で登場しており、この両名は同じ人物であろう(以下、キビタケヒコという)

 このキビタケヒコは、ヤマトタケル東征条にのみ登場する人物で、キビツヒコとの系譜的繋がりは記されていないが、新選姓氏録(815)には、
 ・左京皇別  下道朝臣  孝霊天皇の皇子・ワカタケヒコ命の孫・キビタケヒコ命の後なり
 ・右京皇別  廬原公   ワカタケヒコ命の後なり 孫・キビタケヒコ命 
                  景行天皇御代東方に遣わされ毛人及び鬼神を伐つ・・・
 ・右京皇別  真髪部   ワカタケヒコ命の男(子)・キビタケヒコ命の後なり
と、異母弟・ワカタケヒコの後裔とあり、

 また、ワカタケヒコとミトモワケとの繋がりついては、
 ・右京皇別  吉備臣  孝霊天皇の皇子・ワカタケヒコ命の孫・ミトモワケ命之後なり
 ・右京皇別  笠臣   ワカタケヒコ命の孫・カモワケ命(ミトモワケの弟)の後なり
とあり、キビツヒコの異母弟・ワカタケヒコの子あるいは孫という。
 
 姓氏録によるワカタケヒコとキビタケヒコの関係には、一部混乱はあるものの、吉備一族ではワカタケヒコ--キビタケヒコ--ミトモワケと連なると認識されていたと思われ.る(当社ではキビタケヒコはワカタケヒコの御子としている)

 それを傍証するものとして、三代実録(901)の陽成天皇元慶3年(879)10月22日条に、
 「左京の人・印南野臣(イナミノオミ)宗雄らに笠朝臣を賜った。それは、宗雄自身が、『キビタケヒコ命の第二男・ミトモワケ命十一世の孫・人上(ヒトカミ)、天平神護元年(765)に居地の名をとりて印南野臣の姓を給ふ。第三男・カモワケ命は是れ笠朝臣の祖なり。兄弟の後は宜しく同姓たるべし』と奏上したことによる」(大意)
との記録があり、吉備一族には“キビタケヒコはミトモワケの父”との伝承があったことが窺われる。

 なお当記録は、当時の朝廷に出仕する吉備一族のなかで、笠朝臣がもっとも盛んであったことから、印南野臣と笠朝臣両氏族の先祖がキビタケヒコを父とする兄弟であるとの伝承を根拠に、印南野臣の姓を朝臣に改めてほしいと奏上し、それが認められたことを示すものという(当時の姓制度では、朝臣は2位・臣は6位と差があり、氏族を格づける姓の上下が朝廷での出世に連なったという)

 これらを基に、キビツヒコからミトモワケ一族に連なる系図を想定すれば、次のようになる。
 

 この系譜からみると、キビツヒコ・ワカタケヒコからミトモワケまでは3世代となっているが、書紀によれば孝霊天皇から応神天皇までは9代でを数え、年代的に平仄が合わない。
 そのことから、系図の前半、キビツヒコからキビタケヒコまでの系譜(神話的系譜)と、後半の吉備一族に伝承されていたミトモワケを宗主とする系譜(現実的系譜)とは、本来別々のものとみるのが妥当で、その両系譜を政治的意図のもとに結びつけたのがこの系図であろう。

 古代の地方豪族の系譜について、書紀が編纂され唯一の正史とされた後、地方の豪族(国造)たちは、自家に伝承してきた系譜を書紀にいう神あるいは人物(天皇・皇族)と結びつけることで、朝廷における地位を高めようとしたという。
 そのような流れのなかで、吉備一族も、自家の祖先を、吉備国を平定したとはいうものの子孫系譜が不明で自由度の高いキビツヒコ・ワカタケヒコの2皇子に求めたもので、これによって吉備一族は、朝廷内の有力豪族や皇室に連なるとされる氏族などに与えられる高い姓(カバネ)である“臣”(オミ)の姓が与えられたという(その後、天武13年に新たに制定された「八色の姓」でも、第2位・朝臣の姓が下道臣・笠臣に与えられている。11月1日条)

