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積 田 神 社
三重県名張市夏見
祭神--武甕槌命・天児屋根命・経津主命・姫大神
                                                         2018.03.28参詣

 近鉄大阪線・名張駅の東約1.2km、駅東から東南方・沖津藻北詰交差点を左折(東へ)、名張川沿いの県道691号線(名張街道)を道なりに東進、夏見橋北詰交差点を右折、橋を渡ったすぐの左手(東)に鎮座する。式外社。
 社名は“セキタ”と称する

※由緒

 社務所に置かれている「参詣の栞」には、
  「由緒  当積田神社(セキタ)は、又の名積田(ツムタ)の宮と云われ、今から約1240年前の人皇48代称徳天皇・神護景雲元年(767)6月21日、鹿嶋大神(武甕槌命)が常陸国鹿島(現鹿島神社)より大和国春日大社に御還幸の途次留在された霊蹟にして、 
 古書に伊賀の国名張郡夏見郷御成(オナリ)の宮 或いは宇成神社(ウナリ)とあるのは即ち是である。爾来、この神社が南都春日大社奥宮といわれる所以である」
とあり、参道の途中に「南都春日大社奥宮」の石柱が立っている。

 当社は、神護景雲元年(767)、春日大神(武甕槌命)が常陸国鹿島から大和国春日への還幸の途上、一時当地に留まったとの伝承にもとづいての創建という。

 近世以降の諸資料には、伊水温故(1684)が記す
  「人王48代称徳天皇御宇神護景雲元年6月21日に、武甕槌命常陸国鹿島より御住所尋ね出させ給ふ 白鹿に乗じ榊を鞭とし 御手に法相維識を捧げ 鞍の上に榊立て 之の上に五色の雲有り その中に形をあらわし 常陸を出る 
  阿保大村の社より当社に遷り給ふ 従ひ来るは時風秀行二人の連なり 舎人は乙野丸 神護景雲元年の夏より冬まで此宮に留まり給ふ」
との由緒と殆ど同じことが記されている。

 これらを承けて三重県神社誌(1926)
  「称徳天皇神護景雲元年 常陸鹿島の神を南都に勧請す。是後の春日神社なり。
  而して其の途上伊賀国名張郡夏見郷なる一之瀬に祓除のこと諸書に著し。
  本社は其の遺跡にかかり 当年祓除の渓流は今猶社域の右を流れて一之瀬の地名を存し 大神還幸の時 鞭とし給へりと称する神柿(榊)は社の後に在りて庶民之を畏敬す。(中略)
 故に 奈良の春日神社に於ては 古来 本社を奥宮と称し 社司の参拝するもの少なからずと云ふ」
とある。

 これらの元となるものは、春日大社に残る春日社記(群書類従17巻所収)にある
  「神護景雲元年6月21日 伊賀国名張郡一瀬河にて御沐浴 鞭を以て験として立てたまふ木に成りつく
  其より以後 同国薦生中山(コモオナカヤマ)に数ヶ月御(ハベル) (中臣)時風・秀行等に焼栗一を賜て云 汝等子等断絶無く我に仕へれば 栗植へしば必ず生付べし 即生付了 之に因り始めて中臣植栗連(ナカトミエグリノムラジ)と号す 
  同年12月7日 大和国城上郡安倍村に御座 同2年三笠山御垂迹」
との記述で、ここでいう名張郡一瀬河とは当地のこととで(名張川沿いに一瀬との地名ありというが、今、小字名の確認は不能)、薦生中山とは現名張市薦生の辺り(今、中山神社・祭神:春日四神あり)という。
 ただ、春日社記との古文書は鎌倉時代に成立した偽書ともいわれ、その信憑性は低いという。

 中世以降の名張一帯には春日信仰が広まっていたというが、それ以前、平安時代には東大寺・伊勢神宮の荘園が広がっていたが、平安末期から鎌倉初期にかけての混乱期に勢力を衰退させ、鎌倉時代になると、代わって春日信仰が伸張したといわれ、そういう背景をうけて創建されたのが当社で(とすれば、創建も鎌倉時代となる)、おそらく この地方に始めて春日神を祀った神社ではないかという。

