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宇流富志禰神社
三重県名張市平尾
祭神--宇奈根神
                                                   2018.03.28参詣

 延喜式神名帳に、『伊賀国名張郡 宇流富志禰神社』とある式内社。
 社名・宇流富志禰(祢)はウルフシネと読むが、宇流富士彌(弥)と書いてウルフシミとする資料もある。

 近鉄大阪線・名張駅の南南西約350m、名張市中心市街地の南端の名張川右岸に鎮座する。

※由緒
 社頭に立つ案内石版(以下、石版という)には
  「当社は延喜式内・国史現在社にて、主祭神・宇奈根命は神武建国の始め、一国の瑞穂と氏族の安泰を祈願するために祭祀される。

 天正伊賀の乱にて沿革誌等兵火に遭い焼失するも、古文書によれば、貞観15年(873)宇奈根神従五位とあり、後神位階昇進し、永徳元年(1381・北朝年号)従一位に昇進(神園大暦に見ゆ)、天武天皇3年(675)圭田(神田)42束4ヶ所を以て祭祀するとあり、文徳天皇仁寿元年(851)官弊をうけ国司より幣帛を賜るとある。

 鎌倉幕府開府により廃止となるまで歴代崇敬篤く、その後、松倉豊後守勝重公(1585)及び藤堂高吉公伊賀国に移封(1635)領主とし尊敬篤く神威高昴社勢整い、明治14年(1881)県社の社格を受け、明治40年(1907)付近村落の14社を合祀し、郷土の鎮守神として親しまれ信仰されて現在に至る」
とある(社務所不在のため詳細不明)

 また当社公式HPには
  「由緒として、当社は天正伊賀の乱で、社殿はもちろんのこと宝物や古文書など、すべて焼き討ちのあい焼失された。
 したがって、記録的なものは残されていないが、本殿の境内地に元久2年丑(1205)の銘が入っている石灯籠があり、元和2年(1616)12月20日の棟札があり、この年に再建されたものと思われる。

 崇神天皇の時、“倭姫・神宮鎮座記”に伊賀・隠市守宮(ナバリイチモリノミヤ)二年奉斎とあり、これによって当社にも倭姫の巡行があったことが記されている。

 また三代実録によれば、清和天皇貞観15年(873)9月27日に“宇奈根神 従五位上”とあり、その後徐々に位を上げ、円融天皇・永徳元年(1387)辛酉2月24日従一位を授かる。

 天武天皇の時(673--86)、圭田42束四カ所の神田をもって祭祀し放生会を行われ、官弊の奉幣を受けること11回に及ぶ。

 また後に、伊賀の領主である筒井定次の重臣・松倉豊後守勝重が名張に着任し神領を寄進され、また寛永13年(1636)に藤堂宮内少輔高吉により更に神領を寄進された。
 その後、祭祀には乗馬が出され、累代崇敬の社にして、以来、名張の氏神として崇敬され現在に至っている」
とあるが、いずれも創建由緒・時期等については記されておらず、当社の由緒・沿革等ははっきりしない。

◎社名について
 今の当社は社名・宇流富志禰を“ウルフシネ”と訓しているが、神名帳・享保3年本(1723)には“ウナネノフシミ”と、同じく吉田家本(鎌倉時代)には宇流に“ウナネ”との訓みが付されているという。

 また、三代実録(901)の神階綬叙記録には、
 ・貞観3年(861)4月10日--伊賀国正六位・・・宇名根神に従五位下を授く
 ・ 同 15年(873)9月27日--伊賀国従五位下・・・宇名根神に従五位上を授く

 更に、平安中期の東大寺文書の一つ、享保3年(966)4月2日付けの古文書(伊賀国夏見郷刀祢等勘申案)には、
  「伊賀郡夏見郷刀祢等 宇名根社祝磯部 伊賀忠光・志貴重則」
との署名があり(刀禰とは神官を指す)、これらのことから、平安時代の当社は宇名根社(ウナネ)と称していたらしい。

 宇流は“ウル”とは読めるものの“ウナネ”とは読めないが(新訂増補国史大系本には「未だ其の拠る所を知らず」とあるという)、宇流をウナネと読む根拠として、神名帳考証(113・伴信友)は、
  「旧訓ウナネフシミ。もと宇奈泥富志弥とありしを、“奈”を脱し“泥”を“流”に誤りて、旧訓は残りたるか」
として、写本転写の際に表記を誤ったものの、読みは元のまま残ったという(近世の資料・神社覈録にも「宇流は宇名禰と読むべし」とある)