 上記系図にみるかぎり、吉備一族の祖神はワカタケヒコであってキビツヒコではない(古事記では、キビツヒコは吉備上道臣の祖とあるが、これは香屋臣(上道臣)が恣意的に自家の祖神としてキビツヒコと結んだものではないかという)
 氏神社とはその氏族の祖神を祀るのが通例なのに、吉備一族の氏神社とされる当社が祖神でないキビツヒコを主祭神とするのは異例ともいえる。

 これにかかわって、吉備の古代王国(鳥越憲三郎・1974)
 ・古事記に、“キビツヒコとワカタケヒコの2柱が、播磨の氷川(現加古川)の前に忌瓷(イワヒヘ・祭具)を据えて神を祀り、播磨の道の口(入口)として吉備国を平定された”とあるが、
 ・古代の戦いは、双方が奉齋する神と神との戦いでもあり、キビツヒコが大和勢力圏と吉備勢力圏との境界であった播磨の氷川の畔で行った神事とは、吉備侵攻の成功を神に祈願したもので、それは、氷川西部地域まで広がっていた吉備の神に対する宣戦布告でもあった。
 ・また、征討軍の将軍として二人の名があげられている場合は、上位にある一人が神官として祭事を司祭し、他の一人が武将として軍事を指揮したことを示し、通常、第一子が重要なマツリゴトである祭事を、次子が軍事を担当した。
   (皇位継承においても、第一子が祭祀を担当し、第二子が皇位を継承したとの事例がある--綏靖天皇紀他)
 ・そして、第一子は現人神として聖なる生活を守り、妻を娶らず、そのために子孫はない
 ・これを吉備平定に当てはめた場合、キビツヒコは神事を司る祭祀権者であり、聖なる人であったことから子孫はなく(ただ、伝承では后・子供があるという)、実戦の指揮を執り平定後の政事をおこなったワカタケヒコが、吉備一族直接の祖神とされたのであろう、
という。

 また、当地に残る伝承では、
 ・キビツヒコは281歳の長寿だったとあり、
 ・温羅伝承(下記)では、鷹や鵜へ化身し、雉や鯉となって逃げる温羅を追った
とされるなど、超人的な人物として描かれていることから、キビツヒコとは神話上の人物とみるのが順当であろう(孝霊天皇の実在も疑問視されている)
 そんなキビツヒコが、記紀において吉備国を平定したと皇子とされることから、当地に平和をもたらし開拓を指導した恩恵神・総祖神として、吉備一族によって祀られたのであろう。

◎温羅(ウラ)伝説
 当社には、キビツヒコの鬼退治として次の伝説がある(以下、概略)
 垂仁天皇の御代、異国から温羅(別名・吉備冠者、百済の王子ともいう)なる鬼神が吉備国に到来し、都への貢納物を略奪し婦女子を攫うなどの悪事をなしたので、人民は恐れおののいて朝廷にその暴状を訴えた。
 そこで朝廷は、武将を遣わして討伐させたが成功せず、ついにキビツヒコに温羅の討伐を命じた。
 ミコトは大軍を率いて吉備国に下り、吉備の中山に陣を敷き温羅と対戦したが、変幻自在の温羅を攻めあぐねられた。不思議なことに、ミコトの放った矢が、いつも温羅が放つ矢と空中で嚙みあい、いずれも海中に落ちた。
 そこでミコトは、強弓に二本の矢をつがえ一度に放たれると、一本はいつものように温羅の矢と嚙みあって海中に落ちたが、残りの一本が温羅の左目に当たった。負傷した温羅は雉と化して山中に隠れたが、ミコトは鷹となって之を追い、温羅が鯉となって川に潜ると、ミコトは鵜となってこれを噛みあげた。
 絶体絶命の温羅はついにミコトの軍門に降り、己の吉備冠者の名をミコトに奉った。それからミコトは吉備津彦と改称された。
 ミコトは温羅の頭を刎ね串に刺して曝したが、この首は何年たっても大声を発して唸りつづけ止まなかった。そこで吉備津宮の釜殿の下八尺を掘って埋めたが、なお13年間も止まず、近隣に鳴り響いた。(以下、御釜殿の鳴釜神事由来へと続く-下記)

