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高 瀬 神 社
富山県南砺市(ナント)高瀬
祭神--大己貴命・天活玉命・五十猛命
                                                               2013.09.25参詣

 延喜式神名帳に、『越中国礪波郡(砺波郡・トナミノコホリ) 高瀬神社』とある式内社で、越中国一の宮とも称する。

※由緒
 境内に掲げる案内(南砺市教育委員会)には、
  「高瀬神社は、延喜式内社にして砺波地区を中心に、古くから人々に崇敬されている。
 日本海沿岸と関連が強い大己貴命(オオナムチ=大国主命)が祭神で、能登や伏木の気多社も同じ祭神である。
 奈良時代の宝亀11年(780)に従五位下と越中最高の位になった高瀬神は、平安初期には正三位と昇進していった。
 古くから越中一の宮と称され、鎌倉時代の類聚既験抄にも“越中一宮”とある。明治以降は県社や国弊小社にも指定された」
とある。

 また、社務所で頂いた「越中一宮高瀬神社」との栞(以下、栞という)には
  「御鎮座は遠く神代の昔、また景行天皇の御代と云われており、太古悠遠の時代に属します。
 天武天皇の御世に蝗害により勅使を遣わされてより後、光仁天皇宝亀11年(780)従五位に、さらに清和天皇貞観元年(859)正三位に、安徳天皇治承4年(1180)に正一位に列せられました」
とあり、

 また高瀬神社誌(1990)には、創建伝承として
  「在昔、大己貴命北陸御経営の時、己命の守り神を此処に祀り置き給ひて、やがて此の地方を平定し給ひ、国成り竟へて、最後に自らの御魂をも鎮め置き給ひて国魂神となし、出雲へ帰り給ひしと云う」
とあるという(式内社調査報告・1985)

 これらによれば、当社は、北陸平定を終えた出雲の大神・オオナムチが、己の御魂を留め祀らせた神社となる。
 古事記にいう八千矛神(オオナムチの別名)による越国の沼河比売(糸魚川の女神という)への妻問い説話、あるいは出雲国風土記意宇郡母理郷条に、「オオナムチ命が、越の八口(新潟県岩船郡付近に比定)を平定なされて、お帰りになるときに・・・」とあるように、オオナムチ信仰は北陸一帯にひろがっていることから、その中で、当社の創建をオオナムチに仮託したのが上記の創建由緒であろうが、これらは伝承であって、当社本来の創建由緒は不明といわざるを得ない(栞がいう景行天皇の御世-4世紀末頃か-というのも伝承)

 なお、当社を越中国一の宮というのは、平安末の一時期、越中国国府が礪波郡に置かれていたことから、同郡にある当社を以て一の宮としたのだろうといわれ、古来からのものではない(古文書上での初見は、鎌倉末期の類聚既験抄という)

 当社に対する神階授与の記録としては、
 ・宝亀11年12月(780)--従五位下(続日本紀)
 ・延暦14年8月(795)--従五位上(日本紀略)
 ・承和7年9月(840)--従四位上(続日本後紀)
 ・斉衡元年3月(854)--従三位(文徳実録)
 ・貞観元年正月(859)--正三位(三代実録)
があり、8世紀に実在したことはたしかで、
 加えて、斉衡元年12月には、当社の禰宜・祝が把笏(ハシャク・神事に際して笏を持つ許可)に預かったという。古く、神事に笏をとることを許されたのは伊勢神宮と諸大社の神職のみであったといわれ、小社である当社が許されたのは破格の扱いという。
 (この神階授与・昇格は、いずれも射水神社と同時・同格であり、把笏の許可も同時だったという)

 当社創建後の経緯については不詳だが、江戸前期とされる社家八兵衛の“由来書上”(1685)には、
  「私持分之社・礪波郡高瀬村神社“かうらい権現”(高麗権現)は、大同年中(806--10)に社相建申す由に申し伝え候。誰の建立か知り申さず候。古は、社僧等多数有りとの由、山号はかうらい山、寺号は神保寺と申し伝へ候らえ共、乱世の節社僧も退散仕り、只今無に御座候」

 また、江戸中期末の地誌・越之下草(1786頃)には、
  「高瀬神社  礪波郡高瀬郷高瀬村に在り 式内礪波郡七社の第一也。往古は越中の一宮なりといふ。
 古来里人伝えて云、此御神は往昔高麗より御渡り、此地へ御着の日七月十四日なりと。御神御足袋を濯せ給ふ流を“たび川”と名づけ、此川の辺に暫時御休み、高瀬へ御移りの間、俄に雨降、御神雨をくくると仰せられしと也。
 其後毎年たび川の辺御休の処へ御旅行なされ、其処を宮守と唱へ今以て江田村領に旧跡あり。たび川も江田村領を流るる也」
とあるという(以上、式内社調査報告・1985)

 これらによれば、江戸時代の地元では、高麗(コウライorコマ)からの渡来神を祀る神社として知られていたようだが、この伝承がどのような背景のもとに生まれたのかは不明。

