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稲荷信仰/稲荷神顕現伝承

 稲荷信仰の総本社である『伏見稲荷大社』(以下「伏見大社」という)は、延喜式・神名帳(927撰上)に「山城国紀伊郡 稲荷神社三座」とある式内社だが、鎌倉時代の古書・年中行事秘抄に『くだんの社、立ち初めの由、たしかなる所見無し』というように、よくわからない。
 ただ、同書に『彼の社の禰宜(ネギ)(ハフリ)らが申状にいふ、この神、和銅年中(708~14)、始めて伊奈利山の三箇峰にあらはれ在したまふ』とあることなどから、8世紀初頭というのが一般の認識である。

 ここで“確かなる所見無し”というように、その創建に関する伝承には大きくみて秦氏系と荷田氏系のふたつの流れがある。ここでは、前者を「伊奈利伝承」後者を「稲荷伝承」と区別して記す。なお、どちらもイナリと読む。

※伊奈利伝承
 一般によく知られているのは、山城国風土記逸文・伊奈利の社条にいう
  『秦氏・中家忌寸(ナカツイエノイミキ)等の遠祖・伊侶具(イログ)は稲や粟などの穀物を積んで豊かに富んでいた。ある時、餅を使って的として弓で射たら、餅は白い鳥になって飛び去って山の峰に留まり、その白鳥が化して稲が生ひ出でたので、これを社名とした。
 その子孫の代になって、先祖の過ちを悔いて、社の木を根こじに引き抜いて家に植えてこれを祀った。いまその木を植えて根つけば福が授かり、枯れると福はない、という』(大意)
との伝承で、秦氏系の創建伝承である。

 この伝承はふたつの部分からなっている。
 前半は、富み栄えた秦氏の祖・イログが餅を的にして弓を射たところ、餅が白鳥になって飛び去り、山の上に留まって稲と化した。そこで社の名を伊奈利と称したという社名起源説話で、イネニナル→イネナリ→イナリとの変化である。
 後半の、的を的にした先祖の過ちを悔いた子孫が社の木を引き抜いてきて移植して云々との説話は、樹木の活着によって禍福を占うという呪的行為で、稲荷神のご神木とされる「験(シルシ)の杉」の起源説話でもある。

 この伊奈利伝承に類するものとして、豊後国風土記・冒頭に
  『景行天皇の頃、豊国の長として派遣された菟名手(ウナテ)が豊前国・中臣村に宿ったとき、翌日の明け方多くの白い鳥が飛来して村に舞い降り、見ている間に餅となり、更に数千株の芋草(イモ)となった。その花葉は冬になっても枯れなかった。ウナテは不思議なことと思い天皇に報告した。これを聞いた天皇は喜び、ウナテに豊国直(トヨクニのアタイ)の姓(カバネ)を与えた。ここから豊国と呼ぶようになった』(大意)
との一文がある。

 風土記に多い地名起源説話のひとつだが、その因となった白鳥は穀霊そのもの、あるいは穀霊を運ぶものとして記されている。鳥が穀物の種子を運んできたという穀物起源神話は、世界各地に残っている。

 一方、同風土記・田野の条には
  『昔、田野の野はよく肥えていて食べ物が有り余るほどだった。農民たちは富み奢り、ある時、餅を的として弓を射たところ餅が白鳥となって飛び去った。その年のうちに農民は死に絶え、水田を耕す人もなくなり田畑は荒れはててしまった』(大意)
との一文があり、ここでは、餅が白鳥となって飛び去った後に破滅がもたらされている。豊かさをもたらす穀霊が飛び去ったためである。

 伊奈利伝承での餅は“穀物の霊=穀霊”であり、白鳥は穀霊あるいはその運搬者である。食物である餅を弓の的としたために、餅に潜んでいた穀霊が白鳥となって飛び去ったというのは風土記・田野条と同じである。ただ、それが破滅をもたらすのではなく、近くの山に留まって稲と化したというのが異なっている。
 本来は、前半と後半の間に、“餅を的としたために秦氏に何らかの災厄がもたらされた”という話があったのかもしれない。そのため、子孫がその行為を悔いて山の木を移し植え祀ったのであろう。
 また、この山の木というのは、白鳥すなわち穀霊が化身した“神の稲”なのかもしれない。神の稲を植えることで豊饒=富の再来を祈ったと理解することもできる。

 なおわが国には古くから、年の初めに四方の邪気を祓い天下泰平・五穀豊穣を祈って弓を引き、併せてその年の豊凶を占う『射弓の神事』が広くおこなわれてきた(今も残っている)
 伊奈利伝承でイログが弓を射たのも正月の予祝儀礼だったのかもしれない。ただ、餅を的にしたのが誤りで、そのため本来豊饒をもたらしてくれるはずの穀霊が飛び去ったともいえる。

