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大 村 神 社
三重県伊賀市阿保
主祭神--大村大神
相殿神--武甕槌神・経津主神・天児屋根命
                                                        2018.03.28参詣

 延喜式神名帳(927)に、『伊賀国那賀郡 大村神社』とある式内社。

 近鉄大阪線・青山駅の南東約600m、阿保集落東端にある小丘(宮山・H≒50m)の頂上に鎮座する。

※由緒
 社務所に置かれていた由緒略記には、
  「大村神社は延喜式神名帳に載っている古社で、主神の大村の神は、阿保氏族に始祖・息速別命と申し、今から凡そ二千年程前の神様で、第十一代垂仁天皇の皇子で、伊勢の神宮を奉鎮せられた倭姫命の弟君にあたられます。
 当社の鎮座する阿保村は伊賀東南部に位置し、古くは奈良・京都から青山峠を越えて伊勢・東国に抜ける街道の要衝で、阿保頓宮も置かれていました。
 又、当社の鎮座する地は、息速別命の宮室が築かれていたと伝えられています。
 大神様はこの地域一帯を開発・開拓された土地の守り神として、また地震除災の大神様として古今御神威を発揮され、多くの人々の信仰を集めています」
とあり、

 社頭に掲げる案内には、
  「当社は延喜式神名帳所載の古社で、御祭神・大村の神は第11代垂仁天皇の皇子で、伊勢神宮を奉鎮せられた倭姫命の弟君にあたる。
 社域は宮室の築かれたところで、命及び御子孫が代々居住し、大和文化の移入、土地・産業の開発に尽くされ、伊賀南部一帯の総社として広く崇敬をあつめている。
 相殿奉祀の武甕槌神・経津主神は、神護景雲元年(767)に常陸下総国より三笠山御還幸の途次に奉斎。共に奉斎された要石は、土地の鎮め地震除災の信仰をあつめている」
とあるが、いずれも創建由緒・年代等については不記載。

 当社に関する近世以降の古資料として次のものがある
*伊水温故(1684)  大森実は大村社  阿保上町
  鹿島大明神・武甕槌命也  当社は下津七郷の氏神也 風土記には大村社神は由気忌寸と云
*三国地誌(1763)  大村神社
  延長風土記曰 伊賀郡大村里に神有り 大村明神と号す 国造由気忌寸祭る所也
  阿保町杜(モリ)に坐す故に俗称を大森社と云う 鹿嶋香取枚岡の三座を祀る 北面に坐す
  神護景雲3年11月 鹿嶋より遷座 永正年間森の里より出て回禄 又天正の頃火に罹る 同15年造営の上梁文あり
  正殿の右神明の祠・姫大神を祀る 左若宮・天押雲命を祀る 又南に八幡宮あり 是地主神なりと云
*伊賀考
  鹿嶋明神武甕槌命 48代称徳帝・神護景雲元年6月21日 鹿島を立ちて伊賀路に至り 壬生の里中山を越え 酒解の御廚にやすらひ 北山村の宮地に暫く滞在 阿保の大村社に滞在 夏見に遷り 同年12月7日薦生の中山に宮居し 明年正月9日大和国安倍山に遷座し 同年11月9日三笠山に垂迹し玉ふと也
*三重県神社誌(1919)
  本社は下津七郷氏神にして神護景雲元年大和春日神社を常陸国鹿島より勧請時の神蹟にかかる 
  之を伝説に徴するに 伊勢より伊賀に入り壬生野郷及び酒解御廚北山上津社の地を経て 本社の地に止り給ひ
  夫より夏見郷薦生中山を経て大和に入りししが如しと 此の事果たして正確なる事実として認め得べきや否や擬多し
  本社に武甕槌・経津主・天児屋根の三神を配祀するは 此の地が奈良春日神社の神領たりし関係に因るにはあらざるか

 いずれも、当社は奈良・春日大社の祭神・武甕槌命が常陸国より遷座したとき、一時当地に留まったことに因んで創建されたというが、これはあくまでも伝承であって、これが当社の創建由緒かどうかは不詳。

 当社の創建時期について、由緒略記は「今から凡そ2000年前」というが、弥生中期にあたる2000年前に神社があったはずはなく、創建時期は不明だが、当社に対する神階綬叙記録として
 ・貞観5年(863)3月16日 伊賀国正六位上大村神に従五位下を授く
とあり、9世紀に当社があったことは確かといえる。


