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大山祇神社
愛媛県今治市大三島町
祭神--大山積大神
                                                                  2014.01.28参詣

 延喜式神名帳に、『伊予国越智郡 大山積神社 名神大』とある式内社で、伊予国一の宮。社名は“オオヤマツミ”。今、当社では社名は大山祇、神名は大山積と書き分けている。

 瀬戸内海の真ん中、芸予海峡に点在する島々の中で最も大きい大三島の中央部西寄に鎮座する。

※由緒
 境内に掲げる「日本総鎮守 大山祇神社由緒」(以下、由緒という)によれば、
  「大山祇神社は、瀬戸内海のなかでも特に景勝の地である芸予海峡の中央に位置して、大小の島々に囲まれた国立公園大三島に、日本最古の原始林社叢の楠群に覆われた境内に鎮座している。

 御祭神は大山積大神一座で天照大神の兄神に当らせられる。
 天孫瓊瓊杵尊御降臨の際、大山積大神、またの名・吾田国主事勝国勝長狭命《大山積神の儗神体》は、女・木花開耶姫尊を瓊瓊杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に和多志大神(ワタシ)と称せられ、地神・海神兼備の霊神であるので、日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申しあげた。

 大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫、小千命(オチ)が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り、瀬戸内海の治安を司っていたとき、芸予海峡の要衝である御島《大三島》に鎮祭したことに始まる。

 本社は社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称せられ、歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く、奈良時代までに全国津々浦々に御分社が奉斎された。云々」
とある(《 》は原注)

 また愛媛県神社庁・ブログアーカイブには(HPより抄出)
  「大山祇神社は島の西側宮浦に位置し、国指定天然記念物楠群に覆われた境内に鎮座している。
 『三島宮御鎮座本縁』によれば、はじめ島の東側にあたる瀬戸(現上浦町瀬戸)に祀られていたが、のち現在の宮浦字榊山一番耕地に、大宝元年(701)から霊亀2年(716)まで首尾(前後)16年をかけて大造営をなし、養老2年(718)4月20日正遷宮が行われたと記されている。

 天孫瓊瓊杵尊の皇妃として迎えられた木花開耶姫命の父にあたる大山積神は、皇室第一の外戚として日本の建国に大功をあらわし、全国津々浦々にその分社が祀られている。

 伊予国風土記(逸文)に『御島に坐す。神の名は大山積・・・』と見える当社は、延喜式神名帳にも大山積神社と記されているが、土地の人々は三島明神または大三島さんとよんで崇め、記録にも残されている。

 古事記に『山ノ神、名は大山津見神』とあり、日本書紀に『山の神等を山祇と号す』と、そして伊予国風土記に『大山積の神、一名を和多志の大神』とあって、山の神である一方海神・渡航神としての神格を兼備、鉱山・林業は無論のこと農業神として、さらに瀬戸内海を航海する人々の篤い信仰を集めてきた」
とある。

 式内社調査報告(1997)によれば、三島宮御鎮座本緣(成立時期不明)には
 ・推古天皇2年(594)、勅に依り初めて三島迫戸浜(セトノハマ)に大山積御社殿造立、横殿宮(ヨコドノノミヤ)と申す。今旧跡存す。
 ・文武天皇大宝元年(701)、小千(オチ)玉澄勅命を奉じて横殿宮を同島の乾方邊磯之浜(現在地)に遷す。
 ・同慶雲4年(707)、玉澄の奏により二男・高橋冠者安元を三嶋大山積社の大祝(オオハフリ・当社の筆頭神職)に任ずべしとの勅許あり。安元大祝家の氏祖也。
 ・元正天皇霊亀2年(716)、本社御神殿並びに大己貴神社・事代主神社・大市姫神社・荒神社以下五社を造営。大宝元年霊亀2年までまで首尾16年を経て成就。
 ・養老2年(718)4月22日、遷宮の儀取り行い、安元之を勤行す。(漢文意訳)

