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敢 国 神 社
三重県伊賀市一之宮877
祭神--大彦命
合祀--少彦名命・金山比咩命
                                                    2017.09.25参詣

 延喜式神名帳に、『伊賀国阿拜郡 敢国神社 大』とある式内社で、伊賀国一ノ宮。
 社名は“アヘクニ”と読むが、三代実録に敢国津神とあることから“アヘノクニツカミヤシロ”と読む資料もある。
 郡名・阿拜は通常“アヘ(アエ)”と読むが、“アベ”とも読む。

 JR関西本線・佐那具駅の南約2km、駅南から国道25号線へ出て、西方寺前交差点を左折、県道616号線(古道の面影を残す一車線ほどの小道)を道なりに進み、名阪国道ガードをくぐった左側に神社への小道がある(県道の辻に裏参道の表示あり)。徒歩約1時間。

※由緒
 頂いた参詣の栞には
  「御由緒  当社は古来伊賀の国一之宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎ祀ってその霊徳を浴してまいりました。
 貞観の頃には、神階五位を授けられ、延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が行幸ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の後加増もありました。
 徳川時代には、藩主藤堂家の崇敬厚く、社殿調度の修営・神器社領の寄進・祭事神事の復興等が行われました。 
 明治4年5月、国幣中社に列せられ今日に至っています」

 続けて別頁に
  「当初、敢國神社は伊賀の神奈備山・南宮山(H=350m)を遙拝する形で鎮座し、もとは南宮山の頂上に祀られていました。
 その後、山麓に降ろしてお祭りするようになったのが敢國神社のはじまりです。大岩祭祀跡からは古墳時代の祭用土器が出土しており、神が宿る御神体山を仰ぎ奉るかのようにお祭りが行われた。
 斉明天皇4年(658)には、社殿が現在地に創建され、奈良時代には、この地に大きな勢力を持っていた安倍氏(敢氏)の氏神・敢國津神をお祭りするようななります。
 日本三代実録には、安倍神が敢國津神に神名を変え、国家から神階が与えられた記事を見ることができます。
 また貞観15年(875)には延喜式内大社に位置づけられ(延喜式制定は延長5年-927)、伊賀国一之宮へと神格が高められました。
 主祭神は、孝元天皇第一皇子の大彦命で、崇神天皇の時代に北陸・東海平定に貢献した四道将軍の一人をお祀りしています。
 この他、意訳と酒造りの神・少名彦命と鉱山師や鍛冶職人が信仰する金山比売命をお祭りしています」
とある。

 ただ、当社公式HPに記す略史によれば(要点抄記)
 ・当社の創建は7世紀の中頃・658年(斉明朝・飛鳥末期)と伝わっている。
 ・創建時の祭神は、大彦命(オオヒコ)・少彦名命(スクナヒコナ)の2座であった

 ・大彦命は孝元天皇の長子で、崇神天皇の御代、四道将軍の一人として東海に派遣され、これを平定した
 ・その後、大彦命一族は伊賀国に住まわれ、その子孫は阿拜郡(アヘ)を中心に居住して阿拜氏を名乗ったが、後に敢・阿閉・阿部・安倍とも称した
 ・“アヘ”とは“アベ”の原音であり、アベ姓の総祖神であるとともに伊賀に住む人々の祖神でもある

 ・古代伊賀地方には外来氏族である秦氏が住んでいて、彼らは少彦名命を奉斎していた
 ・始めは南宮山山頂(当社の南東方約800m、H=350m)付近に祀られていたが、神社創建時に南宮山より現在地に遷し祀った

 ・創建後、少彦名命が祀られていた南宮山の跡地には、美濃国の南宮社から祭神の金山比咩命を勧請した
 ・その金山比咩命を当社本殿に合祀したのは977年(貞元2年・平安中期)のことで
 ・その由縁として次の話が伝わっている。
   ある日、南宮山頂の金山比咩命の社殿が激しく震動し、止むと同時に社前の御神木の幹に虫食いの跡が文字となって現れ、『興阿部久爾神同殿』(敢国神と同殿)と読めた
   この事は直ちに神官→伊香守高則→藤原兼家へと報告され、神慮に従って金山比咩命を当社に合祀した
 ・こうして当社は三神をもって敢国神社・敢国津大神となって現在に至っている
とある。

