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田 村 神 社
香川県高松市一宮町
祭神--倭迹迹日百襲姫命・五十狭芹彦命(吉備津彦命)・猿田彦大神
         天隠山命(高倉下命)・天五田根命(天村雲命)--合わせて田村大神という
                                                                  2014.01.27参詣

 延喜式神名帳に、『讃岐国香川郡 田村神社 名神大』とある香川郡唯一の式内社で、讃岐国一の宮。

 四国香川県・高松琴平電鉄琴平線・一宮駅の東北、徒歩約15分ほどの市街地に鎮座する。

※由緒
 社務所で頂いた田村神社略記(以下、略記という)によれば、
  「当社の起源は極めて古く、社記によれば、和銅2年(709・飛鳥時代末)に社殿が創建されたとあり、往古より“田村大社”・“定水(サダミズ)大明神”又は“一宮大明神”とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。
  (中略)
 当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い、殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば、領主奉行は必ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である」
とあり、
 当社公式HPは、これに加えて、
 「奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことはない。
 古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川(コウトウガワ)の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられる」
という。

 讃岐国は古くから水に恵まれない土地といわれるが、略記(田村神社の出水-デミズ-の項)には、
  「当神社の地は讃岐平野のほぼ中央部に位置し、東には香東川が流れ、地下にはその伏流水が流れており、地域の人々は井堰や出水を作り、生活用水や田畑の間が使用水として利用するなどその恩恵を受けてきた。
 当神社にもそこからの湧き水が3っあったが、現在では御神体である淵と、境内東方にある袂井の2つのみである。
 御神体の淵は社殿内にあって当然見ることはできない。社伝によると、御神体の淵には竜が住むという竜神伝説があり、・・・」
とあり、当社と水との関係が特記されている。

 近世の古文書にも
 ・神殿の下に深淵ありと雖も、古今見る人なし。社辺に黒色蛇多く、邑中に離散す。俗に神龍と謂ふ--讃岐国大日記(時期不明)
 ・此地往古川淵也。水神在りて邑里の不浄を咎め其の祟りある事酷し。故に其の淵を清浄にして水中に筏を浮かべ、其の浮橋に社を造り供物を鐉して祭祀を拝尊す--南海通記(1718)
 ・神殿を深淵上に造り、古今其淵を視る人無し。封域内に烏色の蛇多し、長さ4・5尺、俗に之を神龍と伝ふ--讃岐府志(1915)
 ・神殿下に深淵有り。神龍潜居、然れども古来見る人無し。社辺に黒色蛇有りて多く蜿々、俗に神使と曰う--全讃史
などがあり(式内社調査報告)

 また、略記(社記の一節珍事録の項)には
 ・明徳元年(1655)の奥殿改築時、高松藩普請奉行・竹村斎庵が神官が祟りがあるとして断るのを押して開かせたところ、しばらくして水が逆巻き上がり、その中から竜が深紅の舌を巻き三間ほど頭を出して斎庵をにらんだ。
 斎庵は心地悪くなり、駕籠で家に帰り、家内にその仔細を言いつつ死んでしまった。
 ・その後工事の半ばになったとき、淵の蓋の真ん中に2尺ほどの穴が明いていて、その中へ鑿を落としてしまった。するとしばらくして竜が現れ、その鑿を角に掛けて差し出した。
 大工は恐れて足で鑿を挟み上げたところ、大工はたちまち死んでしまった。
とある。

 因みに、泉・淵とは現世と他界をつなぐ境界であって、そこから湧き出す水は他界からもたらされる命の水という認識は古くからのもので(元旦早朝に汲む若水にも、他界からの命の水を得て蘇るとの意がある)、当社奥殿床下にある深淵もそのような境界であって、そこから顕れる神龍は他界から命の水をもたらす水神であり、が故に、それを冒涜する者はそれなりの対価をはらわざるをえなかったということであろう。

