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伏見稲荷大社
京都市伏見区藪ノ内町
                                                      2015.09.05再訪

 延喜式神名帳に、『山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次新嘗』とある式内社だが、一般には、そんな格式のあるお宮というより、商売繁盛の神として信仰されている。

 京阪電鉄・伏見稲荷駅南の門前町筋を東へ、JR踏切を過ぎた交差点を右折した先(JR稲荷駅の前)に朱塗りの一の鳥居が立ち、表参道の途中・二の鳥居の先に朱塗りの壮大な社殿が西を向いて建つが、交差点を直進した裏参道を利用する人が多い。
 全国最大の社祠数を誇る稲荷社の総本社・伏見稲荷大社で、見えるものすべてが真っ赤な“稲荷の朱”で彩られている。

 稲荷信仰の原点は、拝殿のうしろに聳える稲荷山を神奈備とする古くからの信仰で、山中にある一の峰(上社)・二の峰(中社)・三の峰(下社)を中心に、それを取りまいて林立する「お塚」への信仰といえる。

※「お塚」の前身
 「お塚」の前身は古墳である。古墳時代前期頃(3世紀)から稲荷山の峰々には大小の古墳が築かれ、秦氏進出以前からこの辺りを支配していた首長の墓域であったという。

 一の峰古墳は円墳(径約50m)・二の峰古墳は前方後円墳(長約70m)、三の峰古墳は墳形不明の前期古墳で、その他にも円墳(後期古墳)があったという。
 今、これらの古墳は姿を替えて、それぞれ「上社」・「中社」・「下社」と呼ばれ、周りには大小の「お塚」が群集し、そこに古墳の痕跡をみることはできない(別項・「お山巡り」参照)

 民俗学では、死者の霊は時が経つにつれて個性を失い、最後には祖霊の中に融けこむという。仏教で33回忌(処によっては50回忌)の“弔い揚げ”以降、その故人への供養を終わらせる風習は、これによっている。
 また、祖霊は村里近くの山に鎮まって山の神となり、春に里に降りて田の神となって子孫の豊饒を見守り、秋の稔りを見届けて山に帰るという、所謂“山の神・田の神交代説”がある。死者→祖霊→山の神→田の神→山の神という構図で、田の神・山の神は穀神・豊饒神的性格をもっている。。

 伊奈利伝承で、穀神が三つの峰に降臨してイナリ神として祀られたことは、稲荷山を中心とする祖霊信仰を受け継いだもので、稲荷伝承で弘法大師が山の神・竜頭太から譲与をうけたことは、古来からの山の神信仰を引き継いだともいえ、そこから豊饒神=穀神としてのイナリ神が誕生したといえる。

※稲荷社の創建
 当社が何時何処に創建されたかは、はっきりしない。
 古来の神社は、今のように常設の社殿があったわけではなく、祭祀の都度“仮の屋代”(神籬)を設けて神を迎え祀り、終わると神のお帰りをまって取り壊していたという。
 いま地鎮祭で、その始まりと終わりに降神・昇神の儀がおこなわれるのも、その土地の神を迎え・お送りするという意で、古いカミ祀りの姿をひいたものである。
 和銅年間とされる伊奈利神顕現に際しても、祭祀の度毎に簡単な屋代(ヤシロ=社)を設けて祀っていたと思われる。

 一方、日本後記・天長4年(827)条の「従五位授与」の記事(淳和天皇不予が稲荷神の祟りとして神階綬叙したとの記録)を嚆矢として、六国史などの古文書に稲荷神に対する神階授与の記事が散見される。
 また公卿等の日記あるいは枕草子などの文学書にも稲荷社に関する記事が見られ、これらからみて、9世紀初め頃には何らかの神マツリの場があったことが伺われるが、その実体は不明。

 続く9世紀後半になると、“稲荷三神”・“稲荷上中下社”といった記述が現れ、稲荷三峰の社が視野に入り、10世紀にはいると“上社・中社・下社”として定着し、そこに人々が参詣していたことが記されている。