 また、今の当社は宇流富志禰(宇流富志祢・ウルフシネ)と称しているが(明治に入って正式社名とされたという)、宇流富志彌(宇流富志弥・ウルフシミ)とする資料もある。
 富志禰・富志彌は、禰(祢)と彌(弥)の部首が異なるだけで誤記・誤読が起こりやすく、どちらが正しいかをめぐっては論議があるが、いずれとも決していない。

◎鎮座地
 今の当社は、名張市街地の南を西流する名張川の右岸(北側)に鎮座するが、三重県神社誌(1919・大正8)によれば、
  「口碑によれば、宇奈根神は本社社域の南東隅なる鮎取淵(今云、古出井)に臨める巨岩(弁天岩)の上に鎮座し、“なはり社”又は“みなり社”と称せしを、後今の所へ奉遷せり」
という。

 今の名張川は、当社南を西流して名張市街地を囲むように西から北へと大きく迂回しているが、昔は巨岩の辺りで屈曲北流して名張集落へと流れていて、その屈曲点という地形から氾濫による水害が繰りかえされていたといわれ、そこから“氾濫源となる巨岩の上に鎮座する当社は、名張川の神の怒りを鎮めるために祀られたのではないか”という。

 二の鳥居脇の狭い坂道を下り県道80号線を左(南)へ回り込んだ道路(名張街道)の川側に「岩祭り 弁天岩由緒書」との立て札が立ち、そこには
 「此の処は、宇流富志禰神社の初めての鎮座地であり、崇神天皇66年倭笠縫の里より御遷幸の途次駐簾になった処にして、俗称弁天岩と称した処であります。
 址神護景雲元年、鹿島の神が奈良に御遷幸の途次、一時御駐簾の旧地でありましたが、その後、現在地に御奉斎申したのでありますが、此の境内地が一部道路になるにつれ、お祭りの斎場も道路となり、跡地のみを残して玉垣を造り保存してきました。
 しかし、この由緒を知る氏子も少なくなり、又旧6月16日は名張の大休み(休日)として酒を持ってお祭りしたが、今はすたれ大休も無く、その由緒を知る人も少なくなったので、永久的保存と一般に知って貰うために略記しました」
とあり、
 三重県神社誌(1926)にも
 「毎年6月16日、岩祭とて簗瀬各町休業して之を祭るの古例ありと云ふ」
とある。

 昔は社域内だったようだが、今は川沿いの道路によって分断され社域外となったもので、三重県神社誌には「社域の南東隅」とあるが、現地は“西南方”にあたる。

 道路と川との間の土手には雑木が生い茂った藪地となっており、道路から岩はほとんど見えず(岩上部らしい一部がみえる程度)、右手の小屋脇から下りた用水路(名張川から集落方へ分水された用水路)対岸から高さ3m程の巨岩を見ることができる。
 (境内で作業をされていた御老体にお尋ねして案内してもらった)

 
弁天岩(道路から)
 
弁天岩(用水路対岸より) 

◎創建時期
 当社創建時期について、石版は、「神武建国の始め、一国の瑞穂を祈願する為に祭祀された」というが、記紀では神武建国は紀元前660年(弥生時代中期)とされ、その頃に神社が存在したというのはありえず、また神武天皇の存在そのものも疑問視されていることから、この創建時期は文飾とみるべきであろう。

 HPには、「天武3年(675)に圭田(神稲)42束を以て祭祀をおこなう」とあり、何らかの社殿(あるいはそれに類するもの)があったことを示唆するが、天武紀にこれに関連するような記事はみえない。
 また、「文徳天皇・仁寿元年(851)に官弊を受け云々」というが、これは、文徳実録・同年正月庚子の日に「天下の諸神、有井無位を問わず正六位上を授けよ」との勅を指すと思われ、当社名指しでの綬叙記録ではない。
 しかし、10年後の貞観3年(861)に従五位下の神階を受けていることから、当社が9世紀に実在したのは確かといえよう。

