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真清田神社
愛知県一宮市花池
祭神--天火明命
                                                        2013.09.26参詣

 延喜式神名帳に、『尾張国中嶋郡 眞墨田神社 名神大』とある式内社で、尾張国一の宮。社名は今、真清田と記すが、延喜式には眞墨田とあり、いずれもマスミタと読む。

 名鉄・尾張一宮駅の北東・大宮公園内に鎮座する。

※由緒
 当社社頭に掲げる案内に、
  「当社は尾張国一宮として、祭神天火明命は天孫瓊々杵尊の御兄神に坐しまし、国土開発・産業守護の神として御神徳が高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆盛を招来遊ばされた貴い神様であります」
と簡単に記しているが、

 社務所で頂いた「真清田神社之栞」(以下、栞という)には、
  「御祭神“天火明命”(アメノホアカリ)は別名“天照国照彦天火明櫛玉饒速日命”(アマテルクニテル ヒコ アメノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)とも申され、皇祖天照皇大御神の御皇孫に当たります。
 神代、大和国葛城山麓・高尾張邑(タカオワリムラ)をご出発され、神武天皇33年3月、尾張国の当地にお鎮まりになられました。
 延喜式内社のなかでも名神祭に与る大社として格式が高く、貞観7年(865)正四位上の神階を授かっています。
 当社例祭『桃花祭』は、御祭神が当地にご鎮座されたことを記念して催行されています。
 平安時代、当国の国司として着任した大江匡衡(オオエ マサヒラ、952--1012)の夫人・赤染衛門(アカゾメ エモン・956--1041、中古三十六歌仙の一人)が祈願し奉った歌(内容不明)が今日伝わるなど、往古より尾張国一之宮として朝野の篤い崇敬をうけています」
とある。

 栞によれば、当社創建について、祭神・アメノホアカリ命が大和葛城の高尾張邑(現奈良県御所市付近)を出立して尾張国に入り、神武天皇33年、当地に鎮座したとなる(祭神・天火明命、及び高尾張邑云々については下記)
 しかし、今、神武の実在については疑問とするのが一般の理解で、よしんば、それが実在したとしても、弥生後期(2・3世紀頃)頃かと思われる(実在した可能性が大とされる10代崇神は、古墳前期・4世紀の天皇とされる)神武天皇の33年(これを紀元前627年とする資料もあるようだが、これは、わが国の建国を紀元前660年とする所謂・皇国史観にもとずく架空の年次)に当社が鎮座創建されたとは、伝承とはいえ、あまりに荒唐無稽すぎる。又、神武紀には33年条そのものの記述はない。
 勿論、弥生も後期になれば、集落として何らかの神マツリがおこなわれていたのは、畿内から発掘された大型建物遺構(池上曽根遺跡など)から推測されるが(大型建物を神殿跡とする見解)、それに類するものが当地にもあったとする発掘資料はみえない。

 当社創建時期にかかわって、
 ・崇神天皇の御世--真清田神社古縁起(室町中期~後期)・真清探桃集(1733・江戸中期)
  (書紀・崇神7年条にある「八百万の群神を祀った」との記述をうけて、当社も八百万の神々に含まれるとみたもののようで、その真偽は別として、神武朝よりマシか)
 ・神武天皇の御世--一宮神宮記(江戸時代らしいが年次不明)・尾張国一宮伝記(同前)・尾張名所図会(1844・江戸後期)
との古資料があり、なかでも尾張匡名所図会は神武天皇33年3月と年次まで特定しているといわれ(日本の神々10・1987)、当社HPにいう神武33年はこれを承けたものであろう。

 これをみると、神武33年というのは江戸中期から後期にかけて称えられたもののようで、それ以前は崇神朝の創建と理解されていたらしい。
 しかし、神武朝・崇神朝いずれにしろ根拠はなく、当社創建を古くしたいという願望にもとずいてつくられた伝承であろう。