 これらを承けて、式内社調査報告には
  「これらの伝承を整理すれば、農耕にとって豊かな恵みの源である“水”そのもの、あるいはその水を湧き出す“淵(泉)”を神とする信仰を核として、すくなくとも古墳時代末期にはこの地で祭祀が齊行され、奈良時代初期には社殿が造立されたといふことになるであろう」
とあり、略記には
  「田村の大神は水の神 御神体は龍神なり」
と大書している。


 当社の創建時期について、略記には和銅2年(709)とあり、南海治乱記(1663)には
  「ある説によると、元明天皇の和銅2年に、讃岐国香川郡大野郷に初めて正一位田村定水大明神が建てられたという」
とあるというが、確証はない。
 ただ、当社には飛鳥時代(531--710)以前のものとされる片添刃鉄鉾身が所蔵されており、これが当社当初からの神宝であることが確認できれば、創建の下限を確定する有力な材料となるであろうという(式内社調査報告)

 当社の正史上での初見は、続日本後記(869)にいう
 ・嘉祥2年(849)2月癸丑条--讃岐国田村神従五位下
で、9世記には実在したことが証され、以下、三代実録(901)
 ・貞観3年(861)3月13日--讃岐国従五位上田村神を官社に列ねき
 ・ 同 7年(865)10月9日--従五位上→正五位下
 ・ 同 9年(867)10月5日--正五位下→従四位下
 ・ 同17年(875)5月27日--従四位下→従四位上
 ・元慶元年(877)3月4日--従四位上→正四位上
とあlり、讃岐国では最高の神階が授与されている。
 なお、当社所蔵の扁額(裏に弘安7年・1284との陰刻あり、鎌倉中期)には、“正一位田村大明神”とあり、社伝によれば、その昇叙は建仁元年(1201・鎌倉初期)ともいうが、出典史料など詳細不詳。

 中世以降の沿革について、略記には次のようにある。
 ・貞和2年(1346)--管領・細川頼之の時代に社域拡張し経蔵寄進、一切経奉納
 ・長禄4年(1460)--領主・細川勝元が社頭に壁書(讃岐国一宮田村大社壁書-下記)を掲げて神事の厳粛化に努め
 ・天正年間(1573--92)--領主・仙石氏・生駒氏がそれぞれ社地を寄進
 ・明暦元年(1655)--国主・松平頼重が社殿修造・社領寄進
 ・延宝7年(1679)--神仏習合を廃止、唯一神道による松平家の祈願所とし、武門・幕府からの崇敬篤し
 ・明治4年(1871)--神祇制度改革により国弊中社に列す

◎一の宮
 当社が一の宮とされた経緯は不明だが、中世諸国一宮制の基礎的研究(2000)に、
  「長禄4年(1460)12月の“田村大社壁書”の冒頭に、『讃岐国一宮田村大社壁書之事』と見えるのが確かな初見で、永万元年(1165)6月の“神祇官諸社年貢注文”や、嘉元4年(1306)6月12日の“昭慶門院御領目案”に見える『讃岐国一宮』は当社にあたる」
とあり、一宮制が広まった12世記には讃岐国一の宮として定着していたと思われる。
 なお、田村神社壁書とは、祭祀次第や経営などに関して遵守すべき規則26箇条を2mにも及ぶ長い板に刻したもので、末尾に守護・細川勝元の花押があるという。

※祭神
 当社HPによれば、
 ・倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)
 ・五十狭芹彦命(イサセリヒコ、別名:吉備津彦命-キビツヒコ)
 ・猿田彦大神(サルタヒコ)
 ・天隠山命(アメノカゴヤマ別名:高倉下命-タカクラジ
 ・天五田根命(アメノイタネ別名:天村雲命-アメノムラクモ
 以上五柱の総称を田村大神と申す。
とあり、これは讃岐国官社考証(明治中期・松岡調著1830--1904)によるものという。

 記紀によれば、モモソヒメとイサセリヒコは第7代孝霊天皇の皇女及び皇子で(古事記にはイサセリヒコの亦の名・オオキビツヒコとある)、両者に関する伝承として次のものがある(以下、書紀による概略)

