トップページへ戻る

伏見稲荷大社/お山巡り
                                                         2015.09.05再訪

 伏見稲荷大社本殿の背後(東)の稲荷山(H=233m)山中には、一の峰・二の峰・三の峰(稲荷三峯ともいう)の神蹟を中心に、巡拝路沿いに“お塚”と呼ばれる大小の石祠が林立し、その周りは朱色の小鳥居によって埋めつくされている。

 この稲荷山中の巡拝路を巡り“お塚”を拝して廻るのが“お山巡り”で、“お山する”ともいう。
 一般参詣者は山麓に建つ壮大・美麗な朱塗りの本殿を拝することで稲荷大社に詣ったとする人が多かったが、千本鳥居に代表される朱の鳥居が観光スポットとして著名になったことから、多くの人々(外国人特に中国系の人が多い)が稲荷三峰の辺りまで入るようになってきた。

 一の峰・二の峰・三の峰とは、その昔、イナリ神が降臨したとされる峯として、イナリ信仰の原点ともいうべき神蹟で、上社・中社・下社とも呼ばれる。

 “お塚”とは、個々人が己の信仰する神の名を刻して建立した石祠で、明治以降盛んとなったといわれ、今、その数は一万基を超えるという(稲荷大神・2009、大社宮司・中村陽監修)
 お塚には、末広大神とか福繁大神・白玉大神など見慣れぬ神名が刻されているが、これらの石祠は個々人が私的に建立・奉納したものといわれ(石祠奉納に大社としては関与していないという)、イナリ信仰の庶民性・親近性、底辺の広さを示すものといえる。

 奥宮奉拝所に掲げる案内図によれば、お山巡拝所要時間約2時間とあるが、廻り方では2・3時間を要するもので、以下、巡拝した順路に従って概要を記す(主に案内略図等に見えるもの)

[奥宮から四つ辻まで]

 お山巡りは、本殿背後にある奥宮の右手(南手)から始まり、お山巡り入口→千本鳥居→奥宮奉拝所→朱塗鳥居列・根上り松→こだま池(新池)・熊鷹社→三つ辻→三徳社→四つ辻へと続く。

※朱の鳥居--千本鳥居
 稲荷といえば“赤い鳥居”を想起するように、稲荷社の鳥居(石造を除く)は“朱色”に塗られ「稲荷朱」(イナリアカ)とも呼ばれる。

 本殿裏手右側からはじまる朱鳥居のトンネルを抜けると、通称『千本鳥居』に出、数百本の朱い鳥居列が2本のトンネルをなしている(奉拝所前で一本になる)
 天気のよい日、互いに近接して立てられた鳥居のトンネルは、隙間から漏れる日差しをうけて朱一色に輝き、トンネル内に明暗くっきりしたマダラ模様を落としている。

 また、お山巡り巡拝路(参道)沿いにも朱鳥居のトンネルが断続しながら続き、お塚の周りにも小型の朱鳥居が所狭しとばかり奉納されている。

巡拝路・略図(梯子模様は鳥居列)

 鳥居を奉納するのは、「願いが通るように」という素朴な願いからといわれ、千本鳥居をはじめとして稲荷山中の鳥居は大小を問わず信者から奉納されたものという。
 鳥居の柱には奉納者の氏名(会社名)・住所・年月日などが墨書されている。平成になってのそれも多々見うけられ、遠隔地のものもあり、時代・地域を超えた稲荷信仰の広がりを示している。

 “朱色”は生命の根源である血の色で、生命の躍動を示す。水銀から採られた朱色は色があせないことから、古代人にとっては“生の色”・“死の色”でもあり、邪霊・悪霊を排除する僻邪(ヘキジャ)の色ともされてきた。
 稲荷社に朱塗りの鳥居を立てるのは、単なる標識・飾りというより、社・霊地の神聖性を守る呪的行為ともいえ、鳥居そのものが、聖と俗の境界に立つ呪物であることから、その呪力をより強力なものにするのが朱色ともいえる。
 なお、稲荷山中から採れる赤土は水銀の含有度が高く、これも稲荷社全体を彩る朱色に通じるという。


