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陽夫多神社
三重県伊賀市馬場
祭神--建速須佐之男命
                                                     2017.09.25参詣

 延喜式神名帳に、『伊賀国阿拜郡 陽夫多神社』とある式内社。
 社名は“ヤブタ”と読む。

 JR関西本線・佐那具駅の北北東約2.7km、駅前から岩瀬川沿いに北上 、県道49号線に出て馬場集落の阿山小学校前を左(西)へ入った先に鎮座する。徒歩約1時間

※由緒
 頂いた参詣の栞(陽夫多神社由緒略記、以下「略記」という)には、
  「当社は、延長風土記に『押盾天皇戌午国造多賀連祭之也』(宣化天皇3年国造多賀連が之を祭る也)とある。
  和名抄・伊賀風土記によると、人皇第28代宣化天皇3年(538)、国中に疫病が流行したので、屏息祈願のため、伊賀国造多賀連が同年創建したとある。
  以来、病気平癒の御霊験あらたかなるをもって藩主の崇敬厚く度々寄進あり、又一般崇敬者の参拝多しと社記にあり。
  清和実録(三代実録)に高松神、延長風土記に藪田大明神の社号で記されている。
  又 古くより『河合の祇園さん』『河合の天王さん』と呼ばれ、氏子崇敬者から親しまれている」
とある。

 略記には宣化天皇3年の創建とあるが、これの傍証となる史料はない。古墳時代後期の6世紀前半に社殿を備えた神社があったとは思えず、何らかの伝承があったとしても、この創建年次には疑問がある。
 なお、ネットで検索した和名抄・伊賀風土記に、略記がいうような当社創建に関わる記述は見当たらず、「和名抄・伊賀風土記によると」との記述が確たるものかどうかは不明。

 当社名には幾つかの別称があったようで、古資料には
 ・三代実録・貞観3年(861)4月10日条
   「伊賀国正六位上・・・高松神・・・並びに従五位下を授く」
 ・ふち河の記(1473・一条兼良の紀行文)
   「王滝(現伊賀市河合付近)をたちて、かはい(河合)といふ所をとをる。ひとつ橋あり、高松宮は右の方にありてみやる。牛頭天王にてましますとかや」
 ・伊水温故(1687・江戸前期)
   「高松祇園社 陽夫多社延喜式 藪田社風土記
   藪田社 南向二社 牛頭天王・八大天王・素戔鳴命・大己貴命
   延喜式伊賀25社の随一  宣化元年国造多賀連祭之也風土記  藪田大明神」
 ・神名帳考証(1813)
   「藪田社二座 素戔鳴命・大己貴命 正二位 馬場村に在り  高松祇園と云ふ 宣化天皇元年 国造多賀連之を祭る」
 ・神社覈録(1870)
   「祭神 素戔鳴命 川合郷馬場村に在り 今高松祇園社と称す
    残編風土記に云 川合山 神有り 藪田大明神と称す
    宣化天皇御宇戌午 国造多賀連之を祭る」
などがあり、江戸時代までは主に高松社と呼ばれ、別称として高松祇園社・藪田社・川合社などがあったという。
 今、境内の手水槽には「藪田社」と刻している。
 (藪田社・川合社--鎮座地が河合川・鞆田川の合流点に近く荒蕪地・薮地であったことからの呼称  高松社--境内に高い松が生えていたからというが詳細不明)

 その高宮社が湯夫多社と社名を変更した時期・理由は不詳。
 明治に入って、阿拜郡河合郷にあって高松社あるいは川合(河合)社・高松祇園社などと呼ばれた当社を、神名帳に在阿拜郡とある式内・湯夫多神社に比定したものだろうが、その比定根拠は不詳。