 なお当社HPには、「崇神天皇の御代、倭姫・神宮鎮座記に云々」とあるが、これは、アマテラスの鎮座地を求めての諸国を巡幸(垂仁紀25年条)を記す倭姫命世紀(ヤマトヒメノミコトセイキ)との文書に
  「64年丁亥、伊賀国隠市守宮(ナバリイチモリノミヤ)に還幸し、2年間奉斎」
とあるのを承けて、倭姫が奉斎するアマテラスが2年間滞在したという隠市守宮を当社に比定したもので、これによれば、当社は垂仁朝にあったことになる(HPは崇神朝というが、倭姫巡幸は垂仁朝に記載)
 しかし、古墳時代前期とされる垂仁朝に神社があったとは思われず、且つ、倭姫命世紀との文書は、13世紀末、伊勢外宮の神官によって編された偽書(神道五部書の一書)といわれ、この記事は伝承の一つであろう。
 ただ、名張市内には、当社以外にも隠市守宮比定地と称する神社が4社ほどあり、当地には倭姫命(アマテラス)の伊勢還幸にかかわる伝承が残っていることが窺われる。


※祭神
 石版には
  主祭神--宇奈根神
  配祀神--天照大神・武甕槌神・経津主神・天児屋根神・姫大神(春日四神)
とあるが、明治末の神社統合令によって、近傍各社から応神天皇・仁徳天皇・大物主命・火之迦具土命・宇迦之魂命・健速須佐之男命を合祀したという。

 この主祭神名は、国史の神階綬叙記録にいう宇奈根神を祭神名と解してのものだろうが、宇奈根神を以て祭神名と定めたのは明治以降のことであって、それ以前は、“伊賀国道の記”との紀行文(1708)
  「それより ウナネの神社にまうづ 宮居ゆゆしく 三社たたせ給ひ ・・・」
とあるように、近世初期の頃にはウナネは社名と理解されていたと思われる。

*宇奈根神(ウナネ)
 ネット資料によれば、宇奈根神について、地元には
  「宇奈根命は水・穀物の神ですが、神社の御神体である赤岩が置かれている場所が、名張川の“うねりの側”にあることから、川がうねると稲穂がうねるが由来となって、ウナネにつながったと言い伝えられている。
 また、そこから更に“潤うふし水”(潤う伏水)という語源を元にして、宇流富志祢神社の名前へとつながっていった」
との伝承があるという。 

 しかし、川のウネリ→稲のウネリ(豊穣)は分かるとしても、ウネリがどう変化してウナネになったのかは不詳で、この伝承の意味はよく分からない。

 また、“潤うふし水”から社名・宇流富志弥(ウルフシミ)へと繋がったというが、これは、ウルフシミを、
  「ウルフ(潤ふ)+フシ(伏し)+ミ(水)」の合成語(「伏水によって うるおう」の意か)と解し、
 そこから、祭神を伏水(伏流水)の神、即ち水神とかんがえた説だが(志賀剛氏)
 これに対して、式内社調査報告は
 ・伏水をフシミと読んだ例はない
 ・名張川の旧河道は、本社の崖下から名張集落へと屈曲して流れていたから、その河道から用水を直接取水できたはずで、わざわざ伏水から取水する必然性はない
として、この説に疑問を呈している。
 なお、これは社名を宇流富志弥(ウルフシミ)としてのもので、社名が宇奈根富志祢(ウナネフシネ)であれば、この説は成立しない。

 ただ、宇奈根神については“水神”とする説が有力で、その根拠として
 ・延喜式・祈年祭祝詞に「宇事物頸根衝抜氐(ウジモノ ウナネ ツキヌキテ)・・・」とあり、頸根にウナネとの訓が付けられている
  頸根とは“ウナジ”即ち“首の付け根”を指す言葉で
  当社の旧鎮座地が、名張川屈曲点の先端にあったことから、屈曲点を首の付け根とみてウナネの名が生じたのではないか
 ・また、当社が名張川の屈曲点にあって、その辺りが水害等の発生源であったことから、名張川に坐す神の怒りを鎮めて、河道の安定を司る治水の神として、屈曲点にある巌上に祀られたのではないか
 ・その後、河道が安定して頻発する水害がおさまったことから、水神に農耕神(穀神)的神格が加上されたのではないか
という。

 なお、上記・享保3年の古文書にある「宇奈根社祝磯部」を「宇奈抵社・・・」であるとし、これを“ウナデ”と読み、ウナデが湿原を開拓して乾田とするための排水・給水を兼ねた人工の水路(用水路)であることから、宇奈根神は用水路の守護神ではないかとの説があったが、東大寺文書の再調査の結果“宇奈根社”(ウナネ)が正しいことが判明し、この説は成立しなくなったという。