※祭神
   主祭神--大村大神
   配祀神--武甕槌命・経津主命・天児屋根命
   合祀神--応神天皇・大日靈貴命・天押雲命・市杵島比売命・大物主命・大山祇命・事代主命・火之迦具土命
          ・建速須佐之男命・多岐理毘売命・狭依毘売命・多岐都比売命・水波能売命・宇迦能御魂神
          ・速玉男神・月夜見命・稲田姫命

 主祭神・大村大神は垂仁天皇・皇子・息速別命(イコハヤワケ・書紀では池速別命)とされ、この皇子は新選姓氏録に
 ・右京皇別  阿保朝臣 垂仁天皇皇子息速別命之後也
    息速別命幼弱の時、天皇皇子の為に伊賀国阿保村に宮室を築き、以て封邑と為す。
    允恭天皇(5世紀中頃)の御代、居地の名を以て阿保君の姓を賜る。
    廃帝(淳仁天皇)天平宝宇8年(765)、改めて朝臣の姓を賜る
とある皇子で、
 続日本紀には、桓武天皇・延暦3年(784)11月、武蔵介・従五位上建部朝臣人上が、
  「我らが始祖・息速別皇子は伊賀国の阿保村に赴いて居住し、允恭朝に及んで、皇子4世の孫・須禰都斗王(スネツト)に、住んでいる地名に因んで阿保君の氏姓を賜り、その子孫の意保賀斯(オオカシ)が武芸に秀でていたので、雄略朝の時に建部君を賜りました。
 これは功績を表彰する意味であって、居住地に応ずる賜姓ではありませんので、本に返して名を正し阿保朝臣の氏姓を賜りますように」
と上奏し、これを許された。
との記録がある。

 このように、伊賀市阿保の地は息速別命の子孫等が居住していた地であり、その阿保君(後に朝臣)一族が、その始祖・息速別命を祀ったのが当社とみるのが順当と思われる。

 しかし、近世の古資料には、祭神を武甕槌命・経津主命・天児屋根命即ち春日三神とするものが殆どで、それは、上記のように、春日大神が常陸国より大和国へ還幸した途上、当社に暫時留まられたという伝承によるものであろう。

 また、当社が所蔵する天正15年(1587・安土桃山時代)の棟札には
  表--奉遷宮鹿嶋大明神造宮者也  天正十五年・・・ 当所七郷庄屋年寄
  裏--当社勧請之年代 神護景雲元年冬霜月朔日 常陸国鹿嶋社ヨリ武甕槌神経津主神二神御影向奉成者也・・・
とあって、大村大神あるいは大村大明神の名はみえず(元和7年-1621・安永7年-1778の棟札も同じ)、中・近世における当社は春日大神を祀る神社として知られていたことが窺われる。

 当社が春日三神を祀るのは、当社(当地)と春日大社との間に何らかの関係があったからと推測されるが、古代の当地に石清水八幡宮・伊勢神宮の神領があったとの資料はあるものの、春日大社神あるいは興福寺との関係を示唆する資料はないという。
 ただ、阿保の地に隣接する名張郡には、鎌倉期以降 春日信仰が広まっていたといわれ、それが当地にも伝播していたのかもしれないが(当社の西方名張市夏見には、この地方で最初に春日四神を祀ったという積田神社がある)、それとしても、当社に春日三神が勧請されたのは神護景雲年間ではなく、鎌倉期以降かもしれない。

 なお、当社主祭神に関しては、息速別命以外に次の2説がある。
*大名草命説(オオナグサノミコト)
  大名草彦命とは、新選姓氏録に
    和泉国神別  大村直  紀直同祖  大名草彦命男・枳弥都弥命(キミツミ・君積命とも書く)之後也
とある大村直の祖神という。
 これを祭神とするのは神名帳考証(度会延経・1733、伴信友・1813)で、そこには
  大村神社 今大森社と云 阿保町に在
  (祭神)大名草彦命  姓氏録云、大村直 紀直同祖 大名草彦命男・枳弥都弥命之後也
とある。

 両考証は、大名草命の後裔である大村直(オオムラノアタヒ)との氏族名が、当社社名・大村と同じことから、当社の奉斎氏族を大村直一族とみて、その祖神を祭神とみたものだろうが、大村直一族が当地に居たことを証する史料・伝承等はない。
 なお三重県神社誌は
 「阿保訓じて“アヲ”と云ひ 約して『ヲー』と為れば 大村は阿保村なるべく 必ずしも大村直に付会するの要無かるべし」
という。

