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若狭彦神社・若狭姫神社
若狭彦神社--福井県小浜市龍前28- 7
祭神--若狭彦大神
若狭姫神社--福井県小浜市遠敷65-41
祭神--若狭姫大神
                                                        2020.01.31参詣

 延喜式神名帳に、『若狭国遠敷郡 若狭比古神社二座 並名神大』とある式内社で、
 若狭彦神社(若狭彦神社上社とも)と若狭姫神社(若狭彦神社下社とも)の2社から成っている。

 JR小浜線・東小浜駅の南約600m、駅南から県道35号線を南下した西側に若狭姫神社(下社)が、その南約1.5kmに若狭彦神社(上社)が鎮座する。

※由緒
 若狭姫神社で頂いた「若狭彦神社由緒記」(以下「由緒記」という、若狭彦神社は社務所なし)には
 「上社 霊亀元年(715)9月10日鎮座
  下社 養老5年(721)2月10日鎮座
 小浜市下根来(シモネゴロ)白石に鵜の瀬という処がある。
 遠敷川の清流が巨巌に突当たって淵をなしておる。この巨岩の上に、先ず若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨されたと伝える。この南方150mの処に、創祀の社と伝える白石神社がある。
 その後、永久鎮座の地を求めて、若狭国内を巡歴された末、霊亀元年9月10日に、龍前に若狭彦神社、6年の後、即ち養老5年2月10日に、遠敷に若狭姫神社が鎮座」
とある。


 当社の由緒については幾つかの資料があるが、管見したなかで最も古いと思われる若州管内社寺由緒記(1675)所載の若狭国一・二宮縁起には(以下、縁起という)
 「一の宮(上宮と号す)、元正天皇の御宇、霊亀元年(715)乙卯9月10日、当国遠敷郡西郷のうち、霊河のみなもと白石の上に始めて跡を垂れいまします。
 その形は俗体にして唐人の如し、白馬に乗り白雲に居す。今の若狭彦大明神これなり。眷族八人の内に御剣を持つ童子あり、節文(セツブン)という。
 当郷多田嶽艮(ウシトラ・北東)の麓において宿を架し、杉葉を覆い仮御所となす。これにて七ヶ日を歴て遂に龍駕をうながし郡県を遍覧、神館の地を扶(タス)く。霊廟の境を計り、而して本所に帰る。勝区たるを以て奇瑞あらわれ数千株の杉木が生ず。
 正殿始めて祐(タス)く。永代大明神の霊体を安んじ奉る。最初の仮御殿跡に精舎を建立し、今神宮寺と号すなり。

 次いで二宮(下宮と号す)、同御宇養老5年(721)辛酉2月10日、さきのごとく石上に始めて跡を垂れたまいまします。
 その形は女躰にして唐人の如し、同じく白馬に乗り白雲に居す。今の若狭姫大明神これなり、眷族八人またこれあり、節分同じく参向。
 即ち当山の麓において別に社檀を建立し、これを安んじ奉る」
とあり(日本の神々8・1985)

 これに対して、近年の資料・福井県神社庁HPには
 「若狭彦神社の上社の祭神は『彦火々出見尊』で『若狭彦大神』と称え奉り、下社の祭神は『豊玉姫命』で『若狭姫大神』と称え奉る。
 若狭国遠敷郡西郷ノ内、霊河(現遠敷川)の源、白石の上に先ず彦神が、次いで姫神が降臨されたので、その地に仮の社殿を営み、後、天正天皇の霊亀元年(715)9月10日に今の地に遷し奉ったと伝えている。
 古来から若狭の一ノ宮として信仰されているが、殊に、水産業者には、海上安全・海幸大漁の守護神として崇敬されている。
 また、奈良東大寺二月堂の『若狭井』の水源と伝えられる“鵜の瀬”の霊域は、当社の飛地境内地で由緒が深い。

 下社は、元正天皇の養老5年(721)2月10日に豊玉姫を遠敷の里に奉祀した。古来から若狭国二の宮として信仰されている。(以下略)
という。

 これらによれば、若狭彦・姫両神はいずれも遠敷川の上流・白石の里(小浜市下根来)に唐人の姿をして降臨した神で、その降臨の地は、奈良二月堂で行われるお水取り神事に際して、若狭から水を送るという遠敷川・鵜ノ瀬にある巨巌であって、その降臨時期は、彦神は霊亀元年、姫神は養老5年という。
 ただ、当社案内によれば、霊亀元年は上社の現在地への遷座年とあり、とすれば、若狭彦神は降臨後時をおかずして現在地へ遷ったことになる。