 また上記・越之下草には、続けて
  「又伝へいふ、高橋神社両部(真言宗と習合した神道)にて、神社・仏閣大同元年(806)の造立にして高麗山深法寺勧学院と称し、真言寺凡三百余坊、闔山(全山)次第に繁栄せしに、最明寺入道時頼廻国なされれける時分、此処に来り給ひ、破戒奢侈の行ひを憤りて、佐野源左衛門に仰せありて、破戒の坊主ども多く切害し給ひしゆへ、寺院多く破壊いたせしよし也。
 其後、永禄年間(1558--69)上杉謙信越中へ乱入の時、神社・仏閣・僧房共残らず焼亡せられ、闔山退散に及びしと云也」
とあり(式内社調査報告)、鎌倉・戦国時代は神社というより、神仏習合の寺院とされていたことが窺われる。

 ここでいう最明寺入道時頼とは、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼のことで、執権職を辞任して出家(1256)した後、諸国を廻国したといわれ、また、佐野源左衛門とは、能・鉢の木のシテ(主役)として出てくる武士で、廻国中、大雪で難渋する時頼を宿し、貧しいなかで愛玩する盆栽の木を切って暖を馳走したとされる人物。
 しかし、時頼の諸国廻国については、伝承とする説・廻国したとする説があり、伝承説が有力であることから、鎌倉時代の衰微を時頼廻国に結びつけた伝承かもしれない。

 ただ、上杉謙信は永禄11年(1568)から天正元年(1573)にかけて数度にわたって越中国に攻め入っているから、その間、神社・仏閣の焼失はあり得る。

 このように、平安時代までは朝廷の崇敬篤く栄えていた当社は、栞に
  「戦国時代に入り、往古の繁栄は何処へ。社頭は荒廃し、人心も乱れた時代でした」
というように衰退したが、江戸期に入って前田家の保護を受けて復興し、明治以降は県社(明治6年)に列せられ、更に大正に入って国弊小社(大正12年)へと昇格して戦後を迎えたという。

※祭神
 今の祭神は、
  主祭神--大国主命(大己貴命-オオナムチ)
  配祀神--天活玉命(アメノイクタマ)・五十猛命(イタケル・イソタケル)
となっているが、延喜式には一座とあることから、延喜式神名帳頭注(1503)・神祇宝典(1646)・特選神名牒(1876)にいうように、大己貴命一座とすべきであろう。
 しかし、他にも
 ・天活玉命--神祇拾要(不明)・三州地理志稿(1830)
 ・五十猛命--越中国式内等旧社記(1653書写)・神名帳考証(1733)
 ・素盞鳴命・五十猛命--越中式内并式外之覚(1678)
といった諸説があり、今の相殿神は、これら諸説の祭神をまとめて祀ったものと思われる。

 オオナムチ命というのは当社由緒によるもので、その裏には、高瀬気多同体説があるというが、同体説の根拠など詳細不明。
 ただ、気多大社の祭神について、オオナムチは後世の附会で、本来は能登地方で古くから崇敬された地主神ではないかとの異説があるように(別稿・気多大社参照)、当社祭神も、古くからの在地の神(高瀬神とでもいおうか)であったものが、何時の頃かに地祇(国つ神)の代表であるオオナムチへと変えられたのではないかと思われる。

 アメノイクタマ命とは、先代旧事本紀(9世紀前半・物部氏系史書)に、ニギハヤヒに従って天降った32神の一柱として出てくる神だが、記紀には登場しない。栞には「無病息災・延命長寿の神」とあるが、その神格は不詳。
 ただ、気多大社の祭神としてこの神を挙げる説もあり、それを参照したものであろうが、当社に祀られる根拠は不明。

 イタケル命とはスサノヲの御子で、父神とともに樹種を持って新羅国に降臨したが、そこでは植えずに持ち帰り、筑紫からはじめて大八洲の国に植林して国中を青山にしたという神で(書紀・八岐大蛇段一書4)、栞には「農林殖産・交通安全・厄除・病気平癒の神」とあるが、農林殖産は判るとして交通安全以下は一般的な附会であろう。
 なお、イタケルが新羅から帰った神ということから、“越の下草”などがいう“高麗神”を是に充てたともとれる。

※社殿等
 社域南の一の鳥居を入り、広い境内を進んだ先に二の鳥居が立ち朱塗りの橋が架かっている。
 境内正面に、唐破風向拝を有する大きな拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥、透塀に囲まれた中に本殿(四間社流造・銅板葺)が、南面して鎮座するが、塀が高く樹木繁茂のため屋根のみしか拝見できない。

 栞によれば、社殿は、戦時中の昭和17年に改築着工し、戦中戦後の混乱のなか、幾多有志の方々の情熱に支えられて、昭和22年に完成したもので、拝殿・弊殿等は翌23年に完成したという。

 
高瀬神社・一の鳥居
 
同・二の鳥居 
 
同・拝殿
 
同左
 
同・本殿
 ◎功霊殿
 拝殿左手にある末社。
 栞によれば、
 「日清・日露戦争から大東亜戦争まで、砺波地区から出征された護国の英霊と、当地方開拓の功労者6400余柱を祀る。
 本殿は、当神社の旧本殿で、天保7年(1836・江戸後期)に建立された井波彫刻の粋を尽くしたもので、文化財の指定を受けています」
という。
 ただ、本殿は覆屋の中にあって、よく見えない。
 

     功霊殿・拝殿 
 
     同・社殿
  (中に一間流造の本殿が納まる)

 境内には、稲荷神社及び主祭神・大己貴に因んだ「なでうさぎ」と証する立兎の像がある。

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