 当社正史上での初見は、続日本後紀・承和14年(847・平安前期)11月条の
  「奉授尾張国无位(無位)眞清田天神従五位下」
との記事で、以降
 ・仁寿元年(851)11月条--詔以尾張国眞清田神列於官社(文徳実録)
 ・仁寿3年(853)5月条--尾張国従五位上眞清田神授従四位下(文徳実録)
 ・貞観7年(865)7月条--授尾張国従四位上眞清田神正四位上(三代実録)
との神階授与等の記事がある。

 これら神階授与の記録からみて、当社が9世紀にあったことは確かだが、上記したように、創建時期が何時まで遡れるかははっきりしない。
 ただ、宗廟社稷問答(18世紀中頃-江戸中期末頃か)に、
  「凡尾張氏遠祖等が国内(尾張国内)に祭る所は三十余座、其(尾張氏)は遠祖・天照国照彦火明命より出て、之を中島郡の真清田神社に祭り、以て当国一宮と称す」(漢文意訳)
とあることから(尾張氏の系譜・1974)、尾張の古代豪族・尾張氏が奉斎する神社と推測され、その尾張氏が成務天皇の御世に尾張国造を賜り(11世乎止余命・先代旧事本紀)、以降、尾張国を拠点として勢力を張っていることからみると、成務朝(推測・4世紀末)とする確証はないものの、相当古くからの古社であると思われる。

◎尾張国一の宮
 当社は、古くから尾張国一の宮とされているが、その文献上での初見は、尾張国春日部郡安食郷(現愛知県春日井市勝川付近)の検注帳(1143・平安後期、耕地の所在・面積・租税額などを記したもの)という。
 一般に、一の宮制の全国的な成立は10世紀から11世紀前半にかけてとされることからみて(国によっては7・8世紀にあったとの記録がある)、当社が一の宮とされたのは12世紀とみてもいいだろう。

 一の宮とは、国司が赴任後最初の国内巡拝に際して最初に参拝する神社で(国司赴任後最初の仕事が国内主要神社の巡拝だったという)、その国の人々から最も篤く尊崇される神社というのが通説だが、当社が一の宮とされた経緯について、
 栞には、
  「歴史的にも由緒深い神社が尾張国内各所に鎮座する中、真清田神社が尾張国一之宮に比定されているのは、京都から派遣された国司(地方官)が、当社東を南北に貫く“鎌倉街道”を下向して尾張国に入った際、最初に参拝したことによることとされています」
 式内社調査報告が引用する新編一宮市史(1977)には、
  「真清田社を一宮とし、大県社(オオアガタ・犬山市宮山)を二宮とし、熱田社(アツタ・名古屋市熱田区)を三宮としたのは、真清田社が同じ中島郡にあった尾張国府(現稲沢市国府宮付近という)に最も近く、且つ交通の要衝に当たっていたことからではなかろうか。
 大県社が中島郡の東に隣接する丹羽郡の東部丘陵にあり、熱田社が南の愛智郡の海岸沿いにあることから、国司の巡拝は、国府から真清田社を経由して大県社に向かい、次いで熱田社に向かうのが順路であり、尾張における一宮・二宮・三宮の順位は、国司の巡拝路に関係したとするのが妥当であろう」(大意)
とあり、当社が一の宮とされたのは、延喜式にいう名神大社という社格とともに、それが国府近くに鎮座していたことが最大の要因だろうという(社格からみれば、伊勢神宮につぐ別格社で尾張国の最有力社である熱田神宮が一の宮であってもおかしくない)

※祭神
 今の祭神は天火明命(アメノホアカリ)となっているが、これは明治以降になって公式に当社祭神と定められたもので、それ以前には諸説あったようで、その主なものとして
 ・大己貴命(オオナムチ)--大日本国一宮記(14世紀末頃か)・一宮巡詣記(1639)・尾張名蹟略志考(1745)・尾張地名考(1801)など多数
 ・国常立尊(クニノトコタチ)--真清田神社古縁起(室町中期~後期・16世紀)・神祇宝典(1646)・和漢三才図会(1712)・真清探桃集(1733)
 ・天火明命--大日本史(1676)・宗廟社稷問答(18世紀前半)・神祇志料(1871・明治初年)・特選神名牒(1876)
があったという。