 これによれば、当社は、斉明朝(655-61)のころ、伊賀地方の古代豪族・阿閉氏(アヘ)がその祖神・大彦命と、従前から南宮山に祀られていた少彦名命の2座を奉斎したことに始まり、平安中期頃に金山比咩命を合祀したとなる。

 阿閉氏とは、、書紀・孝元天皇紀に
  「大彦命は阿倍臣・膳臣(カシワデノオミ)・阿閉臣・・・等すべて七族の先祖である」
 新撰姓氏録に
  左京皇別   阿閉臣  阿倍朝臣同祖  大彦命之後也
  右京皇別   阿閉臣  大彦命男彦背立大稲輿命之後也
  山城国皇別  阿閉臣  阿倍朝臣同祖  大彦命之後也
とある氏族で、管見した系譜には
  孝元天皇-大彦命-彦屋主田心命-大伊賀彦命-稚子-阿閉国見・・・阿閉氏の祖
とある。

 また、
 ・続日本紀・天慶元年(781)5月29日条に、尾張国中島郡の人・裳咋臣(モクイオミ)船主が
  「私どもは伊賀国の敢朝臣と同祖であります。曾祖父・宇奈より以前はみな敢臣でした・・・」
として敢臣(阿閉臣)への復姓を求め許されたとの記録があること(阿閉臣は天武13年、壬申の乱の功績により朝臣の姓を賜っている)
 ・東南院文書(正倉院文書の一)に、阿拜郡河合郷の敢朝臣福子が、阿拜郡と山田郡の土地六段余を東大寺に施入したとあること
 ・当社の北北東約1.8kmにある御墓山古墳(ミハカヤマ)を以て大彦命の墓とする伝承があること
 ・この近くに全長40~80mの古墳が数基散在し、この辺りが阿閉氏の奥津城と推定されること
などからみて、阿閉氏一族は伊賀国阿拜郡の地を本貫とした氏族で、その一族が祖神を祀ったのが当社という。

 因みに、御墓山古墳とは、墳丘長≒188m・後円部径≒110m・前方部幅≒80mの前方後円墳で、三重県では最大の古墳だが、未調査のため内部構造等は不明(栞にみる写真ではだいぶ壊れているらしい)
 墳形・表層出土の埴輪など出土品から5世紀前半頃(古墳時代中期)の築造と推定されており、これを大彦命の墓とするのは、大彦命が崇神朝(4世紀前半頃)の人物とされることから、年代的には整合しない(大彦命の実在には疑問あり)
 また、大正初期頃から、この古墳を大彦命の陵墓として認めるよう運動されたが、確証がないとして陵墓参考地にもならず、国の指定史跡(大正10年・1921)に留まったという。

◎創建年次
 上記略史は、当社の創建年次を斉明天皇4年(658・飛鳥末期)というが、それを証する資料はない。
 ただ、当社への神階綬叙記録として
 ・嘉祥3年(850)6月--伊賀国津神に従五位下を授く(文徳実録)
 ・貞観9年(867)10月--伊賀国従五位下敢国津神に従五位上を授く(三代実録)
 ・ 同15年(873)9月--伊賀国従五位上敢国津神に正五位下を授く(同上)
などがあることから、9世紀に実在したことは確かといえる。

※祭神
 今の祭神は、冒頭に記すように
  主祭神--大彦命(オオヒコ)
  合祀神--少彦名命(スクナヒコナ)・金山比咩命(カナヤマヒメ)
という。

 この祭神構成は、明治7年(1874)、時の宮司(田中尚房)から教部省に提出した祭神に関する伺いに対して、教部省が示した
 ・此社は阿倍臣の祖先である大彦命を祀りたるに定むべし
 ・少彦名神・金山比咩命は相殿に祀れるものなり
との回答(要点抄記)によるという。

 これ以前の当社祭神については諸説があり、管見した古資料(原文確認資料)には、
 ・神名帳頭註(1503)--敢国 南宮也 金山姫命
 ・伊賀名所記(江戸初期)--敢国大明神 少彦名神は伊賀国阿拜郡敢国明神也
                 南宮山金山明神  金山比咩命也
 ・伊水温故(1687)--本宮三座 少彦名命・南宮金山比売
              本社は少彦名 正一位敢国角大明神と号す
              南宮は金山大明神 金山比咩命にてましますよし
              甲賀三郎兼家の尊霊を敢国に相殿す
 ・神名帳考証(1733・度会延経)--敢国神社 在上寺村 大彦命 日本紀に云 大彦命阿倍臣・阿閉臣・伊賀臣之始祖也
 ・三国地志(1763)--敢国神社 一宮村に在り 一宮大明神と称す是也
               祭神二座 敢国津神は少彦名 南宮は金山比咩命也
 ・神名帳考証(1813・伴信友)--敢国神社 此山に神有 敢国と申し奉る 所謂少彦名之命也
などがあるが、その中で祭神を大彦命とするのは度会延経の神名帳考証のみで、他は少彦名命一座あるいは少彦名命・金山比咩命二座という。