 しかし福井県神社明細帳には、若狭彦神社は、和銅7年(714)に白石の地の創建され、1年後の霊亀元年に現在地に遷ったとあり(式内社調査報告・1986)、創建時期について混乱がある。

 この白石の地に創建された社とは、今、下根来の鵜ノ瀬近くにある白石神社を指し(別稿・白石神社参照)、降臨後、一旦、白石の地に仮殿を造って若狭彦神を奉斎し、その後現在地へ遷座したというのが実体であろう。

 いずれにしても、当社の創建は8世紀初頭と思われ、
 続日本紀・宝亀元年(770)8月1日条に
  「若狭国の目(サカン)・従七位下の伊勢朝臣諸人と内舎人・大初位下の佐伯宿禰老を遣わして、鹿毛の馬を若狭彦神社と宇佐八幡の神宮に、それぞれ一匹奉納させた」
とあることから、8世紀に若狭彦神社があったことは確かであろう(若狭姫神社もあったであろう)
 なお、その後の記録として
 ・新抄格勅符抄(806)--若狭比古神 封戸十戸
 ・貞観元年(859)正月27日--若狭国従二位勲八等若狭比古神に正二位、正三位若狭比咩神に従二位を授く(三代実録)
 ・天慶3年(940)正月6日--比古神正一位、比咩神従一位に進む(出典資料不明)
 ・永保元年(1081)2月10日--増一階の時、比咩神も正一位に極まり給ふ(出典資料不明)
などがある。


 若狭彦神社は若狭国一ノ宮というが、一ノ宮となった時期は不明。
 ただ、社蔵の「詔戸次第」(ノトシダイ・1303)に、鎌倉初期の建暦2年(1212)正月2日に、大介藤原朝臣との国庁高官が若狭彦大明神に奉幣したとあることから、鎌倉初期(13世紀初頭)には若狭国一ノ宮として認められていたと思われる。


 縁起に、若狭彦・姫神の降臨に際して“節文”なる人物が従ったとあるが、この節文について
 ・縁起では、若狭彦大神の眷族というのみで出自等不明だが、
 ・若狭彦神社の禰宜・笠氏(後に、地名をとって牟久氏と称す)の系図に節文の名があり(実在したという確証はない)、若狭彦神社の初代禰宜となり、以後その子孫が神社の社務職を務めたという(今は異なるらしい)
との資料があり、大神の眷族というのは、笠氏が初代禰宜・節文の名を降臨伝承のなかに組み込むことで、禰宜職世襲の根拠としたものと思われる。
  因みに、笠氏とは第8代孝元天皇の皇子・大吉備諸道命の後裔で、命から4代後の小篠が笠臣の名を賜ったというが(若狭国鎮守一二宮禰宜代々系図-ネット資料による)、これは笠氏が遠祖を孝元天皇に仮託したもので信用はできない(孝元天皇の実在そのものが疑問視されている-欠史9代)

※祭神
  若狭彦神社--若狭彦大神(彦火々出見尊・ヒコホホデミ
  若狭姫神社--若狭姫大神(豊玉姫命・トヨタマヒメ

 彦火々出見尊とは、書紀本文によれば天孫・瓊々杵尊の御子で三兄弟の次男(古事記では末弟で火遠理命、別名:・山幸彦ともいう)、天照大神の孫にあたる。
 古事記によれば、火遠理命(ホオリ、山幸彦)が兄・火照命(ホデリノミコト・海幸彦)から借りた釣り針をなくして、それを探して海神(ワタツミ)の宮へ行き、その娘・豊玉姫と結ばれたといわれ(海幸彦山幸彦伝承)、彦火々出見尊と豊玉姫命とは夫婦神となる(その孫が神倭伊波礼毘古尊すなわち神武天皇)

 上記由緒では、彦火々出見尊と豊玉姫命が霊河(現遠敷川)の川上にあった白石の上に相継いで降臨されたので、これを若狭彦大神・若狭姫大神と称して祀ったのが当社の始まりという。
 しかし、記紀でみる彦火々出見尊に関する説話は吾田国長屋(鹿児島県南さつま市に比定)でのことであって、そこから外に出たとの記述はなく、上記由緒は当社に伝わる伝承とみるべきだが、如何なる由縁で祭神を当地とは関係の薄い彦火々出見尊・豊玉姫尊としたのかは不明
 ただ、彦火々出見尊が天照大神の許しを得て各地を廻られたとの伝承があり、当社の降臨伝承もそのひとつかもしれない

