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名 居 神 社
三重県名張市下比奈知
祭神--大己貴命
                                                        2018.03.28参詣

 延喜式神名帳に、『伊賀国名張郡 名居神社』とある式内社。

 近鉄大阪線・名張駅の東約3km、駅南から県道691号線へ出て東進、道路の右側(下比奈知郵便局の少し先)に名居神社との矢印表示はあるが、小さくて目立たないので気づきにくい。バス便等なし、車使用他手段なし。

※由緒
 境内に立つ由緒碑には
  「日本書紀によれば、推古7年(599)に大和が中心の大地震があって、諸国に地震の神が祭られた。
  伊賀では当名居神社がそれであろう。“ナイ”は地震の古語である。
  江戸時代には、国津大明神と称し、比奈知川上流に散在する国津神社の惣社であった」
とある。

 ここでいう推古7年の大地震とは、書紀・推古紀の
  「7年の夏4月27日、地動(ナイフリ)て舎屋(ヤカズ)悉く破(コボ)たれぬ。則ち四方(ヨモ)に令(ミコトノリ)して、地震(ナイ)の神を祭らしむ」
との記録を指す。

 古くは地震のことを“ナイフル”あるいは“ナイ”と訓じたが
 ・“ナイ”は、地を意味する“ナ”に“イ”(居)が加わったもので大地・地盤を、“フル”は震動を意味し、
 ・“ナイフル”あるいは“ナイ”は地震を意味する。

 上記由緒碑は、当社創建を推古紀7年の大地震によるとするが、新版名張市史(1974)には
 ・伊賀盆地の中央部には地溝帯が走っているため地震が多く、当社を地震の神とする見解は不自然ではない
 ・然りとすれば、延喜式に同類の神社は他にはなく、当時諸国に多く建てられたであろう地震神の中で名居神社は、その伝承を伝える全国でも稀な古社であることを銘記したい
とある。

 しかし、近世以降の古資料には、当社と地震とを結びつけたものはなく、三重県神社誌(1919)は、
  「大己貴命少彦名命・天児屋根命は、大字下比奈知字宮ノ下の延喜式内名居神社の鎮座にして、明細帳に当社一名・国津神社と号す。
   創立年歴不詳と雖も、延喜式に雄略天皇22年始めて祭事を加ふとある(未確認)
   古老曰く、上古当地に異神あり多くの人を害す、この時大己貴神巡狩してこの地に鎮座し玉ひ、邪を祓ひ地を開き、始めて五穀の種子を授け耕を教へ百姓安居ならしめ玉ふ。故にこの地を以て五穀稲田最初の地と 称すと。即ち神田あり、田植歌あり。
  一説に、倭姫命皇大神を奉じて市守ノ宮に存するとき此の種田の米を以て神饌を進めれりと云う。
  又曰く、比奈知の荘一名六ヶ山と称す。即ち当社は六ヶ山郷の総社たるを以てなり。(以下略)
として、地震との関係は記していない。

 なお、当社が六ヶ山郷の総社とされたことについて、三国地誌(1763)には
  「当社古記に郷の惣社としるすもの、古く所謂六箇山を始め名張郡中各邑に遷し祀りて生土神と称する已に20祠にあまれり。分祠の多きこと此の如し。惣社なること疑いなし」
とある。

 当社が推古7年の勅令によって地震の神を祀ったとすれば7世紀初頭には実在していたことになるが、それが勅令により新たに創祀されたものか、その時既にあったのかは不明。
 ただ、当社が天正の兵乱での焼失によって古記録・伝承等を失っていること、当社への神階綬叙記録等が見えないことから、当社の創建時期を推測する史料はない。

 なお江戸前期の地誌・伊水温故(1684)
  「宇奈根之社 延喜式に名居神社
として、宇奈根社を以て名居神社に充てている。 
 宇奈根社とは、今、名張市平尾に鎮座する宇流富志祢神社を指すが、この社は名居神社とは別の式内社として比定されており、これを名居神社とする根拠は不明で、三重県神社誌は「温故の一説の如きは根拠薄弱 取るに足らず」として否定している。


※祭神
 当社が地震鎮静の神社であるとすれば、その祭神は地震の神(ナヰ神・名居神)とするのが順当だろうが、由緒碑には、
  祭神--大己貴命・少彦名命・天児屋根命・市杵島姫命・事代主命・蛭子命
とあり、そこに名居神の名はない。