 また、豫章記(14世紀末・越智氏の後を継いだ河野氏系の古記録)には
 ・霊亀2年勅裁を以て宮作りあり、大祝安元之を造進せしに、不日に事成りて遷宮の砌、蓬莱方丈瀛州三島(中国の伝承にいう、仙人が住む東方の神山(島ともいう)、ここでは当社背後の鷲ケ頭山・安神山・小見山に比定)出現し、天仙来臨ありしより三島と改定さる。
 ・称徳天皇御宇迄は造宮の義無く、只瑞籬(ミズガキ)計り曳き結びて置けるに、此の時宝殿社殿等を造進さる
とあるという。

 この両書を突きあわせたとき、豫章記前段にいう“霊亀2年云々”の紀事は、鎮座本緣3・4段目と整合するが、豫章記後段にいう称徳天皇は霊亀2年(716)より約50年後の天皇(764--70)であり、記事内容からみて、時代的に平仄があわない。
 ただ、この称徳天皇を聖徳太子(字は異なるが読みは同じ)とみれば推古朝となり、鎮座本緣・1段目とほぼ整合し、当社の創建を推古朝とする伝承が根強くあったことを示唆している。
 なお、“瑞籬云々”について、鎮座本緣に、「但し、木の枝に鏡を掛けて祀らしむ」とあり、社殿造営以前の神マツリが、瑞籬内のご神木に鏡(御神体)を掛けての祭祀であったことをいう。

 この御遷座本緣及び豫章記によれば、当社は古代伊予の豪族・越智氏(小千・小致・小市・乎知など表記多様)が推古朝の頃(6世紀末~7世記初)に創建し(但し、確証はない)、8世記初頭の霊亀2年に現在地に社殿を造営して遷座、越智氏から出た大祝家が祭祀に携わったとなる(玉澄の時、政祭を分離し、長男・益男に国政・軍事を、二男・安元に祭祀を司らせたという)

 なおネットなど諸資料によれば、創建に関わる推古朝以前の伝承として、
 ・神武東征のみぎり、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り、瀬戸内海の治安を司っていたとき、芸予海峡の要衝である大三島に鎮座したことに始まる(上記由緒だが、神武朝創建というのは無理)
 ・仁徳天皇の御代、小千命が迫戸浦遠土宮(オモノミヤ)に大山祇神を移祭した(大三島記文)
 ・景行天皇・仲哀天皇・舒明天皇・孝徳天皇・中大兄皇子等が道後温泉への途上当社に参詣された(大三島神社大祝家伝)
 ・崇峻天皇4年(589)、神託により小千益躬(オチノマスミ)が三島迫戸浜・鼻刳瀬戸のご神木に鏡をかけて大山積神を祀った(?)
などがあり、推古朝以前から当社があったことを示唆しているが、いずれも伝承の域を超えない。

 当社の創建・祭祀に深く関わっている越智氏(小千氏)について、日本の神々2によれば、
 ・薩摩の坊津を根拠として活躍したオオヤマツミを祖神とする小千命系の越智氏
 ・ニギハヤヒを祖とする物部氏系の越智氏
の二説があり、そのいずれかが、古大和朝廷に従って南九州から瀬戸内海に入り東進後、内海に引き返して、島の東南端にある鼻刳迫戸に定着したのではないかというが、その真偽は不明。

 当社創建・祭祀に関わる越智氏について、新撰姓氏録には
  「左京神別(天神) 越智直 石上同祖 神饒速日命(ニギハヤヒ)之後也」
とあり、また先代旧事本紀(国造本紀)には、
  「小市(オチ)国造 応神朝の御代 物部直と同祖の大新川命(オオニヒカワ・旧事本紀には「饒速日命6世の孫・伊香色雄命の子で、垂仁の御代に大臣となり、はじめて物部連公の姓を賜った」とある)の孫・子致命(小致命・オチ)を国造に定む」
とあり、越智氏はニギハヤヒを祖とする物部氏系の氏族という(古く、今治市を含む高輪半島東部-島嶼を含む一帯を小市国・オチノクニと称し、小市国造によって支配されたという)。
 なお、ここでいう国造とは、律令制下における国造ではなく、それ以前、地方の有力豪族に与えられた称号を指すが、その初代国造の任命が応神朝という確証はない。

