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猪 田 神 社
A:三重県伊賀市下郡(シモコオリ)字宮尻
祭神--猪田神・住吉三神他
B:三重県伊賀市猪田(イダ)5139
祭神--武伊賀津別命他
                                              2019.09.02参詣

 延喜式神名帳に、『伊賀国伊賀郡 猪田神社』とある式内社だが、今、上記2社が論社となっている。

 近鉄伊賀線・依那古駅の西約1kmに迫る丘陵尖端の神奈備山状の丘(H≒200m、宮山ともいう)の南東麓に下郡(シモノコホリ)の猪田神社(A社・依那古駅の西南西約800m)が、その北西約550m離れた丘陵北東麓に猪田(イタ)の猪田神社(B社・依那古駅の西約1.2km)が鎮座する。
 以下、A社を下郡社、B社を猪田社と記す

※由緒
【下郡社】(A社)
 社頭に掲げる案内(石版)には
 「当社は、この地方に深い縁由のある神霊を奉祀し、往古より延喜式内社として尊崇されてきた。
 明治41年(1908)の一村一社の合祀令により、旧依那古村に鎮座する神々を当神社に合祀した。

 ご祭神は、猪田神・住吉三神 (底土命・赤土命・磐土命)他25柱である。
 主神・猪田神は、11代垂仁天皇の皇子・意知別命(オチワケ)三世の孫で、13代成務天皇(131)の御代に伊賀の国造に任じられた武伊賀都別命(タケイガツワケ)である。
 住吉の神は、延暦3年(784)白鷺を使者として摂州住吉大社から勧請した。

 社地は、伊賀の郡家が所在した郡(郡衙・跡地:下郡遺跡)の西方・神奈備の丘にあり、時の支配者・伊賀臣が祖と仰ぐ武伊賀都別命(タケイガツワケ)を守護神として祀った。
 神社の起源は詳らかでないが、社殿の創建は天正15年(1587)の棟札によると延暦3年(783)である」
とある。

 由緒の記載内容は判然としないが、近世の資料には次のようにある。
*伊水温故(1687)   
  猪田社  郡村
   延喜式伊賀郡25社の随一 猪田社と号す
   住吉三神 表筒男・中筒男・下筒男 三神一座 相殿 諏訪の明神・健御名方命也 猪川明神相殿 御神躰は瀬織津姫、世に云ふ亥の子の神也 亥の神は弁財天也 此の住吉神は摂州より勧請

*神名帳考証(1733)
  猪田神社 上郡村に在り 住吉神と称す 是水分神也

*三国地誌(1763)
  郡村に坐す住吉神是なり。
  延暦3年(783) 白鷺空中を翔りて白羽の矢をくわへて松の樹上に止る。時に矢光を放て今の社地に止る。矢をみれば住吉の神と銘す。夫れより此地に此神を祀り、古く山神・・・等17郷共に祭祀に預かる。・・・

*神名帳考証(1813)
  [伊水温故に云] 猪田社 上郡村に在 五座 住吉三神・諏訪・瀬織津姫也

 これらによれば、近世のころには住吉三神を祀る神社と認識されていたようだが、
 当社蔵の棟札(天正15年丁亥9月25日付)
  表面上部に当社住吉  その右に延喜式 左に猪田社
とあり、これによれば、当社は住吉三神を祀る神社だが、猪田神社でもあるとも認識されていたことを示している。

 なお、棟札裏面には、「始自勧請以来八百四年下遷宮・・・」とあり、この下遷宮が天正15年(1587)の社殿建造を指すとすれば、その804年前は延暦3年(783)となり、それは三国地誌がいう住吉神勧請の年にあたり、当社案内がいう「社殿の建造は天正15年の棟札によると延暦3年である」との記述は、これを指している。
 ただ、この延暦3年は住吉三神勧請・社殿建造の年であり、その時点での猪田社の有無ははっきりしない。