 今の当社は、スサノオ命を主祭神として『河合の祇園さん』(参詣の栞・表紙)と称しており、上記古資料にも高松祇園社とあり、
 ・境内に残る神仏習合時代の名残である梵鐘(高1.59m・口径92.5cm)に、
   「伊州綾之郡河合村高松山
   牛頭天皇鐘国府  太守鎮護安泰 ・・・ 寛文七丁未(1667)暦三月上吉辰」
との刻銘があること(鐘楼横の案内板)
 ・当社所蔵の棟札に、
   「奉造立高松社牛頭天王棟上成就所也 寛永元年(1846)
とあることからみて、江戸時代までの当社(高松祇園社)は、スサノオではなく、防疫神・牛頭天王を奉斎する神社であったと推測され、その点からみて、当社が式内・陽夫多神社かどうかは不詳。

 
鐘 楼
 
梵 鐘


 当社の創建にかかわったとされる伊賀国造多賀連(国造多賀連)の出自・経歴等は不詳。
 当社の創建について、式内社調査報告(1990版)
  「当社が鎮座する川合郷には、かなり早くから阿閉氏の一族が移り住んで、この辺りを開拓したものと思われるから、当社はこれらの人々によって祀られたものであろう」
として、当地一帯に蟠踞していた阿閉氏一族が関与した神社であろうという。

 ここでいう阿閉氏とは、書紀・孝元天皇7年条に
  「皇子・大彦命は阿倍臣・膳臣・阿閉臣・・・・伊賀臣等すべて七族の先祖なり」
 新撰姓氏録に
  「右京皇別  阿閉臣  大彦命男彦背立大稲輿命(オオイネコシ)之後也」
とある氏族で、伊賀国阿拜郡(現伊賀市り)を中心とする一帯に盤踞した古代豪族を指すが、その阿部七族の中に多賀氏の名は見えない。

 なお、略記によれば、多賀連の前に“伊賀国造”(他資料では国造)とある。
 この伊賀国造について、先代旧事本紀(国造本紀)には
   「伊賀国造  成務朝の御世 (垂仁天皇)皇子・意知別命(オチワケ・落別命とも記す)三世の孫・彦伊賀津別命(ヒコイガツワケ)を国造と定めた」
とあるが、姓氏録以外に武伊賀津別命の名は見えず、この命と多賀連あるいは当地との関係は不明。

 ただ、伊賀国造の先祖は、意知別王の異母兄弟・息速別命であり、この命は病弱だったので皇位継承者から外され伊賀に宮を造って住んだ。その4世孫・須珍都斗王が阿保の姓を賜り(允恭朝)、その一族が伊賀国造を継承したとの説がある。
 伊賀国は始め伊勢国に属していたが、天武朝に至って分割されて伊賀国として独立したというから、このとき伊賀地方に蟠踞していた阿保氏が伊賀国造に任じられたのかもしれない(大化改新以前の国造は在地の有力豪族が任じられたという)
 ただ、この阿保氏と伊賀氏あるいは阿閉氏との関係は不詳。遠祖が異母兄弟ということから、何時の頃かに一体化したのかもしれない。

※祭神
  主祭神  建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)
  相殿神  五男三女神・天之火明命(アメノホアカリ)・火之迦具土神(ヒノカグツチ)・香々背男命(カガセオ)・大物主命(オオモノヌシ)
         ・大山祇神(オオヤマツミ)・大日孁貴命(オオヒルメムチ)・宇迦能御魂神(ウカノミタマ)・伊邪那岐命(イザナギ)
         ・伊邪那美命(イザナミ)・速玉之男神(ハヤタマノオ)・事解之男命(コトサカノオ)・天児屋根命(アメノコヤネ)・蛭子神(ヒルコ)
         ・菊理比売命(ククリヒメ)

 今の主祭神は建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)となっているが、上記したように江戸時代までの祭神は牛頭天王(ゴズインノウ)であったが、明治初年の神仏分離令によって仏教色が強いとしてゴズテンノウが排斥されたことから、同じ神格(防疫神)を持つとされるスサノオに替えられ、その時点で、社名も湯夫多神社と改名したと思われる(京都・八坂神社などと同じ)