 江戸中期の地誌・三国地志(1763)には
 「名居神社  下比奈知村に坐す。今、国津大明神と称する是なり。
    神体を大己貴命とするもの、其あらたむる由縁をしらず(国津大明神を大己貴命とする由緒不明ということか)
    其後社頭炎上し、また神体を本地作りにして十一面観音を安置し、益々其の眞をを失ひ古伝索然として求めるところなし。
   今、諸邑の人、古来の式社なることを伝ふるを以て、口碑のむなしからざるを信じて、今其の旧に復するのみ」
とあり、国津大明神即ち大己貴命を祀るという。

 なお、三国地志には
  「惣国風土記(江戸前・中期頃か)に大山祇神を祀ると云。今本郷の伝説と同じからずといへども、振古10月申日、山祇祭と称して大祭あり」
として大山祇神を祀るとの説があるというが、
 三重県神社誌は、
  「三国地志にいう10月申日の山祇祭とは、嘗て当社境内にあった興玉神社の祭事(10月申日)を混入したもの」
という。

 ここでいう置玉神社とは、古く境内東隅に鎮座していたが、その鎮座位置が道路に近接していたことから、牛馬に乗って通る人が必ず墜落負傷したため、東北約二丁山奥の清浄な地に遷座し、当社への合祀に際して興玉神社と改称した社で、
 三重県神社誌によれば、
 ・古くから“土の守護神”として崇敬され、“境内の土を自宅に散布すれば、鬼門金神の禍がなくなる”と信じられていた
 ・興玉神社の例祭には、太古の昔は人身の犠牲を供えていたが、後に柿柚(その味が人肉に似ているという)を以て是に変え、10月申の日の大祭には柿柚を献ずるようになった
 ・三国地誌がいう10月申日の山祇祭とは、この興玉神社の例祭を指す
とあり、大山祇命とはこの興玉神社の祭神という。

 これらを勘案して、式内社調査報告は
 ・三国地志が祭神を国津大明神とする他、江戸時代の棟札には「国津大明神」又は「大己貴命社」とある
 ・名居神が地震の神であり、大地の震動を鎮める働きが期待されることから、ナイ神とは大地そのものを奉斎したことになり
 ・そこから、名居神がその土地を守護する地祇=国津神と解釈されたとしても不思議ではなく
 ・その結果、祭神が本来の名居神から国津神へ変更されたと推測され
 ・その具体神名として、国津神の頭領としての大己貴命(大地の貴い神)が祭神とされたのではあるまいか
という。

 なお上記以外に
 孝元天皇の皇子・大彦命とする説がある(神名帳考証・1733他)
 これは、社名・名居を“ナヲリ”と読み、それは“ナハリ”の転訛とみたもので、三重県神社誌所収の太神宮本記には
 ・名居は“ナヲリ”にして“ナハリ”の転訛なるべく、名居神社はもと名張の国神を祀るものにあらざるか。
 ・而して、姓氏録の左京皇別に『名張臣 阿倍朝臣同祖 大彦命之後也』とあるに依れば、其の祭神は大彦命と為すを至当とす
とあり、当地の国津神として、当地に盤踞した名張臣の遠祖・大彦命を充てている。
 なお名張臣とは、姓氏録に阿部朝臣同祖とあることから、伊賀・名張地方に蟠踞した古代豪族・阿閉氏(阿部氏)の一族と思われるが、姓氏録にその名があるのみで事績等の資料なく詳細不詳。

※社殿等
 鳥居を入った境内正面に向拝付きの拝殿が、その奥、白塀に囲まれた中に、一間社流造・朱塗りの本殿が鎮座する。

 なお、本殿右に朱塗りの小祠が鎮座するが、社名等不明。
 由緒碑に「明治41年には興玉神社及び境内社7社を合祀している」とあり、あるいはこの合祀神を祀るのかもしれない。

 
名居神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・不明小祠 

◎山神社
 境内右手に、“山神”との神額を掲げた朱塗りの鳥居が立ち、白壁と板塀に囲まれた中に“山神”と刻した丸石が10数個並ぶが(神像を刻した石もある)、これらは明治の頃に、下比奈知の各地にあったものを当社内に集めたものという。

 山神とは所謂・山の神を指すが、山の神は春になると里に下りて里人の農作業を見守り、秋になって豊作を見届けて山に帰るとの民俗信仰が広く全国に広がっていた。
 当地では、1月7日(旧暦では1~3月が春)の早朝に山の神を迎えに山へいき、ウツギの枝で作り注連縄を張った鍵で山の神を引っかけて里に連れて帰るという風習があったといわれ、その時に唄われたという歌が、鳥居の脇に掲げられている
  鉤引き歌
   伊勢の銭金  大和の糸綿  加賀越前の麦米  比奈知の里に引き寄せよ 引き寄せよ  参って候 参って候


山神社・鳥居 
 
山 神

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