【猪田社】(B社)
 拝殿前に置かれていた参詣の栞には(自由に頂ける)
 「猪田神社は伊賀鉄道依那古駅(イナコエキ)西1.2km、神奈備型の丘の東北麓に西面して鎮座しています。
 創立年代は、史実・環境・雰囲気から非常に古い年代であったと思われます。 
 当所は猪田村の宮と言われていたようですが、天正18年の棟札に住吉大明神と書かれていることから、少なくとも中世以前から住吉神社と言われていたものと思われます。 
 明治22年、猪田村・山出村・上之庄村・笠部村が合併して猪田村となり、同41年、村内各社を合祀後、猪田神社と改称されました」
とある。


 近世以降の古資料で当社に関するものは少ないが、管見した資料として
*伊水温故
  「猪の大明神  猪田村
  猪川と云所 福田の辺りに有しに、往日 洪水に社領の地流れて川となるに依りて、猪の神を猪田の社(モリ)郡の宮の相殿に鎮座す。
  昔は郷の名を井田と書く。猪の明神垂迹より猪田と改む。猪の神は蓋し瀬織津姫也。猶 此神霊は神道の秘決也」
とある。
 ここでいう猪川の辺りにあったという猪の大明神が猪田社を指すと思われ、それが猪川の洪水によって社領が流されたので、猪の明神を下郡社に遷したということらしい。

*三重県神社誌(1919)
  「当社は往古より現社地に鎮座ましまし、住吉神社と称せしが、明治41年許可を得て本社の境内社・諏訪神社・・・を合祀し、猪田神社と改称せり」
とあり、嘗ては住吉神社と称していたが、明治末の神社統合令をうけて、同41年に境内社・諏訪神社以下村内にあった30数社を合祀し、そのとき猪田神社と改称した、という。

 なお、神社誌は、下郡社については「村社延喜式内 猪田神社」として式内社と記しているが、猪田社に対しては「村社 猪田神社」とあるのみで、式内社との表記はない。

 近世の当社は住吉神社と称していたが、
 ・大永7年(1527・戦国時代)棟札
   奉納伊賀大明神宝殿  大永七稔丁亥五月十七日棟上也
   (裏面に、宮山は元来伊賀大明神が鎮座していた旨が記されているという)
 ・四角形石灯籠・印刻--本殿裏の猪田神社古墳頂上付近から出土(昭和53年)
   伊賀津彦大明神廟前
   天文三年(1534)甲午八月十五日 施主橘安重
とあることから、室町末期(戦国時代)の当社は伊賀津彦命を祭神としていたと推測される。

 これについて式内社調査報告は、
 ・明治期に大蔵省へ提出された当社境内鳥瞰図に、伊賀郡猪田村住吉神社と記された本殿とは別に、古墳頂上に一つの小祠が描かれていることから、
 ・大永7年に棟上げされた伊賀大明神宝殿は、現本殿ではなく、天文3年の石灯籠にいう伊賀津彦大明神廟であって、
 ・それは古墳上に鎮座していた可能性がきわめて高い
として、当地には住吉三神を祀る本殿と、伊賀津彦を祀る小祠の二つがあったのではないかという。

 また、日本の神々には
 ・社蔵の棟札や石灯籠の銘によって、少なくとも16世紀前半には古墳上に伊賀津彦神を祀る廟があったのが確認できるが、その創祀年代を示唆する史料はない
 ・当地には、猪田神社古墳を伊賀郡郡司の奥津城とする伝承がかなり古くからあったと想定され
 ・とすれば、猪田の猪田神社は郡司家の氏神社で、伊賀津彦神を祀っていたとみるのは、それほど無理な推定ではなかろう
 ・おそらく、後世に何らかの理由で住吉神社が勧請され(中世の頃か)、そのほうの信仰が強まるとともに、伊賀津彦神は別に廟を建てて、そこに遷されたのではなかろうか
として、調査報告と同じく、当地には住吉神社と伊賀津彦廟の二つがあったのではないかという。