 この疑問にかかわって、神社覈録(1870)
 ・「彦火々出見尊に位階を授けらるの事甚だいぶかし」として、皇室祖神の一人である彦火々出見尊に神階が綬叙されたのは可笑しなこととして、当社祭神を彦火々出見尊とするのことに疑問を呈し、
 ・「されど社伝ありて、一宮記・頭注・諸社根元記等此伝を用ひられ、今も社伝を専とすれば、如何ともいひがたし」として、祭神・彦火々出見尊を容認はするものの、
 ・「官社私考に云、若狭比古神、もしくは大毘古命(オオビコ)の越国を治め給へる御恩から、国人の祭り奉りて比古神と申し、また若狭比古神とも称美奉れるには有らざるか。かかる推量するはいと畏けれど・・・」として、若狭比古大神は大毘古命ではないかという(特選神名牒-1876にも同意記事あり)
 大毘古命とは第8代孝元天皇の御子で(古事記、書紀では大彦命)、書紀・崇神10年9月条に「大彦命を北陸に遣わされた」とあるように(四道将軍の派遣)、北陸との関係は彦火々出見尊よりも深く、祭神・大毘古命説は無視できないが、四道将軍説話も神話的伝承に過ぎず、大毘古命祭神説にも疑問がある。

 また、若狭国風土記(逸文)には
 「若狭の国号  昔 此国に男女有りて夫婦と為る。共に長寿にして人その年数を知らず。其容貌若くして少年の如し。
 後 神と為る。今の一宮の神是也。因りて若狭国の名有り」
として、若狭国一の宮すなわち当社の祭神はこの夫婦神とあるが、そこには彦火々出見尊・豊玉姫命の名はない。

 これらからみると、当社本来の祭神は若狭彦神・姫神という夫婦の神で、社格を上げんが為に、何時の頃かに、これを記紀にいう彦火々出見・豊玉姫に充てたのだろうが、
 近年の資料である“若狭国鎮守一二宮縁起の成立”(1970)には
 「古代においては下根来の白石のあたりが、それより下流小盆地の農業用水の水源をなしていたと考えられ、本来、若狭比古神は、この小さな古代村落の農業神(水源の神)であったのである(註:水源の神たる比古神は、おさらく鵜の姿をとった神であったのであろう)。
 また、上宮若狭彦大明神が彦火火出見尊、下宮若狭姫大明神が豊玉姫という伝承は、若狭彦姫神社の他の側面、すなわち若狭湾沿岸の漁民諸集落の共同の守護神=海神としの側面を示している(神社庁HPに、「水産業者から、海上安全・海幸大漁の守護神として崇敬されている」とある)
とある(式内社調査報告)
 豊玉姫は海神の娘であり、彦火火出見尊と結ばれたのも海神の宮であることから、彦火火出見尊も海神的神格をもっているともいえるが、我田引水の感が強い。
 それより、若狭彦・姫神は豊穣をもたらす水神(農業神)とみるのが順当かと思われる。


※社殿等
【若狭彦神社】
 当社楼門に掲げる案内には、
 「若狭彦神社は若狭彦神社(上社)と若狭姫神社(下社)の二社に分かれていますが、当神社は上社にして、奈良時代の霊亀元年の鎮座であります。
 海幸山幸の神話で名高い彦火火出見尊を若狭彦神とたたえておまつりしてあります。(以下略)
とある。

 県道35号線脇(西側)に鳥居が立ち、樹木にはさまれた長い参道を進んだ先に随神門(楼門、江戸時代に改築されたもので、福井県有形文化財)が建ち、境内に入る。

 随神門は江戸後期の造営で、桁行三間の入母屋造平入・銅板葺きの八脚門
 門内に、随神像8躰が左右4躰ずつ正対して安置され、この随神について、由緒記には
  「随神(吉祥八人) 上社及び下社の楼門に八柱づつ安置してある。鎌倉時代の作。全国唯一の独特の様式で、極めて貴重な存在である。
 若狭彦神・若狭姫神がこの地にご鎮座になったとき、お供をした眷族(郎党)の方々である」
とある。


