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小 宮 神 社
三重県伊賀市服部町中之坊
祭神--呉服比売命
                                                     2017.09.25参詣

 延喜式神名帳に、『伊賀国阿拝郡 小宮神社』とある式内社で、伊賀国二の宮と称す。
 社名は、諸資料には“オミヤ”とあるが、地元では“コミヤ”と呼んでいるらしい。

 JR関西本線・伊賀上野駅の南東約2km、駅の東方を南北に走る国道25号線沿いの東側に鎮座する。
 バス便があるようだが本数が少なくバス停・時刻など詳細不詳。駅からのタクシー利用以外に方法はない。

※由緒
 境内に何らの案内表示なく、また社務所不在のため参詣の栞等の存否も不明。

 当社に関する近世以降の主な古資料として、
*伊水温故(1684)
  小宮ノ社  服部村
  酒ノ君の霊地也  延喜式伊賀二十五座唯一 正二位
  二の宮と号す 服部氏の祖神也
  応神天皇御宇 呉国と漢国より絹織・綾延又糸綿を摘ひく賢女を渡。呉国より渡を呉服(クレハ)、漢国より来るを漢服(アヤハ)と云。・・・漢服は漢姓、呉服は秦姓也。・・・此部の先祖酒君也。此人阿拝郡を領するが故に其住所をさして服部と名付けし諸説に見へたり。・・・
  風土記に云 小宮大明神并狭伯大明神 共に服部氏の祭る所の祖神也

*神名帳考証(出口延経・1733)
  小宮神社  国志云 小宮社服部村に在り 酒君也 

*三国地誌(1763)
  服部村に坐す 俗伝に云 いま諏訪大明神と称する是小宮なり 牛頭天王と称するも是狭伯なりと 

*神社覈録(1870)
  小宮神社  服部郷服部村に在す 当国二宮也  
  残編風土記に云 服部里に神有り小宮大明神并狭伯大明神と号す 共に服部氏の祖を祭る所也

*神祇志料(1871)
  小宮神社 今服部村にあり 小宮明神と云 又服部氏祖神と云

*伊賀国阿拝郡誌稿本(時期不明)
  小宮神社  本郷服部村の中央字中之坊に在り 呉羽比売命・建御名方命・大日靈命を祭る 創建年月詳ならず

*伊乱記(1897)
  服部の里に小宮の社とて延喜式二十五座の霊神まします。是酒の君の霊祠なり
などがあり、ほとんどが当社は服部氏がその祖神(酒君)を祀った社という。

 これに対して三重県神社誌(1919)
 按に、式の小宮神社を以て服部氏祖神の祠なりとは伊水温故に始まり 三国地誌に至りて服部村の諏訪大明神を以て其の社に擬し 以後全く定説となれるの観あり
 されど 小宮神社を以て服部氏の氏神と為せるは 小宮(オミヤ)を以て麻績(オミ)の宮と解し 服部氏に付会せるの形跡あり
 しかし服部氏と麻績氏とは其の出自を異にしたれば 小宮神社を以て服部氏の祖神と為すは如何あるべき
 但し後世其の職掌の類似に因りて彼比紛糾せりと解すべきか

 今の府中村服部は和名抄に見えたる阿拝郡服部郷にして 早くより服部氏人の蟠衍したれば 彼の諏訪大明神祠なるものも或は此の氏人の其の祖を奉祀せる所なるべけれど 之を以て式の小宮神社と為すは猶研究の余地有るに似たり

 又 秦の酒君が雄略天皇の御宇に太秦の姓を賜りたること 秦氏は元来外来の氏族にして其の出自の秦始皇なること 姓氏録の蕃別・秦氏に載せて詳なり されば服部の氏人が酒君に祈ると云ふことも聊か不条理なりと云わざるべからず
 されど 服部の地早く秦族の蟠衍せるもの 終に土着して一郷を成すに至れるならん 而して 秦氏の族 社を建てて其の祖・酒君を祀れりと解すべきが如し 而も彼の諏訪祠なるもの果たして酒君の祠也や否や 容易に断定下し難し
として(一部省略あり)、古資料の見解に疑義を呈している。