 加えて、当社が式内・猪田神社であることを示唆する史料がみえないことから、猪田社を式内・猪田神社に比定するには無理があるともいえる。

 なお、その後の資料に
 ・天正18年(1590・安土桃山時代)棟札に
   奉住吉大明神殿屋所正遷宮
とあるように、室町末期になって住吉三神が表に出、明治末の猪田神社への社名改称まで住吉神社と称していたと思われる。


※論社について
 近世の諸資料では、そのほとんどが下郡社を以て式内・猪田神社としているが、式内社調査報告によれば、これに異を唱えたのが伊賀郡志(大正9年・1920)で、
 ・伝えでは、猪田社は延喜式所載の式内社にして、郡のもの(下郡社)は当社の分霊を祀ったものなりと云う
 ・その真偽は編者の知るところではないが、猪田神社であれば猪田にあるのが正当というべきなのに、郡にあるというのは疑わしい
 ・中世以降何らかの理由で、誤り伝えられたものとおもわれるが詳細は詳らかでない
として(概略)、下郡社を式内社とすることに疑念を呈している。

 その為か、昭和27年の神社明細帳では下郡社・猪田社両社ともに延喜式内社としているが、猪田社を式内社に比定した理由として
 ・当社本殿背後に古墳があり、これは当社の祭神・武伊賀津別命の御陵と考えられる
 ・当社境外の林の中に、天真名井と伝える清泉が存在する
 ・当社殿は室町の様式を伝えており、大永七年棟上げとの棟札が存在する
 ・ヰタは今・猪田の字を用いているが、井田もしくは堰田に通じ、旧猪田村付近の平地は伊賀における米作りの中心地であり、農業用水の重要性から考えて、この地名と天真名井伝承とは深い由縁がある
というが、之によって猪田社を式内社とするには疑問がある。

 しかし、伊水温故には下郡社の説明として 
 ・昔は猪田・山田・郡三郷の惣社、小天狗当社を振分け猪田村に宮殿造営してより当世は郡村三保の氏神也
 猪田村の住吉社について
 ・延喜式猪田社を寛永初天に振り分け、小天狗今の地に勧請、猪田一郷の惣社
とあることから、調査報告は、これらの記事を信ずる限りとして
 ・延喜式内・猪田神社は郡村鎮座のもの(下郡社)であり
 ・猪田村のそれは、寛永初年(1625・江戸前期頃)に郡村から勧請創始せられた住吉社ということになろう
という
 (なお小天狗とは、小天狗清蔵(?~1632)とよばれた修験者で、在地有力者の協力を得て、戦乱で荒廃した伊賀内外の社寺の復興・再建等に尽力したと人物という)

 また、日本の神々も、猪田村には伊賀津彦を祀る神社と住吉社との二つがあったとみる(上記)ことから、暫定的な結論と断りなが
 ・式内・猪田神社は、下郡の猪田神社であって
 ・猪田のそれは、三代実録にいう伊賀津彦神を祀る神社であろう
として、下郡社が式内・猪田神社である可能性か強いという。

 ただ、
 ・一般に、式内社は郡司クラスの選定にもとづいて国司が申請して、神祇官が認定するものであるにもかかわらず
 ・伊賀郡司家の祖神を奉斎するとみられる猪田社が、何故式内社として申請・選定されなかったのか
という疑問点は残るともいう(式内社調査報告)

 いずれにしても、下郡社・猪田社のいずれが式内・猪田神社の後裔社かということは、未解決の問題として残っているといえよう。


※祭神
【下郡社】
  主祭神--猪田神(武伊賀津別命)
  配  祀--底土彦・赤土彦・磐土彦(住吉三神)
  合  祀--依那古神・健御名方神・宇迦能御魂神・小泉太郎左衛門・蛭子神・大日孁貴命・坂戸神・応神天皇
         ・仁徳天皇・大物主神・市杵島姫命・大山咋命・健速須佐之男命・天児屋根命・綾門日女命
         ・猿田彦命・菅原道真・大山祇神・木花佐久夜比売命・伊弉冊尊・火之迦具土神・速玉男命・事代主命
         ・倭姫命・神功皇后