 なお、越智氏の祖を、孝霊天皇の子・伊予皇子あるいはその子・越智皇子に求める説がある。
 しかし、管見した越智氏系図(HP日本の苗字七千傑他)によれば、これは越智皇子の曾孫・栗鹿命が小市国造・子致命の孫の代に越智家に入っている(入り婿か)ことからのようで、
 ・孝霊天皇の後裔とすれば皇別氏族となるのに、姓氏録で神別とされていること、
 ・旧事本紀(天孫本紀)に、“大新河命の子・物部大小市連公は、小市直(オチノアタヒ→越智氏)の祖”とあることから、
孝霊天皇の後裔氏族というより、物部氏系氏族とみるのが妥当かと思われる。

 ただ、越智氏と物部氏との間に血縁関係があったかどうかは不明で、物部氏はその勢力拡大のなかで、地方の豪族を一族のなかに組み込んでいることから、越智氏もその一つかと思われるが、物部氏と祭神・オオヤマツミとの間に接点はなく、物部氏系氏族の越智氏がオオヤマツミを奉斎する理由がみえない。


 当社に対する神階授与の記録として、
 ・称徳天皇・天平神護2年(766)4月19日--伊予国越智郡大山積神に従四位下を授く(続日本紀)
を嚆矢に、
 ・清和天皇・貞観2年(860)--従四位上→従三位(三代実録、以下同じ)
 ・  同  ・ 同 8年(866)--従三位→正三位
 ・  同  ・ 同 12年(870)--正三位→従二位
と順調に昇格し、最終には
 ・  同  ・ 同 17年(875)--従二位→正二位
まで昇っている。

 由緒には、当社のことを“日本総鎮守と尊称され”とあるが、これについて、大三島記・御鎮座本緣・大日本史に、
  「太政大臣・藤原実頼の孫・佐理(スケマサ・平安中期の能筆家で日本三筆の一人)が京に帰るべく大三島付近を航行中、風波に船足を止められたが、夢に現れた三島明神に乞われるまま、翌朝、斎戒沐浴して船板に『日本総鎮守大山積大明神』としたため奉納したところ、風は止み、航路は順調に運んだ。
 都の帰った佐里が事の経緯を上奏すると、天皇から改めて『日本総鎮守』の名号を賜り、佐里の書名は益々あがった」
とあり、その扁額は当社に保存されているという(国重文)

※祭神
 当社の祭神・オオヤマツミ神は、一義的には山の神とされるが、その出自について、
*古事記
  イザナギ・イザナミ、既に国生みを終えて更に神を生みき。生みし神の名は・・・次に山の神 名は大山津見神を生み・・・
*書紀・一書6
  イザナギ・イザナミが生んだ山の神たちを山祇という(ただ、固有神名であるオオヤマツミの名はない)
と、ギ・ミ双神が神生みのなかで生んだ子(山の神)とあり、これが一般の理解だが、
 別伝として
*書紀・一書7
  (イザナミが火神・カグツチを生んで亡くなったので、怒った)イザナキが剣を抜いてカグツチを三つに斬った。その一つは雷神(イカヅチノカミ)と、一つは大山祇神と、一つは高龗(タカオカミ・水神)となった。
* 同 ・一書8
  怒ったイザナギがカグツチを五っに斬った。斬られた頭はオオヤマツミに、胴体は中山祇、手は麓山祇(ハヤマツミ)、腰は正勝山祇(マサカヤマツミ)、脚は䨄山祇(シギヤマツミ)となった。
  (ここではカグツチの死体からオオヤマツミ以下5柱のヤマツミが生まれたとあるが、古事記では、カグツチの死体から生まれたのは正勝山祇以下の8柱のヤマツミで、既に生まれているオオヤマツミの名はない。
   また、火の神の死体から山の神が生まれた理由について、西郷信綱は「この理由はわからないが、カグツチのツチを文字どおり土とみての連想ではないか」という)

