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壱岐島/唐人神(エビスの一面)
                                                                   1998.10訪問

 長崎県・壱岐島の東南部に、佐賀県呼子とを結ぶ国道(382号線)フェリーが発着する“印通寺”という港がある。その港を望む小高い丘の上、というより、民家に取り巻かれた道端の石垣の上に、木立に囲まれて“唐人神”(トウジンシン)と称する小さい石の祠が祀られている。

※唐人神
 唐人神(Chinese God)とは珍しい名前だが、案内板には
 『中世の頃、若い唐人の下半身が流れつき、土地の漁師が祀ったという。
  腰から下の病気に霊験あらたかなところから、夫婦和合、良縁、安産などに神通力があるといわれ、
  また、男女両性の下の病の神様として、丑三つ参りをする人が多い。
  わたしゃ唐人崎の唐人神よ  腰のご用ならいつも聞く』
と、記されている。

 この唐人神信仰は古くから知られていたようで、昭和初期の民族学の巨星・折口信夫は「壱岐民間伝承採訪記 1929」に次のように書いている。
 『唐人神−−印通寺にも、黒崎にも唐人神がある。唐人の死骸の流れよったのを祀ったものである。
 印通寺のは、唐人の胴から下が流れ着いたのだという。それで、下の病気を守ってくださる。梅毒には男精の形、痔には円座をあげる。
 黒崎では、朝鮮人(唐人とも)の身体の流れ着いたのを葬ったところ、その辺りを通る人に、始終かがりついて(くっついて)わるさをした。それで祠に斎いかえたのだという。どういうふうにつくのかというに、“魂の風”が身内に這入ると歩けなくなるのである。やはり腰から下の病をなおすという』

 また地元の史家・山口麻太郎も「壱岐島民俗誌1934」の中で、同じ趣旨のことが記しているが、いずれも唐人神が“下の病気に霊験あらたかである”ということに注目している。
 確かに、古びた大小3基の祠の前には、大きな男根状の石棒が立てられ、祠の脇にも小さいそれの幾つかと、女陰を象徴するアワビ貝が、花・水などの供物とともに供えられている。

 “渚に漂着した水死体をカミとして祀る”ことは、今ではありえないことだが、近世までは水死体をカミ、それも“エビス神”として祀る風習が全国的に、特に瀬戸内以西の各地にあったという。
 折口も「壱岐の水 1929」の中で、
 『エビス様に2色ある。唯の“エビス様”は祠をこしらへて祀る。ところがも一つ、“漁エビス”というのがある。漁の結果にえたエビス、或は漁の為のエビスと言う事かと思う。鯨を獲って、剖って行って、臓腑の中から、胎児の出た時には、解体担当者と檀那とで、誰にも見せずに新筵に包んで、箱に入れて鯨納屋の脇に埋めてしまう。・・・
 漁エビスには、今一つある。漁方は、水死人の死骸や骨を見つけると、大喜びをする。それを、オエベッサンにして祀ってやると、その礼に、漁を守ってくれるのである。』
と記し、多くの先学が、
 『漁師が出漁中に水死人を見つけると、縁起がよいとして、丁寧に扱う』
と報告しているように、この風習は全国各地に古くからあった風俗だという。

※エビス信仰
 エビス神といえば、関西では西宮や大阪・今宮のエベッサンが有名で、商売繁盛の神様・福神として新春10日の祭り・「十日戎」には多くの参詣者を集めているが、その原点は漁民が祀り崇めた海神・豊漁の神様だったという。
 この神様は、延喜式の神名帳に載るような、古代の神祇体制の中に組み込まれた神ではなく、庶民の間から生まれ信仰された民俗神である。

 例えば、エベッサンの本家といわれる“西宮エビス”について、同神社発行の「西宮神社の歴史」によれば、
 『カブト山の麓にある延喜式内社・広田神社の摂社として浜辺にあった浜南宮の境内に祀られていた末社・衣毘須宮(戎宮)が原点で、その祭神は“蛭児尊”(ヒルコ)である』
という。
 また、当地方には
 『昔、鳴尾の漁師が武庫の沖で漁をしていたときに、網に神像のようなものが懸かった。それを海中に棄てて、遠く離れた和田岬で網を曳いたら同じ神像が懸かってきた。不思議なことと持ち帰ったところ、夢に「吾は蛭児神なり、西の方に良き宮地あり、そこに居らんと欲する」との託宣があり、西の方・お前の浜に祀った。これが今のエビス社である』
との伝承がある。

 エビスは一般にヒルコと同一視されているが、そこには、不具であることから海の彼方に流されたヒルコ、そのヒルコが逆に“聖なるもの”として“海の彼方から幸をもたらす”という観念、海の彼方との往来することによって“穢れたものから聖なるものへ転換”するという観念をみることができる。

