[トップページへ戻る

雄 山 神 社
A:雄山神社峯本社
富山県中新川郡立山町雄山
B:雄山神社前立社壇
同町岩峅寺
C:雄山神社中宮祈願殿
同町芦峅寺
                                                         2013.09.25参詣(峯本社は不参詣)

 延喜式神名帳に、『越前国新川郡 雄山神社』とある式内社だが、今、立山連峰の主峰・雄山(2992m)の山頂にある峯本社(ミネホンシャ)を中心に、西方山麓にある前立社壇(マエタチシャダン)・中宮祈願殿(ナカミヤキガンデン)を加えた3社をもって構成されている。
 雄山は“オヤマ”と読む。

【雄山神社】(オヤマジンジャ)

 富山県の東部に連なる立山連峰(最高峰・大汝峰-オオナンジ、H=3015m)を、神が坐す神奈備と崇める古代山岳信仰に、仏教・道教などが習合した修験道的色彩が強い立山信仰(タテヤマシンコウ)の中心霊地として、峯本社が立山連山の主峰・雄山(H=2992m)の山頂に、前立社壇・中宮祈願殿が山麓の立山町岩峅寺(イワクラジ)及び芦峅寺(アシクラジ・いずれも地名)に鎮座する。

 立山の文献上での初見は、8世紀中葉に越中国司であった大伴家持の立山譜(万葉集・4000番)で、そこには
  「天(アマ)さかる鄙(ヒナ)に名かかす越(コシ)の中 国内(クヌチ)ことごと山はしも しじにあれども川はしも さはに行けども
   皇神(スメガミ)の領(ウシハ)きいます 新川の その立山に 常夏(トコナツ)のに雪降りしきて・・・」
  (鄙で名だたる越中には 国の各地に山は数々あり、川は沢山流れているが、神の鎮まり坐す 新川郡の あの立山に 一年中雪は降り敷いて・・・)
と詠われ、古くから“神が鎮まり坐す立山”として知られていたという。

 このことは、この当時既に、雄山(H=3003m)・大汝峰(H=3015m)・富士の折立(H=2999m)を中心とする立山連峰を神奈備山・霊山とする山岳信仰があったことを示唆するものだが、それがどのようなものだったかは不明。

 古代の人にとっての山とは、神が降臨する、あるいは神が坐す聖地であるとともに、死霊がおもむく処であり先祖の霊が留まる処と受け止められていた(所謂・山中他界信仰、祖霊は子孫の供養を得て神になるとされていた)
 そのような神と祖霊とが融けあった霊格としての山の神は、山の幸や豊かな水を与えてくれるとともに、春になれば山を降りて田の神となって子孫等の農耕を助け、秋、その豊穣を見届けて山に帰っていく存在でもあった。

 このようなわが国固有の民俗的な山岳信仰に、仏教や道教の山岳意識・信仰が重層して、神と仏が習合した新たな山岳信仰としての修験道が生まれたといわれ、立山に仏教徒・修験者が入ったのは、おそらく平安時代初期の頃(9世紀初頭頃)で、主峰・雄山に坐す神(立山権現)の本地を阿弥陀如来として、そこに登拝することによって阿弥陀による救済を求めたのが、後世まで続く立山信仰の始まりという。


 当社の創建年代は不明だが、三代実録・清和天皇貞観5年(859)9月条に
   「25日甲寅、越中国正五位下雄山神に従五位上を授く」
 日本紀略・宇多天皇寛平元年(889)8月条に
   「正五位上雄山神を従四位下に叙す」
とあることから、平安初期(9世紀)にはあったと思われるが、はっきりしない。

 というのは、一般には、ここでいう雄山神は神仏習合時代の立山権現(垂迹神・イザナギ尊)とされるが、古代・中世初期の立山関連文献に雄山神の名を記すものが一件もなく、雄山神が立山権現である確証はないという(別神とする説もある)
 今に残る資料のうち、雄山神=立山権現とする最古のものは、「立山権現宮」と記した永禄・天正頃(16世紀後半・室町末期)の奉納額で、文献資料としては、越中国式内等旧社記(1657・江戸前期)
  「雄山神社 式内一座 岩峅村鎮座 所謂立山之神霊也 今小山明神、或いは立山権現と称す」
とあるのが最古だろうといわれ、雄山神を立山権現(現イザナギ尊)とするのはだいぶ後世のことと思われる。

 ただ、今、雄山神社の祭神はイザナギ・アメノタヂカラオとされるが、アメノタヂカラオの前身・神と仏が習合した刀尾権現(刀尾大神)が立山一帯の地主神とされることから、あるいは、三代実録等にいう雄山神とはこの地主神(刀尾大神)を意味するか、とも思われる。

◎立山権現開山縁起
 雄山神社本来の創建由緒は不明だが、立山に仏教(修験道)が入って以降、仏教色に彩られた立山開山縁起が幾つか創られ、その本となるものとして次の3っがある。
 この3縁起は、その内容からみて(イ)類聚既験抄が元々の話で、これに時代とともに枝葉がついて膨らんだのが(ロ)伊呂波字類抄及び(ハ)和漢三才図会で、更に、時代が下るにつれて各種の異伝がつくられたと思われる。

