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都波岐奈加等神社
三重県鈴鹿市一ノ宮町1181
祭神--都波岐神社:猿田彦大神
            奈加等神社:天椹野命・中筒之男命
                                                            2020.01.24参詣                                               

 都波岐神社と奈加等神社の2社が相殿として祀られ、
 両社ともに、延喜式神名帳に『伊勢国河曲郡 都波岐神社』・『同 奈加等神社』とある式内社で、都波岐神社は伊勢国一ノ宮と称している。
 都波岐は“ツバキ”、奈加等は“ナカト”と読む。郡名・河曲は“カワワ”。

 JR関西本線・河原田駅の南約1.1kmに鎮座する。

※由緒
 頂いた参詣の栞(以下「栞」という)には、
 「当社都波岐奈加等神社は、延喜式内の小社ではあるが、伊勢国一の宮である。
 創立は、雄略天皇の23年3月(5世紀末)で、猿田彦大神八世の孫、伊勢国造・高雄束命(タカオワケ)が勅を奉じて伊勢国河曲県中跡村(後の中戸村・現鈴鹿市一ノ宮町)に二社を造営し、『都波岐神社』及び『奈加等神社』と称したのが始まりであります。
 創立の際、天椹野命(アメノクヌノ又はアメノクノ)15世の孫・中跡直(ナカトノアタイ)山部廣幡が宣旨を受け初代の祭主を務め、その子孫が代々神主を継承し、当代で第58代である。

 平安時代初めの淳和天皇の天長年間(824--34)には、弘法大師が本社に参籠し、獅子頭二口を奉納したと伝えている。
 平安時代を通じて歴代天皇の崇敬が厚く度々神階を進められたが、特に白河天皇は承暦3年(1079)当二社に対して正一位を授けられ、宸筆の勅額を賜った。

 本社は、中世に入り更に大きく発展し、花園天皇の正和年中(1312-17)に摂政・藤原冬平公の執奏により『神伝記』を天覧に供し、嘉慶年中には、室町幕府の征夷大将軍・足利義満が、富士登山の帰路本社に参拝し、幣帛を供え社領を寄進したので多くの武士が参詣したと伝えている。

 また本社に神宮寺が存在していたことも、当寺所蔵の鰐口が奈良市富屋中町の霊山寺に伝えられていることからも知られている。その銘には『応永13年(1406)伊勢国河曲庄中跡神宮寺、大工藤政吉』と刻まれている。

 永禄年中、織田信長は伊勢平定の軍を進め、近くの神戸・高岡の二城を攻略した(1567--68)。その際、本社は兵火にかかり社殿が焼かれた。
 その時、本社に伝わる白河帝の勅額以下の文章・記録の類が多く焼亡したが、幸いにも獅子頭は他所へ移し難を免れることができた。奇しくも謂われのある獅子頭は、本社の大切な宝物として今日に伝えられている。
 因みに、往時には閏年の祈年祭に、獅子頭を出して祭式を行い各地を舞い歩くことを例としていた(以下略)
とある。


 今の当社は都波岐神社と奈加等神社の2社が同じ本殿内に鎮座し、都波岐奈加等神社と称しているが、延喜式には2社別々に記されていることから(奈加等社・小川社・都波岐社の順)、元々は独立した二つの神社だったと思われるが、それが何処にあったかは不祥。
 また、明治になって両社が合併して現在の二社相殿になったというが、その由縁・経緯等は不明。
 ただ、度会延経の神名帳考証(享保18年・1733)には二社相殿とは記されていないが、伴信友の神名帳考証(文化10年・1813)
 ・奈加等神社
  「中跡郷神戸艮二十町中戸村に在り。今は都波岐と相殿一宮ツバキ社是也 ツバキノ社一殿二座」
 ・都波岐神社
  「今楠村産社と云ふ是乎 今は奈加等神社に相殿となれり」
とあり、江戸中期には2社別々であったが後期には2社相殿となっていたようで、その後、明治初年の古資料には『2社相殿』とある(神社覈録・明治2年・1869他)


 栞は、創建由緒として“雄略天皇23年(5世紀末頃)、伊勢国造・高雄束命が勅を奉じて中跡村に都波岐・奈加等2社を造営”というが、当社蔵の棟札に記す中戸村神社記(18世紀前半頃)には、
 「大和国山部直廣幡の女・多加屋姫に猿田彦神・中筒男神が憑依・託宣ありて、二祠を同地に造営、中筒男神に奈加等神社、猿田彦神に都波岐神社との勅号を賜る」
とあるという(式内社調査報告・1989)
 高雄束命が、この神託をうけて朝廷に上奏し、その許可をうけて、猿田彦神・中筒男神を祀る2社を造営したとも思われるが、何故2社なのかはっきりしない。