お山巡り入口 
 
千本鳥居・入口
 
千本鳥居・内部
 
朱鳥居
 
朱鳥居・外観

同 左 

※奥社奉拝所
 千本鳥居を抜けた先の広場に奥社遙拝所が、傍らに“おもかる石”と称する石がある。俗信では、石(石灯籠の宝珠)を持ち上げて、軽ければ願いが叶うという。
 広場の左手にある鳥居列を入った先が四つ辻に至る参詣路。


奥社奉拝所 
 
同・社殿

※根上がり松
 奉拝所前から参道を進んですぐの左手、鳥居列の外に“奇妙大明神”との小祠がある。
 小祠といっても祠があるわけではなく、松の木をご神木とする拝所だったようで、かつて2本の幹(片方は枝か)が“h”形に連なっていたことから、通称“根上がり松”あるいは“膝松さん”と呼ばれたという。
 今は枯れてしまって、上部の接続部が脱落し、残部を白布に巻かれた異様に姿を呈しているだけで、曾ての姿を想像することはできない。なお、脱落部分とおぼしき残片が白布に巻かれて背後に置かれている。

 この松は、ネアガリとの呼称から投資家達から崇敬を集め、また、その下を潜ると神経痛や肩こりに効用があるとの俗信があったというが、今は詣る人もないようで(気づく人もない)、賽銭箱も朽ちかけている。


根上がり松・鳥居 
 
根上がり松(現在)
 
かつての根上がり松
(資料転写)

※こだま池(谺ケ池、新池ともいう)熊鷹社

 奉拝所前から四つ辻に至る参道の中程に“こだま池”(谺池・新池ともいう)との小池があり、その傍らに“熊鷹社”と称する“お塚”がある(右写真、中央にみえる建物)

 コダマ池は、元は稲荷山三峰の遙拝所だったといわれ、池の畔で拍手を打つと、反響するコダマの遠近で願い事成就の遅速を占うとも、尋ね人のある人が拍手を打つと、コダマが返ってくる方角に必ず手がかりが得られるという俗信があるという。

 

 池の中に突き出て建てられた熊鷹社は社殿というより、四周を朱塗りの板塀と幔幕に囲われた大きな覆屋といった建物で、
 その中、3・4段に積まれた基壇の上に熊鷹大神と刻した“お塚”が立ち、白狐の石像数基と多くの蝋燭が奉納されている。
 社前の茶店の方は、「お稲荷さんですから商売繁昌の神で、加えて勝負事の守り神だそうです」というが、水商売関係の信者が多いともいわれ、何時行っても数多くの蝋燭が奉納されている。ただ、鎮座由緒・時期など詳細は不明。

 
熊鷹社・側面
 
同・社殿(覆屋)
 
同・お塚

※三徳社
 熊鷹社から参詣路を進むと三つ辻に達し、そこを右折した左側にある“お塚”(途中にもお塚が点在する)
 俗信では、この“お塚”に祈願すれば三つの願い事を叶えてくれるというが詳細不明。
 仏教でいう三徳とは、仏のもつ智徳(全てを見通す)・断徳(煩悩を断じ尽くす)・恩徳(衆生に恵みを施す)をいうが、狐がもつ智・仁・勇の三徳ともいう。多分後者であろう。

 
三徳社
 
同・拝所 

[四つ辻から稲荷三峰へ]

 四つ辻から山中の巡拝路沿いの“お塚”を拝しながら稲荷山の周囲を一周するのが、お山巡りの本番。
 巡拝ルートは四つ辻から右回り(時計回り)が正式というが、2軒の茶屋の間から入る左回り(反時計回り)の順路がわかりやすい。

 巡拝路沿いには大小様々な“お塚”が密集しているが、主なものとして、三の峰(下社)→間の峰(荷田社)→二の峰(中社)→一の峰(上社)→春繁社→御剣社(長者社)・剣岩→薬力社→傘松社→御膳谷奉拝所→眼力社→大杉社などがあり、一周して四つ辻に帰る。