 また、明治以降の資料としては
 ・神社覈録(1870)--一宮村に在す 当国一宮也 南宮金山姫命
              又云 残編風土記に 当郡南宮山 南宮大明神 祭る所 少彦名神 とあるは別社と聞ゆる
              伊水温故に云 人皇64代圓融院・貞元2年修造の事ありて 此の南宮明神を一宮敢国明神と同所に遷し奉る 
              故に南宮山も一宮の山と成侍ると云ふ
 ・神祇志料(1871)--一宮村南宮山にあり 之を伊賀一宮とす 阿閉臣の祖・大彦命の男・背立大稲越命を祭る
 ・特選神名牒(1876)--祭神・敢国津神
                大彦命の御子孫の此国に多かりし故に 其の祖とある大彦命を敢国神と称え奉れるものとみえたり
などがあり、明治7年以降の資料のみが祭神・大彦命としている。

 この三神の内、金山比咩命は貞元2年(977)に南宮山山頂から当社に勧請したといわれることから(上記)、金山比咩命を主祭神とするには難があるが、江戸時代の祭神には混乱があったようで、

 三重県神社誌(1919)によれば、古老の言として
 ・敢国神社祭神は三座なり、敢国の社号は郡名・阿閉に起因す。
 ・敢国津神は阿閉臣安部臣伊賀臣等が斎ひ祀れる 其始祖大彦命なり。
 ・初め敢国山には敢国津神即ち大彦命と少彦名命との二神を祀り、後南宮山より金山比咩命を併せ祀りて 敢国神社の祭神は三座となりし也と云へり
との伝承があり(時期不明)
 また、
 ・本社社殿の結構を見たところ、正面に三枚の扉があり、三座の神を祀ることは明らかである
 ・一方、当社の縁起や他の地誌等の多くは少彦名命・金山比咩命の二座であって、三座とするものはない
 ・しかし、正殿の結構は三座を祀るようになっており、古老が三座の神を祀るという言は信がおける
 ・国津神というのは、その国土に関係多き神を祭祀するもので、伊賀国に最も関係のあるのは大彦命であって、主祭神・敢国津神は大彦命というのは動かすべからざる説である
との、宮司の言があるという(大意)

*大彦命
 大彦命は、上記のように第8代孝元天皇の第一皇子で、第10代崇神天皇の御代に四道将軍として東海に派遣されたというが、8代天皇の第一皇子が10代天皇の御代に将軍として活躍したというのは世代的に整合せず、孝元天皇実在の如何を含めてその実在性については疑問がある。

 ただ、昭和43年(1968)、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に、金象嵌の銘文があり、
 表面に「辛亥年(471に比定)七月」として、
  上祖・意富比垝(オオヒコ)-多古利足尼(タコリノスクネ)-○-○-○-○-○-乎獲居臣(オワケノオミ)
との系図が刻され、
 裏面に
  オワケ臣は、世々杖刀人(ジョウトウニン)の首として奉事し今に至る。
  ワカタケル大王(雄略天皇)が斯鬼宮(磯城宮・シキノミヤ)に在る時、吾は天下を佐治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記す也
とあり(意訳)、雄略天皇に仕えたオワケ臣との人物が、その先祖としてオオヒコの名を刻している。
 この銘文から、孝元天皇の皇子・大彦命の実在説が有力となっているが、他に大彦命の実在を示す史料はない。

*少彦名命(スクナヒコナ)
 スクナヒコナとは、書紀によればタカミムスヒの御子(古事記ではカミムスヒの御子)で、タカミムスヒの指の間からこぼれ落ちたといわれる小さ子(チイサコ・小人)の神、
 海上よりカガミの皮の船に乗り小鳥の皮を着て現れ、オオナムチと協力して国造りをすすめ、熊野の淡嶋から粟柄にはじかれて常世の国に渡ったという。

