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椿大神社
三重県鈴鹿市山本町1871
祭神--猿田彦大神・瓊々杵尊・栲幡千々姫命
  ・天鈿女命・木花咲耶姫命
付--椿岸神社(式内社・椿大神社別宮)
                                                     2020.01.24参詣

 延喜式神名帳に、『伊勢国鈴鹿郡 椿大神社』とある式内社で、伊勢国一之宮。
 社名は“ツバキオオカミ ヤシロ”と読む。

 JR関西本線・四日市駅の東約16km、鈴鹿山系の一峯・椿ヶ嶽の麓に鎮座する。
 四日市駅から四日市バスで約1時間というが、一日に数本程度で公共交通事情はよくない(今回はバスツアーによる参詣)

※由緒
 頂いた椿大神社由緒略記(以下「略記」という)には
 「当社は、伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央に位置する高山(入道ヶ峰・H=906m)・短山(ヒキヤマ・椿ヶ嶽・450m)を天然の社として、太古の神代より祭祀されていた『猿田彦大神』を、人皇第11代垂仁天皇の御代27年秋8月(西暦紀元前3年)に、倭姫命の御神託により、大神御陵の前方『御船磐座』付近に瓊々杵尊・栲幡千々姫命を相殿として社殿を奉斎された日本最古の神社であります。

 このように社殿創始は垂仁天皇の御宇でありますが、それ以前、悠久の太古、原始人類に信仰の芽生えをみたとき、既に大神の尊崇と本社創建の淵源は存したと言わなければなりません。即ち神話に伝える天照大神・猿田彦大神の時代であります。

 天孫・瓊々杵尊降臨の際、猿田彦大神、天の八衢に『道別の神』(チワキノカミ)として出迎え、風貌雄大、超越した神威を以て恙なく天孫を高千穂の峰に御先導申しあげ、肇国の礎を成したこの大神を、後に倭姫命の御神託により、磯津川(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓に『椿(道別・チワキ)大神の社』として奉斎することになったのは、まことに神慮によるものと言うべきでしょう」

 また、当社公式HPには
 「伊勢国鈴鹿山系の中央麓に鎮座する椿大神社は、往古神代、高山入道ヶ嶽・短山椿ヶ嶽を天然の社として高山生活を営まれた国つ神『猿田彦大神』を主神とし、相殿に皇孫『瓊々杵尊』・『栲幡千々姫命』を、配祀に『天之鈿女命』・『木花開耶姫命』を祀っています。

 猿田彦大神は、天孫・瓊々杵尊降臨の際、天の八衢に“道別の大神”として出迎え、高千穂の峯に御先導申しあげます。
 そのことより、肇国の礎を成した大神として、人皇第十一代垂仁天皇27年秋(西暦紀元前3年)、倭姫命の御神託により、この地に『道別大神の社』として社殿が奉斎された日本最古の神社です。

 仁徳天皇の御代、御霊夢により『椿』の字をもって社名とされ、現在に及んでいます。
 また、猿田彦大神を祀る全国二千余社りの本宮として、『地祇猿田彦大本宮』と尊称されています」
とあり、
 これらによれば、当社は垂仁天皇27年、倭姫命の神託により、道別の神・猿田彦神を祀ったのに始まるとなる。


 倭姫命とは垂仁天皇の第4皇女で、書紀・垂仁25年条に、
 ・アマテラスの宮処として相応しい勝地を求めて、その御霊を奉じて宇陀篠幡から近江国・美濃を巡って伊勢国に入り、
 ・そこでアマテラスからの
   「是の神風の伊勢国は、常世(トコヨ・理想郷)からの浪がしきりに打ちよせる国で、大和からは離れてはいるが美しい国である。
    吾はこの国に居ようと思う」
との神託を得て、祠を造ってアマテラスの御霊を鎮祭し(神話上での伊勢内宮の創祀)、自らも斎王として留まった(大意)
という皇女(巫女)を指す(古事記には、「倭姫命が伊勢大神宮を斎き祀った」とあるのみ)

 また、倭姫命世紀との古文書(神道五部書の一・鎌倉時代)には、伊勢神宮(内宮)の創祀にかかわって、
 ・垂仁25年、倭姫がアマテラスを祀るに相応しい勝地を求めて各地を巡歴し伊勢・五十鈴川の後江まで来たとき、猿田彦神の後裔・宇治土公(ウジトコ・ウジノツチキミ)の祖である大田命が参上した
 ・姫が「吉き宮処ありや」と問うと、命は「宇遅(宇治)の五十鈴の河上には日本国中で最も殊勝な霊地があり、その中には38万歳の翁(私)でも未だ見知らぬ霊物があります。・・・」と答えた
 ・その地に行ってみると、昔、アマテラスが豊葦原瑞穂国の伊勢の国に美しき宮処ありと見定められて、天上から投げ下ろされた天の逆大刀・逆鉾・金鈴等があったので姫は喜んで言上げされた
 ・翌26年、この地に宮を建ててアマテラスの御霊を鎮め祀った
とある。(大意)