(イ)類聚既験抄(鎌倉末期という)
  「越中国立山権現  
   文武天皇御宇・大宝元年(701)始めて建立された。
 相伝に云う 立山にいた狩人が、熊を矢で射て追いかけたところ、その熊は矢を受けて立ったまま死んでいた。しかし、その屍体を見ると、熊ではなく金色の阿弥陀如来であった、乃ち此を立山権現と云う」

(ロ)伊呂波字類抄(平安末期という)
  「立山大菩薩顕給本縁起  
   越中守・佐伯有若宿禰が、仲春上旬の頃、鷹狩りのために山に入ったところ鷹が逃げてしまった。それを見つけに山中に入っていくと熊が現れ襲ってきたので、矢を射かけた。熊は、矢を受けたまま山中に逃げていった。それを追っていくと、その熊とみえたのは金色の阿弥陀如来で、その身には有若が射た矢が刺さっていた。これを見た有若は菩提心を発し、弓を折り髪を切って沙弥となり、慈興と名乗った」

(ハ)和漢三才図会(1712・江戸中期)
  「立山権現  
   文武天皇・大宝元年(701)、天皇は阿弥陀如来からの夢告により、佐伯宿禰有若を越中国国司に任じた。
 ある日、有若の子・有頼が、父が愛育していた白鷹を借りて鷹狩りをしたところ、鷹が逃げてしまった。
 鷹を行方を探している有頼の前に、右手に剣をさげ左手に数珠を持った翁(刀尾天神・タチオテンジン)があらわれ、「鷹は横江の森にいる」と教えて消えていった。
 なおも深山に入っていくと大熊が現れ襲いかかってきたので、有頼は弓に矢をつがえて熊の胸を射貫いた。
 熊は血を流しながら玉殿の岩屋のなかにに逃げ込んだので、有頼も続いて岩屋に駆け込んでみると、熊はおらず三尊が並び立っておられ、しかも阿弥陀如来像の胸には自分が射放った矢が突き立ち血が流れていた。
 驚いた有頼がその場に伏せていたら、阿弥陀如来があらわれ、『私は濁世の衆生を救おうとして、この山に十界を現して(地獄極楽をすっかりそろえて)、お前の来るのを待っていた。有若を国司にしたのもそのためである。
 鷹は剣山(立山連峰の一、H=2998m)の刀尾天神で、熊は私である。お前は早く出家して此の山を開け』と告げた。
 これを聞いた有頼は感泣して山を下り、五智山の慈朝について仏門に入り、慈興と名乗って立山を開き、立山大権現の大宮などを建てた」

 この縁起によれば、立山の開山は文武天皇・大宝元年(8世紀初頭)となるが、それを証するものはない。
 ただ、
 ・(ロ)(ハ)に登場する佐伯有若宿禰について、昭和初年、京都の“随心寺文書”が収録する古文書(915)に、『越中守従五位下佐伯宿禰有若』との署名が発見され、越中守を勤めた実在人物であることが証明されたが、10世紀の人物で縁起がいう8世紀に実在していない(延喜5年-905-越中守に任用されている-Wikipedia)
 ・この有若が立山開山に関係するのは、立山を開き、これを宗教的に護持してきたのが、佐伯を名乗る一族であったためで、
  (芦峅地区には、佐伯を名乗る家が多いといわれ、そこから、類聚既験抄がいう狩人も佐伯一族ではないかという。ただ、当地の佐伯姓の一族が佐伯有若と連なるかどうかは不明)
 ・その佐伯一族のなかで傑出した人物であり、越中守という経歴を持つことから、有若の名が、時代を遡って立山開山者として利用されたのではなかろうかという。

 これらからみて、この縁起は、有若の名が越中の人々の記憶に残っていた時期、即ち10世紀前半頃(平安前~中期)に成立したとみるのが順当だろうという(立山開山の縁起と伝承、白山と立山と北陸修験道所収・1977)

 なお、有若の子・有頼の生存期間は676--759(飛鳥藤原京時代)との資料もあるが、その父・有若の生存年代・10世紀初期と整合せず、又、文献上の初見が延宝3年(1675・江戸中期末)であることからみて作られた人物の可能性が高く、国司有若開山が少年有頼開山に変わったのは、越中少年の若者組入りの習俗の反映であろうという。
 (越中では、古くから男子が15・6歳になると村ごとに団体を組んで立山に登拝し、これを済ませてはじめて一人前の男として若者組への加入が認められたという)
 なお、芦峅寺集落には、出家後の有頼(慈興)が当地に住み立山信仰を広げたという伝承があり、中宮祈願所には有頼の墓所と称する一画や有頼を祀る開山堂があるが、その信憑性は薄い。

 この縁起に阿弥陀如来が出てくるが、これは神仏習合・本地垂迹説によって、立山の神の本地仏として、この当時興隆しつつあった浄土信仰から阿弥陀如来を充てたもので、浄土信仰が盛んになるのは10世紀中頃以降(往生要集成立・985)といわれることからみても、縁起の成立を10世紀前半頃とするのは妥当といえる(白山・立山の宗教文化・2008)

 縁起の成立時期と立山開山時期と直結はしないが、縁起がいう大同元年について、岩峅の宿坊出身の佐伯有義博士は
  「大宝元年云々と言へるは、後に何人かの言い出したるものにして根拠なし」
と批判し、現在では立山開山年を大宝より200年ほど繰り下げ、平安前期末頃(9世紀末~10世紀初頭)とするのが史家の定説となっているという。