【猪田神社】
  主祭神--武伊賀津別命
  配  祀--三筒男命(住吉三神)
  合  祀--少毘古名命・健速須佐之男命・速玉男命・事解男命・健御名方命・天児屋根命・金山毘古命・大物主命・
          ・大山咋命・蛭子命・猿田彦命・大山祇命・応神天皇・菅原道真


 両社の祭神は、そのほとんどが同じ神々で占められているが、
◎武伊賀津別命(タケイガツワケ)--下郡社は武伊賀都別命
 両社共に主祭神とする武伊賀津別命とは、先代旧事本紀(国造本紀)に、
  「伊賀国造  成務朝の御世 (垂仁天皇)皇子・意知別命(オチワケ、祖別命・依知別命)の三世の孫・武伊賀津別命を国造に定められた」
とある人物だが(ここでいう伊賀国造とは、伊賀国全体の国造ではなく、伊賀郡一郡を所管する国造、後の郡司だろうという)、旧事本紀以外にその名は見えない。

 当社に対する神階綬叙記録(三代実録)として
 ・貞観6年(864)10月15日条--伊賀国正六位伊賀津彦神・・・並びに従五位下に叙す
との記録がある。
 ただ、この伊賀津彦神が下郡社・猪田社いずれの祭神を指すのかは不詳。

 この記録からみると、式内・猪田神社の嘗ての祭神は伊賀津彦命(伊賀津彦大明神)であったと思われ、伊賀津彦との神名を素直に読めば、“伊賀国に坐す男神”となるが、その出自・神格、武伊賀津別命との関係は不詳

 これについて、式内社調査報告は
 ・伊賀津彦は、その名から想像されるように、伊賀国伊賀郡の開発に功績があった同地域の代表する人物で
 ・国造本紀がいう武伊賀津別命が、その祖に当たるものと思われる
 ・おそらく武伊賀津別命の子孫は、代々にわたって当地域を支配した郡司クラスの一族であって、
 ・当社はその祖神を祀ったものであろう
という。

 また、武伊賀津別命を伊賀臣の祖とする資料もあるが、一般には、伊賀臣とは書紀・孝元紀に
 ・孝元天皇の皇子・大彦命は、阿部臣・阿閉臣・・・伊賀臣等すべて七族の先祖である
とあるように、孝元天皇の皇子・大彦命の後裔とされており、
 新撰姓氏録にも
 ・右京皇別  伊賀臣  大彦命男・彦背立大稲輿命男・彦屋主田心命之後也
とあって、意知別命三世の孫という武伊賀津別命とは出自を異にしており、伊賀臣と、武伊賀津別命を祖とする伊賀国造家(伊賀郡司家)とは別の氏族かもしれない。

◎配祀神:底土命・赤土命・磐土命(下郡社)
 この三神は見慣れない神々だが、書紀5段一書10には、
 ・黄泉国から逃げ帰ったイザナギが橘の小門で黄泉国での穢れを禊ぎ祓われたとき
 ・水に入って、磐土命を吹き出された。・・・また入って底土命を吹き出された。・・・また入って赤土命を吹き出された・・・
とあり、住吉三神・少童三神(ワタツミ)と同じく、筑紫の日向の橘での禊ぎによって成り出た神で(一書10のみに出ている)
 その神格は不詳だが、一般には住吉三神と異名同神という。
 その根拠は
 ・同じ筑紫の橘の小門での禊ぎ祓いで成り出た神であること
 ・住吉三神(筒男三神)の筒(ツツ)を土(ツチ)と読み替えたとも考えられること
などからと思われるが確証はない。