 また、四つ辻の左手に荒神峰が聳え、石段を登った上に田中社が鎮座する。

 山中には数多くのお塚が群集するが、これらの内、一の峰(上社)・二の峰(中社)・三の峰(下社)・間の峰(荷田社)・御剣社(長者社)・御膳谷・荒神峰(田中社)は七神蹟として別格とされるという。
 これらの“お塚”の殆どが明治以降の造営というが、個人の造営が殆どで鎮座由緒などは不明。

巡拝路・略図

※稲荷三峰(一の峰・二の峰・三の峰)
 稲荷山の南側山腹に連なる稲荷三峰は、地形にあわせて西から東に向かって(三の峰→二の峰→一の峰)段々に高くなり、稲荷山主峰の頂き(標高233m)に一の峰が立地する。

 稲荷三峰とは
 ・年中行事秘抄(鎌倉中期)
  「この神、和銅年中、始めて伊奈利山の三箇峰の平処に顕れ給ふ」
 ・稲荷谷響記(1732・江戸中期)
  「当山の絶頂に三峰あり。麓より十町余りあり、各々相次いで高し、上社・中社・下社三所の神座の旧蹟なり」
とあるように、その昔、イナリ神が降臨したと伝える神蹟である。

 峰とはいうものの巡拝路から3~4mほどの高さで、石段の上に礼拝所が、その後ろに“お塚”が屹立するのが基本構成で、お塚の形態などに多少の違いはあるものの、全体構成に大きな違いはない。。

◎祭神
 今、稲荷三峰の祭神は、
 ・下社:宇迦之御魂大神(ウカノミタマ)・中社:佐田彦大神(サタヒコ)・上社:大宮能女大神(オオミヤノメ)
というが、古くは
 ・二十二社註式(1469・室町中期)--下社:大宮女神(オオミヤノメ)・中社:倉稲魂神(ウカノミタマ)・上社:猿田彦神(サルタヒコ)
 ・神名帳頭注(1503・室町中期)--本社:倉稲魂神・一座:素戔鳴(スサノオ)・一座:大市姫(オオイチヒメ)
 ・水台記(1694・江戸中期)--伊弉冉尊(下社・イザナミ)・倉稲魂命(中社)・素戔鳴尊(上社)
 ・稲荷神社考(江戸末期)--下社:大市姫命・中社:宇迦之御魂神・上社:須佐之男命
 ・神社覈録(明3・1870)--下社:倉稲魂命・中社:天御孫命・上社:伊弉冉尊
 ・特選神名牒(明9・1876)--下社:神大市比売命・中社:宇迦之御魂神・上社:須佐之男命
などの諸説があったという(別稿・「伏見稲荷大社」参照)

 しかし今、三峰の各社頭に掲げられている幟旗や礼拝所の神額や幔幕には、「白菊大神」(下社)・「青木大神」(中社)・「末広大神」(上社)と大書されている。
 これらの大神の由縁および稲荷三峰の祭神との関係は不明。また、これらの神蹟の周りには、○○大神と刻んだ小型の“お塚”が取りまき、朱塗りの小鳥居とキツネの置物が奉納されている。

 伏見大社の話では、稲荷山で大社がかかわっているのは7神蹟だけで、他は一般信者が私的に築いたもので、その由来などはわからないという。
 とすれば、三社に掲げている末広大神以下の神名も信者が勝手につけた神名かもしれない。しかし、大社が管理する神蹟に別の神名を勝手につけられて黙っているのもおかしな話ではある。

◎一の峰(上社)
 稲荷山山頂(233m)にある“お塚”(神蹟)
 正面鳥居脇の案内には、
  「一ノ峯(稲荷山山頂)
   上ノ社御神蹟
   この処は、稲荷山一峯と称し、上社の御神蹟の霊地であります」
とある(二の峰・三の峰も同じ)