 当社を創建したという高雄束命の出自について、栞には猿田彦大神8世の孫とある。
 一般には、猿田彦の後裔といえば、アマテラスの鎮座地を求めて各地を巡歴し伊勢に至った倭姫命に、伊勢・五十鈴川川上の勝地を奉ったとされる大田命(宇治土公氏-ウジトコの祖)が知られており、高雄束命を猿田彦の後裔とするのは当社のみであって、他に傍証となる資料はない。
 また、創立の際、天椹野命15世の孫・中跡直山部廣幡が初代祭主を務め云々とあるが、新撰姓氏録に中跡直の名がみえず傍証となる史料はない。
 ただ、当地の古地名を中跡村(後の中戸村)というから、当地にいた中跡直氏の有力者が祭主を務めたのであろう。

 栞は、2社の創建時期を雄略天皇23年というが、雄略天皇は5世紀後半頃の天皇であり(宋書・順帝紀に「昇明2年-478、倭王武が上表」とあり、その倭王武が雄略天皇に比定されている)、その頃の神マツリは、時に応じて神籬(ヒモロギ)を設けてのそれであって、今のような神社形態を整えてのそれとはおもえず、雄略23年創建というのには伝承であろう。

◎伊勢国一の宮
 栞は、当社(都波岐神社)を伊勢国一ノ宮という。
 一ノ宮とは、制度として定められたものではなく、それなりの歴史と風格を持ち、その国で最も崇拝されている神社を指して「一ノ宮」と称したという(新任の国司がまず最初に参拝する神社ともいう)
 通常は一国一社だが、伊勢国では都波岐社以外にも鈴鹿市山本町に鎮座する椿大神社も一ノ宮と称し、そのどちらが一ノ宮か古来から論議を呼んでいる。
 当社を一ノ宮とする古資料は唯一大日本一宮記(室町後期)のみで、そこには
  「都波岐神社 猿田彦神也 伊勢国河曲郡」
とあり、都波岐社が一ノ宮と称するのは、これを根拠にしたものという。

 しかし、神社覈録(1870)
 「抑、一宮と称す神の中古より廃れて相殿に存すといふはいぶかしく、されど一宮記に河曲郡云々とあれば是に従ふ。
 然れども鈴鹿郡椿大神社を一宮といひ、此の社は神位ありて今に歴然としたり。此等一宮記に疑いある一つなり」
として、都波岐神社が一ノ宮であることに疑問を呈している。(伊勢国一ノ宮については、別稿・椿大神社参照)


※祭神
   都波岐神社  猿田彦大神
   奈加等神社  天椹野命(アメノクヌノ)・中筒之男命(ナカツツノオ)

 *猿田彦大神
   栞には、「往古より、猿田彦大神様は国つ神の根本の神として、地上に生きとし生けるものの平安と幸福を招く方位方徐の神すなわち『道開きの神』として崇められてきました。・・・」とある。(別稿・椿大神社参照)

 *天椹野命(アメノクヌノ)
  記紀には見えないが、先代旧事本紀によれば、天降る饒速日命(ニギハヤヒ・物部氏の祖)に随行した32柱のなかに、
   「天椹野命 中跡直(ナカトノアタイ)らの祖」
とあることから、物部氏に関係するかと思われるが、新撰氏名録にその後裔という中跡直の名がみえず、天椹野命と中跡直氏を結びつける資料はない。

 *中筒之男命
  所謂・住吉三神の一だが、神勅によるとはいうものの、如何なる由縁で奈加等神社に祀られたのかは不明。

※社殿等
 東西に走る道路の北側に大きな2基の石灯篭が立ち(道路の反対側に矢印を付けた標識あり)、そこから民家に挟まれた参道が北へ延び、その突き当たりに一の鳥居が立ち、傍らに『県社 都波岐神社』・『県社 奈加等神社』と刻した古びた社標柱2基が並んで立っている。

 
都波岐・奈加等神社への入口

同・社頭 
 
同・一の鳥居(右に社標柱あり)

 一の鳥居を入り参道を進んだ先に二の鳥居が立ち境内に入る。
 境内正面に、大きな千鳥破風付き向拝を有する拝殿が南面して建つ。

 
同・二の鳥居
 
同・拝殿
 
同 左
 栞によれば、
 「社殿は江戸時代・寛永年中(1624--44)に神戸城主・一柳監物によって再建された。
 平成9年(1997)3月24日早暁、明治9年(1876)建立になる木造・瓦葺の拝殿が不審火によって焼失したが、氏子らの計らいによって新社殿が翌年に再建された」
とある。

 再建された社殿はコンクリート造で、形は従前の様式を模しているようだが、木造のそれに比べて、何となく重厚さ・荘厳さに欠けるように感じられる。
 ただ、内陣は広く現代的に整備されている。