 以上が伊奈利伝承にかかわると思われる事柄だが、肝心のイナリ神が顕れた時期については何も語っていない。
 風土記は和銅6年(713)撰上というから、伝承後半にいう“今”が風土記撰上の頃を指すとすれば、伊奈利神の顕現は8世紀初頭以前ということになる。
 伏見大社では和銅4年(711)に神が顕現し社を創建したとして、平成23年(2011)に創建1300年祭を催すべく準備している。

※稲荷伝承
 上記・伊奈利伝承に対して、イナリ神の顕現を“稲を荷なう老翁”に求める伝承がある。伏見稲荷で秦氏とともに神官を勤めた荷田氏系の伝承という。

 稲荷大明神流記(南北朝時代)によれば、
  『弘仁7年(816)4月の頃、弘法大師が紀州田辺の宿で、身の丈八尺あまりの異相の老翁に遇った。(これを神と知った)大師は、鎮護国家のため密教紹隆の道場・東寺において神の加護を待つと告げると、老翁はそのみぎりには必ず参会して大師の法命を守るであろう、と答えた。
 降って弘仁14年(823)4月13日、彼の紀州の老翁が、稲を担い杉の葉を提げ、二人の女性と二人の童子をともなって東寺の南門にやってきた。
 大師は喜んでこれを歓待し、道俗もこれに習った。老翁は、しばらく柴守の家に寄宿していたが、その間大師は東寺の杣山に勝地を定めて17日間鎮壇し、稲荷の老翁を神として祀った』(大意)
とあり、これによれば、伊奈利伝承より約100年ほど遅れての顕現となる。

 (転写した稲荷曼荼羅図-個人蔵には、上段に右肩に稲を担ぎ左手に鎌をもち髭を生やした白髪の老翁-稲荷神が-右図、中段右に宇賀弁財天・左に大黒天が、下段左右に白狐が描かれている--神社紀行・伏見稲荷大社より)
 

稲を荷なう老翁
(稲荷曼荼羅図より転写)

 また東寺に伝わる稲荷大明神縁起には、
  『100年の昔から、当山の麓には「竜頭太」(リュウトウタ)という山の神が住んでいた。その面は龍のようで、光り輝き、昼は田を作り夜は薪をとっていた。稲を荷づくことから、姓を「荷田」といった。
 弘仁のころ、弘法大師がこの山で修行していると、竜頭太が現れて「吾は当の山の神である。仏法を守護しようと願っているので、真言の妙味を説いてほしい。そしたら、当山を大師に譲りわたそうと思う」といった。大師は喜んで法を説き、その面を写してご神体として東寺の竈殿(台所)に安置した。
 大師は、竜頭太から稲荷山を譲り受けた後、稲荷明神をこの地に勧請した。その時、山麓には藤尾大明神が鎮座していたが、嵯峨天皇に奏上して深草に遷座せしめた』(大意)
との伝承が記されている。

 竜頭太とは自ら名乗るように山の神で、その龍のような姿からみて雷神・水神的神格をもつ田の神すなわち穀霊である。山の住む精霊あるいはカミの初現の姿ということもできる。

 その竜頭太の顔を写して竈殿に祀るとは、竜頭太を水火を司る竈神として祀ったことを意味する。家の裏手にあって火・水に関係の深い竈殿は、異界との境界にあってカミが去来する場として神聖視され、そこに祀られる竈神は、丁重に祀ればその屋を隆盛に導き、疎かに扱えば衰退を招くという。大師は、東寺の隆盛を願って祀ったのであろう。

 このふたつの伝承を合わせると、秦氏のいう伊奈利神の鎮座以前から、稲荷山には竜頭太なる山の神が鎮座していたが、弘法大師の来山を機に稲荷山を大師に譲渡した。その後、稲を荷づく翁=稲荷神の来訪をうけた大師は、譲り受けた稲荷山に齋き祀った。
 その際、山麓にあった藤尾大明神を深草に遷し、その跡に社を建立した、ということになる。
 稲を荷づく翁=稲荷神とは、山の神・竜頭太の化身とみることもできる。

