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大麻比古神社
徳島県鳴門市大麻町板東字広塚
祭神--大麻比古大神・猿田彦大神
                                                                2014.01.27参詣

 延喜式神名帳に、『阿波国板野郡 大麻比古神社 名神大』とある式内社で、阿波国一の宮と称する。
 社名は“オオアサヒコ”と読む。

 JR高徳線・板東駅の北約2km、南流する板東谷川と椎尾谷川に挟まれた舌状河岸段丘に鎮座し、板東谷川に架かる祓川橋を渡った先が境内で、神社の背後に当社奥宮が鎮座する大麻山(H=538m)が聳える。

 JR高徳線・板東駅の北約2km、北方から南流する二つの川・板東谷川と椎尾谷川に挟まれた舌状河岸段丘に鎮座し、その突端、板東谷川に架かる祓川橋を渡った先が境内。

 神社の背後(北)約2kmに、当社奥宮が鎮座する大麻山(H=538m)が聳える。 

                                     大麻山遠望(祓川橋南袂より)⇒                                   

※由緒
 大麻比古神社御由緒略記(以下、略記という)によれば、
  「神武天皇の御代、天太玉命の御孫・天富命、勅命を奉じて治く肥沃の地を求め、阿波国に到りまして、麻褚を橎殖し、麻布木綿を製して殖産興業の基を開き、国利民福を勧め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。
 猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐したが、後世に至り本社に合わせ祀ると伝える。
 延喜の制名神大社に列し、阿波国一の宮と称え、阿波・淡路両国の総産土神として崇め奉る」
という。

 これによれば、当社は古代朝廷で祭祀に携わった忌部氏(インベ、後に齋部と改姓)が奉祀した社となるが、忌部氏は、おおまかにいって、中央にあって古代の神祇祭祀に携わった忌部本宗家(書紀・天岩屋段に「忌部首の遠祖・天太玉命-アメノフトタマ」とある)と、地方にあって、祭祀等に必要な品々を貢上した地方忌部氏の二つに分かれる。

 その地方忌部氏とは、古語拾遺(807・忌部氏系史書)に、「太玉命の率いたる神の名は・・・」として記す5柱の神を祖とする氏族で、その冒頭に、
  「天日鷲命(アメノヒワシ)--阿波国の忌部等が祖なり」
とある(書紀・天岩屋段にも「天日鷲は阿波国忌部の遠祖」とある、残る4柱は、手置帆負命-讃岐忌部、彦狭知命-紀伊忌部、櫛明玉命-出雲玉造、天目一箇命-筑紫伊勢忌部の祖)

 この天日鷲命(神産霊命の裔)と天太玉命(高産霊命の裔)との間の血縁関係は不明だが(天日鷲命は天太玉命の妻の兄弟という)、管見した忌部氏系図によれば、二つの系図
 ・神皇産霊命・・・・天日鷲命--大麻比古命(津咋耳命)--由布津主命
 ・高皇産霊命--天太玉命--天櫛耳命--天富命--飯長媛命
にみえる由布津主命(ユフツヌシ)と飯長媛命(イイナガヒメ)との間に生まれた“訶多々主命”(カタタヌシ)が“阿波忌部氏”の祖という。

 略記にいう「天太玉命の御孫・天富命(アメノトミ)、勅を奉じて云々」とは、古語拾遺に
  「(神武天皇が橿原に即位し宮殿を建てたとき)天日鷲命が孫、木綿(ユフ)・麻(オ)・織布(アラタヘ)を造る。仍りて、天富命をして日鷲命が孫を率て、肥饒(ヨ)き地を求めて阿波国に遣わして、穀(カヂ)・麻の種を植えしむ。其の裔、今彼の国に在り。大嘗(オオニヘ)の年に当たりて木綿・麻布(アラタヘ)及び種々の物を奉る」
とあるのを承けたものであろう。

 今、当社の社名はオオアサヒコと称しているが、神道では大麻の書いて“オオヌサ”と読む(大弊とも書く)
 オオヌサの“オオ”は美称で、“ヌサ”とは神への供え物あるいは修祓(お祓い)に使用する道具の一つを指し、榊の枝あるいは白木の棒の先に細く裂いた麻や木綿を垂らして造られ(後には布帛や紙を裂いたものを用いた)、そこから麻や木綿・布など神事に使う物自体もオオヌサと呼ばれたという。
 阿波忌部氏が麻・綿等を栽培し、麻布・木綿などを貢上したということは、朝廷あるいは中央にあって神祇を司っている忌部本宗家に、祭祀に必要なオオヌサの材料を提供していたことを意味する。
 なお、大麻を“タイマ”と読めば麻薬の一つで、取り締まり対象となる(ただ、伊勢神宮では神府-お守りのことをタイマと称している)