 例えば「枕草子」(1000年頃)には、稲荷に詣でた清少納言が、暁の頃から登り始めたものの途中の坂道で疲れはて、巳の刻(am10)にやっと“中の御社”に着いたのに、庶民の中年女性が「今日は七度参りをする。もう三度お詣りした、あと四度ぐらい何ともない」と話ながら山を降りていくのを聞いて、そのたくましさに感嘆した、との記述がある。

 ただ、この頃、今のように山麓に社殿があったかどうかは不明で、上中下の3社がすべて山上にあったとする説、上社・中社は山上にあったが下社は山麓にあったなど、諸説がある。

※伏見大社社殿の建立
 今、上中下の三社はそれぞれ山中に祀られているが、いずれも社名を刻した石祠が立つだけで、簡単な礼拝所はあるものの社殿はなく、壮麗な社殿を構えるのは山麓の伏見大社本殿のみである。

 稲荷社が、稲荷三峰から麓の現在地に遷座した時期については諸説がある。古いものから、
@弘法大師による弘仁14年(823)説で、別記稲荷伝承によるもの(別稿・稲荷神顕現伝承参照)

A僧・長厳による鎌倉時代(13世紀初頭)説で、「稲荷大明神縁起」の
 「長厳僧正が、稲荷大明神が山坂八町の山上に坐すため人々が参詣するのに難儀しているとして祈ったところ、空中に神が現れた。その時、藤森大明神が山麓に鎮座していたので、天皇に奏上してこれを深草に遷し、その跡に社壇を建立した。今の社頭である」
によるもの、

B社史にいう永享10年(1438)説で、「稲荷谷響記」(1732・江戸中期)
 「当社下山の年紀未詳也。或記にいう、永享10年(1438)正月五日、足利6代将軍・義教公の命により稲荷社を山より今の地に遷し奉る」(大意)
によるもので、伏見大社ではこの説を採っている

 これらはあくまでも伝承であって、今これを検証する手段はないが、
 ・平安末期に成立した枕草子(長保2年-1000-頃という)に、“清少納言の稲荷参詣”の記事があり、そこに社殿の記述がないことからみると、弘法大師・弘仁14年(823)遷座というのは疑問といえる。
 ・史書・増鏡(14世紀中頃・南北朝時代)に、「鎌倉期の大風によって上・中社が破壊された」とあるという。
 ・長禄3年(1459、室町初期)に書写された「稲荷社指図」には、山麓に五座の神を祀る“下社”、山上に稲荷大明神を祀る“上社”、山中に中御前を祀る“中社”、その間に神宮寺・五重塔などの寺社が描かれ、神仏習合時代の姿を示している。
 ・この山麓にあった稲荷社は応仁の乱(1467〜77)のとき一武将が陣を張ったため攻められて焼失したといわれ、上記指図は応仁の乱以前に現在地に社殿があったことを示している。

 これらからみると、少なくとも鎌倉時代までには稲荷山中に上・中社が、麓に下社があり、この下社が発展したのが現伏見稲荷大社と推察される。
 なお、社殿は応仁の乱(1467--77)で焼失し明応8年(1499・室町中期)に再建されたといわれ、その後、豊臣時代・江戸時代にも何度か修復されている。

※祭神
 本殿には、中央に宇迦之御魂大神(ウカノミタマ)、その左右に各2座の神を祀り、これら5座を総称して『稲荷大神』と呼ぶ。
 現在の本殿に祀られている神々は次のとおり。

祭神名 田中大神
(タナカ)
宇迦之御魂大神
(ウカノミタマ)
佐田彦大神
(サタヒコ)
大宮能売大神
(オオミヤノメ)
四大神
(シノ)
神 格 田の神? 穀物神 地主神 水神 (不明)
三峰との対応 下社の摂社
(荒神峰)
下社(三の峰) 中社(二の峰) 上社(一の峰) 中社の摂社
(対応峰はない)
神仏習合での本地仏 不動明王 如意輪観音 千手観音 十一面観音 毘沙門天