 上記略記は、“古代の伊賀地方には秦氏が居住し、南宮山山頂にスクナヒコナを祀っていた”という。

 秦氏と当地の関係について、伊乱記(1897)には
 ・服部といふに秦漢の二流あり。応神天皇の御宇に呉の国と漢の国より、絹を縫い或いは織のべ、或は綿を摘み糸をひく賢女あり、酒の君といへる智人を差し添えて渡しければ、天皇彼等を寵愛し給ひて殿宇を造りて住まわしめ給ふ
 ・酒の君は之を守護し、其の営む業の織引絹綿を裁判して司る所の長なり
 ・されば酒の君、当国阿拝郡服部の里を領知して居住し服部と称する也。此の元祖は酒の君なり
とあり、秦氏一族が当地に居住しており、伊賀忍者の統率者として知られる服部氏がその末裔だという。

 また伊水温故には
  「服部氏には三流(平氏服部・源氏服部・敢國服部)あり。
  漢服部は服部平内左衛門家長相続し平氏なり。呉服部は服部六郎時定相続し源氏なり。敢國服部は一の宮(敢國神社)神事を勤むるの族。姓は源氏なり」
とあり、服部三流の一・敢國服部氏が当社の神事を司ったという。
 
 ここで服部氏には平氏・源氏・敢國服部の3流があるというが、源平争乱の時代、平内左衛門家長が平知盛に仕え、六郎時定が源頼朝に仕えたことからのことで、系譜上の繋がりはない。
 また敢國服部の姓は源氏というから、源氏服部の別れであろう。

 ここで、当社の祭祀氏族としての服部氏の名が突如として出てくる。
 由緒等からみると、当社の祭祀氏族は阿閉氏のはずで、服部氏とするのは平仄があわない。
 憶測すれば、阿閉氏の衰退にともなって、伊賀郡服部郷を本願とする服部氏が当地に進出し(平安末期頃か)、武士化するとともに当社の祭祀権を握ったのかもしれない。

 服部氏の出自については諸説があり判然としないが、新選姓氏録によれば、
 ・大和国神別 服部連 天御中主命十一世孫天御鉾命之後也
 ・摂津国神別 服部連 熯之速日命十二世孫麻羅宿禰之後也 
               允恭天皇御世 任織部司 総領諸国織部 因号服部連
の2流があり、いずれも神別氏族であって渡来系氏族である秦氏(酒君)との接点はない。

 ただ、摂津国の服部氏について、織部司に任じられて云々とあることから、織物に関わる氏族と推測され、そこから織物との関係が深い酒君と結びつけられたのかもしれない。

 秦氏とは、書紀・応神14年条に「この年 弓月君が百済から渡来した・・・」とある渡来氏族で(新羅系というのが有力)、弓月王の孫という酒の君(秦酒公)について、書紀・雄略15年条には
 ・秦の民が各地の臣連らのもとに分散して、それぞれの臣連らに使われていた
 ・これを憂えた秦造酒(ハタノミヤツコ サケ)が天皇に訴えたところ、天皇は詔して秦の民を集めて秦酒公に賜った
 ・公は、秦の民を集めて沢山の絹布を作って奉り、朝廷内にうずたかく積み上げた。よってウズマサ(太秦)の姓を賜った
とある(大意)

 その秦氏とスクナヒコナとの関係は不詳だが、秦氏は農耕・製鉄・医療・機織りなど様々な技能集団を率いていたといわれ、そのそれぞれの職掌・技能が、オオナムチとともに国造りをおこなったというスクナヒコナの神格と共通することから、それらの守護神として崇敬されていたのかもしれない。


 当社のスクナヒコナは、最初は南宮山山頂に祀られていたというが、その南宮にかかわって、梁塵秘抄(1169)
  「南宮(ナング)の本山は 信濃の国とぞうけたまわる さぞまうす(そう申している)
     美濃の国には中の宮 伊賀の国には おさな児(チゴ)の宮」
という今様がある。
 ここでいう信濃の南宮とは諏訪下社を、美濃のそれは岐阜の南宮大社(仲山金山彦神社)を指し、伊賀のそれは当社(敢国神社)を指すという。
 当社を“児(チゴ)の宮”というのは、当社が“小さ子の神”スクナヒコナを祀るためで、この歌は、平安末期の当社がスクナヒコナを祀る社として知られていたことを示す。