*ヤマトトトヒモモソヒメ(以下、モモソヒメという)
 ・崇神天皇の姑・モモソヒメは聡明で、よく物事を予知された。
 ・崇神7年、世の中に疫病や災害が起こり収まらなかったので、天皇が占ったところ、三輪山の神・オオモノヌシがモモソヒメに神懸かりして「吾を敬い祀れば自然と平らぐだろうと」と告げた。
 ・崇神10年、童歌を聞いたモモソヒメが、天皇の叔父・タケハニヤスヒコが反乱を起こすことを事前に予知して、天皇に「速やかに備える」よう告げた。
 ・その後、オオモノヌシの妻となったが、オオモノヌシの正体が蛇であることに驚き、約束を破って声を上げたためにオオモノヌシに去られ、それを悔いて座り込んだ拍子に箸で陰部を突いて死に、大市の箸墓に葬られた。箸墓は、昼は人が造り、夜は神が造ったと伝えられる。

 略記には
  「モモソヒメは第7代・孝霊天皇の皇女で崇神天皇の御代に疫病で人々が苦しむのを救い、またタケハニヤスヒコの謀反を予知し未然に防ぐなど数々の勲功をあげたことにより百襲(モモソ・襲は勲功の略)の名を負う。
 後、イサセリヒコ命と西海鎮定の命を奉じて讃岐国に下り農業殖産の開祖神となった。御陵は大和国城上郡大市村にある」
とある。

*イサセリヒコ(別名:キビツヒコ)
 ・崇神10年9月、天皇の命により四道将軍に一として西海に派遣された。
 ・その出立前、モモソヒメの予言でハニヤスヒコの反乱を知った天皇の命により、大坂から攻めてくるハニヤスヒコの妻・アタヒメの軍を迎え撃ち大いに破り、アタヒメを殺した(ハニヤスヒコの軍には、同じ四道将軍の一・オオヒコ命が向かったとある)
 ・10年10月、改めて西海に出立し、
 ・11年4月、吉備国を平定したことを天皇に報告した。

 略記には
  「イサセリヒコ命はヤマトトトヒモモソヒメの弟にあたり、四道将軍の一人で西海を鎮定し吉備国の祖神となった」
とある。

 このように、記紀にいうモモソヒメは、崇神垂仁朝にあって近未来に起こるであろう出来事を予知・予言する巫女、あるいは大和・三輪山の神・オオモノヌシの妻で箸墓古墳の被葬者といった幾つかの伝承が記されているが、大和を離れた痕跡はない。

 また略記は、モモソヒメとキビツヒコが西国鎮定の命をうけて讃岐国に下り云々というが、崇神紀・四道将軍の条では、
 ・キビツヒコが派遣された西国とは吉備国を指し讃岐国ではなく、
 ・出立直前に起こった武埴安彦(タケハニヤスヒコ)の反乱をモモソヒメが予知し、キビツヒコがこれを迎え撃ったとの記事はあるものの、西国平定そのものにモモソヒメは登場しない。

 ただネット資料によれば、讃岐には、キビツヒコの吉備平定を鼓舞するため、モモソヒメが讃岐にやってきた、との伝承があるといわれ、讃岐国には当社以外にもモモソヒメを主祭神とする神社が数社あり、モモソヒメに関わる伝承が多く、その一つ式内・水主神社(東かがわ市水主)は、
  「祭神・ヤマトトトヒモモソヒメは奈良県黒田慮戸(現磯城郡田原本町黒田)に居を定めた。御年7才より黒田を出、8才にて水主宮内に着き給い、成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆を成し、水徳自在の神と称えられ、云々」
という。