ともある。
 なお、ヤマツミとは“ヤマのミ”即ち“山の霊”を意味し、オオヤマツミとは“大いなる山の霊”となる。

 また、オオヤマツミの神格として、天降った天孫・ニニギの妻乞い譚として
  「ニニギ尊が笠狭の御前(カササノミサキ・薩摩半島野間岬に比定)で麗しい美女に遇った。
   名を尋ねたら、『オオヤマツミの娘 名は神阿多都比売(カムアタツヒメ) またの名は木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)』と答えた。
   ニニギ尊はオオヤマツミの許しを得てサクヤヒメを娶られ、3人の御子神が生まれた」(古事記・大意)
との説話があり、ここでのオオヤマツミは在地の国つ神という。

 なお、記紀にいうニニギ尊(妃・コノハナサクヤヒメ)→ホホデミ尊→ウガヤフキアヘズ尊→神武天皇と続く皇統譜からみれば、オオヤマツミは天皇家母方の遠祖となるが、国つ神の元祖的な神(各地に残る古来からの地神・山の神信仰の頭領としての神)として皇統譜に組み込まれたのではないかという。

 また、スサノオの八岐大蛇段では、娘・クシナダヒメが大蛇の生け贄となるのを嘆く父・アシナツチが「我は国つ神大山津見の子なり」と名乗り(古事記)、ここでもオオヤマツミは国つ神という(書紀では、アシナツチが自らを「我は国つ神」と名乗り、オオヤマツミの名はない)

 一方、伊予国風土記(逸文)には、
  「大山積の神・御島
 乎知(オチ)の郡。御島においでになる神の御名は大山積の神、またの名は和多志(渡し・ワタシ)の大神である。
 この神は仁徳天皇の御世に顕現なされた。この神は百済の国から渡っておいでになりまして、摂津国の御島(ミシマ)においでになった。御島というのは津の国の御島の名である」(東洋文庫版)
とあり、ここでのオオヤマツミは渡来神で、ワタシの大神とよばれる航海守護の神という。

 なお、百済から渡来したオオヤマツミが居たとされる摂津の御島は、大阪府高槻市三島江に比定され、そこにはオオヤマツミを主祭神とする式内・三島鴨神社がある(論社あり、別稿・三島鴨神社参照)

 これらからみると、当社の祭神オオヤマツミは、
 ・当社の背後に聳える大三島の最高峰・鷲頭山(ワシケトウヤマ、H=437m、古名:神野山)を神体山として崇敬する山の神信仰に発する在地の神で
 ・この山が瀬戸内屈指の難所とされた芸予海峡を行き来する舟人たちから、神が坐す山・山当て(航行の目印)となる山として崇められたことから、山の神・オオヤマツミに充てられ、
 ・更に、わたしの大神・航海守護という海神的神格が加上され、
 ・地神(山の神)・海神(ワタシの神)兼備の大神とされたのであろう。

 当社背後(真後ろではない)には、鷲頭山・安神山(アンジンヤマ)・小見山(オミヤマ)の3山が聳え、当社境内を描いた古図(室町時代)の上部に三山が描かれており、本社・上津社・下津社それぞれの神体山と意識されていたと思われるという(式内社調査報告)。
 また、安神山山麓には、各所に巨石が屹立した処があり、巨石崇拝の遺跡らしいもの、それに係わる伝承などもあり、当地に、安神山を神奈備山として崇敬する古代信仰があったことが窺われるという(日本の神々2)

 右写真は当社駐車場からの三山遠望だが、どの峯がどの山に相当するのかは不詳。 


 なお、由緒には、「オオヤマツミはアマテラスの兄神で・・・」、「オオヤマツミの又の名・吾田国主事勝国勝長狭命(アタコクシュ コトカツクニカツ ナガサ)」とあるが、
 ギ・ミ双神の神生みの段で、古事記ではオオヤマツミは諸々の神々とともにアマテラスより先に生まれ、誕生の先後からいえば兄にあたるが、書紀によれば、最初に生まれた神がアマテラス(ツクヨミ・スサノオを含む貴神三神)で、オオヤマツミはその後で生まれており、ここでは弟となる。
 ただ、アマテラスは「神々の主となるべき尊い神」であって他の神々とは神格が異なり、単に、誕生の先後を以て兄だ弟だというのはナンセンスであろう。