◎合祀神
 合祀神は、明治39年(1906)の神社統合令によって近傍小社十数社を合祀したものという。

 その内、
 ・下郡社に祀られる依那古神とは、明治42年(1909)に合祀された式内・依那古神社の祭神で(別稿・依那古神社参照)
 ・同じく小泉太郎左衛門とは、、伊水温故・小泉の宮によれば
   佐那具村に住む小泉太郎左衛門が名刀を所持していた
   天正13年(1585)、当地に国司として転封された筒井定次が是を聞いて名刀を所望したが、太郎左衛門は要求に応じなかったため、定次によって殺された
   程なく、定次の一男及び子女が相次いで病死し、多くの者が身心を悩まされた
   これに驚いた定次が、これを太郎左衛門の怨霊の仕業として、それを鎮めるための祠を建てて太郎左衛門の霊を祀った
というもので、今、依那古駅の二つ北の猪田道駅のすぐ東に残る依那古神社旧社地が、太郎左衛門を祀った小泉の宮跡という。
 
 この小泉太郎左衛門は、洪水によって破壊された依那古社が小泉の宮に遷ったといわれるように、依那古神社との関係が深い神で、下郡社との関係は不詳だが、式内・依那古神社が当社に合祀されたとき一緒に祀られたものと思われるという。


※社殿等
【下郡社】
 伊賀鉄道・依那古駅を西へ出た国道427号線・依那古神社前交差点を南下、次の信号の傍らに『猪田神社 三重県有形文化財指定 700m』と記した案内表示かあり、国道西側を流れる木津川にかかる依那古橋の東詰に『延喜式内猪田神社』と刻した石標と古い石灯籠が立っている。


猪田神社・案内標識 
 
同・石標

 交差点を右折して依那古橋を渡り、田圃に挟まれた長い道路(参道)を西へ直進した先に、朱塗りの鳥居が立ち、境内に入る。

 
猪田神社(下郡社)・参道
(正面に見えるのが神奈備の丘)
  同・鳥居

 当社の社殿は、前面の拝殿から奥(西)に向けて建つ3棟の社殿によって構成され、奥の方ほど高くなっている。

 鳥居を入った正面に横長の入母屋造・瓦葺きの拝殿が建ち、これに接して、一段高くなった処に入母屋造・瓦葺きの社殿が、その奥、高い石垣の上に本殿が、いずれも東面して建つ。

 拝殿奥の社殿は屋根の部分が見えるだけで、その全体像は不明だが、拝殿とその奥の社殿は屋根をみれば別棟のようだが、内部は一体となっており(階段を通じて出入りできる)、これが拝殿の一部なのか、弊殿なのかははっきりしない。


同・境内 
 
同・拝殿
 
同・拝殿側面

 社殿の最高部、高い石垣の上に一間社流造・檜皮葺きの本殿が東面して鎮座するが、側まては近寄れず、下からは屋根と軒先の一部が見えるだけ。

 当社HPの写真によると、本殿は朱塗りの社殿に華麗な装飾を施した社殿で、境内の案内には
 「本殿は一間社流造、屋根は檜皮葺きで、軒は二軒繁垂木とし、浜床を設け、正側三方の縁に擬宝珠・高欄をめぐらす。(中略)
 全体に丹塗りを基調に極彩色を施す桃山時代の華やかな建物である。
 天正伊賀の乱(1581)で消失し、その後の天正15年(1587)、慶長9年(1604)の棟札があるが、後者が現在の建物に該当すると考えられる。(昭和37年2月14日 県指定需要文化財・建造物) 伊賀市教育委員会
とある。


同・本殿
(高い石垣の上に鎮座する) 
 
同・本殿
(下から見えるのは屋根の一部のみ)
 
同・本殿
(当社HPより転写)


