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波多岐神社
三重県伊賀市土橋(ツチハシ)
祭神--大鷦鷯尊
付--式内・宇都可神社(境内社)
祭神--大物主命
                                                          2017.09.25参詣

 延喜式神名帳に、『伊賀国阿拜郡 波多岐神社』とある式内社で、伊賀国三ノ宮。
 社名を波太伎とする資料もあり、いずれも“ハタキ”と読む。 
 社名・波多岐の由縁について、三重県神社誌(1919)
  「古老相伝ふ、波多伎の名称は、古昔 該境内に樫木森立す、其樹皆真直にして屈曲せず。因て之を朝廷に献じ旗木とす(波多伎旗木国音相通ず)。故に波多伎神社と称せり(伊賀国阿拝郡誌稿本)
とある。

 なお境内社として、式内・宇都可神社(ウツカ)と村社・府中神社が鎮座する。

 JR関西本線・佐那具駅の西約1km、伊賀上野駅と佐那具駅との間のほぼ中程、線路添い道路の北側に鎮座する。

【波多岐神社】

※由緒
 頂いた参詣の栞には、
  「当神社は大鷦鷯尊(オオササキ)を主神として奉斎し、古来より伊賀国三ノ宮と称された旧郷社で、延喜式神名帳に『波多岐神社』と記された式内社である。
 延長風土記に『阿拝郡国府山神有り、祭る所仁徳天皇也」と、永閑伊賀名所記(室町末期)に『国府湊三ノ宮 神領 里人之を三ノ宮と称し、又波多岐神社と称す』と記されているように、国府に近く国府湊は神領であったと伝えられています」
とある。

 当社関連の古資料として、伊賀国名所記(江戸初期)以下数誌があるが、ほとんどが
  「府中村に在って三ノ宮と称し、仁徳天皇を祀る。御神体は白馬に乗った天皇像」
と簡単に記している。
 ただ、伊賀国阿拜郡誌稿本(発刊年代不明)は、やや詳しく
  「本郡土橋村東端字東出に在り 三ノ宮と称す 仁徳天皇を祭る 創建年月詳ならず 
   土橋・東條・西條・山神・印代五村の惣社にして氏子250戸なり・・・・・
   和名抄に曰 阿拜郡服部国府にあり 三ノ宮と称す 蓋し敢国神社を一ノ宮と 須智荒木神社を二宮と 本社を三宮と称す」
とある。

 なお、当社は式内・宇都可神社(ウツカ)が境内社として鎮座することから、両社間に混乱があったようで、稿本では
  「三国地誌に曰く 今是を宇都可明神と称して名額を揚げたりと。
  宇都可神社は元北方の山上に在りしを以て、老幼旦暮の詣拝に便ならず、故に波太岐神社を遙拝所と為す。
  然るに星霜を経するに随ひ村民波多岐神社の在りしを忘却して、唯だ宇都可神社のみ在ることを知る。是を以て、祭主の如きも亦棟札を書するにも宇都可明神とし、名額を掲げしに至る」
として、宇都可神社は当社を以て遙拝所としていたが、何時の頃からか本社化し、本来の波太岐神社が忘れられたという。

 当社の創建時期は不明。
 延喜式(927)に列していることからみて10世紀以前からあったのは確かだが、当社に対する神階綬叙記録等なく創建時期を推測する資料はない。

 当社創建後の経緯も不詳だが、資料によれば、
 ・天正9年(1581)の織田信長伊賀侵攻の際に焼失。慶長9年(1604)に再建
 ・明治6年村社に列し、同36年郷社に昇格
 ・同40年、府中村の寄建神社・西条の諏訪神社・印代の貴船神社などを境内社・宇都可神社に移転合祀した
 ・同時に、各大字の小社を境内に移転合祀して府中神社と称した
となる(式内社調査報告・1990版)

※祭神
  主祭神--大鷦鷯尊(仁徳天皇)
 今の祭神は大鷦鷯尊となっているが、古資料には仁徳天皇とするものが多い。大鷦鷯尊(仁徳天皇)を祀る由縁は不明。
 なお、出口延経(度会延経)の神名帳考証(1733)には「保食神」(ウケモチ・食物神)とあるが、その根拠は不明。

※社殿等
 道路脇の一の鳥居から北へ少し入った突き当たりに二の鳥居が立ち(道路からみえる)、石段を上がった上が境内となる。
 二の鳥居左側に、『式内郷社 波多岐神社』・『式内宇都可神社』との石柱2本が立つ。
 また、境内の左右・拝殿前の庭を囲むように、当社氏子を構成する旧集落ごとの参籠所・5棟が建ち並ぶ。


波多岐神社・二の鳥居
(左に社標柱2本あり)
 
 
同・境内全景
(左:拝殿、右:参籠所)
 
同・社殿等配置図

 拝殿の背後、一段高くなった基壇上・透塀に囲まれた中に流造・紅塗りの本殿が鎮座する。
 参詣の栞には、
  慶長9年(1604)の建立  一間社流造 銅板葺 間口2.1m
  「中規模の流造である。虹梁絵様は簡素で彫りも狭く17世紀前期の様式を示している。
  頭貫木鼻の獅子頭、妻飾大瓶束につく拳鼻、実肘木などの彫刻、絵様もその年代のものである。頭貫木鼻・蟹股などの彫刻を部位によって変え変化に富んでいる。
  概ね慶長の部材を残すこと、境内施設の構成が旧態をとどめるなど、歴史的に重要な神体である」
とある。

 
同・拝殿
 
同・拝殿内陣

同・本殿

 本殿の左右に境内社2社が鎮座する(下記)
  左--宇都可神社
  右--府中神社(前に覆屋があり外からは見えない)