※祭神
  主祭神--武甕槌命・天児屋根命・経津主命・姫大神
  合  祀--五男三女神・伊邪那美命・天押雲命・建速須佐之男命・火之迦具土命

 武甕槌命以下の春日四神--上記由緒によるもの
 五男三女神以下の合祀神--明治末期の神社統合令により、同40~41年にかけて近傍の小社を合祀したもので、三重県神社誌によれば
  ・五男三女神--村社・八柱神社の祭神
    三重県神社誌に「本社は明暦年中(1655--58)の再興の社にして、宗像の三神に天之忍穂耳命を合せ祭り四社明神と称せしが、何れの時よりか八王子社と称するようになった」とある。
  ・伊邪那美命--八柱神社境内社・熊野神社の祭神
  ・天押雲命--八柱神社境内社・若宮神社の祭神
  ・建速須佐之男命--大字中知山の無格社・津島神社の祭神(津島社本来の祭神は牛頭天王だったと思われる)
  ・火之迦具土命--大字中知山の無格社・愛宕神社の祭神
という。

※社殿等
  道路脇の朱塗りの門を入ってすぐに一の鳥居が立ち、長めの参道の先・二の鳥居を入った先が境内。

 
積田神社・参道入口
 
同・一の鳥居
 
同・二の鳥居

 境内正面に、入母屋造・瓦葺き、唐風破風付き向拝を有する拝殿が建ち、その奥、弊殿を介して春日造・銅板葺き・朱塗りの本殿が鎮座する。

 なお、本殿の右に小祠があるが、社名・祭神・由緒等不明。
 三重県神社誌によれば、当社には元石神社と称する祠で、明治41年に近傍10社を合祀して「十柱神社」(天火明命他)と改称した社があるというから、この小祠は十柱神社かもしれない。

 
同・拝殿
 
同・本殿
 
不明祠

◎鏡池社
 参道の途中・左手に鳥居が立ち、前に「鏡池社」と刻した自然石の石標が立ち、疎林の奥・名張川(供奉川)の畔に、川に向かって「鏡池社参拝所」の鳥居が立つ。

 参詣の栞には、
 「白鹿に乗られ柿の枝を鞭とされ、供奉の社司・時風秀行(トキフウヒデユキ)と舎人・紀乙野麿(キノオトノマロ)を従えて、鏡池(鹿島大神御還幸の際、宮地を訪ねられたとき、御神影が映ったという池)で始めてここで休まれてから、一之瀬で沐浴され、次に宮橋を渡り、本社に鎮座されたといわれる」
とある。

 鏡池について、参詣の栞には「当社の裾を流れる供奉川(名張川)を隔てた対岸にある小さな池」とあり、名張川から別れた小川の先にあるらしいが、参詣所からは、一之瀬のおもえる処は見えるものの鏡池は樹木に隔てられて見えない。
 鏡池社とは、栞にみえる写真の“鏡池の上にみえる小祠”かと思われるが、これも実見不能。 

 
鏡池社・鳥居
 
鏡池社参拝所
 
鏡 池(栞より転写)
(中央の岩上に見える小祠が鏡池社か)
 
名張川(一之瀬か)

 鏡池社鳥居を入った左手に巨大な石灯籠(右写真)が立ち、周りに鹿の彫像数頭が立っている。
 参詣の栞には
 「鹿と寄せ灯籠
   神様が白い鹿に乗って鹿島神宮から御遷幸の言い伝えがあり、今も大切に崇められている。
   寄せ灯籠は、自然石を使った見事な大灯籠である」
 とあるが、何故“寄せ”というかは不明。


 なお、本殿後ろの疎林の中に、武甕槌命が鞭とされていた柿の枝が根づいたとの伝承をもつ、「神柿」(カミガキ)と称する柿の大木があるそうだが、社殿背後の疎林中には入れず実見不能。

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