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土 佐 神 社
高知県高知市一宮しなね2丁目
祭神--味鉏高彦根神・一言主神
                                                               2014.01.28参詣

 延喜式神名帳に、『土佐国土佐郡 都佐坐神社 大』とある式内社で、土佐国一の宮。延喜式の社名は“トサニマス”と読む。

 JR四国土讃線・土佐一宮駅の北約2km、背後に低い丘を背負った市街地に鎮座する。

※由緒
 社務所で頂いた土佐神社略記によれば、
  「土佐神社の創祀については、明らかでありませんが、境内東北部の礫石(ツブテイシ)と呼ばれる自然石を磐座(イワクラ)として祭祀したものと考えられ、古代に遡ると言われています。
 延喜の制が布告された平安時代、醍醐天皇の御代(927)には式内大社に列せられ都佐坐神社と称され、特に皇室の崇敬あつく勅使の参向もしばしばあり、朱雀天皇の御代・天慶3年(940)には、神階を正一位に進ませられています}
とある。

 当社の創祀について、略記は時期不明としているが、社頭に掲げる由緒には
  「創祀 年代未詳 古代と伝えられる(一説に、5世紀後半雄略天皇4年と伝えられる)」
とある。

 ここでいう一説(雄略4年創祀)とは、続日本紀(797)及び釈日本紀(鎌倉末期、日本書紀の注釈書)にある次の記事によると思われる。
*続日本紀・淳仁天皇天平宝宇8年(764)11月7日条
  「再び高鴨神(高鴨阿治須岐託彦根命・タカカモノアジスキタクヒコネ)を大和国葛上郡に祠(マツ)った。高鴨神について法臣(僧の位)円興とその弟の中衛将監・従五位下の賀茂朝臣田守らが次のように言上した。
 昔、雄略天皇が葛城山で猟をされたとき、老父があって天皇と獲物を競いあいました。天皇がこれを怒って、その人を土佐国に流しました。これは、私らの先祖が祀っていた神が老父と化したもので、この時、天皇によって放逐されたのです《今、記録を調べても、このことは見えない》。
 ここに於いて、天皇は田守を土佐に遣わして高鴨神を迎え、元の地(現奈良市御所市鴨神-式内・高鴨阿治須岐託彦根命神社)に祀らせた」(《 》は原注)

*釈日本紀(雄略天皇紀・一言主命条)
  「或説に云う、神(一言主)天皇と相競う時不遜の言有り。天皇大いに瞋り(イカリ)、土佐に移し奉る。・・・初め賀茂の地(現幡多郡黒潮町入野・賀茂神社あり)に至り、後に此の社(現土佐神社)に遷る。
 而高野(淳仁)天皇法宇8年、従五位上高賀茂朝臣田守等奏して葛城山東下の高宮岡の上(現奈良県御所市森脇-式内・一言主神社あり)に迎え奉る。其の知魂(神霊)は猶彼の国(土佐国)に留まりて、今も祭祀を為す云々」(漢文意訳)

 しかし、続日本紀に《記録を調べても、このことは見えない》との注記があるように、記紀には、雄略天皇が葛城山で狩りをしたとき、葛城山の神と出会ったが、
 ・雄略天皇が葛城山で出会った神はヒトコトヌシであって、アジスキタカヒコネではなく、
 ・天皇は、ここで神と出会うとはと畏れかしこんで、持っていた太刀や弓矢などを献上し、神は喜んで受けとった(古事記)
 ・天皇と神が轡を並べて仲良く狩りを楽しんだ(書紀)
とはあるものの、獲物を競いあったとか不遜の言葉があったので天皇が怒ったとは記されていない。
 これらからみて、記紀の記事と続日本紀の記事との間には大きな齟齬があり、続日本紀の記事を以て、当社創建時期を雄略期とするには疑問がある。