 この伝承にかかわって、岡山市金山寺に残る“備中国吉備津宮勧進帳”(1583室町末期、吉備津神社回廊再建のための勧進帳)なる古文書の吉備津神社の縁起・由緒が温羅伝説を骨子としていることから、遅くとも室町末期には今知られているような形で成立していたらしいという(岡山文庫本)

 この温羅伝説について、大林太良氏は
 「吉備津彦と温羅がそれぞれ動物に姿を変えて相争うのは、扶余や駕洛の神話にもでてくるモチーフであって、内陸アジアからさらにヨーロッパにまで連なるものである。この場合、直接的にはやはり朝鮮半島の神話との関係を考えるべきであろう」
という(私の一宮巡詣記・2001)

 なお、この温羅伝説が巷間に親しまれている物語・“桃太郎”の原形という。

※由緒
 境内に掲げる当社案内によれば、
 「記紀によれば、崇神朝、四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られた大吉備津彦大神(別名:五十狭芹彦命)を祀る山陽道屈指の大社、
 仁徳朝創建で、延喜式では名神大社、まち最高位を与えられ一品吉備津神社とも称される。
 古来、吉備国(備前・備中・備後・美作)開拓の大祖神として崇敬され、殖産興業交通安全の守護神、延命長寿の霊験あらたかな神として朝野の信仰があつい」
とある。

 また、当社公式HP(ネット資料)によれば、
 「当社は大吉備津彦命を主神とし、その異母弟の若日子建吉備津日子命と、その子吉備武彦命等、一族の神々を合わせ祀っております。大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子にあたられ、もとの名前を五十狭芹彦命と申し上げ、武勇の誉れ高いお方であります。

 一説によりますと、第十代崇神天皇の御代、災害もなくなり天下も治まってきましたが、都から遠く離れた地方には未だ朝廷に従わない者が多数おりました。そこで天皇即位十年に皇族の中から四人の将軍を選び、印綬を授け各地方に派遣し討伐することになりました。すなわち、北陸道には大彦命、東海道には武渟別命、丹波には丹波道主命、そして西道のちの山陽道には大吉備津彦命が派遣されることになりました。吉備津彦命と異母弟若日子建吉備津彦命は兵を率いて山陽道を進軍し、まず播磨国に達してここを「吉備の道の口」と定められ加古川の畔で神事を行っております。

 当社がいつごろ誰によって造営されたのかについては、文献がなく確かなことはわかりませんが、ただ言い伝えによると、一説に吉備津彦命から五代目の孫にあたる加夜臣奈留美命(カヤオミナルミ)という人が、祖神として吉備津彦命をお祀りしたのが起源であると伝えられております(以下、①説という)
 (注--資料によれば、加夜臣奈留美はキビツヒコが住んだ茅葺宮の跡に社殿を造営したともいう)

 また一説--若建日子吉備津彦命(=ワカタケヒコ)から三代目の孫と伝える稲速別命・御友耳命・鴨別命が初めて社殿を造りお祀りしたとも云われます(以下、②説という)

 さらに一説--仁徳天皇が吉備海部直の娘である黒媛を慕って、この地に行幸したときに、吉備津彦の功績を聞き称えるために社殿を創建してお祀りしたのが起源とも伝わっております(以下、③説という)
と詳しく記されている。