 ただ、創建時からゴズテンノウを祭神としていたかどうかは不詳で、三代実録に高松神とあるように、本来の祭神は、高木(松木)を神の依代とする古代の自然神信仰にかかわる在地の神だったのかもしれない。

 ただ、高松神の出自・神格は不明だが、式内社調査報告には
  「三代実録に高松神とみえているが、元々はこの地方の開拓に関係した神を祀ったものではないだろうか」
として、この高松神が本来の祭神ではないかと思考しながらも
  「しかし、平安時代中期以降、祇園信仰が普及することにともなって、須佐之男命(牛頭天王とするのが妥当)を祭神とするようになったと考えられるが、明白ではない。
  “ふち河の記”には牛頭天王とあり、この地方における牛頭天王信仰の一中心であったと思われる」
とある。
 一般に牛頭天王信仰は平安中期頃から広がったというから、その頃に勧請されたとも解される。


 相殿神として、五男三女神以下15柱の神々を祀る。
 ・五男三女神--主祭神・スサノオの御子神として
   ①アマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって成りでた天忍穂耳尊以下の8柱の神々
   ②八島篠見神(ヤシマズヌミ) 五十猛神(イタケル) 大年神(オオトシ) 宇迦之御魂神(ウカノミタマ) 大屋毘古神(オオヤヒコ)
     土屋比売神(ツチヤヒメ) 抓津比売神(ツマツヒメ) 須勢理毘売神(スセリヒメ)--京都八坂神社・西御殿祭神
の2説があるが、当社がどちらを充てているのかは不明。当社が祇園社をと称することから②にいう御子神であろう。
 しかし本来は、ゴズテンノウの御子である八大天王(惣光天王・魔王天王・倶摩羅天王・得達神天王・良侍天王・侍神相天王・相天王・蛇毒気神--簠簋内伝)であって(伊水温故には牛頭天王・八大天王とある)、明治初年の主祭神変更にあわせて、スサノオの御子神に変更されたものであろう。

 天火明命以下の神々について、調査報告には、「明治41年(1908)に合祀された祭神」として
 ・天火明命←火明神社  ・火之迦具土命←愛宕社・秋葉神社  ・大山祇命←山神社  ・大日孁貴命←神明社
 ・宇迦能御魂神←稲葉神社  ・伊邪那岐命・伊邪那美命・速玉之男命・事解之男神←熊野神社
 ・天児屋根命←天津神社  ・蛭子神←蛭子神社  ・菊理比売命←白山比売神社
とある。
 これらは、明治末期の神社統合令(明治39・1906)によって、近傍の小社を整理統合して当社に合祀した神々であろう。

※社殿等
 阿山小学校前から小道を西に入った先の左側(南側)に鳥居が立ち、短い参道を進んだ奥が境内。
 広い境内の奥、山裾に横長の拝殿(平屋造・間口八間・瓦葺)が建つ。

 
陽夫多神社・鳥居
 
同・拝殿

 拝殿の背後、高い石垣の上に弊殿が、その奥に本殿が鎮座する。
  ・本殿--三間社流造 銅板葺
  ・弊殿--平屋造 間口二間

 
同・弊殿
 
同・弊殿内陣
 
同・本殿

 本殿の左に境内社・八柱神社(一間社流造)が鎮座する。
 八柱神社について、三重県神社誌によれば、
  祭神--大山祇神・火之迦具土神・五男三女神・金山比売神
  元々は山神社と称していたが、明治40年、近傍の愛宕社(2社)・秋葉社・山神社(4社)・八柱社を合祀して八柱神社と改称した(大意)
という。

 今の当社はスサノオを主祭神とすることから、拝殿にはスサノオを主人公とした絵馬が数枚掲げてあるが、いずれもまだ新しい。


境内社・八柱神社 
 
拝殿内の絵馬 
(八岐大蛇退治の場面)
(右上に八雲立つ・・・の歌が書かれている)

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