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南 宮 大 社
延喜式社名--仲山金山彦命神社
岐阜県不破郡垂井町宮代峯
祭神--金山彦命
                                                                 2013.09.26参詣

 延喜式神名帳に、『美濃国不破郡 仲山金山彦命神社 名神大』とある式内社だが、平安末頃から“南宮神社”(ナングウ)と呼ばれ(大社と称するのは近年のことらしい)、美濃国一の宮として知られている。

※由緒
 社務所で頂いた「南宮大社略誌」に記す由緒には、
  「御祭神金山彦命(カナヤマヒコ)は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神(アマテラス)の兄神に当らせられる大御神であります。
 社伝によれば、神武天皇東征の砌、金鵄を輔けて大いに霊験を顕わされた故を以て、当郡府中に祀らせられ、
 後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山郷の現在地に奉遷され、
 古くは仲山金山彦神社と申し上げたが、国府から南方に位する故に、南宮大社と云われるようになったと伝えます」
とある。

 冒頭にいう、カナヤマヒコはアマテラスの兄神というのは、記紀神話の恣意的な誤読で、
 古事記・イザナギ・イザナミによる神生みの段によれば、
  カナヤマヒコはアマテラスより先に生まれてはいるが、この神はギ・ミ双神が生んだ諸神の中の一神one of themで、
  アマテラスは、黄泉国から帰ったイザナギが筑紫のアワキハラで禊ぎしたとき、諸神の上に立つ最高神として成り出た神で、その神格が異なり、単に先に生まれたからといって兄神とするのはおかしい。

 また書紀(本文・一書1)では逆に、国生みを終えたイザナギ・イザナミが、「天下の主者(キミタルモノ)を生もう」といって生んだのがアマテラス以下の三貴子で、カナヤマヒコは最終近くになって生まれており、これによれば、アマテラスが兄神となる。

 中段にいう社伝云々に関連して、不破郡史(1927)が引用する南宮神社略説(成立時期不明)には、
  「社伝を按ずるに、神武天皇、長髄彦を征し給ひしとき、カナヤマヒコ命、八咫烏を輔けて屡々神験を顕し皇軍を助け給ひしかば、御即位の後、当国不破郡府中の地に祀られ給ひ、併せて八咫烏をも配祀して東山道の要路を鎮めし給ひ、遙かに皇城の防護を祈らせ給ひきといふ。
 その後、崇神天皇5年11月上申の日、今の地、即ち仲山の麓に遷し奉る。府中の旧宮より正南に当を以て、後世南宮と称し奉るとみえたり」
と、由緒と略同意の記述があるという(式内社調査報告・1985)

 由緒・略記ともに、カナヤマヒコが神武東征の際に八咫烏を助けて霊験があったというが、神武記・紀ともに、そのような記述はなく(神武東征説話にカナヤマヒコは登場しない)、この由緒がどこから来たものか疑問。
 また神武東征説話の舞台は大和(奈良)を中心とした近畿以西であり、美濃の地にかかわる記述はない。

 中段に、崇神天皇のとき府中から現在地に奉遷したというのは、当社が崇神朝以前の弥生時代から府中の地(国府所在地だが古代地名は不明)にあったということを意味する。
 また、その旧社地から現在地への遷座が崇神朝というのは、崇神紀7年11月条に「八百万の群神を祀った」とあるのを承けて、当社を八百万の群神の一とみてのことだろうが、古墳時代前期(4世紀頃)といわれる崇神朝での神マツリは、随時神籬(ヒモロギ)を設けてのそれであって、常設の神社があったとは思えない。

 このように、当社創建由緒と記紀の記述をつきあわせたとき、由緒の記述は、当社の創建を古く見せんがために作られた由緒といわざるを得ないが、作られた由緒とはいえあまりにも索強附会すぎる。