 このように、古資料における倭姫命は現伊勢内宮の創祀者とされているが、当社由緒がいう、当社創建にかかわる神託を下したとの記述はなく、これは、書紀や倭姫命世紀などを敷衍して作られた伝承であろう。
 なお、倭姫命世紀を含む神道五部書という一連の文書は、鎌倉時代中期(13世紀)に伊勢外宮の神官等によってまとめられたもので、その信憑性は疑問というのが定説。

 また略記は、当社か創建されたという垂仁27年を西暦紀元前3年という。
 これは、古代中国から伝わった讖緯説(シンイセツ)にいう“辛酉歳には王朝が改まる”という説(辛酉革命説)などによって、初代天皇・神武が即位した歳を辛酉歳とし、これを紀元前660年にあて、これを起点として、その後の天皇の治世年次を割り当てたもので(書紀編年、これによれば垂仁天皇の治世年次は紀元前29~後70で、その27年は紀元前3年にあたる)、そこにいう年次は実際とは異なる机上のものでしかなく、垂仁天皇は4世紀中葉頃の天皇とみるのが通説となっている。
 
 この4世紀中葉は考古学でいう古墳時代中期に当たり、その頃、今のような神社形態をもっての祭祀が行われていたのは疑問で、よしんば何らかの神マツリがおこなわれたとしても、神籬(ヒモロギ、必要に応じて設けられる仮設の祭祀場)等を設けてのそれであり、それが今の当社に続くのかどうかは不祥。
 ただ、当社の背後に聳える入道ヶ峰の中腹には、古代の祭祀遺跡である磐座(イワクラ)が数多くあるというから、それらの磐座を神が降臨する聖地として、その前に神籬を設けての神マツリがおこなわれ、後年になって(年代不明)、これを麓から拝する里宮として創建されたのが当社かもしれない。

 なお、当社への神階綬叙記録等として
 ・大安寺伽藍縁起(天平20年・748)--三重県河内原の四至の一に「東椿宮」とあり、これが当社にあたるという
 ・貞観7年(865)4月15日--伊勢国従五位上勲七等椿神に正五位を授く--三代実録
 ・寛平3年(891)8月21日--伊勢国正五位上勲十等椿神に従四位下を授く--日本紀略
などがあることから、遅くとも8世紀以前には実在し、神祇官祭祀をうける官社として認められていたのは確かであろう。

◎伊勢国一ノ宮
 一ノ宮とは、制度として定められたものではなく、一国の中で、それなりの歴史と風格を持ち、その国で最も崇拝されている神社を指して「一ノ宮」と称したという(このことから、新任の国司は着任後まず最初に参拝したという)
 一国一社というのが通常だが、伊勢国では山本町(旧鈴鹿郡)の椿大神社(当社)と一ノ宮町(旧河曲郡)にある都波岐神社(ツハキ、現都波岐奈加等神社)が共に「伊勢国一ノ宮」と称している。

 この両社の何れが伊勢国一ノ宮かということは、江戸中期頃から議論されてきたが(現在は、両社共に全国一ノ宮会に所属している)、古資料には
 ・類聚既験抄(鎌倉末)--椿宮 伊勢国一宮
 ・六十余州名神之事(室町後期)--伊勢国 椿宮
 ・諸国一宮事(?)--椿宮 伊勢国一宮
のように椿大神社を一ノ宮とするものが多く、
 対して、都波岐神社を一ノ宮とする古史料としては
 ・大日本一宮記(室町後期)--都波岐神社 猿田彦神也 伊勢河曲郡
が唯一であることから、式内社調査報告(1989)
 ・鈴鹿郡の椿大神社は、三代実録・日本紀略などの国史に載っていること
 ・椿大神社に奉納された大般若経の奥書によれば、南北朝時代に既に一宮との明記があること
 ・その成立が中世まで遡る、より確実な史料に椿宮とみえること
 ・都波岐神社を一ノ宮とする古史料は大日本一宮記のみであること(江戸時代になると、これを根拠として都波岐神社を一ノ宮とする資料があるという)
などから、椿大神社を以て伊勢国一ノ宮とすべきではないかという(都波岐神社からの反論あり)