◎境内社

 資料によれば、本殿の左右に境内社2社があるが、社名・祭神等は不明。

 明治末期の神社統廃合政策により、同42年に近くの依那具の地に鎮座していた式内・依那古神社および同地にあった小泉の霊社を合祀したというから(上記)、この境内社はこの2神、および近傍から勧請合祀された諸神を祀るのかもしれないが詳細不明。
 なお、境内に依那古社の痕跡はみえない。

 今、下からは本殿を囲む玉垣の隙間から、向かって右の小祠が見えるだけで、左にも同様の小祠があるらしいが実見できない。

 なお境内には、「延喜式内 村社猪田神社」と刻した社標が立ち、当社は式内・猪田神社だといっている
 

本殿右の境内社

社 標

 当社は急斜面に建つという制約から、外側から奥の社殿へ接近する手段がなく、全体像のつかみにくい神社ではある。

◎さぎの杜伝承
 参道途中の左側田圃の脇に、『さぎの杜(モリ)』との案内板が立つ。
 これは、当社案内に「住吉の神は延暦3年に白鷺を使者として摂州住吉大社から勧請した」とある伝承(上記)に因むもので、 

 案内板には
 「前方の杜は、猪田神社社伝にいう『鷺の杜』である。
  三国地誌には、延暦3年(784)白鷺空中を翔り、白羽の矢をくはへて松の樹上に止る時に、その矢光を放ち、今の社地に止まる。
 その矢をみれば住吉神と銘す。夫れよりして、此地に此神を祀り、古山・沖・市部・依那具・猪田・郡等の17郷共に祭祀に預かる。
 その鷺の止りたる所を鷺の杜という。今尚あり」
として、鷺の杜の縁起が書かれている。

 猪田神社に祀る住吉三神は摂州の住吉大社より勧請されたものだが、その時の慶事が住吉の神が愛したとされる白鷺によって神秘に修飾されて、美しく後世に伝えられたものである。平成19年12月吉日 猪田神社他
とある。 
 
さぎの杜・案内板



【猪田社】
 伊賀鉄道・依那古駅の西、依那古神社前交差点を渡り、西へ直進した突き当たりにある集落の共同墓地の前を斜め右へ、神奈備丘東側の裾に沿った小道を北西へ進んだ先に大きな石灯籠2基が立ち、そこから南に延びる長い参道(地道、両側に小型の石灯籠が並ぶ)の奥に当社大鳥居が立つ。

 
猪田神社(猪田社)・参道入口
 
同参道
 
同・社頭

 当社の大鳥居は北面して立つが、社殿は西面して建ち、周りは深い樹木林で覆われている。

 
境内・社殿等配置図(上が北)

 大鳥居を入って右に回り込んだところが拝殿正面で、拝殿は入母屋造・瓦葺きで、正面に大きな千鳥破風を有する向拝が別棟のように突きだしている。
 
猪田社・鳥居
 
同・社殿側面(右が拝殿、左が本殿)
 
同・拝殿正面

 参詣時、本殿改修工事中で(屋根の葺き替え・彩色補修工事らしい)、本殿の周りには足場が立てられていた。

 本殿は一間社流造・檜皮葺き・朱塗りの社殿で、参詣の栞には
 「国指定重要文化財 本殿
 本殿は大永7年(1527)の再建で、棟瓦・檜皮葺・極彩色、正面は唐戸、他の三面は板戸です。
 構造形式は大部分桃山時代を下らず、要所には室町 末期のものを残しています。(中略、建築構造上の特徴を記す)
 本殿は昭和14年10月25日に国宝に指定され、昭和25年国宝規定の改正に伴い重要文化財に指定されました。 
 棟札は、大永棟札・天正棟札のほか6枚が重要文化財に指定されています」
とある。