 いずれにしろ、宇奈根神とは名張川に坐す水神であって、治水の神として祀られたというのが妥当かと思われる。

*春日四神
 平安時代の当社は宇奈根神社または宇奈根大明神と称していたが、近世になると、境内の石造手水鉢に
  「宇奈根  天和二戌年(1682) 春日大明神 伊賀国名張郡仲夏吉祥日」
とあるように、春日大明神もしくは春日社と通称されていたといわれ、式内社調査報告は
  「いつの頃からか、おそらく夏見の積田神社より勧請された春日四神が祀られるようになった」
という。

 積田神社(ツムタ)とは、当社の東約1.5kmの名張川左岸に鎮座する神社で(名張市夏見、式外社)、春日四神を主祭神とする。
 積田神社・参詣の栞にはには、
  「積田神社は、人皇48代称徳天皇の御宇・神護景雲元年(767)丁未6月21日、鹿島大神(武甕槌命)が常陸国鹿島より大和国春日大社への御還幸の途上留在された霊蹟にして、古書に伊賀国名張郡夏見郷“御成社(オナリ)”とあるのは、即ち是なり」
とあり(春日古記等にも同意文あり)、春日大神・武甕槌命が常陸から大和への還幸の途上、当地に立ち寄られたとの春日大神還幸伝承によるものという(別稿・積田神社参照

 平安時代の名張地方は、現名張市域を中心に東大寺領黒田荘(中心市街地の北西方に黒田の地名が残る)があったように東大寺の勢力圏であったが、平安末から鎌倉時代にかけての社会変動の中で次第に衰退し、それに代る春日大社・興福寺関係の寄人・神人らの進出に伴って春日明神信仰が広がったといわれ、御成社とも呼ばれる積田神社は、この地に始めて春日明神を祀った最初の神社ではなかろうか、という。

 当社が積田神社からの春日明神勧請かどうか、それが何時頃かなど不詳だが、室町時代から江戸初期にかけての頃であろうという。
 なお、積田神社所蔵の慶長5年(1600)の棟札に「宇奈根大明神」とあることから、この神社も宇奈根社と考えられていた時期があったと推測され、当社が積田神社から春日明神を勧請したのは、両社共に宇奈根社と称していたことが関係するのかもしれない。

*大物主命以下6神
 いずれも明治39年(1906)の神社統合令をうけて、明治40年から41年にかけて当社に合祀された近傍鎮座小社の祭神で、
  大物主命-金刀比羅社(下横川町)  火之迦具土命-愛宕社(松崎町他3ヶ所)  宇迦之魂命-稲荷社(瀬古手町他4ヶ所)  
  健速須佐之男命-八坂社(榊町)  応神天皇・仁徳天皇-八幡社(八町)
という。


※社殿等
 道路から石灯籠が並ぶ参道を進んだ先に鳥居が立ち、境内に入る。鳥居の右前に「宇流富志禰神社」との社標が立つ。


宇流富志禰神社・参道 
 
同・鳥居
 
社 標

 境内中央に千鳥破風を有する入母屋造の拝殿が、その奥、瑞垣に囲まれた中に春日造の本殿が西面して鎮座する。
 ただ本殿は、周りの塀が高くて屋根以外は見えず詳細不詳。

 
同・拝殿
 
同・本殿 

◎境内社
*興玉松尾神社
  拝殿の左に鎮座する境内社
  前に拝殿、その背後に、小さな鳥居をもつ本殿が鎮座する。

  社頭に案内なく詳細不明だが、三重県神社誌によれば、
  ・祭神 猿田彦命・応神天皇・大物主命・市杵島姫命・宇迦之魂命・火之迦具土命・建速須佐之男命・菅原道真
  ・当社は興玉神社と称したが、明治40・41年に当社境内社・近傍小社など8社を合祀して興玉松尾神社と改称した(大意)
とある。
 なお、松尾と称する所以は、明治末、酒造業者が京都の松尾神社から勧請したことによるものらしい。


興玉松尾神社・拝殿 
 
同・本殿

*鳥居を入ったすぐの左に小さな鳥居が立ち、その奥に小祠9社が鎮座する。
 ・山王社 
 ・八幡社
 ・合祀殿--(右から)市杵島姫社・八坂社・護国社・稲荷社・愛宕社・白玉社
 ・大神社(三輪社)
 いずれも明治39年の神社統合令による合祀らしいが詳細不明。


左:八幡社、右:山王社 

合祀殿 

大神社 

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