 なお、当社が南宮と呼ばれることについて、由緒には“府中の南に位置する故に”とあるが、撰輯式内社のしおり(2009)所収の“四つの南宮”(南宮と称する4社に関する小論文)には、
 「美濃の南宮神社は、古くは仲山金山彦神社と呼ばれていたもので、それが南宮神社と変わってきたのは平安時代後期のことらしい。これは、永万元年(1165)の神祇官御年貢進社事という注文に南宮社の名がみえているので疑いない。
 しかし、その理由はよくわからない。
 一般には、はじめ国府に祀られていたが、後に南方へ移されたので南宮というようになったといわれているが、この神社は始めから山容高貴な美濃の中山に鎮座していたと思われ、移動説は頷けない。
 国府の南に在ることから、誰いうことなく何時しか南宮と称するようになったのであろう」
ととして、遷座説を否定し、単に国府の南にあったことから南宮と称するようになったのだろうという。

 因みに、美濃国国府が現垂井町府中にあったのは史実で、発掘調査(平成3~9年)により、旧国府庁舎が当社の摂社である南宮御旅神社(垂井町府中2506)の地にあったことが確認されている。
 府中に御旅神社があることは、古代の当社が国府の地にあったという伝承を承けてのものだろうが、発掘では国府庁舎跡以外の遺構は発見されていない。

 上記以外に、特異な説として陰陽五行思想によるとの説がある(神社と古代民間祭祀・1989)
 それは、当社祭神・カナヤマヒコの出生からくるもので、書紀(一書4)には
  「火の神カグツチを生もうとするときに、熱に苦しめられ嘔吐(タグリ)した。これが神となり、名をカナヤマヒコという」
とあり、イサナミが火の神を生んだとき、その熱(火)に苦しんで吐瀉した嘔吐物・タグリから成ったという(古事記も略同じ)

 このカナヤマヒコは鉱山・採鉱・製鉄などに関わる神といわれ、五行説では金の方位は西であることから、本来は国府の西方に祀られるべきだが、それを南方に祀ったのは、五行相剋(ゴギョウソウコク、万物の元である木火土金水の相互関係を説いた説)にいう「火剋金」(カ コク キン、堅い金属も高温の火によって溶解することから、火は金に勝るという説)の理から、カナヤマヒコ生誕のもとであるタグリ(嘔吐による吐瀉物)を鉱石が火によって溶けた熔鉄とみて、火の方位である南に祀られたのではないかという。


 当社の創建時期を崇神朝或いはそれ以前とするのは伝承に過ぎないが、神社明細帳(1952)には
  「社伝古記録を按ずるに、天武天皇元年(壬申)6月、天皇野上行宮に坐して軍を督し給ふや、当社に戦捷を祈らせ給ひ、御即位の後、行宮の宮殿を当社に寄せ給ひぬ」
とあり(式内社調査報告)、当社が、天武朝の頃にあったことを示唆している。
 これは天武紀元年(673)6月条にいう
  「(不破に入られた)天皇は野上に行宮(カリミヤ)を設けられた。この夜雷鳴があり豪雨が降った。天皇は祈り占って『天地の神々よ、吾を助けてくださるのであれば、雷雨を止めさせ給え」といわれた。言い終わられるとすぐに雷雨は止んだ」
との記述を承けたものと思われ、当時、当社が実在したのであれば、当社への奉幣はあり得ることだろうが、それを証するものはなく、また、記紀に即位後行宮の建物を当社に寄進したとの記述はない。

 なお、当社の北西方(当社と不破関跡の中程にある野上の北方すぐ)にある式内・伊富岐神社(美濃国二の宮・垂水町伊吹)の社伝にも、天武(大海人皇子)が戦捷を祈願し、即位後、行宮を寄贈したとあるという(古代民間祭祀)

 この野上行宮について、続日本紀・孝謙天皇天平宝宇元年(757)12月9日条に、
  「贈従五位上の尾張宿禰大隅の、壬申の年の功による功田四十町(持統天皇10年・696-拝受という)は、天智天皇崩御の後、ひそかに関東に出て兵を興された天武天皇の先払いとなり、私邸を掃い浄めて行宮とし、軍費をお助けした。その功績は実に重いが、大功に準ずるほどではなく、令条によって上功とし、三代の後まで相続させる」
とあり、ここで大隅が提供した私邸が野上行宮であり、彼が提供した軍費とは、尾張氏と同族とされる伊福部氏(イフクベ)が鍛造した武器ではないかという(同前)