 HP前半は、記紀にいうキビツヒコの出自・事蹟を述べたもので、大筋として問題はないが、古事記の記述と書紀のそれとが混在している。
 なお、最後尾にいう“吉備の道の口”とは、
 ・播磨国から吉備国への入り口を指し、古く、吉備国の勢力が播磨国のほぼ中央部を南流する加古川(古事記では氷川)の西側にまて及んでいたことを示唆するという
 また、“加古川の畔で行った神事”とは、
 ・古代の戦いは、人間同士の戦いであるよりまえに、両者が信奉する神と神との戦いでもあり、この神事は、キビツヒコ率いる大和軍の吉備侵攻に先立って、両国の境界である当地で大和の神々を祀りその加護を願ったもので、それは吉備の神に対する宣戦布告でもあったという。
 この神事に際して、神官として祭祀を司ったのがキビツヒコと思われる。

 後半の当社創建伝承について、
 ①説にいう“加夜臣奈留美命”(カヤノオミナルミ)とは系譜には見えない人物だが、加夜臣とあることから、ミトモワケの第二子・ナカヒコを祖とする香屋臣(カヤオミ、賀屋臣・加夜臣とも、後の加夜国造)の一族であろう。
 (このカヤオミナルミ命を、出雲国造神賀詞で大和飛鳥に鎮座せしめたカヤナルミ神の擬人化ではなかとする説がある。古代における吉備と出雲の関係からみて無視はできないが、香屋臣の一族とみるのが順当であろう)
  香屋臣は宗主・ミトモワケの第二子・ナカヒコを祖とする上道臣から分かれた一族で、吉備一族の本宗家である下道臣が雄略朝に起こした反乱(雄略紀7年8月条)によって没落した後、その所領地(吉備一族の本貫地・川嶋県)は分家した香屋臣(加夜国造)に与えられたといわれ、それ以降、吉備津神社の祭祀は香屋臣一族の者(後の賀陽氏)が携わっていることから、そのなかで、当社の創建者を自家の祖先(加夜臣ナルミ)に当てたのであろうが、カヤオミナルミが創建したとする確証はない。

 ②説では、ワカタケヒコの3代の孫としてイナハヤワケ・ミトモワケ・カモワケ命をあげるが、上記のように、3代目の孫はミトモワケとカモワケ(ミトモワケの弟)で、イナハヤワケは4代目(ミトモワケの長子)となる。
 創建者としてこの3人をあげる理由は不明だが、ミトモワケが吉備一族の宗主(始祖)であり、イナハヤワケを祖とする下道臣とカモワケを祖とする笠臣が、八色の姓制定(天武朝)に際して朝臣(第2位)の姓を賜っていることから、それ以降に作られた伝承かもしれない。

 ③説にいう仁徳天皇云々(社頭案内にいう“仁徳朝創建”も同じ)とは、古事記・仁徳天皇段に
 「天皇は、吉備の海部直(アマベノアタイ)の娘・黒日売(クロヒメ)が美しいとお聞きになって宮中に召し入れられたが、クロヒメは皇后の嫉妬を恐れて故郷の吉備へ逃げ帰った(皇后・イワノヒメは非常に嫉妬深かったという)
 天皇は、そのクロヒメを恋しく思われて、皇后に“淡路島に行く”といって淡路島に渡られ、そこから島を伝わって吉備国においでになった。
 天皇を迎えたクロヒメは、その国の山畑の所にご案内して、お食事を差し上げ、天皇が都に帰って行かれるとき、お互いに相聞歌を取り交わされた」(大意)
とある伝承をうけたものだろうが、
 そこには、天皇が恋しいクロヒメに会うために吉備に行き、そこでクロヒメから饗応をうけたとはあるものの、当社の創建にかかわる記述はなく、この伝承をもって創建由緒とすることはできない。

