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中 山 神 社
岡山県津山市一宮
主祭神--鏡作神
相殿神--天糠戸神・石凝姥神
                                                        2013.03.28参詣

 延喜式神名帳(927)に、『美作国(ミマサカノクニ)苫東郡(トマノヒガシノコホリ) 中山神社 名神大』とある式内社で、美作国一ノ宮。
 今は“ナカヤマ”と呼んでいるが、曾ては“チュウサン”(チウサン)と音読されていたという。

 チュウサンとの呼称について、諸資料(式内社調査報告・1980他)は、美作国がもつ産鉄の国という特徴や、当社が産鉄・製鉄の神として信仰されていたことから、
 「山海経(センガイキョウ、中国戦国時代から秦漢時代-BC4--BC1世紀にかけて書きつがれたと推定される中国最古の地誌、地理・伝承の他に鬼神・妖怪についての記述が多い)という中国の古典の中に、鉄の世界を描いた中山経(チュウサンキョウ)という書があり、この影響でチウサンと音読されたのであろう」
という。
 しかし、中山経(平凡社版・1994)には「○○山、鉄(銅・赤銅などを含む)多し」との記述が多見され、末尾に「銅を産する山467、鉄を産する山3690なり」とはあるものの、特に鉄の世界を描いたものではない。

※由緒
 当社参詣の栞・“中山神社 沿革”によれば、
 「文武天皇慶雲4年(707)の創祀。貞観6年(864)官社に列し、延喜式では美作国唯一の名神大社で此の国の一宮とされ、永保元年(1081)には正一位の神階を授かる。
  平安時代の代表的説話である“今昔物語”には当社の猿神伝説があり、鎌倉時代の後白河法皇の御撰にかかる“梁塵秘抄”では、関西に於ける大社として安芸の厳島・備中の吉備津と共に肩を並べている。
 国家非常時(元寇など)には、勅命により特に全国七ヶ国(武蔵・上野・伊豆・駿河・若狭・美作・肥後)の一宮を選び国家安穏を祈願せしめ、当社も其の中に選ばれて厳修したとされる」
とあるが、創建由緒についての記述はない。

 一方、当地には、創建由緒として
 ・文武天皇の慶雲3年丙午5月上旬(二の丑の日ともいう)、白馬にまたがり青木の枝を鞭とした神(神名不明・中山神か)が、英多郡(アイダノコホリ)楢原郷に顕現し、里人・東内(トウナイ、藤内とも記す)が菰(マコモ)をとり糉(チマキ)をととのえて饗応し齋き祀った。
 ・神は東内宅に二十日あまり逗留した後、そこを去って苫田郡の水無川の奥・泉水池に稚児の姿で現れ、牛飼の少年等と遊び、日没になると、あたりに放牧されていた牛馬を呼び集めた。
 ・次に、神は、9月21日、同郡田辺郷の鵜の羽川の上流・霧山の山中に、白馬にまたがった童子の姿で顕れた。それをみた里人の猟師・有木が、変化のものとして弓を引こうとすると、童子は「我は此の国に鎮護しようと思ひ天降った神である」と告げたので、有木はこれを齋き祀った。
 ・翌慶雲4年4月3日、神は有木に「この川(鵜の羽川)に鵜の羽を一つ流して、その羽が流れ止まった処に光を放って鎮座しよう」と告げ、その流れ着いた長良嶽の麓に、里人・中島頼名に命じて社を建てさせ鎮座した。
との神の顕現伝承があるという(日本の神々2・1984、他)

 また、作陽志(1689)には、同意の伝承として
 「鸕羽川  昔神老翁と化して田辺の川上霧山に降り、狩人有木之に逢う。翁鸕鷲羽を水に投げて曰く、羽の停まる処に神祠を立つべしと。遂に長柄嶽畔に到り、而して羽便ち留る。有木は中島頼名と意を勠(アワ)し、此の地に奉祀し、因みて鸕羽川と名づく」
とある。