 旧阿波国は今の徳島県全域をさすとされる。しかし古くは、北部の“粟国”と南部の“長国”に分かれていたが(当地は粟国に属する)、大化改新(646)以降粟国として統一され、和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命により“阿波国”と改称したという。

 この旧粟国と忌部氏との関わりは、先代旧事本紀(9世記前半・物部氏系史書)
  「粟国造  応神朝の御代、高皇産霊尊9世の孫・千波足尼(チハノスクネ)を国造に定む」(国造本紀)
とあるように古くからのもので、応神朝での任命は疑問としても、初代国造とされる千波足尼の名が系図に訶多々主命9世の孫(粟国造との注記あり)として見えることから(旧事本紀がいう高皇産霊は訶多々主の誤記であろう)、粟国造家が阿波忌部氏一族であったのは確かで、姓氏家系辞書(1974)にも
  「粟国造は粟忌部氏族 粟忌部の宗家である。この国造家を粟凡直(アワノオウシノアタエ)という」
とある。

 この粟凡直(阿波忌部)一族は、当社が鎮座する阿波国の北東部・板野郡を拠点として、周囲の麻植・阿波・名方郡一帯を支配していたといわれ、その粟凡直一族が祖神を祀る社として創建したのが当社だろうが、その創建年代を示唆する史料はない。

 なお、当社に対する神階授与記録として、三代実録(901)
 ・貞観元年(859)正月27日条--阿波国従五位下大麻比古神・・・に従五位上を授く
 ・ 同 9年(867) 4月23日条--従五位上→正五位上
 ・元慶2年(878) 4月14日条--正五位上→従四位下
 ・ 同 7年(883)11月甲子条--従四位下→従四位上
とあり、9世紀以前からの古社であるのは確か。

◎一の宮
 当社を一の宮とする資料としては、大日本一宮記(16世記・室町中期頃)
  「大麻比古神社猿田彦神 阿波国板埜郡」
とあるのが初見で、今流布している一の宮巡拝記などの殆どが当社を以て阿波国一の宮としている。

 しかし、阿波国一の宮は時代により変遷があったようで、当社が阿波国一の宮となった経緯について、中世諸国一宮制の基礎的研究(2000)には、
  「南北朝時代に、細川氏の守護所(現阿波市秋月か)にも近く、伝統的な社格(名神大社)を誇っていた大麻社が、敵対勢力であった一宮氏が神主を世襲していた一宮神社に代わる新たな阿波国一宮としての地位を得ることになったと考えられる」
とあり、足利幕府成立(1338)とともに阿波国守護職(シュゴシキ)として入府した細川氏(守護職在位・1338--1582、盛衰在り)の崇敬をうけた当社が、それまで一の宮であった一宮神社(現徳島市一宮町)に代わる一の宮としての地位を確保したという(14世記後半頃か)

 因みに、阿波国一の宮については、当社以外にも
 ・八倉比売神社--徳島市国府町矢野
 ・上一宮大粟神社--名西郡神山町神領
 ・一宮神社--徳島市一宮町(上一宮大粟神社の分社)
の3社があり(いずれも、式内・天石戸別八倉比売神社の論社)、基礎的研究によれば、阿波国一の宮の地位は、
  上一宮大粟神社-(12世記説・14世記初頭説あり)→一宮神社-(14世記後半頃)→大麻比古神社
と変遷したという。
 なお、基礎的研究は八倉比売神社を一の宮とはしていないが、この神社が名神大社・天石戸別八倉比売神社の最有力論社であること、阿波国国府に最も近いことなどから、上一宮大栗神社より前の一の宮であった蓋然性は高いと思われるが、それを証する資料はないという。

※祭神
 今、当社祭神は大麻比古大神(オオアサヒコ)と猿田彦大神(サルタヒコ)となっているが、延喜式にいう祭神は一座であり、略記に「太祖天太玉命を此の地に斎き祀る」とあることからみて、本来のそれはオオアサヒコ大神即ちアメノフトタマ命一座で、サルタヒコ大神は相殿神であろう。

 ただ、古来、当社祭神として、おおまかにいって、明治以前はサルタヒコ説あるいは天日鷲命説が提唱され、明治以降は天太玉命説が有力になったという(式内社調査報告、以下同じ)