 当地名・服部からみて、服部氏が祖神を奉斎した神社とみるのが順当だろうが、その祖神が呉服比売命なのか酒の君なのか決め手を欠く。


※祭神
   主祭神--呉服比売命
   相殿神--建御名方命・大山祇命

*呉服比売命(クレハヒメ 又は クレハトリヒメ)
 諸資料には、呉服比売命は当社の祭祀氏族・服部氏の祖神というが、呉服比売命は、応神紀に
  ・37年春2月1日 阿知使主(アチオミ)・都加使主(ツカオミ)を呉に遣わして、織工女を求めさせた。・・・
             呉の王は縫女(ヌイメ)の兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ)・呉織(クレハトリ)・穴織(アナハトリ)の四人を与えた。
  ・41年春2月   この月、阿知使主らが呉から筑紫に着いた。そのとき宗像大神が工女らを欲しいといわれ、兄媛を大神に奉った。  
             あとの三人の女をつれて津国に至り、武庫についたとき天皇が崩御され間に合わなかったので、大鷦鷯尊に奉った。
             この女たちの子孫がいまの呉衣縫(クレノキヌヌイ)・蚊屋衣縫(カヤノキヌヌイ)である。
とある渡来人・呉織女を神格化したものと思われる。

 服部氏とは、新選姓氏録によれば、
 ・大和国神別(天孫)  服部連 天御中主命十一世孫・天御鉾命(アメノミホコ)之後也
 ・摂津国神別(天孫)  服部連 熯之速日命(ヒノハヤヒ)十二世孫・麻羅宿禰之後也  
               允恭天皇御代 織部司に任ぜられ諸国の織部を総領す 因りて服部連と号す 
の2系があるが、いずれも神別氏族であって渡来神である呉服比売命とは繋がらない。

 しかし、大和国・服部連の祖・天御鉾命について、神宮雑例集(鎌倉初頭・上古から鎌倉時代までの伊勢神宮に関わる雑記録集)
  「天照大神が高天原に坐せしとき、神部(カムハトリベ)の遠祖・天御鉾命を以て司とし、八千々姫を織女として織物を奉る」
とあり、
 摂津国・服部連が允恭天皇の御代に織部の司に任ぜられ、諸国の織部を統領した
とあることからみて、両服部連ともに織物に関係する氏族であり、為に、我が国に織物を伝えたとされる呉服比売命を祖神として加上したのかもしれない。

 因みに、近世の古資料で、当社祭神を天御鉾命とするのは特選神名牒(1876)のみで、呉服比売命とする資料はみえない。
 これについて、式内社調査報告(1990版)には
  「天御鉾命は姓氏録に服部連の祖神とみえており、ここが服部郷であるから、服部氏の一族がこの地に住みついて、その祖神を祀ったのであろうか。
  呉服比売命は応神天皇の御代にわが国に来た織工女であり、機織りの神として祀るようになったのかも知れぬ。
  現在、当社では呉服比売命と伝えているが、おそらくは天御鉾命あるいは呉服比売命を祭神としたものであろう」
とある。

 なお、摂津・服部連の遠祖・熯之速日命とは、書紀によれば、
 ・5段一書6--イザナギ命が后・イザナミ命に死をもたらしたカグツチを
  「腰にさげた長い剣を抜いて三つに断ち切ったとき、剣の鍔からしたたる血が神となった。名付けて甕速日命、次に熯速日命という」
 ・6段一書3--アマテラスとスサノオの誓約のとき、スサノオが生んだ男神5柱の一としてとして
  「スサノオの左の足の中から熯之速日命が生まれた」
という二つの生成譚がある。
 いずれも神格・事蹟・後裔氏族等は不明だが、摂津・服部連に熯之速日命云々とあることからスサノオの御子に連なる氏族かもしれない。

*その他の諸説
 ・園韓神--惣国風土記(近世初頭、信憑性は低く偽書ともいう)
 ・秦の酒公--伊水温故(1684)・神社覈録(1870)
 ・諏訪大明神--三国地誌(1763)

*園韓神説
  園韓神(ソノカラカミ)とは園神と韓神とを併せた呼称で、延喜式神名帳の宮中坐神三十六座のなかに
   『宮内省坐神三座 並大 月次新嘗  園神社 韓神社二座』
とある神で、応仁の乱頃(1467--77)まで宮中で祀られていたという。

 この2神の出自について、記紀等に園神の名はないが、韓神については、古事記・大年神の新裔の項に、「スサノオの御子・大年神(オオトシ)が、伊怒比売(イヌヒメ)を娶って生んだ5柱の神々の一」として韓神の名がみえる(この韓神と宮中に祀られていた韓神とは異なるとの説もある)

 この2神の神格は不詳だが、
 ・園神は大物主神、韓神は大己貴命・少名彦命で、疫神とする説--大倭神社注進状(1167)
 ・平安遷都以前の山城は渡来系・秦氏の勢力圏だったことから、秦氏が祀っていたのではないかという説
などある。
 出自・神格がはっきりしない園神・韓神を当社祭神とする根拠は不明で、この説は採れない。