 また、続日本紀がいう高鴨神についても、
 ・土佐からの復祀を願い出た高賀茂朝臣の一族が、土佐に流された高鴨神は我らが祖先が祀った神ということから、賀茂氏の祖神・アジスキタカヒコネと思われるが、
 ・釈日本紀にはヒトコトヌシの条に記されていることから、土佐に流されたのはヒトコトヌシとなり、
両書の間にも混乱があり、これが、当社祭神は延喜式で一座とあるにもかかわらず、今、アジスキタカヒコネ・ヒトコトヌシと並記する原因ともなっている。

 この件について、神職のお話では、明治時代の規録に「祭神については諸説があり、いずれとも決めがたし」とあり、今は両神を併祀している、とのことであった。

 なお、釈日本紀はヒトコトヌシはまず賀茂の地・現幡多郡黒潮町入野に鎮座し、そこから当地へ遷ったとあるが、当地に残る伝承では、雄略4年、天皇に追われたヒトコトヌシが、葛城から船で逃げ出して土佐に流れ着き、まず須崎市(高知市の西約20km)多ノ郷(賀茂神社-祭神:賀茂別雷神)に鎮まり、次いで同市・浦の内(鳴無神社オトナシ-祭神:土佐神社と同じ)に遷り、そこから当地へと遷ったという。

 このように、当社の創建由緒については混乱があるものの、当社は土佐国に進出した奈良・葛城の賀茂氏一族が、その祖神を祀ったことにはじまるというが一般の理解で、先代旧事本紀(国造本紀)には
  「都佐国造  成務朝の御代 長阿比古(ナノアヒコ)と同祖の三嶋溝杭命(ミシマミゾクイ)九世の孫・小立足尼(オタチノスクネ)を国造と定めた」
とあり、これが賀茂氏の土佐国進出の契機ではないかという(ただ、管見した賀茂氏系譜には小立の名はみえず、類似の名として賀茂建角身命6世の孫に小楯-オタテなる人物がある。また、同祖とされる長阿比古の出自は不明)

 ここでいうミシマミゾクイとは、神武天皇の正妃・ヒメタタライスズヒメの母・タマクシヒメの父・ミシマミゾクイミミとして出てくる人物で(書紀、古事記も正妃・母の名は異なるが系譜的には同じ)、このミシマミゾクイミミは賀茂氏の祖・賀茂建角身命(カモノタケツヌミ)の異名同人ということから、初代都佐国造・小立とは賀茂氏の一族で、その国造就任を契機として、土佐国に進出した賀茂一族が、その遠祖・アジスキタカヒコネを祀ったのが当社の始まりとみるのは妥当かもしれない。

 なお、律令制制定以前の国造には、その地方の有力豪族を任じたといわれ、ネット資料(宿毛歴史館HP)によれば、小立との名が現在の高知市尾立(ヒジ・オタチとも読める)に通じることから、高知市西部の朝倉地方に勢力を張っていた豪族ではなかったかとあり、とすれば、初代国造・小立を賀茂氏一族とみるのは要検討となる。


 当社の正史上での初見は、書紀・天武4年(678)3月2日条の
  「土佐大神から神刀一口を天皇に奉った」
との記事で、続いて、同・朱鳥(アカミトリ)元年(686)8月13日条に
  「秦忌寸(ハタノイミキ)石勝を遣わして、幣帛を土佐大神に奉った」
とあり、これらからみて、7世記中頃に当社があったのは確かであろう。

 当社に対する神階授与の記録としては、
 ・三代実録・貞観元年(859)正月27日条--土佐国従五位下都佐坐神に従五位上を授く
 ・長寛勘文・天慶3年(940)2月1日条--高賀茂神 土佐 正一位
がある。

 当社創建後の経緯は不詳だが、略記には、中世以降の経緯として
  「鎌倉時代初頭には神仏習合時代に入り、土佐国総鎮守一宮とされました。当社及び神宮寺である善楽寺にて一宮を形成、土佐高賀茂大明神とされた。
 ・室町時代には、武門の崇敬あつく、正親天皇の御代・元亀元年(1570)には、長宗我部元親が本殿・弊殿・拝殿を再興、
 ・安土桃山時代・後陽成天皇の御代・慶長6年(1601)には、山内一豊封をこの地に享けると共に以前の社領を免許、
  二代忠義に至っては摂社・末社を始め、鳥居・楼門・鼓楼を増築して、土佐国最上の祈願所とした。
 ・明治元年、神仏分離令により、永年続いた神仏習合時代が終わり、明治4年(1871)には土佐神社と改称、社格は国弊中社に列した。
 ・戦後、昭和21年(1946)官国弊社の制度が廃止され、現在では神社本庁の別表神社とされた」
とある。