*サルタヒコ説
 室町から江戸時代にかけて提唱された説で、
  神名帳頭註(1503・室町後期)--阿波板野郡 大麻彦 猿田彦命
  大日本一宮記(16世記中葉・室町末)--大麻比古神社 猿田彦神 阿波板野郡
  阿波国式社略考(1815・江戸末期)--板東村の北、山の麓に鎮り座す。祭神猿田彦大神なり
とあるが、いずれも、その理由には触れていない。

 当社にサルタヒコが祀られた経緯を示す資料として、
 宝暦14年(1764・江戸中期)、別当霊山寺本願実相院神主永井若狭他から郡代奉行に差し出された文書には、
  「板野郡板東村大麻彦神社の義は天照大神宮御導引の神と申し伝へ候。
 往古には、峯(大麻山)に権現と申す三社御座候ふ由、谷に大麻大明神の社之在り候に付、峯の権現を只今の大麻宮社へ勧請仕り候由申し伝え候、但し権現に仕え候時代は相知れずと申し候」(漢文意訳)
として、時期不明ながら、大麻山に坐した権現(サルタヒコと思われるが、三座というのは不詳)を山麓の当社に勧請したという。
 ただ、冒頭にいう“天照大神宮御導引の神”が何を指すか不詳。導引を案内と解すればサルタヒコとも解されるが(天孫降臨の段)、天照大神宮とは繋がらず、また、“谷に大麻大明神社あり”ということからすれば、その大明神社の祭神を指すとも解され、はっきりしない。

 民俗信仰におけるサルタヒコは塞の神(サイノカミ)・道祖神として信仰されることが多く、此の地と彼の地との境界である峯(山頂)にあって、彼の地(他界)から入ってくる邪神・悪霊を遮り、且つ、そこを通る旅人の安全を守るとされる。
 そのサルタヒコを、旧南海道(当社近くを通っていたという)近くにあった当社に合祀し、旅人の安全を祈ったと思われるが、サルタヒコがもつ地主神という神格(根拠不明)も考慮されたのかもしれない。

*天日鷲命説
 江戸時代の当社神主・永井若狭による郡代奉行への申立書(享保14年-1754)で主張された説で、
享保の申立書には
  「大麻宮の社は神代より御鎮座にして、アメノヒワシ命天の清水を求め給ひ天津麻を曙し給ふ(生育し始めたの意か)。その清水此所に有りて世々此の清水を以て心を清め身を清めれば病を祓い心穢れを除くと申し伝え候。大麻宮の社号も是より起こり候儀に御座候。
 御神体をサルタヒコ大神と崇め奉り候儀、秘説これあり候へども、神慮恐れある儀と委細には顕し難く存じ奉り候」(漢文意訳)
とあり、天津麻(大麻)を育て始めたアメノヒワシ命祭神説を示唆し、サルタヒコについては秘儀ありとして、暗に否定している。

 また、江戸後期の国学者・平田篤胤は
  「国人はこれを猿田彦神と言ふよしなりど信じ難し」
とし、古語拾遺にある
  「天日鷲神をして木綿を作らしむ」
との記述を根拠にアメノヒワシ祭神説を提唱しているという。

 当社が阿波忌部氏によって創建されたとする由緒から見て、阿波忌部氏の始祖・アメノヒワシを祭神とするのは一理あることで、この説は明治以降のアメノフトタマ説に繋がるものといえる。

*天太玉命説
 主に忌部氏系の人々により提唱された説で、当社もこれによっている。
 この説について、諸資料(式内社調査報告・日本の神々・当社HPの祭神解説など)を基にまとめると、概略次のようになる。
 ・太古の昔、アメノフトタマの孫・アメノトミ命が勅命により忌部氏系一族を率いて阿波国に至り、麻・楮の種子を播き麻布・木綿の類を製し殖産興業の基を開いた。
 ・そして、土地の守護神として、板野郡に太祖アメノフトタマを祀る大麻比古神社を、麻植郡(オエ、現吉野川市一帯)にはアメノヒワシを祀る忌部神社(式内社、徳島市二軒屋とするが論社あり)を創建した。
 ・アメノヒワシは阿波忌部の祖先であるから、忌部の神または地名をとって麻植の神と称し、
 ・忌部一族の太祖・アメノフトタマを当社の祭神として、社名を大麻比古神社と称した。