拝殿内陣

 拝殿背後、白壁に囲まれた中に本殿が鎮座する。
 外からは屋根部分が見えるだけだが、白壁格子の隙間から覗くと、神明造・銅板葺きの本殿が南面して鎮座するが、資料なく詳細不明。

 
同・本殿屋根
 
同・本殿(左の小祠は境内社)

◎境内社
 本殿の左右に境内社2社が鎮座する。いずれも一間社流造・銅板葺きで、左:神明春日社、右:小川薬王子社。

 
境内社・神明春日社
 
同・小川薬大子社

*神明春日社
  祭神--天照大御神・天児屋命(アメノコヤネ)
 案内等なく詳細不明だが、式内社調査報告7(奈加等神社)には
  「明治41年、境内社神明社と春日社を合祀して神名春日社と改称して、小川神社とともに本殿左右に社地を定めて祀った」
とある。
 ただ、この神明・春日の2社が境内社として奉祀された経緯等は不明。

*小川薬王子社
  祭神--天宇受売命(他八神)
 当社は、延喜式神名帳に『伊勢国河曲郡 小川神社』とある式内社の論社(他に鈴鹿市南若松町に論社あり)

 境内に案内なく、栞にも『境内社 小川薬王子社 天宇受売命(アメノウズメ)他八神』とあるだけ。
 当社に関する資料は少ないが、式内社調査報告(1977)・小川神社を要約すれば、
 ・津藩明細帳(?)--「中戸村小川神社 式内
 ・棟札(天正4年・1576、室町後期)--「下宮 奉遷宮小川大明神 天鈿女命御鎮座」(表面)・「勢州河曲郡中跡庄東小河原」(裏面)とあり、
 ・合祀前の明細帳には、「中戸村の東位小川原と称する村邑に小川神社あり。何れの年月か中戸村鎮座薬王子社に合祀」
とある
 ・都波岐奈加等神社に合祀される前は、「小川薬王子社」と称する無格社で、中戸村東小川原に鎮座していた
 ・明治41年に都波岐奈加等神社に合祀されたが、神社では本殿に祀るのではなく境内社への合祀として取扱い
 ・境内社八幡社に当社・小川薬王子社の他境内の伊奈利社・天満社・須賀社・山神社及び字七九郎縄の山神社を合祀し、社名を小川神社と改称した
となる。

 これによれば、式内・小川神社は古くから中戸村にあったが、何時の頃かに同村の薬王子社に合祀されて小川薬王子社と称し、明治末の神社統廃合によつて都波岐奈加等神社境内社の八幡宮に合祀され、八幡社の社名を小川神社と改称した、となる。
 ただ、式内・小川神社に関する江戸時代以前の資料がほとんどなく、その創建由緒・時期等については不明という。

 これに関連して、都波岐奈加等神社一の鳥居の右に『式内 小川神社旧社地』との石碑が立っている。
 旧社地とは旧小川薬王子社があった場所を指すと思われるが、資料にいう中戸村小川原が当地とする資料はなく、この石碑が何故ここに立つのかは不明。

 なお、境内に入ってすぐの左に、自然石に『猿田彦命』と刻した碑が立っているが、建立由来・時期等は不明。

◎獅子頭
 栞には、「天長年間(824--34)、弘法大師が本社に参籠、獅子頭二口を奉納」とあるが、その頃の空海は高野山・金剛峯寺や京都・東寺以下の諸寺院の造営・真言密教の布教などで多忙な時期であって、都から遠い鈴鹿にある当社に参籠したとは思えず、当社蔵の獅子頭を大師に仮託した所謂・大師伝説のひとつであろう。

 ただ、鈴鹿市には箕田流・山本流・中戸流・稲生流と呼ばれる4っの獅子舞の流派が伝わっており、当社発祥のそれは中戸流獅子舞で、栞には
 「中戸流舞神楽の由来
 鈴鹿市は古くから獅子舞が各地で隆盛を極め、互いにその伝統を競い合いました。
 都波岐奈加等神社の獅子舞は“中戸流獅子舞”と言われ、雄雌二頭の獅子による舞です。

 地域の子供の減少により平成14年を最後に行われなくなりましたが、中戸流舞神楽の伝統が途絶えることを惜しんだ当社の氏子をはしめ保存会の力により同29年に復活し、秋の例大祭で奉納されることになりました。
 この時のみ、幾度となく難を逃れてきた獅子頭2頭がお披露目されております」とある。

栞より転写

 例祭で舞われる獅子頭が弘法大師奉納のものかどうかは不祥だが、栞にみる獅子頭は通常のそれで、古いものとは見えない。
 栞登載の写真(上)では、人々が獅子頭に頭を嚙んでもらって無病息災を願っている。

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