 南宮といえば、金属精錬・鍛冶の神(金山彦命)を祀る社として知られるが、スクナヒコナを祀る当社が南宮と呼ばれるのは、スクナヒコナが小さ子の神(小人神)であり、小人神が鍛冶の神という神格を持っているためと思われ、小人が金属精錬・鍛冶などについて優れた腕前を持っているという伝承は、北欧を初めとしてひろく世界に分布しているという。

*金山比咩命(カナヤマヒメ)
 金山比咩命とは金山彦神と一対となる神で、古事記には
  「(イザナミ)火之迦具土神を生みしに因りて みほと灼かれて病み臥すせり。タグリ(嘔吐)に成りし神の名は 金山毘古神 次に金山毘売神」
とあり(書紀は金山彦のみ)、鉱山・金属やそれに関する技能者の守護神という。所謂・鍛冶の神である。
 南宮山頂に貞元2年に金山比咩が勧請されたのは、嘗ての山頂に祀られていた鍛冶神・スクナヒコナの神格を引き継いだものと思われるが、金山比咩命一座のみで金山彦命が祀られていない理由は不明。

 因みに、タグリから成り出た神を鍛冶の神とするのは、タグリが、タタラ製鉄などで溶けた金属が流れ出る様と同じと解したことからという。


※社殿等
 境内南側道路脇に立つ朱塗りの鳥居を入り、短い表参道を入った先の小広場があり(左側に社務所あり)、山裾のやや長めの石段を登った上に、唐破風向拝を有する横長の入母屋造拝殿(間口10間・奥行三間)が建つが、周りが狭く且つ樹木が繁茂していて全景はみえない。
 拝殿内陣には、「大彦命・少名彦命・金山比売命」との神名額が掛かっている。

 
敢國神社・鳥居
 
同・境内(石段の上が拝殿)

同・拝殿 
 
同・内陣

 拝殿背後の石垣の上、入母屋造の祝詞舎(間口三間・奥行二間)から左右に伸びる回廊の中に、三間社流造・朱塗りの本殿(間口三間・奥行三間)が鎮座する。
 ただ、石垣が高く近寄れないため全景の実見は不能。

 
同・祝詞舎と回廊

 
同・本殿(参詣の栞より転写)
(本殿の左に九所社社殿が小さくみえる)

 
◎摂社
 境内に掲げる社殿配置絵図によれば、本殿の左右に摂社2社が鎮座する。
  ・左--九所社--祭神・由緒不詳
  ・右--六所社--伊弉諾尊・伊弉冉尊・日神・月神・蛭子命・素盞鳴尊

 右の六所社は、回廊の狭間から、かろうじて一部が見えたが、左の九所社は実見不能


 
 
摂社・六所社

 六所社について、三重県神社誌は次のようにいう。
 ・三国地誌には、六所権現本社の東瑞垣内  是故の郡司・甲賀三郎兼家を祀るとも云 観音大士の像を安す 
            又二尊日月の神蛭児素尊を祭るとも云 是否をしらず
 ・伊賀国誌・敢國神社本殿の条に 「相殿甲賀三郎兼家霊 観音座像」と記し 伊水温故も之を襲へり 
 ・而して温故に六所権現に就きては、単に伊弉諾伊弉冉日神月神蛭児素盞鳴と記し毫も甲賀三郎の事に及ばざれば 兼家の霊と称する十一面観音は元相殿二奉祀し奉れるを 伊賀国誌の編述べせられたる貞享元年(1684)より三国地誌の成りたる宝暦元年(1751)までの間に於て 摂社・六所権現祠内に移し祀れるものたることを知るべし
という。
 伊水温故に「甲賀三郎兼家の尊霊を敢國に相殿す」とあり、江戸初期頃には甲賀三郎兼家の神霊(本地・十一面観音像)を敢國神社本殿に相殿神として祀っていたが、その後、当社・六所社内に遷したということだろうが、今は消えている。