◎礫石(ツブテイシ)
 境内東北側、裏参道入口の道路脇に注連縄を巻いた大石(最長303m、最幅205m、高1.7mという)があり、礫石(つぶて石)と称している。

 傍らの案内には
  「古伝に土佐大神が土佐に移り給し時、御船をまず高岡郡浦の内(須崎市浦の内、高知市の西南約25km)に寄せ給い宮を建て加茂の大神として崇奉る。
 ある時、神体を顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶わずとて石を取りて投げさせ給ひ、此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが、十四里を距てたる此の地に落止れたのが即ちこの石で、この社地を決定せしめた大切な石で、古来之を“つぶて石”と称す。
 浦の内と当神社との関係は斯の如くで、往事御神幸のおこなわれた所以である。

 この地は蛇紋岩の地層なのに、この石は珪石で全然その性質を異にしており、学界では此の石を転石と称し、学問上特殊な資料とされている」
とある。

     つぶて石(東側より)

 これが、略記に「礫石と呼ばれる自然石を磐座として云々」という自然石(磐座)で、神職のお話では、「光線の具合によって石の表面にキラキラ光る点が無数に見え、昔の人は、それを神の顕現として崇め畏れたのではなかろうか」(大意)という。

 弘法大師伝承に、唐の明州の浜辺から、寺院を建てる適地を求めて投げた三鈷が、高野山御影堂前の松の枝に掛かっていたので、高野山を開いたとあるように、呪力を吹き込んだ聖なる物を投げて、神社あるいは寺院の適地を求めたとの伝承は各地にあるが、この礫石もその一つといえる。

 土佐大神が石を投げたという高岡郡浦の内とは現須崎市内之浦に比定され、そこには鳴無神社(オトナシ、祭神:当社と同じ)が鎮座し、神社には、大和を追われたヒトコトヌシがこの土地に到着し宮を建て鎮座したとの伝承があるという(実際の創建は鎌倉時代らしい)
 上記したように、土佐に着いたヒトコトヌシは、まず現須崎市多ノ郷に宮を構え、次いで同市浦の内に移り、そこから当地へ移ったとの伝承があり、浦の内から石を投げたというのは、この伝承の異伝ともいえる。

※祭神
 今の祭神は、
  ・味鉏高彦根神
  ・一言主神
となっているが、延喜式には祭神一座とあり、本来の祭神については 古くから
 ・釈日本紀が引用する土佐国風土記(逸文、713)
   一言主尊、その祖は不詳。一説では大穴六道尊(オオアナムヂ=オオクニヌシ)の子、味鉏高彦根命
 ・神名帳頭注(1503)
   一言主神、一説:味鉏高彦根神
 ・大日本一宮記(16世記中葉)
   味鉏高彦根神
 ・神名帳享保本(1723)注記(皇学叢書-1927所収)
   祭神味鉏高彦根神とも一言主神とも言ひ、定まらず
 ・土佐国編年紀事略(1745)
   一言主神は即ち葛城の高賀茂に坐す味鉏高彦根尊也
 ・一宮御記(時期不明・皆山集-明治前期-所収)
   味鉏高彦根尊
などの諸説があり、定説となるものはない。

 これらは、記紀・続日本紀・釈日本紀にいう雄略天皇と高鴨神との関係をどう読み、それをどう解釈するかに関わるもので、賀茂朝臣一族が土佐からの復祀を願い出たことを注視すればアジスキタカヒコネとなり、葛城山での狩りを重視すればヒトコトヌシとなるが、賀茂一族の土佐国造就任という背景からみるとアジスキタカヒコネとするのが順当かと思われる。