 以上、創建時期にかかわる記述はいずれも伝承の域を超えず、延喜式(927制定)に列していることから10世紀初頭以前からあったのは確かだが、その時期は不明とすべきであろう。
 なお、社務所で販売している岡山文庫・吉備津神社(1973、以下、岡山文庫本という)も、上記3説を挙げて、「いずれが正しいか、いま確証はない」と記している。

※祭神
 当社は、正宮(正殿・本殿ともいう)・本宮・新宮・内宮・岩山宮からなり、古くは、5社を総称して吉備津五社大明神ともいった。

 【正宮】
  主祭神   大吉備津彦命(オオキビツヒコ)
  配 祀   千々速比売命(チヂハヤヒメ)--キビツヒコの異母姉
            
倭迹々日百襲比売命(ヤマトトトヒモモソヒメ)--キビツヒコの同母姉(崇神朝における最高位の巫女で、箸墓の被葬者という)
         日子刺方別命(ヒコサシカタワケ)--キビツヒコの同母兄(越国の利波臣等の祖)
         倭飛羽矢若屋比売命(ヤマトトビハヤワカヤヒメ)--キビツヒコの同母妹
         日子寝間命(ヒコサメマ)--ワカタケヒコの同母兄(播磨の牛鹿臣の祖)
         若日子建吉備津彦命(ワカヒコタケキビツヒコ)--キビツヒコの異母弟・ワカタケヒコ(吉備臣の祖)
         御友別命(ミトモワケ)--吉備一族の宗主(始祖的人物)
         中津彦命(ナカツヒコ)--ミトモワケの次子・ナカヒコ(吉備の上道臣・香屋臣の祖)

 主祭神は大吉備津彦命というが、吉備一族の直接的な祖神ではないキビツヒコを主祭神とするのは、キビツヒコが旧吉備国一帯の祖神として崇敬されていることによるのだろうが、当社の権威・社格を高めようとする政治的意図のもとに、大和朝廷の天皇系譜における諸氏の始祖とされる皇子たちのなかから、吉備に関係ありとされるキビツヒコを祖神として迎えたとも解され、これによって当社は、吉備津3社のなかで唯一名神大社に列し、吉備国一の宮としての崇敬をうけたといえる。

 配祀神8座は大きく二つのグループに分かれ、
 ・チヂハヤヒメからワカヒコタケキビツヒコ(書紀にいうワカタケヒコ)までの6座は、古事記にいう孝霊天皇の皇子・皇女たち(8代孝元天皇を除く)を祀ったもので、後世の追祀だろうという(吉備一族の祖とされるワカタケヒコは、はじめからかもしれない)

 ・残るミトモワケとナカツヒコは吉備一族の祖とされる人々で、
  ミトモワケは一族の始祖とも目され、本来の主祭神とする見方もあるように、祀られて当然といえるが、
  その御子3人のなかで第2子のナカヒコのみが祀られるのは、雄略朝以降、当社の祭祀をナカヒコの後裔氏族・香屋臣(賀陽氏)が執りおこなっていることから、その時点で、自家の祖を祭神のなかに加えたのではないかという。

【本宮】(摂社)
  祭神--孝霊天皇(キビツヒコの父)
  正宮から南に延びる回廊南端の東側にある摂社で、上記岡山文庫本には、
  「キビツヒコ在世時の茅葺宮の故地があるいは此処であるかもしれない。後に吉備津神社が発展して現在の正宮ができたので、いまの祭神(孝霊天皇)を祀ることとなったのではあるまいか」
とある。

【新宮】(摂社、正式社名・吉備津新宮社)
  祭神--吉備武彦命
  岡山文庫本には、
  「古くは、正宮の南800m余り、都窪郡吉備町字東山(現岡山市北区川入東山)にあって、キビタケヒコを祀っていた。
   明治末年、本宮社に合併され、社殿は破却されたが、昔は、回廊が本宮から南に新宮社まで伸びていて、その様子を描いた古図もある」(大意)
とある。