 甲賀三郎兼家とは、所謂・甲賀三郎伝説の主人公で、伊水温故には、
 ・第61代醍醐天皇の頃の信濃国の勇者・諏訪3兄弟の末弟で、諏訪明神・建御名方命の後裔という
 ・時に、若狭国高懸山の鬼輪王(キリンオウ)という外道があり、その追悼命を受けて3兄弟が赴き、兼家が鬼輪王を殺した
 ・それを妬んだ兄二人は兼家を龍穴のなかに突き落として帰国、自分らの功として報告し、領国を安堵された
 ・兼家は、幽穴に落ちて一旦絶息したが蘇生し、江州甲賀郡を徘徊して本国に帰り、往事の出来事を天朝に報告した
 ・二人の兄は、自分らの企みが知られたことを恥じて自害し、諸跡悉く兼家に付属した
 ・承平2年(932)、平将門反乱に際し、命を受けて東国に下向し、他にも勝る軍功をあげた
 ・よって江州半国の守護となって甲賀郡に居住し、甲賀近江守次いで伊賀国守となった
とある(大略)
 伊賀地方に広く流布していた甲賀三郎伝承の一つをうけて(種々のバリエーションあり)、当社に祀られたものであろう。

◎末社
 拝殿左の神饌所・神輿蔵を挟んで西へ、県道へ通ずる裏参道沿いに末社6社が並ぶ。
 拝殿側から
  ・若宮八幡宮--仁徳天皇
  ・小観社(ショウカン)--祭神不詳(社殿配置図には「子さずけの神」とある)
  ・神明社--天照大御神
  ・楠 社--楠正成・藤堂元甫
  ・結社(ムスビ)--高皇産霊尊・手間天神
  ・大石社--不詳一座・須佐之男命・金山比古命・大日靈貴命・大山祇命
 なお楠社・結社は、小観社と神明社の間から石段を上った背後の山中に鎮座する(入口に素木の鳥居が立つ)

 末社について、三重県神社誌には次のようにある(要点抄記)
*若宮八幡宮
  伊賀国誌に「上の馬場の左に若宮の社」と見ゆるもの是なり 
  三国地誌に「若宮八幡祠 三処あり 一は佐那具村 一は千歳村野添の宮是なり 一は本社の南にあり」と云へり
*小観社
  伊賀国誌・伊水温故には未だ本社の名見えず 三国地誌に至りて初めて之を載せたり 貞享4年以降宝暦元年に至る間の創建なるべし
*神明社
  三国地誌に「今廃す」と見えたれど、敢國拾遺に「末社九前」とあれば 此の数字の上よりして当社の存在を立証するを得べし されば本社は宝暦元年以降同12年以前の再興に係れること著し
*楠社
  明細帳に「宝暦年間藤堂元甫河内国水分神社より楠公の霊代を迎へ奉り、当社境内今の地に石室を造営して奉鎮す
  同明和9年社人等元甫の功績あるを以て元甫の子・元福と議り、其霊を同祠内に配祀す」とあり
*結社
  伊賀国誌・伊水温故に「礼殿のもとの小宮は高皇産霊尊」とあれば即ち本社を指す ・・・
  慶長19年の棟札に「再興」の字をみる 是藤堂高虎再興当時のものなり
*大石社
  明治43年、許可を受けて府中村の津島神社(須佐之男命)・山神社(大山祇命)・金刀比羅社(金山比古命)・大日社(大日靈貴命)を合祀せるものなり
  不詳一座--末社大石社の鎮座にして由緒は不詳
  三国地誌に「大石明神祠 本社の西南丘陵の上に大石有り 俗黒巌と称す」と云ひ 一宮記に「今無し 蓋し昔歳諸此れを祭り 後今の地に遷祀しか」と云へり
  明治8年の末社取調に「大石社 元和2年3月造営の棟札に 『大井戸大明神』と有り 何れの頃改称候か不詳」とあるは注意すべき記文なりとあり、嘗て黒巌と呼ばれた巨石を崇敬する磐座信仰の流れを引いた社かもしれない。  

 
末社・若宮八幡宮
 
末社・小観社
 
末社・神明社

末社・大石社 

楠社・結社への入口 
 
楠 社
 
結 社

 境内南の道路北側に立つ小ぶりの朱塗り鳥居の奥の小さな池の中に、紅塗りの末社・市杵島姫社が鎮座する。
 三重県神社誌には
  市杵島姫社--伊賀国誌に「弁才天の宮 上下馬場の間の池の中に有」と云うもの即ち本社なり
とある。

 
末社・市杵島姫社・鳥居
   
同・社殿

 なお境外末社として、南宮山山頂に「浅間社」(センゲンシャ・木花開耶姫命)があるが、不参詣。

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