 ここでいう尾張氏・伊福部氏とは、新撰姓氏録(815)・大和国神別の項に「尾張連 天火明命(アメノホアカリ)の子・天香語山命(アメノカゴヤマ)の後也」(伊福部氏も同じ)とある氏族で、伊福部氏は同族の尾張氏と共に当地一帯に居住し、金属の鋳鍛造・鉄製武器の製作などに当たったという。
 因みに、伊吹山の南麓に当る当地一帯では、古くから、山から吹きおろす強風・伊吹おろしを利用したタタラ製鉄が盛んで、それを管理経営したのが尾張氏で実働部隊が伊福部氏ではなかったかという(同前)

 これらのことからみて、当社は、由緒にいう神武東征における功というより、当地に居住していた伊福部氏(あるいは尾張氏)が、自らが従事する製鉄・製銅作業の守護神としてのカナヤマヒコを祀ったものとみるのが順当で、その創建は、早ければ天武朝前後(7世紀後半頃)とみてもいいかもしれない。

 創建後の経緯は不明だが、朝廷からの崇敬が篤かったようで、平安時代にはいると著しい神階昇叙がみられ、
 ・承3年(836)--美濃国不破郡仲山金山彦大神に従五位下を授け奉り、名神に預かる--続日本紀
を嚆矢として、
 ・承和13年(846)--従五位下→正五位下--続日本紀
 ・貞観元年(859)--従三位→正三位--三代実録
 ・同6年(864)--正三位→従二位--同上
 ・同15年(873)--従二位→正二位--同上
とあり、また平将門の乱(939--40)平定に験があったとして天慶3年(940)には勲一等が授けられ、また、安倍貞任・宗任の乱(1062)平定に験ありとして最高神階・正一位が授けられたという(美濃明細記)

 なお、当社と平将門との関係について、新撰美濃志(1931)に、
  「荒尾村 御頭神社 平将門の霊を祭る。
 藤原秀鄕等将門を誅殺して其の首を都に送りしに、其の首獄門をぬけて関東に下らむとせしを南宮にいます隼人の神矢を放ちて射落し給ふ。即ここに祭りて首の社と称す。・・・
 又里人の説には、将門の首形を作りて南宮社にて降伏を祈願ありしに、其作りたる首霊威ありて動揺し人民を驚かしければ、荒尾村の土中に埋みて祠を立て御首社と名付けしよりいへり。・・・」
とあるのも、上記、天慶3年の叙勲との関係かと思われる。

※祭神
 祭神・カナヤマヒコの出自については、
 ・古事記--火のカグツチ神を生んだために、イザナミ命は陰部が焼けて病の床に臥された。
         そのときタグリ(嘔吐)から成った神の名は、カナヤマヒコ神とカナヤマヒメ神である。
 ・書紀(一書4)--イザナミ命が火の神・カグツチを生もうとするときに、熱に苦しめられ嘔吐した。
            これが神となり、名をカナヤマヒコという
とあり、いずれも火の神・カグツチを生んだがために病臥したイザナミのタグリ(嘔吐による吐瀉物)から成りでた神という。

 このタグリを、タタラ製鉄で溶け出てくる溶融物と見立て、カナヤマヒコは鉱山・採鉱・製鉄・金属鍛冶などを司る神で、それらに携わる技工らの守護神ともされている。

 当社と鉱物との関係について、谷川健一氏は、当社の宮司から
 ・当社の北東にある金生山のまえには銅が転がっていたこと
 ・金生山の北側には鉄・銅が多く産し、戦時中までは鉱山として採掘がおこなわれていたこと
 ・関の孫六で有名な関市の刀工は当地から移っていったこと
 ・この辺りで伊吹おろしと呼ばれる冬季の西北風は、寒いというより痛いくらいに強烈なので、昔はたたらを風の方向に向けておくと足で強く踏まなくても、風が炉の中に入って炭をおこすことができたこと
などの話を聞いて、当社は金属鍛冶業者との関係が深いと推測している(青銅の神の足跡・1989)

