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生駒の聖天さん (改訂)
(宝山寺)
奈良県生駒市門前町
本尊−−不動明王

 大阪の東に連なる生駒連山の主峰生駒山(標高642m)は、古来から河内と大和との境をなす霊山として山中諸所に神仏が祀られている。
 そのひとつ、奈良県側の山腹にある『宝山寺』が【生駒の聖天(ショウテン)さん】である。

 近鉄奈良線・生駒駅の南西約1.5km。駅前から生駒ケーブルで宝山寺駅下車、門前町を過ぎ長い参道(石段)の途中に立つ大鳥居(神仏習合の名残)を入った先に惣門(横に「歓喜天根本道場 生駒山寶山寺」との石柱が立つ)が建ち、境内に入る。


宝山寺・鳥居 

同・惣門
 
境内配置図

T、宝山寺
 宝山寺は真言律宗大本山と称し、真言律宗の僧・湛海(タンカイ、1629〜1716)が江戸前期の延宝6年(1678)に開いたといわれ、当寺公式HPには
 「生駒山は大昔から神や仙人のようなお方が住む山と周辺から仰ぎ崇められ、巨巌や奇石、幾つかの窟からなる魁偉な般若窟は、寺伝によれば、役行者が梵文般若経を書写して納め、弘法大師も若いころ修行された。
 今から三百数十年前、伊勢に生まれ、江戸永代寺に入った宝山湛海律師は歓喜天に対する修法に優れ、江戸の大火で焼失した永代寺八幡宮の復興では思わぬ所から金や資材が集まる祈祷の効験を発揮、人々を驚かせた。
 その後、京都に歓喜院を建て独立した。しかし、ある日訪れた円忍律師の教えを受け、堺・神鳳寺(現大鳥神社)で律師の戒を授かり、真の仏法とは何かを求めることに目覚めた。
 そして、道場だけでの行に飽き足らず、大和葛城山麓の山林で千日不出の木食行を続け、その千日目近く、我が行を完成するにふさわしい山として『生駒山の存在』を、念ずる不動明王に暗示された。
 延宝6年10月10日、湛海は数人の弟子と生駒山に入り、村人や郡山藩家老らの援助と協力で、翌年正月、五間四面の仮本堂ができ、湛海は念願の八万枚護摩を果たした。寺は、当初、大聖無道寺と号した。
 その後、湛海は聖天(大聖歓喜天)を山の鎮守に仰ぎ、益々の修行と理想の密厳浄土建設を目指した。・・・」
とある。

 当寺では、役行者開基・湛海を中興開山としている。役行者開基は信用できず、当地が古くからの修験行場であったことから、その始まりを役行者に付託した伝承であろう。

 猫の額ほどの狭い境内には、当寺の中心仏閣である【本堂】と【聖天堂】を囲み宝塔・天神堂・庫裡などが建ち並び、背後の斜面諸所に小さな堂舎が点在、その先に奥の院がある。
 また本堂背後に聳える朝日嶽には、役行者ゆかりの【般若窟】があり弥勒菩薩像が鎮座している。


境内全景(中央:本堂、左:聖天堂)

朝日嶽
(下部に般若窟が開く)

般若窟本尊:弥勒菩薩像

※本堂
 今、宝山寺は歓喜天(聖天)を祀る寺として知られ、寺でも「歓喜天根本道場」と称しているが、その本尊は不動明王(延宝8年、湛海作、木造彩色H≒2m)で、本堂には不動堂を意味する『阿遮羅場』(アシャラジョウ、不動堂の意)との扁額が掲げられ、近畿三十六不動尊霊場・29番札所となっている。

 HPにいうように、開祖・湛海は、道場内だけの修行に飽きたらず、大和葛城山麓の山林で千日不出の木食行(モクジキギョウ)を続けたが、満願の日に、日頃念じていた不動明王から聖地・生駒山を示され、修行に最適の地として生駒山に入って修行道場を建立し、自ら刻した不動明王像を本尊とした、という。
 ちなみに湛海は、その当時にあって有数の技量を持つ仏師でもあり、湛海作とされる当寺の五大明王像や唐招提寺の不動明王像などは国の重要文化財に指定されている。
 湛海は、一回十万枚という超人的な大護摩(ゴマ)行を何度となく修したといわれ、今でもそれにあやかって、毎年4月1日には八千枚の大護摩が本堂で焚かれている。

 現在の本堂は、貞享5年(1688)郡山藩の家老・梶金平父子が施主となって建て替えたもので、宝山寺創建当時の面影を残す唯一最古の建造物で、重層の護摩壇様式という特異な姿をしている。


宝山寺・本堂(阿遮羅場)

本堂内陣(資料転写)

本尊:不動明王(資料転写)