 なお、この縁起とは別に、師資相承との史料に、天台座主であった康済(828--99)律師の業績として「越中立山開山」との一句が明記されているという。
 その詳細は不詳だが、師資相承が大日本史料などに収録された信憑性の高い記録であるとともに、天台座主・園城寺(三井寺)長吏などを務めた高僧の事績のなかに“立山開山”と明記されていることは、慈興伝承との整合性など検討は要するものの、9世紀後半の何時頃かに、立山の何処かに天台宗系修験道の拠点となる寺院が建立されたことを示唆するという(山と信仰 立山)

 立山を仏の坐す霊山であり修験の行場とする認識は、平安末期には広く知られていたようで、梁塵秘抄(伝1169・後白河法皇選という)にのこる今様(イマヨウ・当時の流行歌)には、
  「験仏の尊きは 東(ヒンガシ)の立山 美濃なる谷汲の彦根寺 志賀長谷石山清水 都に真近き六角堂」(428番)
と、全国の霊山・観音霊場のトップに挙げられている。

◎立山地獄説話
 立山信仰が広まったのは、立山が、単に阿弥陀浄土(極楽浄土)というだけではなく、その山腹に広がる地獄谷(現室堂近く)といった異様な景観の存在であり、その地を、多くの人々が堕ちる地獄として恐れるとともに、「この山にして願えば、思う人の亡霊影のごとく見ゆるなり」(諸国俚人談・1743・江戸中期)というように、懐かしい亡き人と会える霊山とされたことが大きいという。

 その地獄谷の状況について、今昔物語(巻14-7、平安後期・1120年代か)には
  「今は昔、越中国に立山といふ所あり。昔よりかの山に地獄ありといひ伝えたり。その所の様は原の遙かに広き野山なり。
 その谷に百千の出湯あり。深き穴のなかより湧き出づ。磐をもちて穴を覆へるに、湯荒く湧きて岩の辺りより湧き出づるに、大きなる巌ゆるぐ。熱気満ちて人近づき見るに極めて恐ろし。またその原の奥の方に大きなる火の柱あり。常に焼けて燃ゆ。・・・
 しかるに昔より伝へいふやう、『日本国の人、罪を造りて多くこの立山の地獄に堕つ』といへり」
とある。

 これは、立山山中の地獄谷・ミクリガ池・血の池など、4万年前からといわれる水蒸気爆発などの火山活動でできた荒れはてた景観を地獄とみたもので、資料によれば、地獄谷には火山ガスが噴出する硫黄の塔・熱湯が沸き返る噴泉、至る所から噴気噴煙が立ちのぼり、一帯に漂う硫黄特有の臭いとも相まって不気味な非日常的な谷間を形成し、嘗ては八大地獄・十六地獄などと呼ばれる地獄136ヶ所があったという(今、その大半が消滅しているようだが、依然として有毒ガスの噴出が激しく、平成24年から立入禁止という)

 この地獄谷への堕地獄とそこからの救済を説くものとして「立山地獄説話」という一群の説話があり、法華験記(大日本国法華験記・平安中期)・今昔物語などに幾つか記されている。
 そのひとつ、法華験記・124話には、
 ・ある修行僧が立山に詣でると、そこには罪をつくった人が堕ちると伝えられる、熱湯地獄・業火地獄など多くの地獄があった。
 ・そこに若い女が現れた。僧は鬼神か羅刹女かと恐れたが、女は次のように語った。
 ・我は近江蒲生の出で、父母はまだ生きている。父は仏像彫刻を業としてきたが、仏に備えるべき物(仏像)を生活の糧としたため、自分は死んで地獄に堕ちた。
 ・自分は生きているとき、観音を信仰しようとして果たせなかったが、唯一度だけ、18日に観音経を読み供養したことがあり、その善根によって、毎月18日には観音が此の地獄にやって来て、自分の苦しみを代わって受けてくれる(代受苦)ので、自分はその日だけ地獄の苦しみから逃れることができる。
 ・そして僧に、我が父母に、法華経を書写供養して、この苦しみから助けてくれるよう告げてほしい、と頼んで消えていった。
 ・僧は早速近江蒲生に向かい、その父母にその子細を語った。父母は悲しみ嘆きながらも、娘のために法華経を書写し供養したところ、
 ・やがて父母の夢に娘が現れ、法華経と観音菩薩の力で立山地獄を出て、忉利天(トウリテン・天界のひとつ)に生まれ変わったことを告げた。
とある(白山・立山の宗教文化)

 これと同種のものとして、今昔物語には、
 ・修行僧越中立山に至り、少女に会う話(14巻7--上記法華験記の話と略同じ)
 ・越中国書生の妻、死にて立山地獄に堕ちた話(14巻8--立山地獄に堕ちた妻が、夫の法華経千部書写と供養によって忉利天に蘇った話)
 ・越中立山地獄に堕ちた女、地蔵に助けられる話(17巻27--立山地獄に堕ちた女が、父母の法華経書写と地蔵像の建立で救済された話)
などがある。

 これらの説話は、いずれも、罪をつくって立山地獄に堕ちた女性が、法華経や観音菩薩或いは地蔵菩薩の助けにより、地獄を脱して浄土へ再生したという話で、法華経や観音・地蔵菩薩のありがたさを説くものとなっているが、それが立山地獄を背景に語られることは、立山における地獄の存在が広き知られ、罪を作ればそこに堕ちると信じられ恐れられていたことを示している。