 今、工事中のため足場が邪魔して、下からは屋根の一部が見えるだけで、本殿の全体は見えない。
 ただ、職人さんに断って足場に上って見たところでは、屋根は完全に葺き終わり、また足場の隙間から見える社殿も綺麗に塗り終わっているように見えた(足場撤去中だったかもしれない)


同・本殿(参詣の栞より転写) 
 
本殿の屋根

葺き終わった屋根 

◎古墳
 拝殿の反対側、樹木に囲まれた中にこんもりと盛り上がった処があり、円墳とみえるが、詳細不明。

 また、参詣の栞によれば、本殿背後にも県指定文化財の「猪田神社古墳」があり、
 「本殿背後の大古墳は後期の円墳で、昭和16年の県史跡指定書には
  ・高さ14尺(約4m)・玉垣の周囲41間(約40m)
  ・本殿背後の古墳は祭神・武伊賀津別命の御墓として尊崇すと書かれている
  古墳は早くから西向きに開口し、史跡指定のころ閉鎖されました
  昭和53年頃、墳頂付近から四角の石灯籠がみつかりました。 当社所蔵の明治初期の絵図には、墳頂と思われる処に小さな祠が描かれており、発見された石灯籠はこの祠のものと思われます」
とあり、
 市指定文化財・四角形石灯籠について
 「前面に『伊賀津彦大明神御廟前』、背面に『天文3年(1543)施主橘安重 敬白』と刻まれている。
  この灯籠は埋没により摩耗をまぬがれ、その細工は入念精巧、大型で美しく室町時代の特徴を残しています」
とある。(平成12年指定)

 この石灯籠に「伊賀津彦大明神廟前」とあることから、当古墳を伊賀津彦の墓とするのだろうが、この古墳が後期古墳であれば6世紀の築造であり、応神天皇(5世紀前期)の頃に活躍したとされる武伊賀津別命とは時代が合わない。
 猪田神社古墳へは現地への道がわからず実見せず。

 
拝殿向かい側の古墳

猪田神社古墳(参詣の栞転写) 
 
四角形石灯籠

◎天真名井(アメノマナイ)
 参道の終点近く、大鳥居すぐ前に左に「天真名井」との額を掲げた鳥居が立ち、細い山道を進んだ先に注連縄を張り巡らした小屋があり、中をのぞくと石で囲った深い泉があるが、暗くて撮った写真はブレていた。

 参詣の栞には、
 「大鳥居前の小径を左へ少し歩くと、杉の巨木の下に自然石で囲まれた小さな泉が有り、尽きることのない清水がたたえられています。
 垂仁天皇の皇女・倭姫命が伊賀神戸の穴穂の宮に滞在された時に掘られた名井とされ、伊勢神宮外宮の忍穂井(オシホイ)と通じてるので、大旱(オオヒデリ)にも水が涸れないのだとか、別名『伊賀忍穂井』ともいわれています。

 真名井とは、神事に使用される神聖な井という意味で、ここの井は、霊験あらたかな神泉として有名で、多く古書に書かれています。
 現在も元旦の早朝、若水取りの神事『御井祭』が行われています」
とあり、傍らに
  すむ鶏(カケ)は 爰(ココ)にいがとの神風や 伊勢よりかよう天乃真名井田  度会家行
  久かたの天の長井田 くむ賤が 袖のつるべの縄のみじかさ  西行法師
と刻した石碑が立つが、摩耗していて読めない(歌意はよくわからない)

 ここでは、今も元旦の若水取りがこの井でおこなわれているというが、見たところ水は涸れているように見える。

 倭姫命云々とは、倭姫命世記(ヤマトヒメミコトセイキ)に、天照大神神霊の鎮座地を求めて巡幸した途上、
  「垂仁64年 伊賀国の穴穂宮に遷り 4年間奉斎」
とあるのを承けたものだろうが、世記は鎌倉時代に作られた妖しげな文書であって、これを史実とみることはできない。


天真名井・鳥居 
 
天真名井への山道
 
天真名井

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