 これによれば、祭神・オオアサヒコとは特定の神名ではなく、忌部一族の祖神を表す象徴的な神名で、具体には太祖・アメノフトタマを指すとなる。

 ただ、この象徴的神名をオオアサヒコとする理由は不明。
 というのは、阿波忌部氏の祖・アメノヒワシの御子にオオアサヒコなる名が見え(上記系図)、当社が、忌部本宗家というより、それから別れた阿波忌部氏が奉祀する神社であることからみれば、本来はアメノヒワシを祀るべきところを、別に忌部神社がアメノヒワシを祭神とすることから、当社は、その御子・オオアサヒコを祀ったともとれる。

 この御子・オオアサヒコとは、安房国(アワノクニ・千葉県南部)の下立松原神社(式内社、千葉県南房総市、祭神:天日鷲命外4座)に伝わる忌部氏系図によれば、
  「オオアサヒコはアメノヒワシの子で、亦の名を津咋見命(ツクイミ)という」
とあり、古語拾遺・天岩戸段には、
  「天日鷲神と津咋見命とをして穀(カヂ)の木を植えて、白和幣(シラニギテ)を作らしむ」
とある。
 これは書紀・天岩戸段にいう  
  「下の枝には阿波国の遠祖・アメノヒワシが作った木綿(ユウ・白和幣と同じ)をかけて・・・」
との紀事と整合し、オオアサヒコ=ツクイミというのも一見識だが、書紀にツクイミの名は見えない。

 当社の祭神について、日本の神々2は次のようにいう(要旨、私見付加)
 ・当社がある板野の郡名は、潮野(イタノ)からの用字変換で(利根川下流の潮来の潮もイタと読む)、当地一帯は旧吉野川下流に広がる沖積平野で、旧吉野川の氾濫域であるとともに、満潮時には海の潮が流入する低湿地であった。
 ・その河口付近には、古代の官道・南海道の表玄関ともいえる撫養(ムヤ)の港があった(鳴門市木屋付近-当社の東南約3km-に比定)

 ・神名・津咋見を分解して、“津=船着き場”、“咋=杙・杭”、“見=霊”と解すれば、ツクイミとは港の造営整備のために打たれた杙の神格化であり、杙が土地の領有権を示すことから、港の守護神とも解される。

 ・一方、当社の北約2kmに位置する大麻山(H=538m)は航海の目印となる山で、そこに坐す祭神・オオアサヒコは大麻山の神霊であるとともに、航海の守護神でもあったに違いない。

 ・祭神・オオアサヒコは、阿波忌部氏の祖神(御子・オオアサヒコ=ツクイミ)というが、一面では、紀伊水道を往来する舟人から、航行安全の神・港の神として崇敬されていた(在地の)神だったのではなかろうか。

 ・その後、中央における忌部氏の勢力衰退にともなう阿波忌部氏の退潮とともに、祭神・オオアサヒコと忌部氏との関係が忘れられ、港の神・交通の神としての神格のみが残り、
 ・それが塞の神・交通安全の神としてのサルタヒコを合祀する契機であり、
 ・一宮記以下中世以降の諸資料が祭神・サルタヒコとする背景ではないかという。

※社殿等
 板東谷川に架かる朱塗りの祓川橋(L=50m)を渡り、鳥居をくぐって進むと、参道の真ん中に大きなご神木(楠の木、樹高22m・幹廻8.3m)が大きく枝を広げている。
 なお、祓川橋から南行した先に朱塗りの大鳥居(H=16m)が立つというが実見せず。

 十数段の石段を登り、注連縄を張った〆鳥居を入った正面拝殿(千鳥唐破風向拝付入母屋造・銅板葺)が、その奥、三方を透塀に囲まれた中に弊殿を挟んで本殿(三間社流造・銅板葺)が、いずれも南面して建つ。

 
祓川橋
(正面樹木の後ろ辺りに大麻山がある)
 
大麻比古神社・鳥居
 
同・ご神木(参道の真ん中にある)
 
同・〆鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿(左側面)

◎境内末社
 略記によれば、境内には末社として、次の7社がある。
 ・奥宮峯神社--猿田彦大神--大麻山山頂に鎮座、(不参詣)
 ・西宮社--天照皇大神--境内西側、椎尾谷川を渡った外、北側に鎮座
 ・豊受社--豊受大神--社殿域の右側背後(東北方)に鎮座
 ・山神社--大山祇神(オオヤマツミ)--社殿域背後に鎮座
 ・丸山社--丸山神--境内南西方の稲荷社の上に鎮座、(不参詣)
 ・水神社--水波女神(ミツハノメ)--社務所裏に鎮座、(不参詣)
 ・中宮社--不明--社殿域の左(西側)に鎮座
 奥宮峯神社以外の勧請由緒・時期などは不明

 
西宮社
 
豊受社
 
山神社
 
中宮社

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