 なお、当社と都波岐神社とは、伊勢国一ノ宮の他にも猿田彦神大本宮と称して争っている。

※祭神
 略記には
  主神--道祖(ドウソ) 猿田彦大神
  相殿--天孫 瓊々杵尊(ニニギ)御姥(オンハハ) 栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメ)
  前座--道祖神裔 行滿大明神(ギョウマン ダイミョウジン)  
  別宮--道祖配祀 天之宇受女命(天之鈿女命・アメノウズメ)
  合祀--八百萬神(ヤオヨロズ)
とある。

◎猿田彦大神
 主祭神・猿田彦大神について、書紀(9段)天孫降臨段・一書1に、
 ・瓊々杵命が天降ろうとされたとき、天の八衢に、鼻の長さ七握、背の高さ七尺余り、口の端が明るく照り光り、目が八咫鏡のように照り輝いて赤酸漿のような神が居た
 ・天孫がお供の神に「お前は誰か」と問わせようとしても、眼光鋭く、だれも尋ねることができなかったので、天鈿女に、「お前は眼力が人に優れた者であるから、行って尋ねよ」と命じられた
 ・天鈿女は、胸を露わにむき出して、腰紐を臍の下まで押し下げ、あざ笑いながら衢の神の前に向かい立ち、「天照大神の御子が天降ろうとされる道に居るのは何者か」と問いただした
 ・すると衢の神は、「天照大神の御子が下っておいでになると聞いて、お迎えしようとお待ちしているのです。名は猿田彦と申します」と答えた
 ・その後、猿田彦神は瓊々杵命一行を先導して筑紫の日向の高千穂峯まで案内し、自らは天鈿女を連れて、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に帰った
とあり、
 古事記には、その後日談として
 ・猿田彦神が阿耶訶(アザカ、松阪市の西方・阿坂に比定)に居たとき、漁をしていて比良夫貝(ヒラブカイ、シャコ貝のように大きな貝らしいが実体不明)に手を挟まれて溺れ死んだ
とあるが(書紀にはない)
 これ以外には、垂仁25年条に、天照大神の鎮座地として五十鈴川の地を献上した大田命の祖神として猿田彦の名がみえるだけで、他に猿田彦神についての記述はみえない。


 当社由緒には、猿田彦大神は“太古の昔から当社背後の入道ヶ峯(H=906m)・椿ヶ峰(H=450m)に坐した地祇(国つ神)”とある。
 これに関連して、伊賀国風土記(逸文)には
 「伊賀郡 猿田彦神は、初めこの国を伊勢の風早(カゼハヤ)の国につけ、そして20余万歳の間この国を治めていた。
 猿田彦神の娘・吾娥津媛命(アガツヒメ)は日神の御神が天上から投げ下ろした三種の宝器のうち、黄金の鈴を受領してお守りになった。・・・ 
 この神が治め守った国であるので、阿娥(アガ)の郡といった。その後、天武天皇の御代に阿娥の郡を分かって国の名とした。
 後に伊賀と改めたのは、阿娥という発音が転訛したものである」
との伝承が記されている。
 この伝承は伊賀の地名説話だが、伊賀国が元は伊勢国に属していたことから(天武9年-680に伊勢国から分立)、猿田彦は広く伊勢国に坐す神として広く知られていたと思われ、略記がいう入道ヶ峰・椿ヶ峰に坐す国つ神というのも、ここから生まれた伝承であろう。

 なお、伊勢内宮の御垣内に興玉神(オキタマ)が祀られているが(社殿なく外からはみえない)、この神について、伊勢参宮名所図会(1797)
 「本宮の西北角にあり、興玉神と云ふは猿田彦大神を祭る也」
 また、倭姫命世紀に
 「興玉神 宝殿無し 衢神 猿田彦大神是也 一書曰 衢神の孫・大田命 是土公氏遠祖神 五十鈴原の地主神と申し奉る」
とあり、伊勢神宮では興玉神すなわち猿田彦神を神宮の地主神として崇拝しているという。

◎猿田彦の別名と習合神
 記紀における猿田彦神は天孫降臨段以外にみえず、その神格・事蹟等ははっきりしないが、巷間にあっては多くの別名・異名があり、また道祖神などの民俗神と習合するなど、謎の多い神といえる。

*道別の神
 記紀における猿田彦が天孫・瓊々杵尊の天降りを先導したことから、「道案内の神」・「先導する神」・「道を拓く神」などの神格が付与され、当社における「道別の神」・「おみちびきの祖神」というのも是によるといえる。

*地主神
 上記のように、猿田彦は伊勢の地主神とされているが、神道五部書(鎌倉時代に伊勢外宮の神官等によって纏められたという)の一・伊勢二所皇大神御鎮座伝記(略称:御鎮座伝記)では、猿田彦が「人々よ 聞き給え。吾は『天下の土君』である」と名乗っており、
 この“天下の土君”が“わが国全土の地主神”を意味することから、猿田彦は伊勢のみならず、各地の神社でその地の地主神として祀られる場合が多い。