 またコトカツクニカツナガサとは、書紀によれば、天孫・ニニギが吾田の笠狭の御崎に行かれたとき、当地方の国主として登場して天孫・ニニギに国を奉ったという人物だが、一書6には、
  「天孫が『あの波の上に大きな御殿をたて、機織る少女は誰の娘か』と問うたとき、『オオヤマツミの娘たちで、姉を磐長姫(イワナガヒメ)といい、妹をコノハナサクヤヒメ(又の名豊吾田津姫-トヨアタツヒメ)といいますす』と答えた」
とあり、コトカツクニカツナガサがオオヤマツミの別名とは読めない。別名とするのは恣意的な勝手読みであろう。

※社殿等

 
大山祇神社・社殿鳥瞰図(社頭案内板より転写、下が北)

 西面する大鳥居を入ってすぐに建つ朱塗りの楼門(重層入母屋造・桧皮葺)を入ると、参道の真ん中に“小千命お手植え”と伝える楠の木(ご神木)が枝葉をのばし、その奥、石段上の神門(八脚門・桧皮葺、1661造営)と左右に延びる廻廊(銅板葺)に囲まれた中が社殿域。

 社殿域の正面東側に拝殿・本殿が西面して建つ。
 ・本殿--三間社流造・丹塗り・桁行三間・梁間二間・桧皮葺
    元享2年(1322・鎌倉末期)の兵火により焼失、天授4年(1378・南北朝末期)に再建されたものという。
 ・拝殿--唐破風向拝付き切妻造・桁行七間・梁間四間・桧皮葺
    本殿と同じ時に焼失・再建されものだが、昭和28年の解体修理に際して、床板から“応永三四年(1427)云々”の墨書きが発見され、その後も何度か修理されたらしいという。
 なお、本殿・拝殿は共に国の重要文化財

 
大山祇神社・大鳥居
 同・楼門
同・小千命お手植えの楠木

同・神門 

同・拝殿 

同・本殿

◎攝社
  本殿の左右に摂社2宇が鎮座する。
  ・上津社(カミツヤシロ・向かって右)--三間社流造・丹塗り・桧皮葺き
    祭神--大雷神・姫神
  ・下津社(シモツヤシロ・向かって左)--三間社流造・丹塗り・桧皮葺き
    祭神--高龗神・姫神
  式内社調査報告によれば、保延元年(1135・平安後期)に本殿に雷神・高龗神(いずれも水神)が合祀されたが、庸治元年(1142)の下津姫社の、久安3年(1147)の上津姫社の建立に伴い、雷神・高龗神と姫神を両社に移し、現在の姿になったという。

 
摂社・下津社
 
摂社・上津社

◎末社
 社殿域の左側(北側)に小祠3宇が南北に並ぶ。左から
  ・御鉾神社(ミホコ)--祭神:御鉾大神
    御鉾大神の神格は不明だが、冊子・大三島詣(有料)によれば(以下同じ)、古くはイザナギ・イザナミ・オオモノヌシ・小千命の4座、あるいは、これにオオモノヌシ・サタヒコを加えた6座との記録もあり、祭神の変動があったらしい。
  ・八重垣神社--祭神:素盞鳴命
  ・酒殿(サカデン)--オオヤマツミ神
    オオヤマツミを酒の神とする俗説がある。

 社殿域左に小祠4宇が東西に並ぶ、左から
  ・石神社--祭神不明
    古来皮膚病に霊験あり、珍しい石・美しい石を供えて平癒を祈るとあるが、詳細不明。
  ・稲荷神社
    近年奉斎されたものという
  ・地神社--祭神:境内の地主神
  ・院内荒神社--祭神:竈神
    神饌調理の竈神(荒神さん)として御垣内(院内)に祀られていたが、後に現社地に移築とある。