 上記沿革で、当社の創建を慶雲4年とするのは、これらの伝承によると思われるが、確証はなく、
 ・旧吉備国から分立した備前・備中・備後の3国いずれもが、旧吉備国の守護神である備中の吉備津神社(吉備津彦命)を奉斎しており、美作国も旧吉備国の領域に属することから、備前国からの美作国分立と共に創祀されたのではないか
 ・上記の顕現伝承に有木との名がみえるが、備中の吉備津神社の神職の頭梁に有木との一族があり、備後国一宮社記には、その一族が備中・吉備津神社の分霊を備後の吉備津神社に遷したとあり、当社も、この一族が勧請したのではないか
として、当社の創建は美作国が分立した和銅6年(713、続日本紀・和銅6年4月3日条に「備前国の6郡を割いて美作国を設けた」とある)以降ではないかともいう(式内社調査報告・1980、他)

 これは、当社祭神を吉備津神社の祭神と同体とみてのものだろうが、今の祭神(鏡作神他)が創建当初からの祭神とすれば、分立以前であってもおかしくはなく(ただ、慶雲4年かどうかは不詳)、美作国が鉄・銅の主要な産出国の一つであったことからすれば、それらの鉄銅製品の製作に従事した人々が創祀したのが当社の原姿かとも推測される。

 上記栞にいう“梁塵秘抄云々”とは、
  「関(逢坂関)より西なる軍神(イクサガミ)、一品中山安芸なる厳島 備中なる吉備津宮 
                            播磨の広峰惣三所 淡路の岩屋には住吉西宮」(249番)
との今様(平安末期の流行歌謡)を指し、当社が、平安末期には厳島神社や吉備津神社などと並んで中央にまて広く知られていたことを示すが、何故イクサガミなのかは不明。

 国史上での当社の初見は、
 ・三代実録(901)・貞観2年(860・平安前期)正月27日--美作国正五位下中山神に従四位下を授く
との記録で、以下、
 ・同貞観6年(864)8月14日--詔して美作国従四位下仲山大神・・・を官社に列ね給ひき
 ・同貞観7年(865)7月26日--美作国従四位下仲山神の階(クライ)を進めて従三位を加えき
 ・同貞観17年(875)4月5日--美作国従三位中山神に正三位を授けき
と、清和天皇朝に集中しているが、美作一宮誌(成立年次不明)によれば、その後
 ・天慶3年(940)--正二位
 ・永保元年(1081・平安後期)--正一位
と、最高位まで昇ったという。

 その後の経緯として、上記沿革には
 ・建武中興破れて約400年間は、美作国中戦乱の巷と化し、永正8年(1511)と天文2年(1533)の両度に祝融(戦火)の厄に遭い、宝物・古文書等悉く消失
 ・永禄2年(1559)に至り、出雲国尼子晴久が戦捷(戦勝)報賛の為、社殿を再興(現社殿)、歴代藩主の崇敬厚く、“一宮さま”と親しまれた
 ・明治4年(1871)6月、国弊中社に列す
とある。

※祭神
 今の祭神は
  主祭神--鏡作神(カガミツクリ)
  相殿神--天糠戸神(アマノヌカト)・石凝姥神(イシコリドメ)
というが、記紀等に鏡作神の名は見えない。
 ただ、類似の神として、書紀・神代段の一書2に、
  国常立尊--天鏡尊(アマノカガミ)--天萬尊--沫蕩尊--伊弉諾尊
との系譜があり、ここで見えるアマノカガミを当社祭神とするとする説(松岡如庵-江戸時代の儒者らしい)もあるようだが、アマノカガミは書紀にいう神代七代に連なる始原の神で、この一書(異伝)のみにみえる神でもあり、鏡の字を含むものの鏡作りとの関係は不明。

 相殿神であるアマノヌカト(書紀ではアメノアラト)およびイシコリドメ(書紀ではイシコリトベ)について、
 古事記には
  ・天岩戸段--伊斯許理度売命(イシコリドメ)に命じて鏡を作らしめ・・・
  ・天孫降臨段--ここにアメノコヤネ命・・・イシコリドメ命(作鏡連等の祖)・・・併せて五伴緒(イツトモノヲ)を加えて天降したまひき。
 日本書紀には
  ・天岩戸段一書2--鏡作部の遠祖・アマノアラト神に鏡を作らせた
  ・同一書3--天の香山の榊をとり、上の枝には鏡作りの遠祖・アメノヌカトの子・イシコリトベ命が作った八岐鏡を掛け・・・
  ・天孫降臨段一書1--中臣氏の遠祖・アメノコヤネ・・・鏡作りの遠祖・イシコリドメ・・・五部の神たちをつき従わされた
 古語拾遺(802・忌部氏系史書)には
  ・日神の石窟幽居段--イシコリドメ神〈アメノヌカトの子・作鏡が遠祖なり〉をして天香山の銅(アカガネ)を取りて、日の神の鏡を鋳しむ
とあり、アメノヌカトとイシコリドメは親子の神で鏡作部の遠祖という。