*興玉神(オキタマ)
 上記したように、伊勢神宮では興玉神を猿田彦としているが、伊勢市二見町江には興玉神社(祭神:猿田彦大神・宇迦御魂大神)があり、その沖にある注連縄を張った二つの立岩で有名(二見ヶ浦の夫婦岩)
 今は猿田彦を主祭神とするが、本来は「夫婦岩より一反許り沖に奇石あり、興玉石と云う。汐干には見え、汐満ちぬれば見えず。是を神として拝す。沖の霊の意なり」(名所図会)というように、夫婦岩の沖にあって、潮が引けば見え、満ちれば見えなくなる岩を沖魂(興玉)の神として崇めたのであろうという。
 この興玉神と猿田彦とは直接には関係しないが、猿田彦がアカザで溺れたとき、海の中から底どく神(海底で生まれた神)・つぶたの神(海水が泡となってわき上がる時に生まれた神)・あわさくの神(泡が裂ける生まれた神)が成りでたとあり、興玉石のまわりに発生する現象(泡)を神として崇めたとすれば、猿田彦と無関係ではない。

*岐の神(フナトノカミ)・来名戸(クナトノカミ神)・塞の神(サイノカミ)・道祖神(ドウソシン)--習合
 いずれも此岸と彼岸の境界にあって邪神・悪霊の侵入を遮る神であり、猿田彦が天界と地界の境界である天の八衢に出現したことから、これらの神々と習合して所謂・辟邪の神として信仰されたもので、
 神社入口の鳥居脇などに祀られることが多いのも、境内への邪神・悪霊の侵入を遮る塞の神として祀られたものと思われる。

 また、道祖神は、辟邪神であるとともに、道案内の神・道中安全守護神といった神格を併せもつことから、猿田彦が持つ同じような神格と習合したもので、道端の道祖神碑に男女二柱の神像を見かけるが、これは猿田彦と天鈿女という。

*庚申神(コウシン)--習合
 60日毎に巡り来る庚申の夜、寄り集まって延命長寿を願う庚申待の神で、本来は特定の神ではなかったが、何故か、江戸時代頃から神道系では猿田彦、仏教系では青面金剛(ショウメンコンゴウ)を以て是に充てたという。

*鼻高--習合
 猿田彦は「鼻の長さ七握(ナナツカ)」とあるように鼻が高いという(書紀)
 このことから、同じく鼻が高いテングと習合し、各地の祭礼などで、テングの面をかぶって先頭に立つ人のことを猿田彦だという。
 これは猿田彦がもつ先導神・道案内の神という神格に加えて、「猿田彦 神事の先へ悪魔をはらう鼻高の事なり」(難波土産)というように、先祓いすることによって邪神・悪霊を祓い除け押さえつける辟邪の神格をもつことによるもので、古川柳では「猿田彦 いっぱしの神の気であるき」と揶揄されてもいる。

 猿田彦の名は、上記以外でも思わぬ処で見かけることがあるように(例えば、琵琶湖西岸の白鬚神社では祭神:白鬚大明神は猿田彦だという)、正体の複雑な神であるとともに、その容貌から世俗に親しまれた神ともいえる。

◎その他の祭神
 *瓊々杵尊・栲幡千々姫命--猿田彦が先導した天孫・瓊々杵尊と、その母・栲幡千々姫命
 *天鈿女命--天の八衢で猿田彦の名を顕した女神で、猿田彦の妻ともいう(下記・椿岸神社の祭神)
 *行滿大明神
   出自・神格等はっきりしないが、栞には
   「大神の御孫・行滿大明神は、修験道の元祖として本宮本殿前座に祀られ、役行者を導いた事蹟など古来『行の神』として神人帰一の修行・学業・事業目的達成守護などのあらたかな神として古くより尊信されております」
とある。
 しかし一般には、猿田彦の後裔といえば、アマテラスの鎮座地を求めて各地を巡歴し伊勢に至った倭姫命に、伊勢・五十鈴川川上の勝地を奉ったとされる大田命(宇治土公氏-ウジトコシの祖)が知られており、猿田彦神の後裔・行滿大明神というのは当社のみで他にはみえない。

 また、式内社調査報告には
  「背後に聳える入道ヶ嶽が修験の山であって、当所はその登山口の一つであること、また山伏修行の本山・野登寺が近くにあることなど、その結びつきは深いものがある。
 中世に、祭神として行滿上人をあてているのは、この関係によったものであろう」
とあり、嘗ての当社に神仏習合の修験道が入った際にそれを持ちこんだ修験道行者であって、猿田彦の孫で当社神官の祖というのは後世になって付加された伝承であろう。