 これらの説について、式内社調査報告は新編一宮市史を引用して次のようにいっている(大意)
 ・大己貴説(オオナムチ)
  この説は大日本国一宮記(伝卜部兼凞-1348--1402著)が初見で、これを採る資料は多い。
  しかし、この書は完成後にも後人による改訂が幾度かあったといわれ、特に諸国一宮の祭神を記した部分は江戸時代初期の加筆と推測されることから、大己貴祭神説は、江戸初期になって称えられたもので、国常立命説より後と思われる。

 ・国常立尊説(クニノトコタチ)
  この説は、真清田神社古縁起にいうもので、現在伝えられているもののうち最も古いもののようだが、それとても中世末期をあまり遡るものではなく、また、古縁起の記述には神仏習合思想にもとずく附会が混入している懸念が強いことから、国常立尊説は中世的信仰(記紀神話を神仏習合思想のもとに解釈しなおしたもの-中世神話)の所産ではなかろうか。
 ただ、この両説とも、大己貴・国常立とする根拠は記されていないらしい(大阪では新編一宮市史或いは古縁起は実見不能で確認できない)

 ・天火明命説(アメノホアカリ)
  この説は、江戸時代の神道家・吉見幸和(1673--1761)が宗廟社稷問答で主張した説といわれ、その論旨は、マスミタのマスミとは鏡に関係する言葉であって(曇りのない澄んだ鏡を真澄鏡-マスミノカガミ-という)、尾張氏の祖、鏡作氏に関連があり、鏡作氏や尾張氏の祖神・天火明命こそ当社の祭神に相違ないという。
 尾張氏は国造として当地方を拠点としていた古い豪族で、当社の祭神がその祖神であるというのは、如何にもありそうなことだが、それを証する古伝承は残っていない。

 これらを受けて、日本の神々10(1987)は、
  「中世末期から江戸時代にかけては国常立尊説が優勢であり、明治以降に天火明命説が定着したといえるであろう」
という。

 アメノホアカリ命とは、古事記及び書紀一書6・8(本文には出てこない)によれば、アマテラスの御子・忍穂耳命(オシホミミ)とタカミムスヒの娘・タクハタチヂヒメとの間に生まれた長子で(天孫・ニニギ尊の兄)
  一書6--「天火明命の子・天香山命は尾張連等の遠祖」
   同 8--「天照国照彦火明命(天火明命の別名)は尾張連等の遠祖」
とある(天火明命は尾張氏以外にも多くの氏族の祖とされ、それらを総括して尾張氏系氏族ともいう)
 ただ、書紀には、上記とは別に、天降った天孫・ニニギが筑紫の笠狭の崎(鹿児島県薩摩半島西部に比定)で、山の神・オオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメを娶って生んだ3人の御子の一人(山幸彦・海幸彦の兄弟)に火明命があり、これも尾張連の遠祖とされている。

 栞によれば、アメノホアカリ命の別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日命というが、この長々しい神名は、物部氏系の史書・先代旧事本紀(9世紀前半頃)のみに出てくる神名で、旧事本紀は、この神がアマテラスの命をうけ天降ったという(記紀にいう天孫・ニニギは出てこない)
 当社を含めて、アメノホアカリ命=ニギハヤヒ命とする資料は多いが、これは、物部氏がその遠祖・饒速日命(ニギハヤヒ)を皇統譜に結びつけるために創作した神名として(一書8にいう天照国照彦火明命とニギハヤヒを櫛玉を介して繋いだ神名)、アメノホアカリ=ニギハヤヒ説は、本居宣長以来の諸先学によって否定されている。