 古今和歌集に『真金ふく吉備のなかやま・・・』とあるように、古代の吉備国は鉄・銅の産地として知られる。
 美作国には、古墳時代末期の製鉄関係遺跡として“緑山遺跡”・“大蔵池南遺跡”(いずれも津山市-6世紀末~7世紀初)があり、降って、律令制下の飛鳥・藤原・平安京跡から出土した木簡には、鉄を貢納する国として備前・備中・備後・美作・出雲・伯耆6ヶ国の名が記され、特に8世紀代の木簡においては美作国が中枢を占めているという(古代の日本2・1984)

 これらからみると、古くから、当地一帯に製鉄・製銅にかかわる人々(鏡作部)が居たことは確かで、その人々が、遠祖とされるアメノヌカト・イシコリドメ両神の上に、新たな神格としての鏡作命を加上して、製鉄・製銅の守護神として祀ったのが当社であろう。
 なお、参詣の栞には
  主祭神 鏡作神--鏡作部の祖神・イシコリドメ神の御神業を称えた御名
とあり、社務所でも「イシコリドメを讃えた尊称」と話している。

 ただ、上記の神顕現伝承に製鉄・製銅を示唆するものはみえない。製鉄とは、鉄を材料として農具を製作することから農耕神ともなり、農耕に欠かせない牛馬の守護神ともなり得るというが(式内社調査報告)索強附会の感もあり、現祭神と顕現伝承との関わりは理解しがたい。


 当社主祭神については、鏡作命以外にも幾つかの説がある。その主なものとして、
◎大己貴命(オオナムチ)
  延喜式神名帳頭注(1503)に、
   「美作国苫東郡  中山  一宮也  大己貴命」
とあることからの説で、オオナムチを当地の地主神と考えてのものであろうというが、
 ・美作国は北に出雲国と接し古くから交流があったこと、
 ・播磨国風土記にオオナムチに関する伝承がみられる(8ヶ所)ことから、当地にも出雲のオオナムチ信仰が広がっていたと思われること、
 ・中山神社縁由(江戸中期書写)に、「地主神のオオナムチは、新来の中山大神(鏡作命か)にこの地を譲って、境内の祝木神社(イボキ)あるいは国司神社(クニシ)に退かれた」とあること
 ・オオナムチを相殿神とする説があること
などから、この説は成り立たないであろう、という(式内社調査報告)
 しかし、古代の山陽・山陰地方におけるオオナムチ信仰の広がりからみて、完全に否定はできないであろう。

◎吉備武彦命説(キビタケヒコ)
 作陽誌(1691)で主張する説で、類似の説として大日本史(1676)や神祇志料(1871)がいう吉備津彦命説がある。
 これらは、当社の創建を美作国の分立時に吉備津神社を勧請したとする説にともなうもので、これが正しければ祭神としては妥当というべきだろうという(式内社調査報告)
 ただ、吉備津神社(備中)の主祭神はキビツヒコで、キビタケヒコは摂社・新宮社の祭神(今は摂社・本宮社に合祀)であり、当社が吉備津神社からの勧請とすれば、大日本史等がいうキビツヒコとするのが妥当かもしれない。
 なおキビタケヒコは、書紀・景行紀(40年条)
  「(ヤマトタケルの東征に際して)天皇はキビタケヒコと大伴武日連(オオトモノタケヒノケラジ)とをヤマトタケル尊に従わせられた」
  「(ヤマトタケルが吾妻国に至られた時)ここで道を分けて、キビタケヒコを越の国(現北陸地方)に遣わし、その地形や人民の順逆を見させられた」
とあるのみで、系譜についての記述はない。
 新撰姓氏禄(815)では、キビタケヒコをキビツヒコの異母弟・稚武彦命(ワカタケヒコ、吉備臣らの祖)の孫(左京皇別-下道朝臣、右京皇別-盧原公)、あるいは子(右京皇別-真髪部)という2説があるが、諸資料ではワカタケヒコの子とするものが多い。