※聖天堂拝殿
 公式HPによれば、
 「瓦葺き本堂に隣接した桧皮葺きの建物。八つ棟造りといわれ、棟や破風の数が多い風変わりな外観で、寺院建築としては極めて珍しい。
 手前が外拝殿、すぐ後方の大きな屋根が中拝殿、一番奥の火炎宝珠のあるのが大聖歓喜天(ダイショウカンキテン・聖天)を祀った聖天堂(通称:天堂)である」
とあるが、前面の拝殿が大きすぎて、背後の聖天堂実見は不能。

 聖天堂の造営について、資料には
 『聖天さまは、悪をくじき、心服させ、正しい法を導くお力をお持ちの自在天(男天)と、心寛大にして愛の手を差しのべてくださる十一面観音(女天)の双身像で云々』、
 『湛海は、その聖天さまを山の鎮守として仰ぎ、云々』
とあるだけで、その実像・由縁などの説明はない。

 ただ「和漢三才図会」(1712・江戸中期の図解百科辞典)には、
 『宝山湛海律師は日頃から歓喜天法を修していたが、ある時、壇上に歓喜天が出現したので、一万座の華水供と千日の浴油供を修して供養したら、歓喜天の真の姿が顕れた。
 それは象頭人身(象の頭をした人間)の男女抱擁の二尊で、女天は七尺ばかりの象の鼻をした天女形で、男天は俊偉な偉丈夫であった。湛海はその姿を描いて鋳工に命じて尊像を造らせた。
 これが生駒山宝山寺の聖天像で、湛海は貞享3年(1686)に聖天堂を建立した』(大意)
とある。
 これから見ると、宝山寺の聖天像は、象の頭をもった男女が抱き合った像ということになるが、非公開のため実像不明。

 天堂では、創建以来の伝統を守って毎朝2時から歓喜天最高の供養法である“浴油供”(ヨクユグ、非公開)が修せられているという。

 貞享3年に本堂の背後に建てられたが、江戸末期・文化2年(1805)、本堂横に移築して唐破風付きの外拝殿を設け、明治10年(1877)に今の八つ棟造に改築されたという。


同・拝殿
(左の桧皮葺建物、背後に火炎宝珠が見える)

外拝殿・正面

外拝殿・内陣

U、聖天とは
 聖天とは、仏教でいう『大聖歓喜天』あるいは『歓喜自在天』の略称。
 元々『ガネーシャ』(「集団の王」の意という)と呼ばれるインド・ヒンドゥー教の神で、世界を創造し維持し破壊する最高神シヴァとその后パールヴァティーとの子とされる。
 先住民ドラヴィダ人に崇拝されていたものがヒンドゥー教に取り込まれた神ともいう。

※ヒンドゥー教のガネーシャ


ガネーシャ像
 ガネーシャの誕生についてはいろんなバリエーションがあるが、
 『シヴァとパールヴァティーは子供が欲しかったが、強力な破壊神であるシヴァの子が父親以上に凶暴な神になることを恐れた神々によって、子供を作らないことを約束させられた。
 しかし、どうしても子供が欲しいパールヴァティーは、自分の身体から出た不浄物と化粧油を混ぜてガネーシャをつくった。
 ある時、パールヴァティーが沐浴するためガネーシャに命じて入口の番をさせていたら、シヴァが帰ってきた。シヴァが后の部屋に入ろうとすると見知らぬ男がいて、入れろ入れないの口論となり、怒ったシヴァはガネーシャの首を斬り落とした。
 わが子を殺されたパールヴァティーは逆上し荒れ狂ってシヴァに蘇生させるよう迫り、殺したのがわが子と知ったシヴァは斬り落とした首を見つけたが見つからずに困り果てて、たまたま出会った像の首を斬り落としてガネーシャの身体につないだ』
というのが最もポピュラーな筋らしい。

 インドでのガネーシャは、あらゆる障害を排除して富と繁栄をもたらす神、あらゆる分野に精通した智慧の神として宗派を越えて人気があり、物事をはじめるときには、まずガネーシャを祀ってその成就を祈願するという。

仏教(密教)に入ったガネーシャ

 ガネーシャの仏教名・聖天は、ヒンドゥーの神が仏教(密教)に取り込まれた“外道の神”で、密教では『毘那夜迦天』(ヴィナーヤカ天)の名で、マンダラの最外縁部の神々の一尊として描かれている。

 密教経典によれば、六通自在(人智を越えた6種の神通力)・智慧自在・変化自在で、愛情・五穀豊穣などあらゆる願いを聞き届けてくれるから『大聖天王』というとあり、何事にも自由自在に対応できる神通力を持ち、他の神仏には頼れないような下世話な願い事でも聞き届けてくれる霊験あらたかな神とされる。

 本来の仏教では、物欲・色欲をはじめとする執着心からの離脱を説き、人間の欲望を穢いものとしてこれを棄てよと教えてきた。
 しかし7世紀ごろになると、ヒンドゥー教が古代呪術を復活させ現世利益を説くようになると、仏教(密教)もまた、ヒンドゥーの神々を守護神・護法神として取り込み、呪的祭祀による現世利益を説きだしている。
 その取り込まれた一尊がヴィナーヤカ即ち聖天である。