 ただ、当社祭神については次の諸説がある。
 ・二十二社註式(1468・室町中期) 
    下社−−大宮女命(オオミノヤノメ) 〈伊弉冉尊化身「罔象女命」(ミツハノメ)水神也〉
    中社−−倉稲魂命(ウカノミタマ)〈素戔鳴尊御女稲魂神 播百穀神也 一名豊宇気姫命 伊勢外宮同体〉
    上社−−猿田彦命 〈三千世界地主神是也〉
 ・神名帳頭注(1503・室町中期)−−大市姫(オオイチヒメ)
    本社−−倉稲魂神〈此神素戔鳴女也 母大山祇神女大市姫也 倉稲魂命播百穀神也 故名稲荷歟 〉
    一座−−素戔鳴  一座−−大市姫
 ・水台記(1694・江戸中期)−−伊弉冉尊(イザナミ)・倉稲魂命・素戔鳴尊(下・中・上の順、以下同じ)
 ・稲荷神社考(江戸中期)−−大宮能売神・宇迦之御魂神・須佐之男命  
 ・神社覈録(明3・1870)−−倉稲魂命・天御孫尊・伊弉冉尊
                  田中社−−大己貴命   四大神−−五十猛命・大屋津姫・抓津姫・事八十神
 ・特選神名牒(明9・1876)−−神大市比売命(カムオオイチヒメ)・宇迦之御魂命・須佐之男命
                   田中社−−大己貴命  四大神−−五十猛命・大屋津姫・抓津姫・事八十神
        〈中社にウカノミタマ神 上下の社スサノオ・オオイチヒメ共に御親の神を合祭ると云うぞ 義理も甚よくかなへるが上に、
           摂社祭神も皆スサノオ命の御末なるも由緒ありて聞ゆれば 之に従ふべき歟〉

 これらによれば、ウカノミタマを主祭神とすることでは異論はないが、他2座については異論がある。
 また、古くは主祭神・ウカノミタマは中社(二の峰)の祭神というが、今は下社(三の峰)の祭神とされている。明治の資料に中社・下社2説があることから、明治以降に下社に祀られたかと思われるが、中社から下社に遷された経緯は不明。

 ウカノミタマは“穀物の神”、特に“稲の霊”とされる神で、稲荷神本来の姿といえる。
 古事記では、スサノヲがオオヤマツミ神の女・神大市比売(カムオオイチヒメ)を娶りて生みし子とあり、二十二社註式・神名帳頭注に「百穀を播く神」とあるように穀神(稲の神としての神格が強いという)ということから、同じ穀神である伊勢・外宮の祭神・トヨウケ大神と同体ともいう。
 なお書紀では、火の神・カグツチを産んだためにホトを焼かれたイザナミが気力を失ったときに成った神とあり、そこに穀神の神格はみえない。

 オオミヤノメは記紀には見えないが、古語拾遺(807・忌部氏系史書)に、
  「(天岩屋から顕れたアマテラスを)新殿iに遷しまさし、大宮売神をして御前に侍(サモラ)はしむ。[是、太玉命の久志備(クシビ)に生ませる神なり。今の世に内侍の善言・美詞をもて、君と臣との間を和らげて、宸襟を喜びしむる如し]」
とあり、延喜式の大殿祭祝詞には、“宮殿に出入りする人々や荒ぶる神を治めて平安ならしめる女神”とある(延喜式祝詞教本)
 これによれば、オオミヤノメとは宮殿にかかわる女神と思われるが、それが当社に祀られる由縁は不明。

 一方、二十二社註式には“イザナミの化身でミズハノメ水神也”とある。
 ミズハノメとはイザナギ・イザナミの神生みによって成り出た女神で水神とされる。註式がオオミヤノメとミズハノメを異名同神とする理由は不明だが、オオミヤノメが水神であれば、当社に祀られるのも理解できる。