 なお、当社奉斎氏族について、式内社調査報告は、岡田米夫氏の研究によるとして、
 ・猿田彦大神に海神的性格が強いこと
 ・当社は鈴鹿川上流に鎮座し、河口に河曲郡海部郷があること、などから
 ・当社は猿田彦大神を奉じる海部族が、その川上なる山本に、この大神を氏神として奉斎したと推定された、とあり
 ・これは注目すべき見解ではあるが、更に検討を要する、という。

※社殿等

 
境内図

 境内南の駐車場の先に一の鳥居が、傍らに『伊勢国一之宮 椿大神社 地祇猿田彦大本宮』との社標が立ち、巨木に挟まれた長い参道の途中に二の鳥居・三の鳥居・四の鳥居が立ち本殿域へ入る。


椿大神社・一の鳥居 
 
同・社標

同・参道 
 
同・二の鳥居
 
同・三の鳥居
 
同・四の鳥居

◎拝殿・本殿
 四の鳥居を入った境内の正面に、神明造を模した切妻造・平入りの拝殿が南面して建つ。

 その背後に本殿が鎮座するが、拝殿及び社務所等付属建物に阻まれて実見不能。 
 栞には、「皇大神宮と同じ神明造(間口三間・奥行二間という)で、殿内には猿田彦大神の御霊をはじめ天神・国神・八百萬の神が祀られている」とあり、モノクロの写真が載っている(スキャンしても画像がつぶれて転写不能)

 
同・拝殿

同・拝殿(側面)
 
同・内陣(丁度、御祈祷が行われていた)

◎参道西側(南より)
*庚龍神社(カノエリュウ)
 一の鳥居を入ってすぐに2本の樅の木が聳え、その根元に『庚龍神社』と称する小祠が鎮座し、傍らの案内には、
  「御祭神 金龍龍神・白龍龍神・黒龍龍神
    由緒--この龍神社は、樹齢400年と伝えられる樅の木に龍神が宿り、神域全般を守り給ったとの伝承がある」
 ・昭和55年5月、新社殿奉献鎮座、その年の干支(庚申)に因んで庚龍神と命名
 ・その後、老朽化したため此の度新社殿が奉献され遷座  平成16年3月
とあり、昭和後期になって造営された新しい社である。


樅の巨木と庚龍神社 
   
庚龍神社・小祠

*獅子堂
 庚龍神社の左奥に大きな向拝を有する『獅子堂』との社殿があり、椿大神社HPには
  「獅子堂の名前は、聖武天皇の勅願により奉納された獅子頭が由来です。
   3年ごとに獅子神御祈祷神事が前庭にて奉納されます」
とあり、向拝正面の扁額には『聖武天皇勅願 獅子堂』とある。
 また、内陣正面の左右に獅子頭2口が安置されている。

 なお、獅子神御祈祷神事(特殊神事)について、栞には
 「(日本最古の獅子舞) 修験神道の元祖、猿田彦大神の神孫・行滿神主が創始せられたと伝えられる。
  聖武天皇の勅願により一層隆盛を極め、天・地・人・四方八方を祓う神事で、3年に一度2月11より4月12日まで祈祷神事が行われ、氏子区域はもとより北伊勢・尾張・三河等各地を巡舞祈祷する」
とある。

 
獅子堂
 
同・扁額

同・内陣

*御船磐座(ミフネイワクラ)
 二の鳥居から三の鳥居の間、参道の西側にある史跡で、参道から左(西)に入った処に連なる玉垣の中央に小ぶりの鳥居が南面して立つ。
 参道脇の案内には、
 「御舟石坐御由緒(ミフネイワクラ)
  この御神跡を御舟岩坐と申し伝え、中央に三箇の石を天降石と称する。
  中央奥は主神・道祖猿田彦大神、左に皇孫瓊々杵尊、右に栲幡千々姫。
  往古、国津神 磯津の濱より遡り給ひて、御舟をここに繋がれ給ひ、高山短山の庵に安住し給ふと申し伝ふ。
  日本国土の神社の淵源を物語る貴重な御神跡であります」
 また、当社HPには
 「御船磐座は、謡曲・鈿女(ウズメ)にうたわれている神代の神跡で(謡曲鈿女には「猿田彦がこの山に影向した」とあるというが、未確認)、この地に天孫・瓊々杵尊一行の御船が到着された場所です」
とある。
 これによれば、瓊々杵尊が当地に降臨したとなるが、記紀に折れる尊の降臨先は筑紫の日向の高千穂峯であって当地ではない。
 あるいは、猿田彦が伊勢に帰った先が当地というのかもしれないが、いずれにしろ伝承にしか過ぎない。