◎猿神説
 今昔物語・宇治拾遺物語にある説話にもとずくもので、
 今昔物語(平安末期・1130頃)・「美作国の神、猟師の謀によりて生贄を止めし話」(26巻・第7)には、大略
 「今は昔、美作国に中参(チュウサン・当社)・高野(当社の南南東約5kmにある高野神社)と申す神おわします。その神の体は、中参は猿、高野は蛇にておわしましける。年毎に一度それを祀りけるに、生贄をぞ備えける。その生贄は、国人の娘の未だ嫁がぬをぞ立てにける」
との書き出しで、これを聞いた東国からやってきた旅人(猟師)が、娘を自分の嫁にするとの約束のもと、娘の身代わりとして長櫃に隠れて神社に赴き、現れた猿神をさんざんに懲らしめ、生贄を止めることを誓わせたとある(角川ソフィア文庫版、宇治拾遺物語1221頃・「吾妻人生贄を止むる事」もほぼ同じ」)

 猿は山の神の使いであり(日吉神社等)、古代象形文字で、神を“申”(シン・サル)と記すように神(ここでは山の神)そのものともされる。
 また、山の神は農耕に必要な水をもたらす水の神でもあり、里にあっては田の神・農耕の神となるという。

 この説話の原姿は、里の女(巫女)が神(山神=水神)を迎えて豊かな水の供給と穀物の豊饒を祈願し、その妻となって御子を産むというもので、時代が下るにつれて、到来する神が生贄を求める邪神に、巫女が生贄となる女性へと変化したものという。
 当社の猿神祭神説は、伝承にいう神顕現以前の素朴な山の神信仰をあらわしているのかもしれない。
 なお、社殿左奥から5分ほど入った左手山腹に、この説話に関係する末社・“猿神社”がある(下記)

 なお、当地には猿にかかわる伝承が幾つかあり、管見したものとして
 ・作陽志(苫南郡神社部)
 「猿休  華表を去ること十三町、石有りて猿の腰懸と名づく。往年、津山の士人、採りて仮山に安ず、其の夜怪異無数、其の人大いに怖れ本拠に還す。
 旧説によれば、猿を以て一宮(当社)の使獣と為す。是故、贄殿谷に猿祠有り。小原村亦之有り。今、道祖神と為す、蓋し道祖神は猿田彦命に因みて付会し名付けしものにて笑ふべし。
 又、黒沢山の僧云、曾て一宮に異猿有り、毎月十二日夜黒沢山に上りて仏殿に寝る。雨風霜雪の夜と雖も之に関わらず。名づけて通夜猿と云う」
 ・美作風土略(中山神社の項、1762)
 「此宮の使者は猿也。吉備の宮(吉備津神社)に使いする事ままあり。さだまれる休所ありて、稀に見たる人も有り」
がある。

※社殿等
 正面大鳥居を入って参道を進み神門をくぐった先が境内で、中門の左右に伸びる透塀の中に横長の拝殿が、その奥に本殿がいずれも南東向きに建つ。
 ・中山鳥居--H=11m・花崗岩製、寛政3年(1791)建立
   普通の鳥居では、両方の柱から貫の先端(木鼻)が突き出ているが、その木鼻がないのが特徴
 ・拝殿--入母屋造平入(間口6間・奥行3間)・桧皮葺
 ・本殿--入母屋造妻入(間口4間・奥行3間、向拝付き)・桧皮葺、国指定重要文化財
       妻入部に唐破風を有する巾2.5間の向拝が付き、弊殿を介して拝殿へ連ねた特徴ある形式で、中山造と称する

 
中山神社・鳥居
 
同・神門
 
同・中門
 
同・拝殿
   
同・本殿

◎末社
*総神殿(ソウシンデン)
  境内左手にある末社
  栞によれば、
   「山上山下120社を合祀。寛保2年(1742)再建。御手洗川手前にあったものを大正2年(1913)移築。
                                         幸宮・宇都宮・小原神社をも合祀」
とある。本殿に掲げる神額には“惣神殿”とある。