◎立山曼荼羅
 立山信仰を布教宣伝するために用いられたものに、『立山曼荼羅』と称する一群の宗教絵画がある。
 立山曼荼羅は、立山開山縁起・立山地獄を始めとする立山信仰の要所を網羅的に描かれた掛軸様のもので、諸国に赴いた立山衆徒(行者)は、これを檀那場の座敷に掛けて、各場面を指し示しながら立山の開山縁起や立山信仰の功徳を説くことで霊山立山への参詣を促し、合わせて信者を増やし喜捨を集めたという。
 今、全国で43点ほど確認されているといわれ、左下の曼荼羅は、立山博物館のチラシにあったもので4隻の屏風仕立てになっている(大きさは不明)

 この曼荼羅には、おおまかにいって
 ・曼荼羅上部には、堂舎が建つ立山の峰から25菩薩を率いて来迎する阿弥陀如来、峯々の間を舞う天女といった浄土の様子が
 ・左2隻の下部には、白鷹が舞う下、弓矢をつがえて熊を追う有頼の姿が、
 ・その上には、芦峅寺の堂舎と参詣者が、
 ・中段には、立山地獄に堕ちた亡者が責め苦をうけている有様が、
 ・右2隻の下部には、布橋大灌頂(下記)で閻魔堂から布橋に向かって行道する僧侶や女人たちの姿と、姥堂での再生の姿が、
 ・中段には立山に至る登頂路と、そこを通って立山へ向かう人々の姿が描かれている。

 右下の曼荼羅は、前立社壇・参詣の栞にあるもので(元は4隻屏風仕立てだったらしい)、画面構成の大筋に変わりはないが、ただ、
 ・左下段に、芦峅寺ではなく岩峅寺の堂舎が大きく描かれ、
 ・右下段に、布橋や姥堂がさりげなく描かれているのが異なり(布橋大灌頂は芦峅寺の行事)
 芦峅寺系と岩峅寺系との間に差異があったことが知られる。


 立山曼荼羅(立山博物館チラシより転写)
 
立山曼荼羅(前立社壇栞より転写)

◎岩峅寺(イワクラジ)と芦峅寺(アシクラジ)
 阿弥陀如来の浄土(山中浄土・山中他界)と恐るべき地獄(山中地獄)という両面をもつ霊山である立山へ入山することは、地獄谷で一旦死に、立山地獄に堕ちてその苦しみを経、観音・地蔵の導きで救済され、雄山の山頂で阿弥陀如来を拝して蘇ることであり(擬死再生)、生きている間に地獄の苦を嘗めることで、死後の極楽往生が約束されたという。
 また、立山に赴くことは立山地獄に堕ちた先祖の亡霊に会うことであり、仏菩薩への供養を積むことで亡霊の地獄からの救済・極楽往生を助けることでもあったという。

 その立山入山修行(立山修験)の拠点(基地)として、又、冬期(入山不能)の遙拝所として山麓に設けられたのが、岩峅寺(現前立社壇)と芦峅寺(現中宮祈願殿)で主に天台宗系の修験者が利用したという(真言系の修験者は、当地の北方・中新川郡上市町にある大岩山日石寺を拠点として入山したという)
 その建立時期は不詳で、開山縁起では、僧・慈興(有頼)が立山開山に合わせて建立したというが、傍証となる史料はない。

 なお、明治26年(1893)に大日岳頂上から、同40年(1907)に剣岳頂上からそれぞれ銅製錫杖の頭部が発見され、それらが平安時代のものと推測されることから、修験者の入山修行は平安前期(9世紀末頃か)には始まっていたとみてもいいだろうという。

 ただ、そのような拠点となる寺院は、登頂路1コースに対して一ヶ所というのが通例だが、当地に二ヶ所(両寺間は約10km)あった理由は不明。

 岩倉・芦峅両寺がある村は、通常の村というより宗教村落的色彩の強い特殊な村で、両寺を構成する坊舎は岩峅寺24坊(全て僧侶)、芦峅寺33坊(僧侶)5社(神職)を擁したといわれ(享和元年-1801)、岩峅寺は主として地元の越中・加賀・能登全土及び越後の一部に布教の力を注ぎ、芦峅寺は積極的に諸国を廻国して立山の霊験を説き入山を勧めたという。

※由緒
 今回のツァ-では雄山山上の峯本社は参詣していないため、峯本社がどのような由緒を掲げているかは不明。

 【雄山神社前立社壇】(オヤマジンジャ マエタテシャダン)
 岩峅寺集落の西方、常願寺川右岸の叢林に中に鎮座する。
 当社は、明治の神仏分離までは岩峅寺(イワクラジ)と称する修験道系の社寺で、大講堂・観音堂・地蔵堂・若宮社・礼拝堂・護摩壇・拝殿などを有し、24軒の宿坊があったという。

 社頭に掲げる案内には、
  「本社の鎮座は悠久にして詳ならずと雖も、社伝によれば、文武天皇の御宇・大宝元年越中守佐伯有頼神教を蒙りて立山を開き社殿を創立せりと云い伝う」
とあり、