 この弘法大師勧請の稲荷社の鎮座場所が現伏見大社で、その辺りに藤尾大明神が鎮座していたというが、確証はない。
 ただ、今も大社二の鳥居の脇に末社・藤尾社が鎮座していること、伏見大社門前町のほとんどが藤尾明神の後身とされる藤森神社の氏子であること、藤森神社(伏見区深草)に、「藤森の旧地は現伏見大社の社地」との伝承があることなどからみて、信憑性は高いといえる。
 因みに藤森神社の祭礼で、氏子たちが御輿を伏見大社に繰り込み「土地返しや、土地返しや」と囃したてるという。旧地返還の要求である。

※伊奈利伝承と稲荷伝承
 ふたつの伝承を比べるとき、秦氏の伊奈利伝承は8世紀初頭、一方の荷田氏の稲荷伝承は9世紀初頭と、その間に約100年が流れている。
 そこから、伊奈利伝承をもって伏見大社の創建伝承とし、稲荷伝承は後世の偽作とする見方があるが、一方では、稲荷山を表裏二分するふたつの集団・秦氏と荷田氏があり、それぞれに異なる信仰形態・伝承をもっていたのが、いつの世にか合体して今の伏見大社になったとする見方など諸説がある。

 伊奈利伝承には、秦の伊侶具とその子孫とが登場はするものの、その実態は霧のなかで神話・伝承の域を超えない。
 対する稲荷伝承は、弘法大師という実在の人物が登場するなど史実を語る呈をなすものの、竜頭太なる山の神が登場するなどこれまた諸寺縁起の類型を越えていない。
 稲荷伝承は、荷田氏が東寺(弘法大師)と組んで自家の勢力拡大を図ろうとする思惑と、平安遷都後に創建された後発の東寺が、先住する荷田氏と組んで教勢拡大を図るために作られたものかもしれない。
 ただ稲荷信仰は、東寺(真言密教)の教勢拡大、特に大師信仰の広まりとともに各地へ広まったという一面もある。

(付記)秦氏と荷田氏
 前述のように、伏見大社の神官(社家)には秦氏系と荷田氏系がある。
◎秦氏
 新撰姓氏禄(815撰上)では、「応神天皇14年に127県の百姓を引き連れて帰化した弓月王の子孫とされる氏族で、秦始皇帝の後裔」とするが、始皇帝云々は中華思想によって祖先を中国に結びつけたもので、実態は朝鮮半島からやってきた渡来人だろうという(新羅国に波旦-ハタ-の地名があったという)
 秦氏は、多くの渡来人の中の有力氏族で、京の太秦を根拠に絹織技能・稲作技術などをもって朝廷から優遇された。聖徳太子に仕えた秦河勝が有名。伊奈利伝承にいう秦伊侶具は、松尾大社を祀った本家筋・秦忌寸都理の弟との説がある。
◎荷田氏
 伝承では、雄略天皇の皇子・磐城王の後裔というが出自不明。秦氏進出以前から深草辺りにいた有力氏族とも、秦氏の傍流との説もあり、よくわからない。この系譜から、江戸中期の国学者・荷田春満(アズママロ、1669~1736)が出ている。

【追記】(2015.08)
 当社の神を、稲の神・稲荷(イナリ)と表記するのは、上記山城国風土記・逸文に、「秦伊呂具が餅を的として矢を射たところ、餅が白鳥となって山に飛び去り、そこに稲が生い出た」とあり、稲が生い出たことからとするのが通説だが(上記記述は通説によるもの)、これについては異論があり、続秦氏の研究(大和岩雄・2013)は、イナリ神の前身を鋳物神とする視点から、次のようにいう(私意を加えながら略記する)

 ・公史上で“稲荷”と表記する初見は、日本後記(841)天長4年(827)正月条で、そこには
  「天皇不予であったので占ったところ、先朝の御願寺・東寺の塔建立の用材として稲荷神社の樹を伐った祟りとでた。そこで内舎人・大中臣朝臣雄良を稲荷神の前に遣わして、従五位下の神階を授け奉ったところ、天皇の病は治癒された」(大要、類聚国史にも同意記事あり)
とあり、また続日本後記(869)承和10年(843)12月4日条には
  「従五位下稲荷神に従五位上を授け奉る」
とある。
 ・これからみて、稲荷との表記は9世紀からのことで、それは東寺則ち弘法大師との関係(上記・稲荷伝承、稲を担った老翁の出現)からと考えられる。
 ・9世紀以前、当社が朝廷からの奉齊をうけない秦氏の氏社であった頃の表記は“伊奈利”であって“稲荷”ではない。