 この辺りは鬱蒼たる森となっており、鳥居を入った正面に聳える巨木(杉か)2本の下、注連縄を張り巡らし白い小石を敷きつめた区画の奥に3箇の磐座が鎮座する。

 ただ、磐座というには小さいという感じで、北に隣接する土公神陵を猿田彦の御陵とすることから、その御陵の拝所として設けられた聖地かもしれない。 


御船磐座・正面鳥居 
 
巨木2本に挟まれて
磐座がある

磐座部分・全景 
 
磐座部分
 
磐座三座(拡大)

*高山土公神陵
 三の鳥居を過ぎた左(西側)に『高山土公神陵』との史跡があり、御船磐座の北に位置する。
 現地に案内はないが、当社HPには
 「参道の中程にたたずむ前方後円墳は猿田彦大神の御陵です。
  山本神主家は大神直系の神主家として、この御陵を守りつづけています。
  高山土公神陵は、謡曲・鈿女にうたわれている神代の神跡で、この地に天孫・瓊々杵尊一行の御船が到着された場所です」
とある。
 土公(ドコウ)とは“ツチノキミ”ともいうように地主神を意味し、ここでは猿田彦神を指す(猿田彦は「吾は天下の土公なり」とも名乗っている)

 参道脇に鳥居が東面して立ち、その奥、玉垣に囲まれた中に自然石に『土公神陵』と刻した石碑が立つ。
 石碑背後の土は盛り上がっており、これが前方後円墳の後円部かと思われるが、樹木が繁茂し全体は見られず、
 また古墳に関する資料もなく、その規模等詳細は不明(学術調査等なく、古墳かどうかもはっきりしない)

 ただ、この古墳を猿田彦大神の神陵とするのは、境内の何もかもを猿田彦大神に結びつけようとする当社による付託であって、これが古墳であれば、当地を支配した豪族の墓であろう。

 
土公神陵・鳥居
 
同・正面
 
同・石碑

*県主神社(アガタヌシ)・椿護国神社
 御船磐座前の道を西へ入った先に『県主神社』・『椿護国神社』が並んで鎮座する。
 椿護国神社の案内はないが、県主神社とは
  延喜式神名帳に、『伊勢国鈴鹿郡 県主神社』とある式内社で、
 傍らの案内には、
 「御祭神  倭建命(ヤマトタケルノミコト)・建貝児王(タケカイコノミコ)
  縣主神社は延喜式にみえる鈴鹿郡19座の一つで、川崎村(現亀山市川崎町)に鎮座し、俗に縣大明神と称され鎮守社として親しまれていた。
  ところが、内務省が一町村一社を目標に行った小祠整理により、明治41年(1908)、能褒野神社に配祀され、下って平成10年10月、椿護国神社の南隣を鎮座の大地と選び定め、椿大神社の摂社・縣主神社として遷座された。 
  当地鎮座の由来には、先々代の行輝宮司の出身地が川崎村であることと篤志家による誠実無私の奉斎運動が挙げられる。(以下略)
とある。

 当社について、式内社調査報告・7(1977)によれば、
 ・古くは現亀山市川崎町にあり、穂落大明神(亀城兎園記・1689)・県主穂落大明神(宝暦九年-1759-上進神社記)・県主神社穂落大明神(宝暦九年奉仕社控記)・県主神社俗称大明神(三国地誌・1761)などと称した
 ・県主大明神と称したのは江戸中期以降のようである
 ・その後、明治末の神社統廃合によって、亀岡市田村町の能褒野神社(祭神:日本武尊・弟橘姫命・建見兒命)に合祀された
 ・穂落大明神とは、江戸時代における当社の通称てある
とあり、当社は現亀山市川崎町(通称:穂落大明神)⇒同田村町(明治41年能褒野神社へ合祀)⇒現在地(平成10年椿大神社摂社)へと遷ったとなるが、本来の創建由緒・時期等は不祥。

 当社祭神は、案内の記載順からみて倭建命が主神とみえるが、調査報告には
 「祭神は『建見兒王』(明治神社明細帳、古事記:建貝児王・書紀:武卵王)、ただし江戸時代には日本武尊・建見兒王・保食神を祀っていた」
とあり、古くは建見兒王(建貝児王)を主神としていたようで、
 その建貝児王の出自について、古事記には
 「建貝児王--倭建命・大吉備建比売の御子、讃岐の綾君・伊勢之別・・・等の祖」
とある。

 両社ともに切妻造・平入りの祠で、護国神社には後方に本殿があるようだが、参詣時気づかなかった。


左:県主神社 右:椿護国神社 

県主神社・社殿 

椿護国神社・社殿 


◎参道東側(北より)
*椿岸神社(ツバキシ)
 当社拝殿の向かって右前に鎮座する神社で、延喜式神名帳に、『伊勢国三重郡 椿岸神社』とある式内社の論社の一だが、今は椿大神社別宮と位置づけられている。
 なお、三重県四日市市智積町の椿岸神社も式内社と称している(論社)