 このように尾張氏とは、天火明命を祖とする氏族の中心となる古代豪族だが、その本貫(出身地)については、大和の葛城(古地名・高尾張-現御所市付近)とする説と尾張国とする説とがある。
 そのいずれが真なのか判断はできないが(本貫地論については、松前健氏の尾張氏の系譜-1974-に詳しい)、遅くとも、尾張国造を賜った11世・乎止余命(オトヨ)以降(伝承では、4世紀末以降となるが確証はない)尾張国を拠点として勢力を張っていたことは事実であろう。
 上記栞がいう、“祭神が葛城の高尾張邑を出立し云々”というのは、アメノホアカリを祖神とする尾張氏の本貫の地は葛城で、そこから尾張に移ったという説によるものであろう(氏族の移動は、その祖神を戴いておこなわれるのが普通)

 当社が尾張国において熱田神宮(伊勢神宮につぐ別格の大社)につぐ大社であることからみると、熱田神宮と同じく尾張氏の関与が窺われ、とすれば、宗廟社稷問答がいうように、その遠祖・天火明命を祀るとみるのが順当と思われるが、それを証するものはない。
 因みに、乎止余命の子・建稲種命(タケイナダネ)に関係して、熱田大神宮縁起(890)
  「火明命11代の孫・尾張国造乎止与命の子、母尾張大印岐(オオイニキ)の女真敷刀婢命(マシキトメ)也。実の尾張氏祖也。因って熱田明神を以て尾張氏神と為す」
とあり、熱田神宮は尾張氏の氏神社と明記している。

 なお、上記宗廟社稷問答は、天火明命は尾張氏とともに鏡作氏(鏡作部)の祖神でもあるというが、姓氏録にみえる天火明命を祖とする氏族のなかに鏡作氏の名はない。

 鏡作部の祖は、書紀によれば“天糠戸神”(アメノヌカト)で、天岩屋段一書2に「鏡作部の遠祖・アメノヌカトに鏡(三種の神器の一)を作らせた」とあるが(一書3には、「鏡作辺の遠祖・アメノヌカトの子・石凝戸辺-イシコリトベ-に八咫鏡を作らせた」とある)、そこに天火明命との関係はみえない(天岩戸段に天火明命は登場しない)
 ただ、火明命を祖とする氏族のなかに、製鉄製銅など金属鋳造を業とする“伊福部氏”があり、これが尾張氏と同族とされることから、天火明命或いは尾張氏と鏡作りとは無関係とはいえない。

 なお、大和志料(1944・昭和19年)に、
  「イシコリトベ一名天火明命  イシコリトベ曾て天照大神の霊を象り八岐の鏡を造りしより、天照御魂(ホアカリ)或いは火明(ホアカリ)の別号を得。子孫其の業を襲ひ鏡作を氏とせり」
とあり、イシコリトベは火明命の別名とある。
 この記述と上記宗廟社稷問答をあわせみるとき、イシコリトベとホアカリとを繋ぐ何らかの伝承があったかと思われるが、詳細不明。

 上記以外の祭神として、新編一宮市史によれば、
 ①国常立尊・大己貴命
 ②国常立尊・大己貴命・大龍神・姫龍神
 ③国常立尊・天照大神・月読尊・大己貴命
 ④③+大龍神
などの説があるという(式内社調査報告)
 これらに天火明命がみえず、主祭神を国常立尊とすることから、江戸時代に提唱されたものらしいが、古縁起などを元に諸説を折衷したものであろうという。

 なお、②及び④にある大龍神(姫龍神)について、式内社調査報告は「龍神を加えるのは、空海の祈雨伝説が核になっているらしい」という。
 この空海祈雨伝説とは、臨済宗相国寺の禅僧・瑞渓周鳳の日記・臥雲日件録(1446--73)・文安4年(1447)条に記す
  「京都神泉苑における弘法大師空海との祈雨祈願競争に敗れた西寺の守敏和尚が、これを恨んで三千界の竜神を壺の中に閉じ込めてしまったため、国中に雨が降らなくなった。
 弘法大師が三千界を見回すと、唯、一寸八分の小龍・善女竜王のみが水藻の底に隠れていたので、これに降雨を乞うたが、善女竜王は小身であり、また協力者がないとして尻込みした。
 そこで大師は、呪を以て善女竜王を大龍となし、茅草を以て真龍を作り協力させたので、この両者が力を合わせて大雨を降らせることができた(京都・神泉苑に残る大師の祈雨祈願伝承は、善女龍王が雨を降らせたとあるが茅種の真龍はみえない--別稿・神泉苑参照)
 その後、大師は命じて善女竜王を神淵に居させ(今も、神泉苑の池畔に善女龍王社がある)、茅龍は、その乞いにより尾張国真清田宮の森に住まわせた。これが真清田の一宮である。大師は屡々この宮で降雨の秘法をおこなった」(大意)
を指す(日本の神々10)