 ・これを稲荷とするのは、一般に流布している山城国風土記・逸文にみえる
  「(秦伊呂具)乃用餅為的者 化成白鳥 飛翔居山峰 伊禰奈利生(イネナリオウ) 遂為社名
によるが
 ・その底本とされる延喜式神名帳頭注(卜部兼倶・1503)にはことによる  「乃用餅為的者 化白鳥 飛翔居山峰(コオウ=子を生んだ) 遂為社」
とあり、底本で“生子”とあるところが、流布本では“伊禰奈利生”となっている
 ・これは、近世の国学者によって改変されたもので(伴信友・験の杉-1835に伊禰奈利生とある)、この校注を正しいものとみた後世の学者が、“伊禰奈利生”を踏襲したことによるが
 ・伴信友は、江戸後期の国粋主義・皇国史観から、蕃族(渡来人)である秦氏が“稲が成る”意の“伊禰奈利”を“伊奈利”に替えたと見なして、原文は“伊禰奈利”であると勝手に解釈したのであろう
 ・伊奈利伝承は秦氏の伝承だから、ここでいう“矢”は秦氏伝承の“丹塗矢・鳴鏑矢”の矢と同じであり(賀茂の丹塗矢伝承など)、男根イメージの矢に刺された女性(餅→白鳥)が神の子を生んだことを意味し、“生子”とするのが正しいといえる

 また、ここで的とした“餅”を“米で作った食べる餅”と解釈することから、餅→米→稲→稲荷へと連なっているが、餅を“米の餅”と限定するのは疑問として
 ・秦氏は農耕(稲作)氏族というより、農耕以外の分野で活躍した氏族であり、その一つに金属鍛造・鍛冶業がある(秦氏の業績として治山・治水・開拓などの土木事業が知られているが、これらは鉄製工具を製作使用したことによるという)
 ・米で作った餅=米餅を“タガネ(或いはタガネモチ)”と読む例がある(新撰姓氏録に、「大和国皇別 布留宿祢 天足彦国人命七世孫米餅搗大使主(タガネツキノオオオミ)之後也」とある)
 ・餅は鉼(ヘイ)の俗字で(未確認)、鉼は金属を餅の形に平たく伸べた板のことで(金属や石材の切削研磨に使うタガネの原材料となる)
 ・本来のタガネが、餅の状態と似ていることから、米餅をタガネと読ませたのであろう
 ・秦氏は鍛冶に卓越した氏族であり、イログが的とした餅は米の餅ではなく、タガネの原材料・鉼であったともとれ、
 ・とすれば、イナリの“イ”は金属鋳造の“鋳”であり、イナリとは“鋳成”と解することができる
 ・また古代にあっては、金属を溶かして道具を造る技は偉大な技であり、神秘的な脅威の技であったことから、イナリのイは“偉”或いは“威”ともとれ、それは金属鋳造・鍛冶業に卓越していた秦氏には相応しいといえる

 イナリを稲荷ではなく鋳成と解すれば、イナリ神は“鍛冶の神”とみるのが順当で、
 ・一条院の命により三条小鍛治宗近が御剣を打とうとしたとき、相槌を打つ者がおらず、困った宗近が稲荷明神に祈願したところ、童男に化したイナリ神が顕れて相槌を勤めたことにより名刀を打ちあげたという伝承(別稿・「お山めぐり」参照)
 ・伏見稲荷では、毎年11月8日(午後)に火焚祭が行われ、稲荷大神に五穀の豊穣を感謝する祭というが、本来は、
  和漢三才図会(1712)
   「稲荷神社 祭礼 御火焼(オヒタキ)は11月8日、今の世、鍛冶この日を鞴祭(フイゴマツリ)と称す。古、三条小鍛治宗近と云ふ者刀剣を作りて有りしが未だ如意ならず。是に於て当山の埴土を以て銘刃に堪ふことを覚へて名誉を得たり。以て当社の加護となり、今に冶工・釘工に至るまで総て稲荷を尊信す」
  江戸年中行事(1851)
   「11月8日鞴祭 此日鍛冶・鋳物師・白銀細工 すべて吸草(フイゴ)を使う職人 稲荷の神を祭る。俗にほたてと云、ほたては火焼く也」
とあるように、鍛冶職人等が鍛冶作業の安全と家業繁栄を感謝する祭で、全国から鍛冶関係の人々が集まったという
 ・当社に残る三条小鍛治宗近伝承・フイゴ祭などは、当社本来の祭神が鍛冶神であるとすれば納得できる

 これらから、本来の当社の神は鍛冶神的色彩が強かったが、9世紀以降、弘法大師・東寺との関係が緊密化することによって、次第に稲の神・農耕神の神格が卓越し、稲の神則ち稲荷との表記が定着したと思われる。
 (当社と秦氏との関係については、大和岩雄著・続秦氏の研究に詳しい)

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