 社頭に掲げる案内は、
 「延喜式内 椿岸神社由来
   椿大神別宮 天之鈿女命本宮
   主祭神  天鈿女命(アメノウズメ)
   相 殿  太玉命(フトタマ)・天児屋根命(アメノコヤネ)

 当社の主祭神・天之鈿女命は、天の岩屋開きの神話の中で御活躍された神として知られ、天孫・瓊々杵尊が日本国土に天降り給う時供奉し、天孫一行を天之八衢に出迎えた地祇・猿田彦大神(椿大神社の主祭神)と共に日向の高千穂峯に導き、我が国肇国の許を築かれた神様であります。
 その後、猿田彦大神と夫婦の契りを結ばれ、相共に此の伊勢国・鈴鹿椿ヶ峰高山短山の霊地の里にお帰りになり、猿田彦大神の妻神、椿岸大明神として鎮祭され、今日に至っております。(中略)
 当社に伝わる“椿岸神社縁起”によれば、この別宮を、猿田彦大神を祀る本社『上椿社』に対し『下椿社』と称し、垂仁天皇の御代27年、本社御創立と共に奉斎された延喜式内社の古社であります。(以下略)
というが、垂仁27年創建というのには疑問がある。

 当社は、延喜式では三重郡に属するが、今は鈴鹿郡にあり所属郡名が異なる。
 これについて、特選神名牒(1876)は、
 「依て考ふるに、鈴鹿郡椿大神社略記に云 本社より八丁(約800m)東に摂社椿岸神社有り、毎年八月朔日(1日)より本社の御輿を椿岸社に神幸なし奉り、3日還幸の例なり。
 其の椿岸神社は旧と北方若干里を隔て三重郡内に在たるに、毎年遠路を神幸するに風雨の煩あるを以て近く今の処に遷転すと口伝す。(以下略)
として、元は椿大神社の東、三重郡内・下椿の地に鎮座していて、毎年本社から椿岸神社への神輿渡御が行われていたという。

 その旧社地について、式内社調査報告・7(1977)には
 ・この御旅所への御輿渡御の道筋は、表参道の途中から東方に入る小道(現裏参道)がそれで、本社より本郷垣戸を通り旧椿岸神社があった下椿に至る
 ・この御旅所の位置は、昔の村人の居住地、或はそれに近いところにあったと考えられる
とあるが(大略)、今、本郷垣戸あるいは下椿などの小字名はなくなっていて、位置不祥。

 当社は明治41年(1908)の神社統廃合令によって椿大神社に合祀され、昭和43年(1968)境内に独立社殿を造営して現在に至るという。

 当社の主祭神・天鈿女は、記紀の天岩屋段・天孫降臨段の2ヶ所に登場する女神で、天孫降臨の段(古事記)に、
 ・天の八衢に現れた猿田彦の正体を顕し、先導する猿田彦とともに天降る天孫に従い
 ・天孫から、「猿田彦を伊勢まで送れ」と命じられ、伊勢に帰る猿田彦に同道
 ・天孫から、「猿田彦の名を負うて猨女君(サルメノキミ)と名のり、天つ神に仕えよ」と命じられた
ことから、猿田彦の神妻とみなされる(道祖神石碑等にみる男女神並立の像は猿田彦・鈿女を指すという)
 ・また、伊勢の地で、魚族を招集して「天神に仕えるか」と問い、ナマコのみが答えなかったので、「この口は答えない口」といって小刀でその口を裂いたとある(ナマコの口を開いたことは、猿田彦がもつ道開きに連なる)
 ・これらのことから、天鈿女は伊勢の海人集団が崇敬する女神であり、元来は伊勢志摩地方の安曇系海人集団から出た巫女であろうという(講談社学術文庫版古事記・解説)
 当社が天鈿女命を主祭神とするのは、天鈿女と猿田彦の関係からと思われるが、天鈿女も元々は伊勢地方に坐した神であったといわれることも関係するかと思われる。

 相殿2座は天鈿女と共に天岩屋前での祭祀を主導し、天孫降臨に扈従した神で、
 ・太玉命--忌部氏(後の齋部氏)の遠祖
 ・天児屋根命--中臣氏(後の藤原氏)の遠祖
 この2神が当社に祀られる由縁は不祥だが、齋部氏・中臣氏・猨女氏が、天岩屋前での祭祀以来、相伴って宮中祭祀に従事していたからと推測される(後になると、中臣氏がほぼ独占したという)