【内宮】(摂社)
  祭神--百田弓矢比売命(モモダユミヤヒメノミコト、キビツヒコの妃)
   元は吉備中山南部の山上に鎮座していたが、今は本宮社に合祀されている。

【岩山宮】(摂社)
  祭神--建日方別命(タケヒカタワケ、ギミ双神の国生みによる吉備児島を神格化したもので、吉備国の地主神という)
  回廊の途中、その東側の山腹にある摂社
  岡山文庫本には、
  「元は生石(オイシ)大明神といったが、これは御神体が巨巌であるためであろう。吉備国の地主神であるタケヒカタワケを祀るという。吉備国の国魂を祀ったものであろうか」
とある。
 なお、タケヒカタワケについて、古事記・国生み段に、「(イザナギ・イザナミ双神は、大八島国を生み終えて)還ります時、吉備児島(キビノコジマ、今の児島半島、昔は島であったという)を生みき、亦の名をタケヒカタワケと謂ふ」とある。

 これらの宮にかかわって、梁塵秘抄(1169・伝後白河法皇編)
  「一品聖霊(イッポンショウリョウ)吉備津宮 新宮 本宮 内の宮 隼人崎 
            北や南の神客人(カミマロウド) 艮(ウシトラ)みさきは恐ろしや」
との今様(イマヨウ・平安末期頃の流行歌謡)があり、吉備津宮から隼人崎(岩山宮という)までが上記5社にあたるといわれ、当社の霊威が院政期(平安末期)の都にまで広く知られていたことを示唆している(神客人・艮ミサキについては下記)


※社殿等

  北からの参道を進み、石段を登った上に北随神門、背後の石段上に総拝殿、その背後に本殿と拝殿が連続した正宮社殿が、北面(正しくは北北東)して建つ。

 拝殿右手から南へ回廊が延び、入ってすぐに南随神門が、回廊突き当たりを左に折れた先に本宮社が、回廊中程の左手山腹に岩山社が鎮座する(他にも、天満宮・えびす社などの小祠があるというが、よくわからない)

 また、回廊2/3ほどの右手に鳴釜神事で知られる御釜殿が東面して建つ。

 (参詣当日は降雨で且つ時間もなかったため、正宮・御釜殿以外は参詣せず)

 ・本殿--国宝
   本殿は正面七間(約15m)・側面八間(約18m)という大きな建物だが、基本的には三間社流造の周囲に庇を二重に巡らした特異な形とされ、正面前面に五間の向拝が付いており、吉備津造と呼ばれる(中々込み入っていて、詳しくは関係図書に譲る)
   桧皮葺きの屋根は、入母屋造を二つ前後に連結した形で、比翼入母屋造とよばれる。

 ・拝殿--国宝
   本殿の前に連なる建物で、正面一間・側面三間、瓦葺き

 現在の社殿は、観応2年(1351)の消失後、当社雑掌からの誓願をうけた後光厳天皇(1352--71・北朝)の命により、三代将軍・足利義満によって着工され30有余年を経て竣工したもので(応永28年-1421竣工、同32年-1425正遷宮)、その後幾度かの修復を経ているという。

 
吉備津神社(備中)・正宮
(左-本殿、右-拝殿)
   
同・本殿側面
 
同・側面図(資料転写)
 
同・平面図(資料転写、右が北)

◎攝末社等
 摂社である本宮社(新宮社・内宮社合祀)・岩山社については上記の通り(不参詣)

 *随神門
  参道突き当たり、石段を上がった上に“北随神門”(日芸麿-ヒゲマロ・夜目麿-ヤメマロ、キビツヒコの随神-従者か)が、拝殿右手の回廊を入ってすぐに“南随神門”(中田古名命-ナカタフルマ・犬飼建命-イヌカイタケがある。共に室町期の建物で、国指定重要文化財。
  岡山文庫本によれば、
 「古くは門客神とか門官神ともいった。北随神門は当社の正門で、南随神門は正宮の裏門にあたる。梁塵秘抄にいう“北や南の神客人”とは、この両随神門をいう」
とある。