 
聖天座像(胎蔵マンダラ)
 
聖天座像(金剛界マンダラ)
 
聖天立像

※双身歓喜天
 いま宝山寺では、ヴィナーヤカ天を『歓喜天』と呼んでいる。
 歓喜天の由来について、
 『ヴィナーヤカが疫病を流行させて人々を苦しめたので、人々は十一面観音菩薩に救済を願った。十一面観音が女身ヴィナーヤカと化して近づいたら、ヴィナーヤカは忽ち淫欲心を起こして交わろうとした。
 観音は「私を抱きたいのなら、仏法を守護し、人々を苦しめないと誓ってください」といったところ、王がそれを誓ったので、王の欲望を十二分に満足させてやった。
  こうしてヴィナーヤカ王は無常の歓喜を得たので「歓喜天」という』(大意)
との伝承がある。
 下世話にいえば、男女交合の絶頂を味わって歓喜したからの名である。

 歓喜天像には単身像もあるが、男女2躰の歓喜天が抱き合った立像も多く、「双身歓喜天」と呼ばれる。
 衣服で覆われているので愛情表現としての抱擁像に見えるが、上記にいうように立位の交合像であり、為に、ほとんどの寺院で秘仏とされている。
 ただ、明治の神仏分離令で聖天信仰が邪教とされ、多くの寺が廃寺となるなかで、寺蔵の双身歓喜天像が一般に流出したという。

 宝山寺の歓喜天がどのようなものかは不明。資料では「自在天(男天)と十一面観音(女天)の双神像」というばかりで、秘仏として隠されているが、象頭人身の男女が抱き合った双身歓喜天像であろう。












 双神歓喜天像

※聖天のシンボル
 
聖天堂前に銅製の大きな“巾着(キンチャク)状の袋”があり(使用目的は不明)、側面に2本の大根を交差させた“違い大根”が浮き彫りされている。
 また堂の右前には“打ち出の小槌”などの宝物を浮き彫りにした巾着が置かれている。巾着とは、昔の袋状の銭入れ(財布)

 聖天と巾着あるいは大根の組み合わせはインドではなく、中国あるいは日本ではじまったものという。聖天が好むとされる“歓喜団”(カンキダン)という菓子と“象の牙”が巾着・大根へ変化したものらしい。 


違い大根模様の巾着

同左・拡大

宝物模様の巾着

●聖天と大根
 インドのガネーシャの牙は1本しかなく、片手に一本の牙(あるいは牙を抽象化した宝物)を持っていることが多く、単身の聖天像では、それが大根となっている(双身聖天像には持ち物はない)
 伝承では、
 『カイラーサ山のラーマ神がシヴァを尋ねてきたが、シヴァが眠っていたのでガネーシャが断り、為に争いとなって、ラーマ神が投げた斧がガネーシャの牙に当たって1本が折れた』とか、
 『その時、ラーマ神が投げた斧がシヴァ神が与えたものと知ったガネーシャが、敬意を表してわざと片方の牙で受けたため』
ともいう。

 象牙はその形が大根に似ていることから、わが国で大根になったと思われ、ガネーシャ(聖天)の欠けた牙を供えることで己の願望を叶えてもらう、との意だという。
 しかし穿った見方をすれば、その白さと滑らかさで人肌、特に太腿を思わせる大根を交差させて、双身聖天の交合像であることを抽象的に示したものともいえる(違い大根のなかには、人の下半身を表すような二股大根もある)

●聖天と巾着
 ガネーシャが好むとして供えられるものに“モーダカ”という菓子があり、モーダカとは“小さい糖菓”・“陽気にさせる”との意だという。これが中国で、聖天を喜ばせる菓子として『歓喜団』と訳されたという。
 歓喜団はいろんな具を薄皮で包み饅頭のように丸めた一種のお菓子で、その上部をつまんで結んだ姿が昔の巾着に似ていることから、わが国で『巾着』にすり替わったらしい。
 聖天が好む歓喜団=巾着を供えることで金運上昇を願う、という庶民の願望を示すものである。

 一方、この歓喜団を女性の子宮と見る見方もある。この子宮から女陰が連想され、凶暴な障碍神であるガネーシャに女陰を捧げることで宥めるというわけで、十一面観音が女体と化してガネーシャを回心させたという伝承にも通じる解釈である。

 このように、栄養剤・精力剤としての大根と、人が最も好むお金を入れる巾着は、聖天が与えるご利益・健康と富を表す象徴である。しかし、棒状の大根を男性器・リンガ、袋状の巾着を女性器・ヨーニとみると、これら抽象化された両者をもって双身歓喜天を表すともいえる。

 “性は秘め事”とするわが国にあって、聖天に対する解説も綺麗事にすり替えられ、本来はありがたい仏神であるはずの双身歓喜天は秘仏とされ、人目から隠されたのであろう。

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