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大神神社(尾張国一宮)
愛知県一宮市花池
祭神--大物主命
                                                                2013.09.26参詣

 延喜式神名帳に、『尾張国中嶋郡 大神神社 名神大』とある式内社で、尾張国一の宮と称する。大神は“オオミワ”と読む。

 名鉄・尾張一宮駅の西南約1.5km程の市街地の中に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる「尾張国一之宮 大神神社の由来」(以下、由来という)には、
  「祭神 大物主神
  崇神天皇の時代、疫病が流行したときに天皇が祀った神々の一柱。大和国の一の宮大神神社の祭神で、三輪の神と呼ばれ、大国主神(大黒様)の別名がある。
  大和の大神神社とおなじく、大和系の人々が三輪の神を祀ったことにはじまるといわれる。
  鎮座地の花池は水が美しく蓮田が多く、毎年熱田神宮に奉納する蓮が咲く沼であった。
  奈良時代に国司が赴任して、国中の神社を代表として国府宮の尾張大国霊神社を尾張の総社に指定、次いで花池の大神神社と真清田神社をまとめての『相殿・対の宮』と言うことで『尾張の一之宮』に指定した。
  文徳実録・尾張国帳には従一位大明神とあり、三宮明神・三明神へ神宝として珠・鏡・矢と三種の御証印があったと称せられ、延長5年延喜式神名帳には式内社とあり、勅祭神社であったことが判る。
  尾治の国中には、大明神8座、小123座あって、当時の大明神8座の内の一座である」
とある。

 これによると、当社は大和の三輪氏一族が当地に移住し、その祖神を祀った神社となる。
 尾張国式社考に
  「大神は於保美和(オホミワ)と訓へし。地名及び氏なり。郷は和名抄(937)に尾張国中島郡美和と見え、・・・」
とあり、当地が、古く三輪郷・大神郷などと呼ばれていたことから、当地に三輪氏系を中心とする大和の人々が住み、当社を奉祭した蓋然性は高い。

 この大和系の人々にかかわって、本国(尾張国)神名帳集説(1707・江戸中期)
  「按姓氏録に曰く、大神朝臣、素佐能雄命六世孫・大国主の後也。
   三代実録に曰く、真神田朝臣全雄大神朝臣の姓を賜う。大三輪大田田根子命の後也。大和国大神大物主神社同神」
とあり、大和の大三輪氏に連なる真神田氏(マカミタ)一族が、祖神・オオモノヌシを祀ったのではないかという。

 真神田氏とは、大和の大神氏(大三輪氏)に連なる復姓氏族(大氏族と婚姻関係あるいはその姓を下賜されて一族に連なり、二つの姓を重ねた氏族)で、大和国高市郡(現奈良県橿原市付近)が本拠という。
 天武紀5年(678)条に、壬申の乱(672)に際して、天武を伊勢の鈴鹿で出迎え、戦陣で功があったた伊勢国介・大三輪真上田子人君(オオミワ マカミタノコビトノキミ)が亡くなったとき、壬申の年の功で内小紫の位と、大三輪真上田迎君(オオミワ マカミタムカエノキミ)の諡号を賜ったとあり、これ以降、大三輪(大神)真神田君を名乗ったらしい。
 また、三代実録・清和天皇貞観4年(862)3月条に
  「右京の人、左大史正六位上真神田朝臣全雄(マタオ)に姓を大神朝臣と賜ひき。大三輪大田田根子命の後なり」
とあり、同光孝天皇仁和3年(887)3月条に
  「大神引田朝臣・大神楉田朝臣・大神掃田朝臣・大神真神田朝臣等は遠祖同じと雖も派別各々異なり、・・・」
とあり、いずれも大田田根子を遠祖とする大神氏の一族という。

 この大神真神田氏一族と当社との関係を記す確かな史料はないが、蓋然性は高いといえるのではなかろうか。

 由来中段に、当社が一の宮となった経緯を記しているが、“当社と真清田神社をまとめて相殿・対の宮として一の宮に指定した”というのはよくわからない。
 通常、相殿とは一つの神社に2神(あるいはそれ以上)を合祀した状態をさすが、管見のかぎりでは、本国神名帳集説(1707)
  「当社一旦荒廃 御正躰を以て真清田神社に蔵す。別宮の故也」
との注記があるのみで、これを以て相殿というのかもしれないが、これは一時的なもので、これを以て相殿社というのは弱すぎる。
 ただ、由緒に“対の宮”、集説に“別宮”とあることからみて、両社の間に何らかの関係があったかとも推測できるが、その詳細は不明。

 なお、真清田神社の由緒には、一の宮・真清田神社、二の宮・大県神社、三の宮・熱田神宮とあるものの、そこに当社の名はみえないく(別稿・真清田神社参照)、また大日本一宮記(群書類従所収)にいう尾張国一宮は真清田神社のみで当社の名はみえない。