北随神門 
 
南随神門
 
同左(資料転写)

 *御崎宮(オンザキ宮、通称:ミサキ宮、末社、祭神:ミサキ神)
  正宮外陣の四隅にある厨子の中に鎮座する小祠で、北東方の艮(ウシトラ)ミサキ、東南方の巽(タツミ)ミサキ、西南方の坤(ヒツジサル)ミサキ、西北方の乾(イヌイ)ミサキと、正宮中陣の東西二隅にある東笏(トウシャク)ミサキ、西笏(セイシャク)ミサキの6祠を指し、いずれも本殿の守護神が鎮座するという。
 このうち、東北隅に鎮座する“艮ミサキ”が、梁塵秘抄に「艮ミサキは恐ろしや」と唄われたもので、平安朝の昔から、特に艮ミサキの霊異は人々に畏敬された、という。

 ミサキ(あるいはミサキ神)について、柳田国男は「ミサキは辺境を守る神の義なり」(石神問答・1910)というが、ミサキを“御先”と書くように、神が顕れる際にその先駆け・先導者として現れる低位の霊的存在ともいう。換言すれば、辺境すなわち境界(此の世と異界の境)にあって悪神・悪霊の侵入を防ぐとともに、顕現する神を迎えて先導する神ともいえ、その意味で、当社が本殿の守護神として、その四隅にミサキ神を祀るのは意にかなったものといえる。

 一方、艮(ウシトラ・丑寅とも書く)とは、方角を十二支に当てたときの丑(ウシ・北)と寅(トラ・東)の間で北東の方角を指し、陰陽道では、鬼(悪神・悪霊)が出入りする方角として忌むべき方角・鬼門(キモン)とされていた。
 梁塵秘抄で“艮ミサキは恐ろしや”というのは、鬼が出入りする艮方を守るミサキ神に対する崇敬と畏怖を表したものといえる。

 *お釜殿--国指定重要文化財
  回廊を南へ2/3ほど進んだ右手(西側)にある建物で、ここで“鳴釜神事”(ナルカマシンジ)が行われることで知られている。
  現在の建物は慶長17年(1612・江戸初期)に再建したものというが、その建築様式から更に古いといわれ、当社の台所として王朝時代から当地にあっと推定される、という(岡山文庫本)

  傍らに立つ“御釜殿鳴動神事の由来”には、
  「社伝によれば、御祭神に退治された鬼・温羅(ウラ)を祀る処と伝えられる(竈の下八尺に温羅の首が埋まっているという)
  縁起によれば、ある夜キビツヒコの夢に(キビツヒコに敗れた)温羅の霊が現れて
 『吾が妻・阿曾郷(アソノサト)の祝(ハフリ・神官)の娘・阿曾媛(アソヒメ)をしてミコトの釜殿の神饌(シンセン、神に捧げる食事)を炊かしめよ。
 若し世の中に事あらば、竈の前に参り給はば、幸あれば祐(ユタ)かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう。
 ミコトは世を捨てて後は霊神と現われ給え。吾は一の使者となりて四民に賞罰を加えん』
と告げた。
 これが神秘なる鳴釜神事の起こりである。今日も鳴釜の神事がおこなわれており、鳴動の音の大小・長短ににより吉凶禍福を卜するのである」
とある。