 椿大神社拝殿から右への道に面して朱塗りの鳥居が立ち、その奥に朱塗りの拝殿が南面して建つ。
 拝殿は、千鳥破風向拝を有する神明造のようだが、周りの樹木が邪魔してその全体をみることは難しい。


椿岸神社・正面 
 
同・拝殿(正面中央部)

同・拝殿(西側部分) 

 拝殿の背後、弊殿を介して、朱塗りの柵の中に神明造の本殿が南面して鎮座するが、ここも周りの樹木が邪魔をして、見えるのは側面のみで正面など全体を見ることはできず、また資料もなく詳細不明。







 

同・本殿(側面)

*かなえ滝

 椿岸神社の右にある小さな滝で、「かなえの滝」という立て看板があるだけで案内なく、詳細不明。

 今は諸願成就、特に恋愛成就の滝(“かなえ”とは願いをかなえるの意か)として女性に人気があるとか。

 なお、境内図には、本殿東側・椿岸神社の背後の辺りに『金龍明神の滝』の名がみえるが、そこへ至る道が不明で実見していない(是を記していない絵図もあり、「かなえの滝」の別名かもしれない)

 

*扇塚
 椿岸神社の左前に、朱塗りの小社・『扇塚』が建ち、中に三つ巴紋を描いた石製の扇子が安置され、
 傍らの案内には、
 「儀式・舞などに用いる扇は、古来、神を招ぎ奉るものとして芸能に志す者の心の寄り処とされ、一段々々と芸を磨く上達の過程には必携のものであります。
 芸の道に終り無き如く、扇に感謝と慰霊を込めて此の扇塚は建立されました。(以下略)
とある。
 椿岸神社祭神・天鈿女命に芸能上達の御神徳があるということから、それに因んで建立されたものと思われる。


扇塚社殿 
 
同・内陣

*茶室・鈴松庵
 椿岸神社から南へ少し行ったところに『茶室 鈴松庵』があり、傍らの由来碑には
 「鈴鹿の道は惟神の道であるとともに日本人の心のふるさとである。
 この茶室と日本庭園は松下幸之助氏がその□□を愛する情から、椿大神社に寄進されたもので、鈴松庵と名づけた。
 松下氏は当神社の遷宮にあたっては神殿を奉献され、猿田彦大神の神徳高揚につとめられたので、ここに碑を建ててその徳を永く伝えた。昭和50年元旦
とある。


鈴松庵・入口 
 
同・茶室 

*松下社
 祭神--松下幸之助命
 鈴松庵の横にある小祠で、鳥居の奥に石造の小祠が鎮座し、傍らの案内には、
 「昭和41年から開始された昭和の大造営において巨額の資金を寄附され、大造営完遂の索引力となるとともに、鈴松庵との茶室をも寄進された。
 かような松下翁の崇敬の真心を末永く顕彰すべく、平成10年4月、鈴松庵東側の斜面を切り開き、御影石造りの神殿を設けて椿大神社末社とした」(大略)
とある。

 
松下社・鳥居
 
同・小祠

*行滿堂神霊殿
 松下社から南へ進んだ東側に『行滿堂神霊殿』との大きな社殿が鎮座する。
 当社HPには
 「猿田彦大神の神裔である行滿大明神をはじめ、鈴鹿七福神の一つである延命長寿ま神・寿老神などをお祀りしています。
  また、当神社に尽力された役員・崇敬者の御霊を祀り、慰霊顕彰を行っています」
とある。
 神社というより仏殿といったたたずまいで、内陣には、中央小龕の左右に仏像6躰が並んでいる。

 当殿の主神は行滿大明神だが、この神は出自等不詳の神で、社殿内におられた方にお聞きすると、「猿田彦大神の孫とも曾孫ともいわれる神で、当社神主家の先祖」とのことだが、後になって作られた伝承であろう。


行滿堂神霊殿・正面 

同・側面 

同・内陣 

*椿延命地蔵堂
 行滿堂から表参道に出る途中にある堂舎で、傍らに小さな五輪塔・地蔵尊像等が密集している。
 当社HPには
 「椿延命地蔵尊
  平安後期といわれる地蔵尊が奉斎されています。昔から難病平癒に霊験あらかたと信仰されています」
とある。
 堂内には仏像らしい石像が3躰鎮座しているが、摩耗していて地蔵尊かどうかは確認できない。


延命地蔵尊堂 
 
同・内陣

 なおHPや境内図には載っていないが、二の鳥居を過ぎた参道東側に『恵比須・大国社』が、行滿堂から延命地蔵堂に至る途中に『椿立雲龍社』との小祠が鎮座するが、案内等なく詳細不明。

 
恵比須・大黒社
 
恵比須・大黒像
 
椿立雲龍社・鳥居

同・小祠 

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