*秦の酒公説
  秦酒公とは、雄略天皇15年条に、
  「秦の民が分散して各地の臣連に駆使されているのを嘆いた酒公が、親しく仕えていた天皇に訴え、天皇が秦の民を集めて酒公に賜った。酒公は集まった民に多くの絹布を織らせ朝廷にうずたかく積み上げた。よって禹豆麻佐(ウヅマサ)の姓を賜った」
との話があるように、渡来民・秦氏を統率した頭領という。

 この酒公を祭神とするのは、伊水温故に
  「小宮宮  酒公霊社  服部氏祖神也」
とあるように、酒公を服部氏の祖神とみてのことという。

 酒公が率いる秦民は、雄略16年条に
  「詔して、桑の栽培に適した国・県を選んで桑を植えさせられた。また秦の民を移住させて、そこから庸調が上がるようにされた」
とあるように、織物を以て朝廷に仕えたことから、その祖・酒公を、同じく織物に関与する服部氏に結びつけたものだろうが、伊乱記(1897)
 「服部といふに秦漢の二流あり。応神天皇の御宇に、呉国と漢国より絹を縫い機を織り綿をひく賢女に、酒の君といへる智人を差し添え渡しければ、天皇彼等を寵愛し給ひて殿宇を造りて住まし給ふ。
 酒の君は之を守護し、其の営む業を裁判して司る所の長なり。酒の君阿拝郡服部の里を領知して居住し服部とは称するなり。此の元祖は酒の君なり。
 此の里に小宮の社とて、延喜式二十五座の霊神まします。是酒の君の霊祠なり」
として、当社は酒君の後裔服部氏が奉斎する社という。

 しかし姓氏録で見る限り、服部氏は新鮮氏族であり、渡来系氏族である秦の酒君とは繋がらない。
 これについて三重県神社誌は、秦氏は外来の氏族であって、出自の異なる服部氏が酒公を祀るのは不思議だとしながらも、
  「服部の地は早く秦氏が盤踞して養蚕・絹織りの業に従へるを、服部氏来たりて統率し終に土着して一郷を成すに至れるならん。而して彼の秦氏の族社を建て、其の祖・酒公を祀れりと解すべきが如し」
というが、一つの見解であろう。

*相殿神の建御名方命とは信州・諏訪大社の祭神だが、それが当社に祀られるのは、伊賀地方に流布していた甲賀三郎伝承に関係するのではないかというが、詳細不詳
*同じく大山祇命は所謂・山の神だが、これも当社に祀られる由縁は不詳。山の神は水の神でもあることから、周囲の田畑を潤す水神として祀られたのかも知れない。

※社殿等
 国道東側に西面して立つ鳥居を入り、短い参道を進んだ先が境内で、社殿は南面して建つ。

 
小宮神社・鳥居
 
同・参道

同・境内全景
(左:本殿覆屋、右:拝殿) 

 境内中央に横長の拝殿が南面して建ち、内陣には、中央に小宮神社、左に狭伯社・春日社・津島社、右に蛭子社と金書した額3面が掲げられている。。

 
同・拝殿
 
同・拝殿内陣

 祭殿背後、玉垣で画された区画の中央に、拝殿からの弊殿で連なった本殿覆屋が建ち、中に本殿が鎮座している。
 本殿は正面が見えるだけで、一間社流造らしいが確認不能。

 
同・本殿覆屋
 
同・本殿正面

 本殿の左右に覆屋2宇が建ち、それぞれに小祠が鎮座している。
 社頭に社名の表示はないが、拝殿の神額からみて左が狭伯社・春日社・津島社合祀殿、右が蛭子社であろう。

 
狭伯社・覆屋
 
狭伯社・小祠
 
蛭子社・覆屋
 
蛭子社・小祠

 境内社・狭伯社(サハク)及び蛭子社について、三重県神社誌には次のようにある。
 狭伯社
  祭神  建速須佐男命・天児屋根命・少名彦命
  由緒  明治39年5月28日 許可を受け 大字服部字夏ハラの無格社狭伯社・同境内社粟島社を小宮神社境内に移転合祀し、同時に小宮神社境内社津島社 並びに大字服部字中ノ坊の無格社春日社を合祀し、狭伯社と単称せり
  建速須佐男命--二座合祀 一座は小宮神社境内社・津島社、一座は字夏ハセの無格社狭伯社の鎮座なり
  天児屋根命--字中ノ坊の無格社春日社の祭神なり
  少名彦命--無格社狭伯社の境内社粟島社の祭神なり

 恵美寿社
  祭神  蛭子神
  由緒  不詳

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