 これらの伝承が何時頃、どのような経緯で作られたかは不詳だが、モモソヒメの弟で当社祭神でもあるキビツヒコが、四道将軍の一として西海平定に派遣され吉備国を平定したという伝承(崇神紀10年)が、瀬戸内海をはさんで対岸にある讃岐国にも広がり、それに伴って、キビツヒコの姉・モモソヒメの讃岐居住という伝承が語られたとも思われる(当地付近にはモモソヒメに関する伝承があるというが、資料入手不可能で全貌不詳)

 この両者を祭神とするのは上記由緒(伝承)によるものだろうが、記紀によるかぎり、両神ともに讃岐国とは関わりはなく、当社の創建をモモソヒメに求めるのは伝承によるものであって、当国の農耕が専ら川水に頼るものであったことからみて、本来のそれは、略記に大書するように、古来からあった“水の神”への信仰であろう。

*サルタヒコ
 記紀に、天孫降臨の際、天孫ニニギを天の八衢(ヤチマタ)に出迎えて筑紫の高千穂まで先導したことから、道案内の神・道中安全の神というが、同じような神格をもつ塞(サイ)の神・岐(フナト)の神・道祖神信仰あるいは庚申信仰などとも習合した複雑な神格をもつ神で、
 略記には
  「サルタヒコは皇孫ニニギ尊降臨のとき、天の八衢(ヤチマタ)に出迎えて先導を申し出、道途の安全を守護した神で、この神の向かうところはいかなる禍神(マガツカミ)も恐れて避け奉ったといわれ、方除神(ホウヨケカミ)として神威まことに偉大である」
とあるが、方除神というのはいかがなものか

 この神が当社に祀られた由緒は不明だが、当地付近に旧南海道が通っていたことから、その道筋に道中安全の守護神として祀られていた道祖神を、何時の頃かに当社に合祀したと思われるが、サルタヒコが地主神として祀られることも多いことから、当地方の地主神として祀られたのかもしれない。

*アメノカゴヤマ・アメノイタネ
 この両神は先代旧事本紀に、古代豪族・尾張氏の祖神として出てくる神で、
 アメノカゴヤマ(天香語山と書くのが普通)は、物部氏の遠祖・饒速日命(ニギハヤヒ)が天上に居たときに生まれた御子で、父に従って天降ったとされ、天降った後の名が高倉下(タカクラジ)という(タグリヒコともいう)
 アメノイタネはアメノカゴヤマの子で、旧事本紀には「天村雲命 亦の名・天五多手(アメノイタテ=アメノイタネ)」とある。

 そのタカクラジの事績として、記紀には、神武東征に際して熊野の地で神の毒気にあたって気絶した神武軍を救うため、天からタカクラジの倉の中に降された神剣を神武の元に運び、剣のもつ霊気によって蘇った神武軍は、荒ぶる神々を切り伏せ、遂に大和へと入ったとある。

 このように、本来は讃岐国とは無縁の神だが、それが当社に祀られる由縁として、当社HPは、
  「アメノカゴヤマ命は皇祖神武天皇の御東征の際、窮地を救った神で(神武即位前紀にいうタカクラジの事績)、後に御子アメノイタネ命と共に紀伊国から当国に渡り、山河をもって国郷の境界を分かつなど開拓水利の基を定めた」
というが、この伝承の出所・背景などは不詳。

 今の祭神は上記5座だが、
 ・中世の資料--サルタヒコ一座説(大日本一宮記・延喜式神名帳頭注)又はイサセリヒコ(キビツヒコ)一座説(北条記)
 ・近世の資料--神櫛別命(景行天皇皇子)一座説・宇治比売命・田村比売命(伊勢内宮摂社、国津御祖神社の祭神)二座説(以上、度会延経・神名帳考証)、水佐々良比古命(伊勢内宮摂社・大土御祖神社の祭神で水神らしい)の兄弟・田村命説(栗田寛・神祇志料)
などがあったというが、いずれも根拠不詳。