 これについて、式内社調査報告は
  「祭神については諸説があって混乱しているが、元来一言主神と味鋤高彦根尊とは賀茂氏によって祀られており、同一系統の神であることから混同されたものと思われる」
という。

 アジスキタカヒコネが賀茂氏の祖神であることに異論はないが、ヒトコトヌシは大和・葛城地方の古代豪族・葛城氏が奉祭した神とみられ(一言主神社が鎮座する高宮の地一帯は葛城氏の根拠地だったという)、賀茂氏とは直接の関係はみえない(葛城氏没落後、賀茂氏が祭祀を引き継いだ可能性はあるが、それを示唆するものはない)

 ただ、先代旧事本紀では、アジスキタカヒコネ・ヒトコトヌシ共に出雲系神統譜に組み込まれ、アジスキタカヒコネはオオナムチ(オオクニヌシ)の御子、ヒトコトヌシはスサノオの御子となっており、調査報告が、この両神を同一系統の神というのは、これによるものかと思われる。
 しかし、、出雲風土記にはアジスキタカヒコネに関する記述は数カ所にあり、出雲との関係を窺わせるが、ヒトコトヌシに関わる記述は見えず、ヒトコトヌシをスサノオの御子とするのには疑問がある

 また、アジスキタカヒコネは農耕にかかわる神という色彩が強く、ヒトコトヌシは自ら「吾は悪事(マガコト)も一言、善事(ヨゴト)も一言で言い離つ神」(古事記)というように託宣の神であり、神格からみても同系統の神というには疑義がある。

※社殿等

 県道384号線北側に立つ楼門(神光門-国重文、バスで通過したため写真なし)を入り、長い参道の奥に鳥居が立ち境内に入る。 

 境内正面に拝殿・弊殿・本殿とつづく社殿が南面して建つが、当社の社殿構成は特異で、
略記には
 「元亀元年(1570)長宗我部元親公が再建御建立の現社殿(国重文)は、
  入母屋造りの前面に向拝を付けた本殿
  その前方の十字形をなす弊殿・拝殿・左右の翼・拝の出からなります。
  十字形の屋根は交差した部分が重層切妻であり、他は単層切妻です。

 弊殿を頭とし、その両側に羽根に相当する翼廊を伸ばし、尾に相当する拝殿を縦長にした十字形で(右写真)、本殿に向かってトンボが飛び込む形にみたてた入蜻蛉形式で、凱旋を報告する社という意味があるといわれています」(一部追記)
とある。

 社殿・航空写真
  (略記より転写)
 
土佐神社・鳥居
 
同・拝殿
(前面に大きく突きだしている)
 
同・本殿(西側より)

◎摂社
 社殿域の左(西)奥に摂社3社が横に並んでいる。
 前方に小ぶりな鳥居が立ち、各社殿前には簡単な拝所がある。
 向かって左から
  ・事代主神社--祭神:事代主命-古くは恵毘須神社と称された
  ・西御前社---祭神未詳
  ・大国主神社--祭神:大国主命
 本社祭神・アジスキタカヒコネがオオクニヌシの御子ということから、その父神・異母弟神などを祀ったのであろうが、その鎮座時期等は不明。
 なお、西御前社の祭神は未詳となっているが、この構成からみると、アジスキタカヒコネの母神・タキリヒメかもしれない(御前とは女神を指す場合が多い)

 
摂社前の鳥居
 
事代主神社
 
西御前社

大国主神社 

◎末社他
 鼓楼(国重文)--境内に入ってすぐの右手に聳える朱塗りの建物で、慶安2年(1649)2代目土佐藩主・山内忠義公の寄進という。
           かつては太鼓を用いて刻を告げていたのであろう
 末社・厳島神社--祭神:市寸嶋姫命(イチキシマヒメ)・多紀利毘売命(タキリヒメ)・多岐都比売命(タキツヒメ)
             鼓楼の東、放生池中央の島にある小祠
 みそぎ石--境内右手(東側)、拝殿の右手にある二つの石で、間に小川が流れる。
          嘗て、境内西のしなね川の辺に祀られていたものを移したという


末社・厳島神社
 
鼓 楼

みそぎ石 

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