 ところが、神名帳頭注及び特選神名牒にはオオイチヒメとある。
 オオイチヒメ(カムオオイチヒメ)とは、古事記に「大山祇神の女・名は神大市比売を娶りて生みし子は大年神、次に宇迦之御魂神」とある神で、主祭神・ウカノミタマの母神」とあり(書紀にはみえない)、これまた当社に祀られてもおかしくない。

 地主神としてのサタヒコ=サルタヒコはわからない。高天原から降臨するニニギの道案内の神として現れたサルタヒコは、塞の神や道祖神などと習合しており、二十二社註式に「三千世界地主神也」とあるように地主神とする場合が多いが、その理由は不詳。
 ただ、サルタヒコを祭神とするのは二十二社註式のみで、他はスサノオとするものが多いが、稲荷縁起などからみて、当社にスサノオを祀る理由はみえない。
 主祭神・ウカノミタマの父神(古事記)というのが根拠らしいが、牽強付会の感が強い。

 延喜式・神名帳に「稲荷神三座」とあることから本来の祭神は三座のはずだが、「梁塵秘抄」(リョウジンヒショウ、平安末期の流行歌・今様-イマヨウ-を集めたもの、1169頃)
 『稲荷をば 三の社と聞きしかど 今は五つの社なりけり』
との一首からみると、平安末期には田中大神・四大神の2座が合祀されていたらしい。

 田中大神とは、荒神峰に祀られる田中社の祭神を指すと思われ、田中社に伝わる和泉式部伝承(別項・お山巡り参照)などからみると“田の神”と思われる。
 一方、上記諸説ではオオナムチとするものが多く、出雲神話における国造りの大神・オオナムチ(オオクニヌシ)が当社に祀られるのは、オオナムチが主祭神・ウカノミタマの兄弟神ということが根拠らしい。

 四大神(シノオオカミ)もはっきりしないが、特選神名牒などは五十猛(イタケル)・大家津姫(オオヤツヒメ)・抓津姫(ツマツヒメ)・事八十神(コトヤソ)の五座という。
 イタケル・オオヤツヒメ・ツマツヒメはスサノヲの御子である兄妹神で何れも樹木の神という(古事記)
 事五十神(コトイソカミ)はわからない。古事記によれば、オオナムチの兄弟神に八十神が登場しオオナムチを迫害したという。あるいはこの八十神を指すのかもしれないが詳細不詳。

 これらからみると、当社に祀られる5座の神は、主祭神・ウカノミタマは変わらないが他の神々については諸説があり定説となるものはない。
 特選神名牒は“主祭神・ウカノミタマを中心に、その父母神であるスサノオ・オオイチヒメをはじめとする兄弟神、所謂スサノオ一家の神々を祀る”という。一つの解釈ではあるが、その根拠となるものはない。
 稲荷神顕現伝承などからみて、当社本来の神は素朴な穀神・稲の神であって、それに特定の神名を充てる必要はなく、主祭神・ウカノミタマにしても記紀編纂後のある時期に充てられた神名ではないかと思われる。

 ただ江戸期までの神仏習合時代には、神よりも、その本地仏としての十一面観音(上社)・千手観音(中社)・如意輪観音(下社)を祀るとされていた。
 庶民にとっては、難しい名前の神より身近に見聞きする仏・菩薩の方がより親しみやすく、その中でも特に観音信仰と習合したことが稲荷信仰隆盛の由縁かもしれない。
 ただ三社それぞれの神に何故これらの観音を当てたのかといえば、必然性はなく、よく知られている観音を適当に当てたという以外に言いようはない。