 当社の原姿は、南海治乱記に
  「世間の説によると、この地は昔川の瀬であった。そこには水神が住み、村里の不浄をとがめ、それを守らないと恐ろしいたたりがあった。そこでその淵はたえず清浄にし、水に筏を浮かべ、そこに浮いた社殿を設けて供え物をし神を祀っていた。これが一宮神社の始まりである」
とあるように、水の信仰に発すると思われることからみて、本来の祭神は、略記冒頭にいうように、香東川一帯の水を司る水神(龍神)であって、生活用水・農耕用水の順調なることを祈って祀られたとみるのが妥当と思われる。

※社殿等
  南からの長い参道途中にある随神門を入り、直進した正面が田村神社の社殿で、その前に大鳥居が立つ。

 本社である田村神社は、境内の西側(左、配置図・茶色の屋根をもつ社殿)に鎮座する。

 中心となる田村神社は、大鳥居の奥に南から拝殿(唐破風向拝付入母屋造・桧皮葺)・弊殿・本殿が縦に並び普通の神社と同じだが、当社独自のものとして、本殿の裏に御神座がある奥殿があり、その床下に神龍が住むという深淵があり、厚板で覆われているという。

 本殿・奥殿は表からは見えないが、社殿の裏手に廻ると、立木に囲まれた処に本殿から突きでた形で奥殿(切妻造妻入り、一間×三間、側廊付き、桧皮葺き)が建っている。高床式だが、廻りは板壁で囲まれ、床下の深淵は実見不能。
 本殿は、裏から一部が見えるだけで詳細不明。

 田村神社の東側(右)には、本社に匹敵する社殿をもつ宇都伎社(ウツギ)・素婆倶羅社(ソバクラ)・天満宮が並び、その周りに、七福神像から十二支像・布袋尊(2ヶ所あり)・恵比須像・大黒天造・神龍像(数基あり)・桃太郎像といった彫像、弁天社・稲荷社・淡島社・姫の小祠、鐘楼など、民俗信仰に係わるいろんな神々を祀る小祠・彫像などが所狭しと乱立している。
 神職のお話では、これらの神々は昭和以降に造営・造立されたものという。
 誰が何のために勧請したのか不明だが、人々の要望に応えて闇雲に祀ったという印象が強い。

    社殿等配置図(部分)
    (左が田村神社、略記より転写)
 
田村神社・随神門
   
同・大鳥居
 
同・拝殿
 
同・奥殿(側面)
 
同・本殿(背後より、右が奥殿)

◎境内末社
 ・宇津伎社(ウツギ)
   祭神--大地主神・倉稻魂神(ウカノミタマ)
  本社社殿の右にある神社で、本社と匹敵する堂々たる社殿(拝殿・弊殿・本殿)を構え、社前には大鳥居が立つ。
  略記には、「衣食住を司る。家内安全、生活守護の御利益がある。また讃岐七福神・布袋尊を祀る」とある。

 ・素婆倶羅社(ソバクラ)
   祭神--少名毘古那神(スクナヒコナ)・大年神(オオトシ)・塞神(サイノカミ)・大水大神(オオミナカミ)・菅原神
  宇都伎社の右にある神社で、規模は少し小ぶりだが、拝殿・弊殿・本殿をそろえている。
  略記には、「安産・病気平癒の霊験があらたかである」とある。

 ・天満宮
   祭神--菅原道真公
  素婆倶羅社の右にある神社で、社殿一宇のみ。例によって学問の神様とある。

 
宇都伎社(左の小鳥居は姫の宮の鳥居)
 
素婆倶羅社
 
天満宮

 境内右側一帯には、下写真のような小祠や神像などが無秩序に並び、他にも淡島社(朱塗りの小さい鳥居と祠あり)・十二支廻り小像(干支の動物の小像)・鐘楼・朱塗りの鳥居列の中にさぬき獅子頭・八咫烏像などがある。
 神仏習合というか民俗信仰というか、普通の神社とは違った、何ともいいようがない雰囲気が漂っている。

 
宮島社
 
姫の宮社
 
子育て布袋像
 
出迎え布袋像
 
七福神像
 
神 龍
 
神 龍
 
桃太郎像

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