 ヒルコとは、記紀神話でイザナギ・イザナミがオノゴロ島で国生みしたとき最初に生まれた子で(古事記)、書記には、ヒルコは「不具で3歳になるまで足が立たず、葦船に乗せて風のまにまに放ち棄つ」とある。
 ヒルコは、おそらく太陽を象徴する女神“日女(ヒルメ)−アマテラス”が産んだ子神としての“日子”(ヒルコ)であり、太陽の子供たる日子を聖なる器(葦舟)に入れて流し、その再生を図ったものだろうという。

 また、これを古代における“長子供犠”とみる見方もある。最初の子供は神の取り分であり、足を傷つけてびっこにするとか、片目あるいは両目をつぶすなどの目印を付けて供犠し、神の許に戻さなければならないとするもので、足萎えの状態を神の子としての目印とみる見方である。水蛭子とも書く。

 西宮エビスの“ご神体”が何かは不明だが、そのご神体は“海中からもたらされた石”ではないかという。
 とすれば、“海石の呪力によって魚群(鯛)を招き寄せる”というのが本来の信仰ではなかろうか。それが、浜南宮門前での魚市の繁栄とともに、商売繁盛の市神さんとして人気を呼び、今の隆盛の元になったともいえる。

 エビスは、恵比寿・恵比須・夷・戎・胡などいろんな漢字を当てる。前の2っはお目出度い雅字を当てたものだが、夷・戎・胡と書けば“海の彼方の外つ国”というニュアンスが漂い、そこにはエビス信仰の本源に連なるものが感じられる。

※マレビト
 このようにエビスという神は、自分たちの生活領域の“外から訪れるカミ”いわゆる“客人神”(マレビト)ともいえる。
 マレビトという観念をはじめて世に問うたのは、戦後すぐの折口信夫で、彼は、
 『私の考えるマレビトの原の姿をいえばカミであった。第一義においては古代の村々に海のあなたから時あって来たり臨んで、その村人どもの生活を幸福にするために還ってくる霊物を意味していた。その霊物とは、まず先祖の霊、祖霊である』
といっている。

 また柳田民族学によれば、古く、死者たちの霊は近くの山にのぼり、子孫の供養を得、年を経ることによってカミとなると考えられていた。この祖霊というカミは、春には“田の神”となって里の降り、稲の生育を見守り、秋の豊穣を見届けて山へ帰っていくという。
 これと同じく海辺の村では、先祖の霊は海の彼方の常世の国に至り、時を得てカミ=エビスとなって村に帰り、これもまた豊漁をもたらしてくれると信じられていた。

 自分たちの日頃の生活空間・ムラ(秩序)の外にある未知なる異空間・異界(混沌)から訪れるモノは、それが目に見えるモノであれ、見えないモノであれ、全て野蛮で悪霊的な異人として恐れられ、排除されてきた。
 が、その反面、それは単に恐怖の対象として拒否されるものではなく、畏怖されるものであると同時に神秘性・神性を帯びたカミ、強力な呪力を秘めたカミであり、ある時は歓迎すべきカミとして考えられてきた。そのような相反するモノ・カミの顕現として捉えられていたのがマレビトといえる。

 村人たちは、異界からやってくるマレビトを、時には拒否し、時には饗応しながら、マレビトが持ってくる“超自然的な力”が、自分らの村に豊穣・豊漁をもたらしてくれることを待ち望んでいた。
 そして、山からやってくるマレビトの代表が“祖霊”のいうカミならば、海からのそれが“エビス”というカミであったといえる。

 エビス神のご神体は、海の底からもたらされた“石”というのが多いようだが(地方によっては、新春、精進潔斎した若者が目隠しして海に潜り、手探りで海石を持ち帰り、宮に納め、カミとして祀ったという)、壱岐の唐人神にみるように、水死体を豊漁をもたらすマレビトとして祀ったのが、ここにいうエビスである。

 本来、子孫の供養を得ておだやかな祖霊となるべき死者の霊のなかで、不慮の災害あるいは非業の死などにより、生を完遂できなかった死者の霊は、この世に怨念が残り、いつまでもカミになれず、この世に禍をもたらす怨霊として“さまよう”という。
 それを丁重に祀ることによって、生前の穢れを清め、怨念を浄化し、禍をもたらす荒魂をおだやかな和霊へと昇華させ、その霊が持っている力を大漁をもたらす呪力へと転化させる、それが水死体をエビスとして祀る心だといえる。

 壱岐・印通寺の唐人神も、今でこそ、その始めの意味が忘れられ“下の病気の神様”ということに重きがおかれているが、その本来の姿は、海の彼方・常世から寄り来たったマレビトしてのカミすなわちエビスだったのであろう。

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