 今も、当社の特殊神事・鞴祭(フイゴマツリ・11月8日)では、金属の神・カナヤマヒコを祀るに相応しく、古代の製鉄法であるフイゴを使っての古代に則った神事が奉仕されるという(谷川氏が見たフイゴ祭は、拝殿の正面に設けられた祭場で、炭火に焼いた鍬先を禰宜が金槌で鍛えるだけの素朴なものだったという)

 また、真弓常忠氏によれば、
 ・本殿の右側後方の玉垣内西南隅には“曳常泉”(ヒキトコノイズミ)の旧跡があり、その南方に玉垣を隔てて末社金床・金敷社があり、背後に一は舟型、一は平板な巨石があって、これをご神体としている。
 溶鉄の凝結に用いられたものと思われ、曳常泉は溶鉄の冷却に有用であったと察せられる
として、当社と製鉄との関係を示唆している(私の一宮巡詣記・大林太良・2001)

 これらのことから、当社が南宮神社と称するのは俗称であって、本来は延喜式にいう仲山金山彦命神社(仲山に坐す金山彦命を祀る神社)と称すべきであろう。

 異説として美濃国式内神社祭神記(18世紀初頭頃か)や美濃明細記(1738)には
  ・御野命(見野命、ミノ)--国名・ミノに因む当国の産土神だろうという
  ・彦火々出見命(ヒコホホデミ)--天孫・ニニギ尊の御子(山幸彦)
  ・罔象女命(ミツハノメ)--水の神
  ・埴山姫命(ハニヤマヒメ)--土の神
の四座を挙げているという(式内社調査報告)
 御野命が当地の産土神であれば(御野は美濃か)祀られるに一理はあるが、彦火々出見命以下の三座を祀る理由は不明。

※社殿等

  右配置図にみるように、社域西寄、瑞垣(築地塀)に囲まれた中が境内。鳥居はない。
  東側築地中央にある楼門(二階建・朱塗・桧皮葺)が入口で(直前に石造の橋が架かる)、境内前庭部中央に高舞殿(朱塗)が、その奥が拝殿(朱塗平屋造・桧皮葺)で、拝殿から左右に回廊が延びている。

 拝殿の奥、弊殿に続いて本殿(入母屋造・桧皮葺)が東面して鎮座するが、回廊欄間の隙間からでは本殿屋根の一部が見えるのみで全体像は不明。

 略誌によれば、
  「現在の社殿は、天下分け目の関ヶ原合戦(1600)の折、兵火にかかって炎上。寛永9年(1632)秋、徳川三代将軍家光公による天下普請(将軍の命による造営)によって旧態のまま造営されたものです。
 豪壮華麗な朱塗りの社殿様式は、正しく御神威表徴する独自の様式であり、世に南宮造りとも称せられる名建築であります」(大略)
という。

 確かに、朱塗社殿に囲まれた境内は美麗で、美濃国一の宮として相応しい規模を備えているが、あまりにも囲い込まれていて開放感はない。
 
社殿配置図
(栞より転写)


南宮大社・楼門 

同左(側面) 

同・高舞殿 
 
同・拝殿
 
同・本殿

◎末社
 回廊と瑞垣に囲まれた神域内に
 ・本殿左(南側)--高山社(コノハナサクヤヒメ・ニニギ尊)
             南大神社(アメノホアカリ命-尾張氏の祖神)
 ・本殿右(北側)--樹下社(大己貴命、江戸時代までは十禅師社と呼ばれる仏寺で、神仏分離により仏像等を他に移し、樹下社として独立してという)
             隼人社(火闌降命・ホスソリ-隼人族の祖神)
 ・本殿裏(西側)--七王子社(大山祇神・中山祇神・麓山祇神・正勝山祇神・高龗神・闇龗神)--実見不能
 ・瑞垣外(東側)--美濃国総社(サルタヒコ、敷立社ともいう)
 上記以外に、瑞垣の外に末社が12社あるというが(式内社調査報告)、時間なく不参詣。


末社(左:南大神社、右:高山社) 
 
末社(左:樹下社、右:隼人社)
 
末社(美濃国総社)

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