 社務所で頂いた「前立社壇略記」(以下、略記という)には
  「雄山神社は、前立社壇・祈願殿・峯本社の三社あり、三社合わせて宗教法人雄山神社である。
 当社(前立社壇)は山裾に位置し、三社の中で一番平野に近く一番手前に建立していることから、前立社壇と呼ばれている。
 社伝によれば、文武天皇の大宝元年(701)景行天皇の後裔・越中国司佐伯宿禰有若公の嫡男・有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、『我、濁世の衆生を救わんがため此の山に現る。或は鷹となり或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり』という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山である。
 山頂の峯本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅に社壇(前立社壇)を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている」
とある。

 【雄山神社中宮祈願殿】(オヤマジンジャ ナカミヤキガンショ)
 芦峅寺集落の中央、老杉を主とした社叢のなかに鎮座する社で、これも、江戸時代までの修験道の社寺・芦峅寺(アシクラジ・中宮寺ともいう)が、明治の神仏分離で単独の神社に改変され、中宮祈願殿と称している。

 社頭に掲げる由緒書には、
  「当社は日本三霊山立山を神山として仰ぐ雄山神社中宮にして、延喜式内国弊小社であり、鎌倉時代神道集によれば、越中国一の宮と称せらる。
 鎌倉幕府・室町幕府・金沢藩主の特別崇敬保護を享け、中宮寺塔中の衆徒社人三十八戸軒を列ねて奉仕し、全国に立山の霊験を布教せり
 総拝殿を祈願殿と称し、境内2万余坪あり、樹木は富山県天然記念物に指定せらる」
とあるのみで、創建由緒等についての記載はない。

 一方、ネット資料(出典資料名不明)によれば、
  「文武天皇の大宝元年、越中国司佐伯宿禰有若の嫡男有頼公が、白鷹と黒熊に導かれ、立山の玉殿岩窟に於て、『我、濁世の衆生を救わんがため此の山に現る。或いは鷹となり、或いは熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり』という立山両権現の霊示を受けて開山されたのが霊峰立山である。
 その立山を神山と仰ぎ、山麓芦峅の地に、立山の雄山神(立山大宮)・剣岳の刀尾神(立山若宮)の両権現を奉斎する根本中宮をはじめ、壮大なる神社仏閣が建立され、有頼公自ら立山座主として此の芦峅寺に居を定め、立山信仰の弘宣に生涯を捧げられた。
 以来神仏習合の一大霊場として、皇室をはじめ武将名門の崇敬を受け、元明天皇・後醍醐天皇の祈願所であり、清和天皇貞観5年、宇多天皇寛平元年に叙位せられ、平安後期の後白河天皇御撰の梁塵秘抄には、『験仏の尊きは先ず東の立山』と、全国の著名な霊場の冒頭に書かれている。
 また“越中国一宮”と鎌倉時代の安吾院神道集に記され、同じく鎌倉時代の拾芥抄に『雄山神社は新川郡芦峅寺にあり』と明記されているように、一般民衆の信仰も大変篤かった(以下略)。」
という。

 両社の由緒は、いずれも和漢三才図会(上記・ハ)にいう立山開山縁起を簡略化し、縁起にいう阿弥陀如来を雄山大神に変更して神社としての体裁をたもち、それに各社独自の伝承などを付加したものだが、何処か、神仏習合期の痕跡が残り、すっきりしたものとはなっていない。
 堂々と神仏習合思想による立山開山縁起を語り、それが神社化した経緯を語るほうが、判りやすくすっきりした由緒になると思われるが・・・。

※祭神
 今の祭神は。
  ・伊邪那岐神(イザナギ)
  ・天手力雄神(アメノタヂカラオ)
の二座となっているが、この両神の関係について、古来、イザナギを主神とするもの、両神並列とするもの、タヂカラオを主神とするものなど諸説があったといわれ、
  「総じて古くはイザナギ一座で、タヂカラオは相殿神又は摂社神の扱いであったが、後世両神並列、さらにタヂカラオを第一に挙げる傾向に変わって来た」
ともいう(式内社調査報告)
 しかし、延喜式では一座であり、開山縁起などからみて阿弥陀如来の垂迹神・イザナギ(立山権現)が主神で、アメノタヂカラオ(刀尾=剣岳の神)は相殿神とみるべきであろう。

 この両神を、江戸時代までの神仏習合思想・本地垂迹説からいうと、
  ・(本地仏)阿弥陀如来→(習合神)立山権現→(垂迹神)イザナギ
  ・(本地仏)不動明王→(習合神)刀尾権現(タチオゴンゲン)(垂迹神)アメノタヂカラオ
となるが、当時の一般庶民が親しんだのは、阿弥陀如来・不動明王、或いは、それと神とが習合した立山権現・刀尾権現であって、イザナギ・アメノタヂカラオというのは一部の識者がもつ観念ではなかったかと思われる。

 神仏習合思想を離れて雄山神社をみたとき、ここにイザナギを祀る由縁はなく、それを主祭神とするのは、イザナギを阿弥陀如来の垂迹神とする神仏習合思想以外に説明がつかない(熊野本宮大社の主祭神・イザナギが阿弥陀如来とされるように、イザナギの本地を阿弥陀如来とする事例は多い