 この窯殿神事にかかわって、松の落葉(1829・江戸後期)に
 「竈殿の阿曽女といふ媼(オウナ)のこと、ここに昔より云ひ伝へたるは、此の国の岩屋山の麓なる阿曽の村(総社市)にて、昔より釜殿の鼎は鋳こととす。
 そこより参りつる媼を“あそあそめ”といひそめて、つぎつぎにさなぬ(意味不明、窯のことか)をも、然いふならん」
とあり、神事由来に「阿曽郷の宿の娘・阿曽媛をして・・・」というのと老若は別として整合している。
 また、大林氏は
 「阿曽女、これは世界の古代文明地帯とその影響圏にみられる王国の火を守る処女の変種であろう。
 かつた吉備に王国があったとすれば、そこにおいては王国の神聖な祭儀として、火を守り、祀るということが行われ、思春期前の若い娘が火を守り、祀るということをやっていたのではないか。それによって吉備国で農作物が盛んに稔ると云うことを祈願したのではないか」
として、古代の拜火信仰との繋がりを示唆している。

 薄暗い建物内の北側に黒光する土竈(古い民家の台所にあったのと同じ)があり、湯が沸き立つ鉄釜(径40~50cmほどか)の上には注連縄を巡らした木製の甑(コシキ・蒸籠)が乗っている。
 神事は、竈の前に座した神官が奏する祝詞にあわせて、阿曾女(アソメ)と呼ばれる巫女が玄米を小さな掻笥(カイケ、小型の笊)に入れて、湯気が立ちのぼる甑の中で振り動かし、玄米を蒸すような仕草をする。やがて釜が鳴りだし、祝詞が終わる頃には鳴り止むという。

 この神事は、釜から発せられる鳴動音の大小・長短によって吉凶禍福を占うものだが、その判断は音を聞いた人が自ら判断するものであって、神官あるいは阿曾女はその世話をするだけという。
 今回の神事に参列したが、竈から離れた後ろの方にいたせいか鳴動音は聞こえなかった。祈願者の心の持ち方によって、聞こえたり聞こえなかったりするのであろう。

 この神事の起源ははっきりしないが、文献上での初見は、室町時代の奈良・興福寺に残る多聞院日記(1478~1618間の日記)で、その永禄11年(1588)の記事に、「備中の吉備津宮に鳴釜あり、神楽料廿疋を納めて奏すれば釜が鳴り・・・」とあり、室町末期頃(安土桃山時代)の南都奈良にまで聞こえていたことを示している。

 
お釜殿
 
鳴釜神事(資料転写)

 釜が鳴ることによって吉凶を判断したり、異変を予知しようとすることは古くからあった占いのひとつで、平安後期の和歌に、
  「さらひする 室の八島のことこひに 身のなりはてむ ほどを知るかな」(源俊頼・1055~1129)
との一首があり、広辞苑(第2版)によれば、
  「室の八島とは“竈”のことで、昔、除夜の夜に竈を祓い浄め、翌年の吉凶を占ったこと」
(原典は、日本大辞林-明治27年-らしい)、“ことこひ”は“事乞ひ”で占いをすることという。
 また俗信では、釜が鳴ることは、異常なことが起こる前兆で、そこでは秩序・価値の転換が起こり、貧者が富貴となり富者は零落するともいう。

 このように、竈が占いの場となるのは、嘗ての竈が家の裏側の暗がりに位置し、そこは此の世と異界(霊界)との境界であって精霊的な神々が往来し、竈には、家の神として家人を守り、その運命を司る竈神が鎮座すると認識されていたことによるという(家の裏側に坐す神として、竈神の他にも納戸神・厠神・井戸神などがあり、人の運命を司る神として親しまれ且つ畏怖されていたという)(竈神と厠神・2007による)

 当社の鳴釜神事由来では、竈神を温羅の和魂(ニギタマ)としているが、それは当地に残る温羅伝説からくる附会であって、本来は、此の世と異界との境界に坐す竈神に、これからの人生を聞こうとした呪術だったといえる。

 参考図書
  ・式内社調査報告(1980) ・日本の神々2(1984) ・吉備の古代史(門脇禎二・1992) ・古代の吉備王国(鳥越憲三郎・1974) 
  ・吉備津神社(藤井駿・1973・岡山文庫) ・参詣の栞 他

トップページへ戻る