※社殿等

 一の鳥居を入り参道を進むと二の鳥居があり、その先に堂々たる重層楼門(入母屋造・桧皮葺)が建ち、その左右に延びる廻廊(切妻造・桧皮葺)の中が境内。

 楼門・廻廊について、傍らの案内には
  「この建物は、天正16年(1588)6月、豊臣秀吉が母大政所の病気平癒を祈願し、本復お礼の奉加米をもって、翌年再興されたものである。
 その後、元禄7年(1694)、社頭拡張時に西方へ五間移築し、前方の石段が造られ、その時それまで築地塀であった南北廻廊が絵馬殿として新築された。
 昭和48年(1973)の楼門解体修理の際、再興冬至の墨書が発見され、当社の中では本殿に次いで古い建物である」
とある。

 

社殿配置略図

 境内中央に外拝殿(入母屋造・桧皮葺)が、その奥に壮大な唐破風を有する内拝殿(入母屋造・桧皮葺)が、その奥、低い朱塗りの瑞垣(木製)に囲まれた中に朱塗りの本殿(流造・桧皮葺)が建つ。

 この他付属建物として、内拝殿の右手に神楽殿が、本殿右に神饌所が、本殿背後の右手に神輿蔵が、左手に権殿が建ち、その左手から本殿域背後へと続く。


伏見稲荷大社・一の鳥居 

同・二の鳥居 
 
同・楼門
 
同・外拝殿

同・内拝殿 

同・本殿 

◎境内社
 本殿域の左奥(権殿横)から低い石段を登った上の広場に境内社数社が鎮座し、案内には次のようにある。
 ・末社4社−−石段の上すぐの左手にある末社で、左(西側)から長者社・荷田社・五社相殿社・両宮社と並ぶ
   長者社−−祭神:秦氏(当社旧社家)の祖神
     この社殿は、明応遷宮記録(1499)に境内社として現れており、天正の社頭図には本殿の北方に「長者社 西向」と描かれている。元禄7年(1694)現在地に遷座したと伝える
   荷田社−−祭神:荷田氏(当社旧社家)の祖神
     この社殿は、安元2年(1176)荷田氏の祖・荷太夫歿後「稲荷山の命婦の南に社を造り霊魂を祀る」とあり、明応遷宮記録には「命婦の南には荷太夫明神在之云々」と記されている。元禄7年現在地に再興
   五社相殿社−−八幡宮社・日吉社・若王子社・猛尾社・蛭子社を合祀する
   両宮社−−祭神:天照皇大神・豊受皇大神

 ・玉山稲荷神社−祭神:玉山稲荷大神−−石段正面、
   この社殿は、東山天皇(在位:1687--1709)が宮中において奉祀されていた稲荷社を、帝崩御の後、お仕えしていた松尾月読神社の社家・松室重興氏がお預かりし、その後高野(左京区)の私邸内に遷座、明治7年(1874)諸般の都合により当社に遷座された

 玉山稲荷神社の右手から低い石段を登った上に、次の2社がある。
 ・白狐社 祭神:命婦専女神(ミョウブトウメ)
   この社殿は、稲荷大神の眷属を祀る唯一の社で、古くは「奥の命婦」「命婦社」と称された。 
   元禄7年までは、現在の五山稲荷社の辺りにあったと記されている。

 稲荷大神の眷属とされる白狐について、
  「昔、京都の船岡山の辺りに老いたキツネの夫婦がいた。牡は銀の針を立てたような白毛で、尾は五鈷を巻きはさんだようであった。牝は首は鹿で身体はキツネで、五匹の子狐をつれていた。
 弘仁年中(810〜24)、両狐が五匹の子狐をつれて稲荷山に参り、神前にぬかずいて、「我らは畜生の身だが、生まれたときから霊智を供え、世を守り諸人を助けようとの願いをもっている。しかし、狐である我らの身では、この願いを遂げるのは難しい。願わくば、今日から当社の眷属となり、神威をかりてこの願いを遂げたい」と申しでた。