 
境内社・宇都可神社
 
同・府中神社
(栞転写)


【宇都可神社】(境内社)
 延喜式神名帳に、『伊賀国阿拝郡 宇都可神社』とある式内社で、今は波太岐神社の境内社となっている。
 主祭神--大物主命
 波多岐神社本殿の左に鎮座する。

※由緒
 当社の創建由緒は不明だが、波多岐神社・参詣の栞には
 「江戸時代 当神社と一体化した宇都可神社も延喜式内社で、日本三代実録・貞観15年(873)9月27日条によれば、正六位宇豆賀神が従五位下に進階されている」
とある。

 当社が波多岐神社に祀られた経緯について、三重県神社誌は、惣国風土記を引用して、
 「按に、土橋大堀山に座す。其社地村を距てること十町余、羊腸迂回して山の半端に社頭あり。
 土俗伝へ云く、古昔 此社地松柏繁茂して白日を障ふ。後世伐り尽くして只社砌の数株を残すと。・・・
 大堀大物主社は古昔所謂・宇都賀の社にして、其神体も風土記に記すことと合ふ。
 然るに、其の社地難峻にして村里にとおさかるを以て、里民旦暮の詣拝に便ならざるにより、波多岐社において祭祀の供享を行ふ。
 爾来三宮に宇都賀の号を冒し、一社に名を称する至る。
 故に、本社は大物主社なることを知りて宇都可神社なることを知る者なし。しかりといへども祭式は今尚存すと」
という。

 この時点での宇都可神社は、
 ・三国地誌(1763)に、「其の社地が難険であって村里から遠いため朝夕の参詣に不便なため、波多岐神社で祭祀を行った」とあること
 ・波太岐社社蔵の棟札に、「宇都可大明神・・・延享二(1745)乙丑五月吉日」とあること
などからみて、波多岐神社境内を借りての遙拝所的性格のものと思われ、それが社殿を有する独立社となったことについて、神社誌には
 「当社は元土橋村字鳥羽谷(旧字:大堀山)に鎮座、式内宇都可神社とせしが、安政6年(1859)の地震の際、社殿の近傍まで地崩れ落ちし。
 元来 厳峯の社地にて社殿の風破の患あり。且つ村民遠隔の地殊に通路険阻にして参詣の往返りに煩敷を以て、明治10年(1877)10月29日 管轄庁の許可を得て土橋村字宮内の神地(波太岐社境内)へ社殿新築奉遷し、該地に有りし山宮神社と合祀す」
とある。

 なお、当社の創建時期について、三国地誌(1763)は、「天武天皇2年(673)6月 始めて祭礼を行い圭田を加ふ」との惣国風土記の記事を引用しているが、その信憑性は低い。

 ただ、三代実録・貞観15年(873)27日条に
  「正六位上宇豆賀神・・・並に従五位下を授けき」
とある宇豆賀神が当社祭神を指すとすれば、9世紀にあったのは確かといえる。

 明治10年の波太岐神社境内への遷座後の経過として
 ・明治10年--宇都可神社の社殿新築遷座し、同地にあった山宮神社を合祀した
 ・明治40年--村内に散在していた貴船神社・薦枕神社・諏訪神社・寄建神社を合祀して、宇都可神社と単称した
という。

 なお、式内・宇都可神社には論社として、伊賀市内保(当社の北東、甲賀市との境界近く)の『通山社』とする説があるが、これについて社有文書に
  「宇都可神社は是迄土橋村・内保村両村にて式内社と称し奉りたり候に付、今般両社由緒考証書相添え教務省へ伺い候処、土橋村所在の神社を以て式内社と決定相成候・・・  明治9年(1876)5月1日 知事代理署名」
とあり、明治9年に当社が式内社と決定したという。
 しかし、三重県神社誌は、
 ・明治9年の教務省決定以来 殆ど定説となった観があるが、確固たる論拠に基づく指定ではなく
 ・内保の通山祠は地方の名祠で、その地名の内保が社名・宇都可に縁がある
として(大意)、内保説が有力ではないかとしている(不参詣)

※祭神
 拝殿に掲げる額には
   大物主命・大己貴命(山宮社)・罔象女命(貴船社)・高皇産霊命(薦枕社)・建御名方命(諏訪社)
     源朝臣満仲・源朝臣賴光・源朝臣頼信・源朝臣頼義・源朝臣義家(寄建社)
とある。

 主祭神・大物主命を奉斎する由来は不明、
 大己貴命以下の諸神は、いずれも明治末期の神社統合令(明治39年・1906)によって、明治40年、近傍の小社を合祀したもので、( )内は旧社名を記す。
 なお、源朝臣満仲以下の5柱は、清和源氏2代目(満仲)から4代目(義家)までの武将だが、源氏本流の武将が当社に祀られる由縁は不明。


【府中神社】(境内社)
  祭神--須佐之男命・大地主命・塞神・木花開姫命・大山祇命・火産霊命・天津国玉命・軻偶突智命

 波太岐神社の境内社、波多岐神社本殿の右に鎮座するが、前面に覆屋に入った古い祠があり、前からはみえない。
 由緒等不詳だが、三重県神社誌に、
  「当社は明治40年2月9日、許可を受けて大字印代村村社・諏訪神社の境内社津島神社・・・(10数社を列記)・・・を、同年9月25日合祀執行のうえ境内社・府中神社と単称せり」
とあるように、明治末期の神社統合令によって近傍にあった小社を合祀統合して、府中神社と称したものという。

 なお、伊賀市佐那具町にも府中神社との神社があるが(JR関西本線・佐那具駅の南東約500m、別稿・府中神社参照)、祭神・由緒等からみて無関係の神社らしい。

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