*由気忌寸(ユキノイミキ)
 由気忌寸を祭神とするのは、伊水温故で、そこには
   延喜式伊賀25座の随一  由気忌寸を祀り 大村社と称す
   此の宮地は忌寸の宮構なるを 鹿嶋来現より武雷の本社となり 忌寸は摂社となる 猶謬して忌寸を八幡と号す
として、武甕槌命を祀る以前は由気忌寸一族がその祖を奉斎する社だったが(由気忌寸とは、忌寸の姓をもつ由気氏だったと思われる)、春日神勧請によって摂社におとしめられたという。
 しかし、由気忌寸は新選姓氏録にもみえない出自不明の氏族で、且つ当地に由気忌寸に関する史料・伝承などもなく、これを祭神とする由縁は不明。
 なお忌寸とは、天武天皇13年に制定された八色の姓のひとつで第4位にあたるが、主に、地方の国司・郡司クラスの有力豪族、特に渡来系氏族に与えられた姓というから、由気忌寸も渡来系氏族だったのかもしれない。

 なお、合祀神は明治末の神社整理合祀政策によって近傍の小社を合祀したものであろうが、詳細不明。

※社殿等
 道路脇の一の鳥居から西参道の石段を上り、二の鳥居を入った先が境内。(東・南からも参道あり)

 
大村神社・一の鳥居
 
同・二の鳥居

 境内正面に、大きな唐風破風付き向拝をもつ入母屋造の拝殿が、その奥に本殿が北面して鎮座する。
 本殿の建築様式は春日造らしいが、塀が高く茅葺きの屋根が見えるのみで詳細は不明。

 
同・拝殿
 
同・本殿

◎宝殿
 本殿の右に朱塗りの社殿・「宝殿」が見える。
 傍らの案内には、
 「(国指定)重要文化財 大村神社宝殿
 天正15年(1587)再建の元本殿である。一間社入母屋造妻入り・桧皮葺・向拝一間の社殿で春日造に近い。
 木組みは簡素ながら形状がよく整い、彫刻は桃山時代の建築美の特徴をよく現し、彩色は江戸時代初期のものである。
 昭和30年・解体修理、平成8年・大修理を行った」
とある。
 本殿域周囲の壁が高く、建物の上部が見えるだけで全貌は見えない。


同・宝殿 
 
同左(栞より転写)

◎要石社(カナメイシ)
 拝殿の西にある小社で、その左に要石と刻した楕円形の石があり、その前にナマズの彫像が置かれている。
 参詣の栞には、
 「地震守護 要石
 境内に要石が奉斎されています。創祀は神護景雲元年(767)、相殿奉祀の武甕槌命・経津主命は常陸下総から三笠山遷幸の途次、当社に御休泊、要石を奉鎮されました。この上石は大地をしっかり護ってくださる有り難い霊石です。
  ゆるぐとも よもやぬけまじ要石 大村神のあらんかぎりは
 この呪文は古くから伝えられ、地震守護を願う人々のあいだで唱えられてきました。
 御霊験は著しく、安政元年伊賀上野大地震には、不思議とこの地方は難をまぬがれたと伝えられています」
とある。

 地震とは、大地の下で大ナマズが動くことで起こるが、鹿島大明神(武甕槌命)が大石を以て大ナマズを押さえ込んでいるとの俗信があり、当社相殿に武甕槌命を祀ることからの奉斎であろう。

 
要石社
 
要石とナマズ

◎虫喰鐘
 本殿東裏(本殿域外)に古い鐘楼が建ち、傍らの案内には、
 「虫食の鐘(ツリガネ)  宮坊(神宮寺)禅定寺の梵鐘  日本三大奇鐘の一つ
 鐘の中に鋳込まれた古鏡一面は、大和国葛城の豪族の娘の愛用であった。
 或る夜、鐘を守る若い寺僧の枕辺にその娘の女霊が現れ、その時から鐘乳がぼろぼろと虫が食ったように落ちだしたと言われる」
とあり、現在も除夜の鐘として使用されているという。
 鐘楼内の梵鐘をみると、上部に並ぶ乳(半円形の突起)の大半がその形(突起)を留めていないように見えることからの伝承であろう。

 
鐘 楼
 
虫喰鐘

 当社が鎮座する阿保の地は、古代の初瀬街道がとおり“阿保宿”が置かれた地といわれ、阿保集落への入口(橋のたもと)に「初瀬街道 阿保宿」との表示がある。

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