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依那古神社旧址
三重県伊賀市依那具
祭神--不詳
                                              2019.09.2参詣

 延喜式神名帳に、『伊賀国伊賀郡 依那古神社』とある式内社だが、今、名張市下郡の猪田神社に合祀され、旧社地という森の中に鳥居・社殿が残存する。
 社名・依那古は、今、“イナコ”と称しているが、“エナコ”が正式ともいう。

 近鉄伊賀線・猪田道駅の南東約200m、線路に近接して残る小さな森の中に旧社地がある。
 ただ、駅から神社へ直接行く道はなく、駅改札前を南北に走る道路を南へ、最初の辻を東へ進み、須賀鉄道の踏切を越えたすぐの左(北)、田圃に挟まれて神社への参道が北へ延びる。

※由緒
 旧社地には案内等の掲示なく詳細不明だが、三重県神社誌(1919)所載の伊賀国誌草稿には、次のようにある。
 「伊賀郡依那具村字柳原に在り。天児屋根命及び健御名方命・宇迦御魂命を合祀す。
 創建詳ならず。和銅3年(710)6月 初めて圭田を加え祭を致す惣国風土記
 仁寿元年(851)正六位上を授け延喜のとき小社に列す。後神階を進め永徳元年(1381・北朝元号)2月従二位を加ふ社記
 或は曰く、始め高野川原に在り、洪水の浸す所となり社殿従て廃滅に帰し、後此の地に転ず、明治に入って村社に列す」

 これによれば、当社の創建は和銅3年と推測されるが、傍証となる史料はない(惣国風土記の信憑性は薄いという)
 しかし、延喜式神名帳(927)に列することから、10世紀初頭に実在していたことは確かであろう。

 仁寿元年の正六位上綬叙とは、文徳実録・仁寿元年正月庚子 「天下諸神 有位無位を論せず 正六位上を叙す」との記録を承けたもので、その時点で当社があったかどうかは不詳。
 また、永徳元年の従二位綬叙とは、朝廷からの神階綬叙ではなく、当時の神道界を壟断していた吉田家(吉田神道)からのそれであろう(吉田家は、朝廷・幕府の黙認を得て、各社からの申請により有料にて神階を綬叙したという)

 最終行・「或は曰く」以下について、近世の古資料には次のようにある。
*伊水温故(1687)
  依那古社  依那具村
  延喜式伊賀25社の随一 江ノ大明神(エノダイミョウジン) 味好高彦根命(アジスキタカヒコネ)
  郷人は高野神社と号す 近年に及び大破 小泉の霊社につぼむ霊神との相殿悲しむべし
*三国地志(1763)
  延長風土記に曰 伊賀郡依名古に神有り 江ノ大明神と号す  祭神 味好高彦根命也
  依那具村に坐す 旧社地は高野川原にあり 洪水侵噛により社頭廃す 後諏訪の社地に遷し祀り 俗に高野天満宮と云

 資料のいずれも鎮座由緒・年代等についての記述はないが、その沿革について、諸資料をまとめると
 ・当社は古来から依那具村にあったが、村内でも、その鎮座地に若干の変遷があった
 ・元々、三国地志が「旧社地は高野川原」というように、旧社地の西を流れる高野川(旧名長田川・現木津川)流域近くにあって、高野神社と称していた
 (今、依那具は木津川の東側に位置し、旧社地・高野は西側の辺りで、その西に笠部集落があったといわれ、木津川によって分断されているが、嘗ては地続きだったという。
   今の木津川西がわに高野の地名はないが、笠部の地名は残っているから、高野は佐那具と笠部の間にあったと思われる)

 ・17世紀中頃の洪水により社頭が大破したので、同じ依那具村にあった小泉の霊社に合祀し明治に至った
 ・今、依那古社の旧社地(旧依那具村柳原)といわれる処が是である
 ・その後、明治42年(1909)に現伊賀市下郡の猪田神社に合祀され今に至る
となる。(高野川原→小泉の霊社→下郡の猪田神社と移転したか)

 なお、当社が明治まで合祀されていたという小泉の霊社とは、伊水温故によれば
 ・当村に住む小泉太郎左衛門が名刀を所持していた
 ・天正13年(1585)、当地に国司として転封された筒井定次が是を聞いて名刀を所望したが、太郎左衛門は刀を隠して要求に応じなかったため、定次によって殺された
 ・程なく、定次の一男及び子女が相次いで病死し、多くの者が身心を悩まされた
 ・これに驚いた定次が、これを太郎左衛門の怨霊の仕業として、それを鎮めるための社を建てて太郎左衛門の霊を祀った
という(要約)


※祭神
 当社祭神については次の諸説がある。
 ・味好高彦根(アジスキタカヒコネ)--伊水温故・三国地志・神社覈録(1870)・延長風土記(?)
 ・大稲輿命(オオイナコシ)--神名帳考証(1733・度会延経)・三重県神社誌(1919)
 ・味耜高彦根命 + 大稲輿命--神名帳考証(1813・伴信友)
 ・依那古神--特選神名牒(1876)

*味好高彦根命(味耜高彦根命・阿遲鉏高日子根・阿遲志貴高日子根など表記多し)
 古事記によれば、アジスキタカヒコネは出雲の大神・オオクニヌシの御子というが、別名を加茂大神とも称し、奈良・高鴨神社の主祭神であることから、本来は大和国葛城の神と思われる