 平安時代になると、特定地域内の神社の祭神を合祀した“総社”なる神社が造営されたが、総社には
  ・国の総社--律令制によれば、国司着任後の最初の仕事は、国内のすべての神社を巡って参拝することと定められていたが、次第に、国府近くに総社を設け、これを詣でることで巡回の労を省くことが広まったという
  ・地域の総社--その地域にある神社の祭神のすべてを合祀した神社をいう
の2種があったといわれ、当社は後者であろう。

*国司社(クニシ)
  境内左手山麓の平場(境内から少し登る)に鎮座する祠
  栞によれば、
   「地主神として大国主命を祀る。社殿横には”鉾立石“があり、国難の際、本殿に移し祈念された」
とある。
 上記のように、当社本来の祭神をオオナムチ(オオクニヌシ)とする説があり、中山神社縁由(江戸中期書写)に、
  「地主神のオオナムチは、新来の中山大神(鏡作命か)にこの地を譲って、境内の祝木神社(イボキ)あるいは国司神社(クニシ)に退かれた」
とあるのが当小詞かと思われ、オオナムチを当地の地主神とする説に関係したものであろう。

*御先社(ミサキシャ)
  境内左手の山麓に鎮座する祠
  栞によれば、
   「中山の神の祖神を祀る。中山の神の側にあって供をするという義で、一般には稲荷神として信仰されている」
とあるが、ミサキ神とは、この世と異界との境界に坐して、到来する神を迎えてこれを先導し、あるいは侵入しようとする邪心・悪霊を遮る神というのが一般的理解という。
  祠の両脇に白狐の小像が数個置かれていて、稲荷社として祀られたとも思われる。。

 
末社・惣神社・本殿
(この前に拝殿あり)
 
末社・国司社
 
末社・御先社

*猿神社(サルジンジャ)
 社殿左手に立つ“猿神社”と染め抜かれた赤い幟から、細い地道を約5分ほど進んだ左手の山腹に鎮座する小祠。道から祠までは、折れ曲がった参道(山道)を登るが、手すりがあり難路ではない。
 栞によれば、
  「今昔物語26巻にみえる“中山の猿”の霊を祀るとされ、現在、猿田彦神として祀られる。牛馬の安産守護の神として信仰をうけ、今も尚、ぬいぐるみの小猿を奉納する風習が残る」
とある(今昔物語の話は上記)

 猿は、古くから神(特に、山王信仰における山の神)の使いとされ、厩神(ウマヤガミ)信仰・庚申(コウシン)信仰・猿田彦信仰などと習合して多くの信仰の対象となった獣で、馬を病気や怪我から護る霊力があるとされ、古くは、厩舎に吊された猿の頭蓋骨や手の骨、厩舎に掲げられた猿の絵、絵馬に多い駒曳猿(猿が馬を曳いている絵)などにみられるように、牛馬・特に馬との関係が深かったという。
 当社で牛馬の守護神とされるのも、当祠の存在と無関係ではないであろう。
 なお、小祠下の祠に奉納されている赤い“ぬいぐるみの猿”には、手足を一つにくくられたものが多く、庚申信仰における“くくり猿”(身代わり猿)と同じ系統のものであろう(別稿・「ならまち庚申堂」参照)

*鉾立石(ホコタテイシ)
 国司社の左傍にある丸い穴を穿った方形の台座石で、祭事に際して中央の穴に鉾を立てたという。
 鉾は、祭事において神が降臨する依代(ヨリシロ)となるもので、傍らの案内板には
  「国難のときは本殿に移し、鉾をたてて祈願したという。縦75cm横53cm穴の径10cmほど」
とある。
 またネット資料によれば
 「社伝に曰く、世に叛臣あれば本社その誅伏を祈る。これを御鉾祭という。その式は御鉾を祭場の中央に立てる。天慶中の平将門の関東に叛くや、これを社前に祈り、嘉承中の源義親の出雲を乱すや、小原雫の森の離宮これを行う。弘安中の元人の西海に寇するや、北条時宗は城太郎左衛門尉を使いとして神佑を迎うしむ。みな神異あり。云々」
とある。
 なお、鉾は単独ではなく、中央に大鉾、東西南北に小鉾という5本セットで立てられたといわれ、この石がどれを指すのかは不明。


末社・猿神社 
 
同・祠
 
鉾立石

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