 これに対して、アメノタヂカラオの前身である(習合神)刀尾権現は、剣岳に坐す神で立山・剣岳一帯(山麓を含む)の地主神ということから、三代実録などにいう雄山神とは、立山の地主神としての刀尾権現(当時の神名は不明)を指していた蓋然性は高い。
 また、刀尾権現の本地である不動明王が修験道行者の守護神とされることから、立山開山以前から入山修行していた行者から立山の神として崇敬されていたと思われ、それが阿弥陀信仰の立山浸透とともに主神の座を明け渡し、己は脇に退いたとも考えられる。 ただ、不動明王をアメノタヂカラオの本地仏とする理由は不詳。

 今、前立社壇・中宮祈願殿では
 ・前立社壇--伊邪那岐神・天手力雄神
 ・中宮祈願殿--伊邪那伎大神(立山権現)・天手力雄神(刀尾天神)
といっている。

※社殿等
【前立社壇】

  県道35号線から富山地鉄踏切を渡った処に立つ大鳥居を入り、常願寺川右岸に沿った参道を進んだ先に“表神門”があり境内に入る。

 境内の南寄り左手(東側)が社殿域で、横長の拝殿(入母屋造・桧皮葺)が、その奥、透塀に囲まれたなかに本殿(一間向拝付き五間流造・桧皮葺)が、立山を背にした西向きに鎮座し、境内南側には東神門がある。

 栞によれば、当社本殿は北陸最大の本殿で、旧岩峅寺唯一の遺構というが、瑞垣に囲まれていて、その全体は見えない。
 伝承によれば、本殿は建久年間(1190--99)源頼朝再建、明応元年(1492)足利将軍義植造営、天正11年(1583)佐々成政改修、明治39年(1906)に国重要文化財に指定されたもので、大正12年(1923)解体修理、平成12年(2000)茅葺屋根の葺き替えをおこなったという。

境内配置図 

 拝殿は、昭和15年(1940)、国弊社昇格を機に県の直営工事として新築されたもので(同17年竣工)、表神門・東神門・透塀なども同時期の建造という。

 
前立社壇・大鳥居
 
同・表神門
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・東神門 

 ◎境内摂社
  境内東側、拝殿と社務所にはさまれて摂社3宇が鎮座する。左(北)より、
  ・八幡宮--応神天皇・神功皇后・稲背入彦命・菅原利家・佐伯有頼など16柱
          加えて、昭和15年、新宮社大国主命他7社の祭神を合祀したという。
  ・刀尾社(タチオ)--伊佐布魂命(刀尾大神)
       栞によれば、“前立社壇御本殿修理の際、御神体遷座の仮殿として創建。通称御仮殿という”とある。
       伊佐布魂命(イサフタマ)の出自は不明。
   (刀尾大神)と括弧書きされていることから、タチオ大神の別名かとも思われるが、タチオ大神はアメノタヂカラオ神とするのが通例で、イサフタマ命とする理由は不明。
   なお、先代旧事本紀にいう降臨するニギハヤヒの随神32柱の中にその名(倭文連-シトリムラジ等の祖とある)があることから、これかとも思えるが、としても、物部系の神を此処に祀る理由は不明。
  刀尾天神は山麓を含めて剣岳・立山一帯の地主神で、岩倉林に出現したとの伝承があることから、当社は古い地主神を祀る小祠とみるのが順当かもしれない。
  ・稲荷社--宇迦之御魂神(倉稲魂命・ウカノミタマ)

  末社3宇の反対側に方形造の“釜殿”があり、中に“湯立(ユダテ)の釜”が納めてある。
  この釜は、所謂・湯立て神事に用いられた釜で、弘化2年(1845)加賀藩主・前田齋泰からの寄進、口径約133cm・高さ約72cm、
  はじめ雌雄一対あったが、安政5年(1858)の大洪水で雌釜は流失したという。立山町指定文化財。

  この他、釜殿の横に石舞台及び斎館がある。

 
末 社
(左より、八幡社・刀尾社・稲荷社)
 
釜 殿
 
湯立の釜

【中宮祈願殿】

  当社の社殿は、通常の神社とは異なり、右の社殿配置略図にみるように、
 鳥居を入って直進した正面に、⑦「佐伯有頼廟」があり、
 その裏手の山裾に社殿(小祠)が点在する。

 この社殿配置は、芦峅寺系立山曼荼羅(上記左の曼荼羅)に描かれた堂舎配置と略一致し、社殿形態は異なるものの、嘗ての堂舎配置の殆どをそのまま引き継いだという印象が強く、神仏習合期の雰囲気が漂っている。

 以下、式内社調査報告を参考に、要点のみ記述する。

 ①祈願殿(拝殿)--入母屋造向拝付・木造瓦葺
   もと、芦峅寺の中心・大講堂だった建物を拝殿様式に改築したもので、
   正面右の柱に“日本三霊山立山大権現祈願殿”の立札が、
   内陣の左右に“立山大権現”・“雄山大神”の幡が垂れている。 

社殿配置略図



①祈願殿(拝殿)
②立山大宮
③立山若宮
④神秘社
⑤立山開山堂
⑥剱嶽社
⑦佐伯有頼廟
⑧石舞台
⑨宝童社・神明社
⑩水神社

 ②立山大宮--一間社流造・銅板葺
    祭神--立山権現・伊邪那伎大神
    相殿神--第43代文武天皇・佐伯宿禰有若公
  境内左奥山裾の小高い場所に鎮座する小祠で、社頭の由緒には「西本殿」とあり、傍らの案内には
   「立山権現麓芦峅中宮の末社にして、姥堂と並び立山信仰の中心社堂で、本殿・大拝殿と偉容を誇っていたが、明治初年、山中よりの岩石の災害に合い、両殿ともに破壊された」
とある。
  祭神・案内からみて、嘗ては、当社の中心となる社殿だったようだが、今は小祠一宇がポツンとあるのみで、昔の面影はない。