 これらからみて、当社が一の宮とされた経緯など不明といわざるを得ず、ネット資料によれば、当社が熱田神宮と関係が深かった(曾ては熱田荘と称し、毎年、蓮の花を奉納していたという)ことから一の宮に指定されたのではないかともいうが、それを証するものはない。

 当社創建後の経緯について、由緒には何も記されていないが、ネット資料によれば、“戦国時代の浅井田宮丸の乱で社殿を焼失し、神宮寺である薬師寺の境内に遷座し、明治3年(1870)薬師寺に隣接する現在地に再建された”という。
 焼失した旧鎮座地は、当社の北西に道路を挟んである古宮公園(花池2丁目9)の地といわれ、又、当社の東隣に薬師寺があることから、上記記事は史実を伝えるものと思われる(下記・付近地図参照)

 なお、浅井田宮丸(長時)とは織田信雄(信長の次男)に仕えた重臣で、豊臣秀吉と織田信雄が不仲となったあと、秀吉に通じたと疑われ、天正12年(1584)に他の2重臣とともに謀殺されたという。
 当社の西南約800mに、その居城・苅安賀城の名をひく刈安賀町があることから、謀殺後、一族家臣等が退転する際に何らかの争いがあり、それにより類焼したのかもしれない。
 なお、由来によれば、当社の旧鎮座地は愛知県一宮市大和町宮地花池字西屋敷とあるが、これが古宮公園付近の旧地名かどうかは不明。

 当社は今、中島郡にある名神大社3社の一とされているが、当社のみが延喜式の臨時祭式にいう名神祭に預かる神社名にその名がないことから、名神大社であることを疑問視する資料(尾張志)もある。
 延喜式神名帳の神社数と臨時祭式のそれとに差があるのは事実だが(306座対285座)、神名帳(927)が、はじめに弘仁式(820)登載の神社を、次に貞観式(871)登載のそれを記し、その末尾に貞観式以降の官社を列記しているらしいことから、当社は貞観式以降に名神大社となったために、臨時祭式に列していないのではないかとして、名神大社であることは是認されている(新編一宮市史)

※祭神
 今の祭神は大物主神(オオモノヌシ)というが、当社が大和の大神神社を勧請したものであれば、これに問題はない。

 これに対して、
  ・今按ずるに、火明命十世の孫・大美和都禰命(オオミワツネ)か、尾張氏同祖神也--本国神名帳集説・尾張志
  ・祭神大美和都禰命は天火明命の十世の孫なれば、尾張氏同祖の御神なり。当国に祀られるは故ある事にて、大和の三輪とは別神なり」--尾張国名所図説後編(1880)
として、尾張氏の遠祖・ホアカリ命に連なるオオミワツネ命とする説もあり(式内社調査報告)、当地が尾張氏の勢力圏内にあることから、無視はできない。

 ただ、このオオミワツネ命について、姓氏録に
  「大和国神別(天孫) 工造 伊福部宿禰同祖 火明命十世孫大美和都禰乃命之後也」
とあることからアメノホアカリ命の後裔で、尾張氏に関係するとは思えるが、管見した尾張氏系譜には類似の名を含めてオオミワツネの名は見当たらない。

※社殿等
 道路脇に立つ鳥居を入った左手に社殿が鎮座する。
 拝殿は三間社切妻造(コンクリート造)瓦葺だが、淡いピンク色に彩色されていて、神社としては違和感を感じる。
 その奥、渡り殿を介して一間社(二間社か、よくわからない)流造・銅板葺きの本殿が建ち、その左右に小祠各2宇(一間社流造)が鎮座する。
 拝殿内に掲げる案内には、右:六所社・三島社、左:白山社・神明社とあるが、詳細不明。
 当社に関する資料少なく、社殿の造営年代等詳細は不明。

 
大神神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿

◎藩塀(ハンベイ又はハンヘイ)

 当社拝殿の正面、社域境界の手前木立の中に、衝立のように短い横長の塀が立っている(間口3間)
 この塀は、通常“藩塀”とよばれるもので、不浄除け・透塀(スカシベイ)・籬(マガキ)などともよばれる。

 通常は、鳥居・参道・拝殿を結ぶ線上にあって、拝殿正面に平行して設けられる施設で、外(異界)からやってくる邪霊・悪霊といった不浄なもの遮り、神域(聖域)への侵入を防ぐために設けられたという(人は藩塀の左右を迂回できるが、邪霊・悪霊は直進しかできないという)

藩 塀

  付近地図(:藩塀位置
 当社の藩塀は鳥居から続く参道上には位置していないが、付近地図で見るように、南からの道路が、拝殿に向かって直進していることから、これを伝ってやってくる邪霊等を遮り侵入を防ぐために、この位置に設けられたのであろう。 
 (類似のものとして、T字路に面する民家の前に立つ石敢当--イシガントウがある)

 藩塀には、完全に塀・壁になった衝立形藩塀と、塀の中段に連子窓をもつ連子窓式藩塀があるという。
 当社は後者の形式で、愛知県にはこの形式の藩塀が多いという。

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