 これを聞いた稲荷神はよろこんで、「汝等の願いは殊勝である。よって、今から長く当社に仕えるものとなり、参詣の人・信仰の輩を助けよ。男狐は名を「小薄(コススキ)」と名乗って上之宮に仕えよ。女狐は「阿古町(アコマチ)」と名乗って、下之宮に仕えよ」と告げられた。
 これから各々十の誓約を立て、万人の幸を守り願いを満たしてきた。
 当社を信仰する人にとっての狐は、告狐(ツゲキツネ)といって霊験あらたかなものである」(稲荷大明神流記、大意)
との説話があり、ここからキツネ、特に白狐を稲荷神の眷属・神使として敬うことが起こったという。

 また稲荷信仰では白狐のことを『命婦』(ミョウブ)と呼ぶが、“白狐社”の祭神『命婦専女神』(ミョウブトウメノカミ)とは、上記伝承にいう女狐・アコマチだという。
 なお15世紀の古図には、中社と下社の間に“人呼塚・命婦塚”の祠が見えるといわれ、これが先の五社稲荷社の辺りであろう。

 “命婦”とは、宮中に仕える五位以上の女官を指すが、それがキツネに結びついた由緒には幾つかの説話がある。
 伏見大社にからむものとして、
  『内の女官に“命の命婦”という人がいた。一条院の御代(986〜1011)、当社に七日間の参籠したが、3日目に月水がはじまった。社人は退出したらといったが、和光同塵の神だからいいだろうと参籠を続け、「心から塵に交はる神なれば けがるることを厭いしもせじ」との一首を奉詠した。
 ところが神から、「長き世の五つの雲の晴れもせねば 月にさわりを忌むとしらずや」とのご返歌があり、恐懼して退出した。その後、この命婦は宇治殿(関白・藤原頼道)の想い人となり、北の政所(正妻)になられた。その時、命婦の号を女狐・アコマチに譲った』(稲荷大明神縁起、大意)
との説話がある。
 一命婦が関白の正妻へと出世したのは、現世利益に験のある稲荷神の御神徳によるもので、その御礼として己の官位を眷属である狐に譲ったとの説話である。稲荷神眷属としてのキツネは、単なる獣ではなく官位をもつ聖獣へと出世したといえる。

 ・奥宮 祭神:稲荷大神
 白狐社の右にある社殿で、案内には
  「この社殿は、本殿と同様の流造で建てられ、摂社でも末社でもなく稲荷大神を祀ることから、他の境内社とは別格の社である。
 長禄3年(1439室町後期)指図には『命婦』と記され、存在が確認できる。明応遷宮記録には西側に八間の廻廊があったと記されているが現存しない。
 現在の社殿は天正年間に建立されたもので、元禄7年に修復されている」
とある。

 
末社・長者社

末社・荷田社 

末社・五社相殿社 
 
同・両宮社
 
末社・玉山稲荷神社
 
末社・白狐社

◎付記
 一の鳥居を入ってすぐの左手(北側)の小広場に小社3社が、訪れる人もなくひっそりと鎮座する。
 ・熊野社 祭神:伊邪那美神
   この社は、平安末期に流行した熊野御幸において、上皇らが稲荷奉幣をおこなった際、立ち寄り礼拝されたと伝えられている

 ・藤尾社 祭神:舎人親王(トネリ)
   この社は、日本書紀を編纂した舎人親王を祀る社で、天正17年(1589)の社頭図に「藤尾社再興 南向き」とあるのが初出である
 その後、延宝8年(1680)、天皇塚が崩れた跡に小社を新築して藤尾社として創建したのが始まりである

 なお、この藤尾社は深草にある藤森神社(伏見区深草鳥居崎町)東座(祭神:舎人親王)の前身といわれ、稲荷明神縁起に、
  「稲荷山中の社が山麓の現在地に遷ったとき、山麓には藤森大明神が鎮座していたので、天皇に奏上して、これを深草に遷し、その後に社殿を建立した」
との伝承が記されている(別項・藤森神社参照)

 ・愛魂社(アイコン) 当社関係の諸霊を祀る社

 
全 景
 
熊野社
 
藤尾社
 
愛魂社

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