 ③立山若宮--二間社流造・銅板葺
    祭神--刀尾天神(天手力雄神)・稲背入彦命・佐伯有頼公
  境内右手山裾の岩塊の上に鎮座する小祠で、社頭の由緒には「東本殿」とあり、傍らの案内には、
   「古来より立山若宮権現と称し、刀尾天神(タチオテンジン)21末社の総本宮として厚く崇敬されており、殊に、足利将軍義植公の祈願奉幣の社として尊敬をうけ、以来、戦国武将・江戸時代清里武内より敬信の誠を捧げられ、大願成就・必勝不敗・災難除けの神として信仰されている。
 また、霊峰立山登拝の諸人は必ず参拝するを例とした」
とある。

 刀尾大神とは、開山縁起にいう剣岳の神で当地一帯の地主神という。垂迹・アメノタヂカラオ神で本地・不動明王。
 稲背入彦命(イナセイリヒコ)とは、景行天皇の皇子で、書紀・景行4年条に
  「次の妃・五十河媛は神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。弟の稲背入彦皇子は播磨別の先祖」
とある。
 伝承では、成務天皇の御世、イナセイリヒコの子・御諸別命(ミモロワケ)が播磨国に封じられ針間別(播磨別・ハリマワケ)と称し、応神天皇の御世に針間別佐伯直を賜り改姓し、天地天皇の御世に針間別を除いて佐伯直(サエキノアタイ)と改姓したという(Wikipedia)
 立山の開山者とされる佐伯有若(又は有頼)が、景行天皇→イナセイリヒコ→播磨別と続く佐伯直氏出身という伝承から、祖神として祀られたのであろう。
 ただ、佐伯有若は実在したとはいうものの、その出自は不詳。中央官僚であることから佐伯直氏に連なるとも思われるが、確たる史料はない。

 当社殿は、承久2年(1220・鎌倉前期)大内惟義造営との伝承をもち、天正16年(1588・室町後期)の棟札を有する芦峅最古の社殿というが、今は社殿も古びており、一見荒れていて鎌倉室町期の面影はない。

 ④神秘社(山神社)
  ②立山大宮の右手にある小祠だが、案内なく、祭神・由緒等不明。

 ⑤立山開山堂
   祭神--佐伯有頼公(慈興上人)
  境内右手奥の山腹、石段を登った上に鎮座する朱塗りの小祠。社頭の案内には「別宮」とある。
  資料によれば、嘗ての開山堂は今の⑦佐伯有頼公廟の地にあったが、昭和15年国弊社昇格の折、仏堂的施設として取り壊され、同25年に再建されたが、同40年の台風で破壊されたため、現在地に移されたという。

 ⑥剱嶽社(ツルギタケ)
   祭神--須佐之男命
  立山若宮・開山堂下の平地にある簡単な覆屋のなかに納まっている小祠。
  案内には
   「この社は、昭和31年の建立より平成21年8月の新社殿造営までの55年間に亘り剣岳山頂に奉斎され、多くの登山者を見守ってきた旧社殿で、保存のため麓遙拝所として建立したものです」
とある。
  剣嶽山頂(H=2999m)にあった旧社殿を降ろしたものというが、剣岳に鎮座する神・刀尾権現の垂迹神はアメノタヂカラオ(本地・不動明王)のはずで、当社祭神をスサノオとするのは解せない。

 ⑦立山開山 佐伯有頼廟
   祭神--佐伯有頼公
  鳥居を入った正面(境内中央)、玉垣に囲まれた中に、「立山開山御廟」との石柱が立ち、背後に円墳状の高まりがある。
  資料によれば、嘗ては開山慈興上人(有頼)の墳墓があり(今の円墳状の高まりがその痕跡であろうか)、その前、今の石柱の場所に室町期造営の開山堂があったが、昭和15年の国弊社昇格の折、開山堂は仏堂的施設として取り壊された。
  その後、昭和25年に再建されたが、昭和40年の台風で破壊したことから、上記⑤の地に移転したという。

 慈興上人(佐伯有頼)が当芦峅の地で立山修験道の布教にあたり、当地で亡くなったという伝承によって作られた開山堂であり墳墓であろう。


中宮祈願殿・鳥居 
 
同・祈願殿(拝殿)-①
 
同 左

同・立山大宮-② 
 
同・立山若宮-③ 
 
同・神秘社(山神社)-④
 
同・立山開山堂-⑤
 
同・剱嶽社-⑥
 
同・立山開山佐伯有頼廟-⑦

◎末社
  鳥居からの参道右手にまとまって鎮座する小祠。
 ⑨宝童社(別名:治国社)
    祭神--新川姫命(ニイカワヒメ)
   案内には、「首から上の病気の守護神として、又子育ての守り神として信仰されている」とある。
   新川姫命の出自は不詳だが、三代実録・貞観9年(867)2月27日条に、「越中国正五位上新川神に従四位下を授く」とある神かと思われる。
   その神格については、雄山神と同体とする説、常願寺川の女神で雄山神(男神)の妃神とする説があり、又姥堂の祭神・姥神を新川姫命とする考えもあるというが(式内社調査報告)、新川郡在地の神で常願寺川の女神とみるのが妥当であろう。
 ⑨神明社
    3社合祀殿で、案内には、右から豊受大神宮・皇大神宮・麻続御祖社とある。
   麻続御祖神(オミミオヤ)は不明だが、古語拾遺(807・齋部氏系史書)に「長白羽神(ナガシラハ)-伊勢国の麻続(オミ)が祖也」とあり、この神だとすれば、織物関係の神かと思われるが、詳細不明。
 ⑩水神社--詳細不明