 
御鉾社
 
左:八重垣社・右:酒殿
 
左より、石社・稲荷社・地神社・院内荒神社

  ・姫子邑神社(ヒメコムラ)--祭神:木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)・火々出見命(ホホデミ)・火須勢理命(ホスセリ)
    社殿域の背後(東側)、簡単な覆屋のなかに小祠3宇が並ぶ。
    コノハナサクヤヒメのオオヤマツミの娘で天孫・ニニギの皇妃、ホホデミ(神武天皇の祖父)・ホスセリはその御子で、当社祭神オオヤマツミの娘と孫を祀った祠。
    コノハナサクヤヒメは安産守護の神として祀られたというが、ヒメが燃える産屋のなかで無事に御子を生んだという神話によるものであろう、
  ・宇迦神社(ウガ)--祭神:宇賀神(ウガジン)
    境内左側(北側)、社務所裏の神池の島にある小祠
    宇賀神は出自不詳の神で、穀物神・ウカノミタマ(稲荷神)に由来するともいわれるが、後(鎌倉時代頃らしい)に弁才天と習合して宇賀弁才天として信仰されたという。老人顔の頭上に白蛇を頂くことが多く水神とみなされている。
    当社では、祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社として信仰されているという。
  ・葛城神社・伊予国総社・祓殿神社
       祭神:大禍津日神(オオマガツヒ)・大直火神(オオナオビ)・伊豆能売神(イヅノメ)・速佐須良姫神(ハヤサスラヒメ)
           --いずれも禊ぎ祓いを司る神々で、祓殿神社の祭神であろう
           一言主神(ヒトコトヌシ)--葛城神社の祭神であろうが、ヒトコトヌシを勧請した由縁は不明。
  総社とは、国司巡拝の労を省くために、一国すべての神社祭神をまとめて合祀した神社をいう。通常、国府近くに造営されたといわれ、伊予国国府が越智郡(現今治市)にあったとされることから、越智郡内とはいえ島である当地にあったかどうかは不明。
    この3社は、元はそれぞ独立した社殿を有していたが、天正年間(1573--92・戦国末期)の争乱により荒廃し、一社にまとめられたという。

 
姫子邑社
 
宇迦社
 
葛城社・祓殿社・伊予国総社

 上記以外に、境内左に十七神社(オオヤマツミ以下17座、参詣時修復工事中)が、宝物殿東側の疎林中に八坂神社(素盞鳴命・少彦名命)・五穀神社(宇賀御魂神)・祖霊社(大国主命・信徒の祖霊、旧神宮寺という)があり、境内境外を含めて計41社からなるという。

◎宝篋印塔(ホウキョウイントウ)

 境内右手(南側)、宝物殿へ至る道の傍らに宝篋印塔3基が立つ。国指定文化財
 宝鏡・宝剣・宝石の3塔で、中央の塔の高さ約4.9m、重さ約19kgという。
 大三島記によれば、一遍上人の来島を記念して文保2年(1318・鎌倉末)に建立されたもので、もと本殿裏にあったものを、明治3年(1870)に現在地に移されたという。

 一遍上人の当社参詣については、鎌倉時代末(14世紀初頭)の絵巻物・一遍上人絵伝第41段に、
 「上人は正応元年(1288・鎌倉中期)に伊予国に入り繁多寺に滞在し、同年12月16日に大三島に渡り当社に参詣した。
 ついで、翌2年2月6日桜会の日に、社頭に於いて大行道・大念仏を行い(踊り念仏を催行したのであろう)、説法して、恒例であった祭礼時の鹿の生け贄供儀を止めさせた」(大略)
と、上人が当社に参詣したことを記している。

         宝篋印塔

 因みに、一遍上人は当社最大の氏人であった豪族・河野氏(越智氏の後裔という)の出身で、神仏習合の時代であることから、当社への参詣は先祖の供養という意味も含んでいたと思われる。

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