 新編一宮市史は、龍神信仰について
  「真清田神社は木曽川の形成した扇状地から自然堤防帯に移行したその境目近くに立地する。尾張平野、なかんずく中島郡の水田を潤す水源は大方この辺りから流下する。龍神信仰が水源と関係ある民間信仰であることを思いあわすべきである」
という。

 これらからみると、当社の原姿は古代の水神信仰に発するもので、中世以降になって、記紀神話に登場する神々を祭神に充てたのではないかと思われる。

※社殿等
 南から鳥居を入った正面、左右に廻廊を延ばした楼門の奥が境内。
 広々とした境内正面に、縦長の堂々たる拝殿、横長の祭文殿、その奥に渡り殿を介して本殿と、4っの社殿が連続して建つ。
 社務所の話では、拝殿(縦)・祭文殿(横)・渡り殿(縦)・本殿(横)の社殿が、縦横と交差しながら連続する社殿構成を尾張様式というとのこと。
 社殿は、昭和20年7月の空襲で悉く焼失、同32年から36年にかけて、古代様式を踏襲して再建したものという。

真清田神社・鳥居 
同・楼門
 
同・社殿
(左横長:祭文殿、右縦長:拝殿)
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・本殿(栞から転写)

◎服織神社(ハトリ)

  社殿の右側(東)、少し離れて『服織神社』が鎮座する。摂社と思われるが不明。

 社殿壁に掲げる由緒には、
 「祭神 萬幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタ トヨアキツシヒメ)
  御祭神は本社御祭神・天火明命の御母神で、伊勢の皇大神宮の相殿神として天照大神と御同殿に御座します御神格の高い神様で、古くより織物の守護神として広い信仰をうけられ、尾張地方の織物業が発展したのも御祭神の御加護によるものであります」
とあり、社殿前少し離れて自然石に「服織神社」と刻した標柱が立つ。

 拝殿は、千鳥破風向拝付切妻造(鉄筋コンクリート)。本殿は見えない。

 萬幡豊秋津師比売命とは古事記の表記で、書紀には栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)とあり、いずれもタカミムスヒ尊の娘で天火明命および天孫・ホノニニギ尊の母という。伊勢内宮の相殿神。
 タクハタチヂヒメの栲(タク)は楮(コウゾ、繊維を割いて作ったのが古代祭祀に使われる木綿-ユウ)の古字で、幡(ハタ)は織機、千々(チヂ)は縮んだ上質の織物(又は沢山・盛んの意)を意味することから、この神は織物に関係する守護神とされる。

 本社祭神の母神として祀られたのだろうが、その由緒・時期は不明。

◎神水舎および末社
 境内左手覆屋の中に古い井戸があり、小祠が祀られている。
 案内には
  「真清田神社の御神水は、平安時代白河天皇のご病気を癒したとされ、明治11年の明治天皇行幸に際しては、この井戸水でお茶を献ったといわれています。
 元旦午前零時に斉行される若水祭で、その年最初にくみ上げられたこの井戸の若水が大前に御供されるのを始め、
真清田神社で行われる全ての祭事にこの御神水が供えられます」
とある。

 服織神社の右手に、末社合祀殿があり、左から天神社・犬飼社・愛鷹社とあるが、鎮座由緒・時期など詳細不明。
 なお、この合祀殿以外に末社があるようだが、時間なく未見。


神水舎 
 

末社(左より天神社・犬飼社・愛鷹社)

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