 
末社・宝童社-⑨
 
末社・神明社-⑨
(左の小祠が宝童社)
 
末社・水神社-⑩

石舞台-⑧ 

◎布橋大灌頂(ヌノバシ ダイカンチョウ)

 祈願殿前から東へ約500mほど行った道路の右手(南側)下に、“布橋”(ヌノバシ)と称する真っ赤な小橋が架かっている。

 この地は、女人救済のための法要・「布橋大灌頂」がおこなわれた処で、嘗ての観念では、布橋は、此岸(この世)と彼岸(あの世)の境に架かり、女性を現世から来世に渡す橋とされ、下を流れる小川(姥堂川)は三途の川(サンズノカワ)と目せられたという。

 布橋を東(左)に渡った先、墓地の傍らに建つ立山博物館遙望館という変わった形の建物付近が、嘗ての姥堂(ウバドウ・入母屋造・朱塗りて゜、姥尊を本尊とする大堂だったという)跡で、橋の右手(西)に芦峅寺閻魔堂があるという。

 姥堂とは女人成仏のための聖地(女人堂)で、そこに祀られる姥尊(ウバソン、俗称:オンバサマ)は、一見醜怪な面相をしているが、その本姿は天地の始めに芦峅寺に天降った万物の母神で、その寂後、冥界(あの世)の主宰神になったという。

 なお、姥堂の“姥”は、正式には“女偏に田3っ”(上に一つ、下に二つが並ぶ)という字だが(女偏に母を3っ書いて万物の母神をあらわしたともいう)、立山信仰の特殊性を強調するために地元で作られた字で(岩峅・芦峅の“峅”も同じく地元で作られた字で、「神の座」を意味するという)、その初見は天正12年(1584)の佐々成政書状という。

布 橋(左が東)

付近略図(右が東)

 江戸期・神仏習合時代の立山は女人禁制の山で、男性は地獄谷での地獄の責め苦を経て(擬死)、雄山頂上の阿弥陀如来膝下まで入山することで極楽浄土を実感し(再生)、死後の極楽往生が約束されたが、女性は麓の芦峅寺村までしか入山が許されず、為に、女人救済・極楽往生のためにおこなわれたのが布橋大灌頂で、江戸時代には毎年秋の彼岸の中日におこなわれたという。

 また、この大灌頂は、それへの参加を勧めたり(参加には大金を要したという)、布橋に敷くために寄進された白布を死者の経帷子(キョウカタビラ)として仕立て、極楽往生のための淨衣として信者に頒布する(有料)など、芦峅寺修験の主たる財源だったという。

 布橋大灌頂は、現世・娑婆にあたる閻魔堂から、現世と彼岸の間に架かる布橋を渡り、地獄でもあり浄土でもある彼岸の姥堂までの間で行われた芦峅寺が催す(岩峅寺は無関係)の一大法要(擬死再生儀礼)で、全国から集まった女性信者は、
 ・まず閻魔堂で懺悔の儀式をうけて身を浄め、
 ・白装束に身を包み(死装束)笠をかぶり目隠しをして、導師の手引きで敷列ねられた三筋の白布の上を進み、
 ・白布を敷いた布橋を渡ることで一旦死に(擬死) (この時、女性に不浄不貞のことがあれば、布橋から下の谷に落ち竜に呑まれるとして恐れられたという)
 ・渡った先の彼岸浄土にあたる姥堂に入って(浄土入り)法華経読誦・念仏勤行などを勤め、
 ・姥堂を出ることで新しい自分として蘇ったという(再生)

 この法要に参加して擬死からの再生を遂げた女性たちには、
 ・導師から血脈(ケツミャク、阿弥陀仏から導師までの法脈の後に信者の法名が書き加えられたもので、極楽往生を保証する書付)や血盆経(ケツボンキョウ、血の穢れのため地獄に堕ちた女性を救済する経)が授けられ、
 ・立山に入山修行する男性と同じように、死後の極楽浄土への往生が約束されたという(布橋大灌頂と白山行事-白山・立山と北陸修験道所収他)

 今の布橋は、明治の神仏分離によって破却された旧布橋を、昭和45年(1970)立山風土記の丘指定の際に復元したもので、平成17年(2005)9月18日、久しぶりの布橋大灌頂がおこなわれている(ガイドの話では、不定期ながら今後もおこなわれるのではないかという)

参考図書
 ・雄山神社前立社壇略記 ・式内社調査報告17(1985) ・日本の神々8(1985) ・白山立山と北陸修験道(1977) 
 ・立山信仰と立山曼荼羅の解説(ネット資料) ・山と信仰 立山(1995) ・白山立山の宗教文化(2009)

トップページへ戻る