 そのアジスキタカヒコネが当社の祭神とされるのは、この神と鉄器との関係からで、谷川健一氏は
 ・神名のアジは美称であり、スキは鉏・鋤の意であると解されている。すなわちそれは鉄器を人格化し美化したものである
 ・また記紀には、アジスキタカヒコネが友人のアメノワカヒコの弔問に訪れた時、その容貌がワカヒコと似ていたことから、ワカヒコの妻子が『わが君がよみがえった』として取りすがってきた
 ・その時、アジスキタカヒコネは“弔問に訪れた我を亡者と間違えるとは”と怒って、帯びていた太刀・大葉刈(オオハカリ)を抜いて喪屋を切り倒して飛び去った、とある(書紀9段)
 ・この大葉刈という太刀は大きな刃をもつ刀剣と解釈されるが、朝鮮語では刀をカルということから、アジスキタカヒコネは鉄製の利器を所有する神でもある
 ・この時、妹・タカワカヒメが詠った歌に、「(この神は)み谷 二渡らす(フタワタラス)アジスキタカヒコネ神ぞ」とあるが、これは 野タタラの炉の炎が空を焦がしている有様を表したものではないだろうか
として(大意)、アジスキタカヒコネは鉄器・刀剣に関係する神だろうという(青銅の神の足跡・1989)

 一方、当社が鎮座する依那具の周辺は
 ・旧伊賀国内に残存する寺の梵鐘(禅定寺・専称寺・常福寺他)あるいは湯立て神事用の釜(敢国神社)などの制作者に、依那具村辺りの出身者の名(大工依那具屋七郞・依那具村藤原勧右衛門・猪田仁右衛門など)がみえること
 ・近世の古図に、依那古神社の東に隣接して「金屋ヤシキ」とあり、その辺りから鋳型片が出土すること
 ・当社北東の澤田遺跡(約100m)・西田遺跡(約800m)から鉄滓・鋳型片・フイゴ羽口などが出土していること
などにみるように、近世あるいはそれ以前から鋳物師の生産活動が盛んだったのではなかろうかという。

 これらを承けて、日本の神々6は
 ・古事記の記述・神名からアジスキタカヒコネをタタラ製鉄にかかわる神とみる説があり
 ・当社のアジスキタカヒコネも、この地の金属関係の職人たちによって祭られたものではなかろうか
 ・ただ、それが延喜式の時代まで遡るかどうかは不明とするしかない
という。

 しかし、続日本紀・養老6年条(722)
  「3月10日  伊賀国の金作部(カナツクリベ)東人・・・ら71戸は、姓が雑工(ザック)となっているが、本源を調べると元来は雑工ではないことがわかった。そこで雑工との称号を除き、公戸(クコ・良民)に入れた」
 また、延喜式(927)・木工部・鍛冶戸の項に
  「伊賀国 三烟」
とあるように、伊賀国には、古くから金属精錬等に関わる職人等が居たことは確かなようで、当地・佐那具にも居たと思われるが、それを証する資料はない」
とあり、当地と鉄器等製作に関係する人々が住んでいたのだろうという。

*大稲輿命(オオイナコシ)
 大稲輿命(彦背立大稲輿命ともいう)とは孝元天皇の皇子・大彦命の御子で、新撰姓氏録に
  右京皇別  伊賀臣  大稲輿命男彦屋主田心命之後也
とあるように、当地・伊賀郡に盤踞した伊賀臣の遠祖という。

 この系譜によれば、伊賀臣の一族が遠祖・大稲輿命を祀ったのが当社ではないかと思われ、神名帳考証(度会延経・1733)
  「依那具神社  大稲輿命  依那具村に在り」
とあり、三重県神社誌(大正後期)
  「本社伊賀臣が其の祖・彦背立大稲輿命を祀れりと解すべきが如し」
として、大稲輿命説を有力視している。

*依那古神
 祭神不詳のため、社名を以て祭神名としたもので、当地の産土神を意味するという。
 今、当社が合祀されている猪田神社(下郡)では依那古神とし、具体の神名はない。

 上記以外に“宗像神”とするものがあるが(惣国風土記)、その根拠は不明。


※社殿等
 線路脇の田畑の中にぽつんと残る小さな鎮守の森の中に鎮座し、神社へは南側から田圃に挟まれた参道(地道)を通っては入る。


依那古神社・鎮守の森
(南東方より、中央左手に鳥居が見える) 
 
同・参道

 森の南側に鳥居が立ち、傍らに「延喜式内 依那古神社」との石標が立っている。

 樹木に囲まれた狭い境内の真ん中に、入母屋造・妻入りの社殿が南面して建ち(扁額には依名古神社とある)、向かって右手に小さな小祠があるだけで、こぢんまりとしている。
 本殿は社殿の中に鎮座すると思われるが、扉が閉まっていて内部の実見は不能。

 
依那古神社・鳥居

同・社殿 
 
同・社殿側面

 社殿の向かって右手の低い石垣の上に玉垣に囲まれた一画があり、その中に『式内依名古神社舊址』と刻した石柱が立っている。

 
式内依名古神社・旧址
 
同 左
 
同・石柱

 当社の沿革によれば、当社は明治42年に下郡の猪田神社に合祀されたとあり、その為か、鳥居を入った左に『猪田神社遙拝所』との石柱が立ち、いまだに猪田神社と関係があることを示している。

 なお、嘗て当地にあったという“小泉の霊社”を偲ばせる痕跡はみえない。 
 あるいは社殿右にある小祠に注連縄が張ってあるから、これがそうかもしれないが、案内なく詳細不明。

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