若狭彦神社・鳥居 

同・参道 
 
同・随神門

 境内正面に神門(四脚門、県指定有形文化財)が建ち、左右に瑞垣が延びるが、格子間が狭く中を覗いてもよく見えない。
 神門は天保元年(1830)の造営で、切妻造平入り・銅板葺きの四脚門。
 嘗ては拝殿があったが昭和40年の風害で倒壊したといわれ(神門前の石で囲われた区画がその跡か)、今、拝殿はなく、この神門から拝礼することになる。


同・境内正面
(前面の区画が旧拝殿跡か) 
 
同・神門と本殿屋根
 

 神門と瑞籬に囲まれて本殿域があり、その中央に本殿(県指定有形文化財)が東面して鎮座する。
 本殿は文化10年(1813)の造営で、神門前から見たところでは三間社流造・銅板葺きとみえるが、樹木等に邪魔されて全体はよくわからない。

 
同・本殿(神門より)
 
同・本殿(側面)

 社殿域の右側に『若宮神社』との小祠が鎮座する。

 祭 神--鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアヘズ)
  相殿--大山祇神(オオヤマツミ)・蟻通神(アリトオシ)  

 鵜葺草葺不合尊は、彦火火出見尊と豊玉姫命との間に生まれた御子で、神武天皇の父神に当たる。

 大山祇神は山を司る神で、水の神でもある。
 蟻通神とは、大昔、中国の皇帝から七曲がりに穴のもつ玉に糸を通せという難題を持ちかけられたとき、これを解決した老翁を神として祀ったといわれ、当社では知恵の神として祀っている。(別稿・蟻通神社参照) 

若宮神社


【若狭姫神社】
 楼門に掲げる案内には、
 「若狭彦神社は、若狭彦神社(上社)と若狭姫神社(下社)に分かれていますが、当社は下社にして、上社より6年の後、奈良時代の養老5年の鎮座であります。
 海幸山幸の神話で有名な豊玉姫命を若狭姫神とたたえておまつりしてありますので、若狭姫社とも又遠敷神社とも申します。
 奈良東大寺二月堂のお水取りで名高い遠敷明神は即ち当神社のことであります。
 ここより南方1500mの龍前にある神社と共に上下宮(ジョウゲグウ)とも総称しますが、平安時代の延喜式にも名神大社として記載され、赫々たる御神威は遍く光被して厚く尊崇された若狭国第一の大社であります」
とある。

 県35号線の西側に鳥居が立ち、参道の先に随神門(楼門、県指定有形文化財)が建つ。
 随神門は寛保3年(1743)の造営で、その造り・規模は若狭彦神社と同じで(ただし、屋根は檜皮葺き)
 門内には、若狭彦神社と同じく、随神像各4躰が正対して安置されている。


若狭姫神社・社頭 
 
同・鳥居

同・随神門 

同左・側面 
 
随神像4躰
(反対側にも4躰がある)

 境内正面に、檜皮葺き屋根を有する神門(四脚門、享和3年造営)が建ち、左右に瑞垣が延びる。
 神門内陣から、弊殿を介して本殿正面の一部がみえる。
 当社にも拝殿はない。


同・境内正面
(手前の黄色い区画は拝殿跡か) 
 
同・神門
 
同・内陣

 本殿は享和2年(1802)の造営で、外からは屋根部分が見えるだけだが、一間向拝を有する三間社流造・檜皮葺きとみえ、屋根は一部苔に覆われている。


同・本殿(屋根) 
 
同・本殿(側面) 

 社殿域の左に『中宮神社』・『日枝神社』、右に『玉守神社』の小祠が鎮座する。
 ・中宮神社  祭神:玉依姫(祭神・豊玉姫の妹神で、姉・豊玉姫の御子・鵜葺草葺不合尊を養育し、後に尊と結ばれ神武天皇など4柱の神を生んだという)
 ・日枝神社  祭神:大山祇神
          相殿:夢彦神・夢姫神(この2神が如何なる神は不明)・宗像神・愛宕神・琴平神・稲荷神
 ・玉守神社  祭神:玉守明神(彦火火出見尊が海神から貰ったという潮干瓊・潮満瓊を神格化したものらしい)


境内社・中宮神社 
 
同・日枝神社
 
同・玉守神社

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