 稲荷山の頂上にあることから主祭神を祀るお塚と思われるが、今はサタヒコ(サルタヒコ)が鎮座している。古資料ではスサノオとするものが多く、スサノオが主祭神・ウカノミタマの父神であるからという。

 正面の鳥居から石段を上がった上に赤い幔幕を張った礼拝所の後ろ、小振りの鳥居の奥に“お塚”が立つ。
 お塚は、前に3基(中央:稲荷大神、右:末広大神、左:福吉大神?・熊吉大神?と刻する)、後ろに注連縄を巻いた巨石一基が鎮座する。

 
上社・正面
 
同・礼拝所

同・お塚(正面) 
 
同・お塚(左より)
 
同・お塚(右より)

同・神蹟周りのお塚 
 
同 左 

◎二の峰(中社)
 巡拝路の中央付近にある“お塚”で、古史料では主祭神・ウカノミタマを祀るいうが、今はオオミヤノメが鎮まるという。
 正面石段を登った上に拝所(神額には『中之社』とある)があり、その奥に『稲荷中社神蹟』と刻した大きな“お塚”一基が立つ。
 また、拝所に掲げる幔幕、石段両側に翻る幟旗には『奉納 青木大神』とあるが(拝所幔幕も同じ)、神名の由来などは不明。

 
中社・正面

同・拝所 
 
同・お塚

同・神蹟周りのお塚 

同 左 

◎三の峰(下社)
 四つ辻が最初に至る“お塚”で、今、主祭神・ウカノミタマが鎮まるというが、古くはオオミヤノメあるいはオオイチヒメが祀られていたという。
 石段上に『下之社』との神額を掲げ、『白菊大神』との幔幕を張った拝所があり(幟旗も同じ)、その裏、石製鳥居の奥の『稲荷下社神蹟』と刻した“お塚”一基が立つ(刻された下の字は下が短い二の字で表記、下を意味する古字という)


下社・正面 
 
同・拝所
 
同・お塚

同・神蹟周りのお塚 
 
同 左
 
同 左


 お山巡りに関連して、平安時代の才女・清少納言は、その著・枕草子(1000年頃)に、中社辺りでの出来事として、
 「羨ましげなるもの(151段)
 一念発起して稲荷に詣ったが、中の御社辺りの急坂を苦労しながら登っているのに、後ろから来る人たちが苦しげもなく追い越していくのは、実に羨ましいものだ。
 2月午の日、暁に家を出て、坂を半ばほど歩いたところで、もう巳の刻(10時頃)になってしまった。ぼつぼつ暑くなって、何のためにこんなに暑い日に詣ろうとしたのかと情けなくなって涙を流し、息をきらして休んでいると、40余りの普通の女が、『今日はは七度お詣りをしようとして既に3度終わった。あと4度などたいしたことではない。未の刻(13~15時頃)には帰路につけるだろう』と、語りながら通っていったが、それを聞いて、今すぐに、この女のようになりたいものだと思えた」(意訳)
と記している。

 これからみると、平安中期の頃には、2月初午の日の稲荷三峰参詣が流行していたことが窺えるが、そこに、山麓の状況について記していないことからみると、この当時、山麓の社殿はなかったかと思われる。

※荷田社--間の峰(アイノミネ)
 二の峰(中社)と三の峰(下社)の途中・間の峰にある。峰とはいっても周りとの高低差はなく、巡拝路が鍵型に折れる突きあたりに鎮座鋳る。
 拝所に掲げる神額には『荷田社』、幔幕には『伊勢大神』とあり、社頭の案内には
  「間の峰 荷田社御神蹟 此の処は稲荷山間の峰と称し、荷田社の御神蹟の霊地であります」
とあるだけで、詳細不明。

 ただ、この石祠とは別に、本殿裏左手に末社・荷田社が、外拝殿の右手にある東丸(アズママロ)神社境内にも“荷田社”との小祠があり、案内には
 ・末社荷田社
   末社・荷田社、御祭神:荷田氏(当社旧社家)祖神
 ・東丸神社の荷田社
   荷田社は東丸神社の祭神・荷田東丸命(カタノアズママロ)の遠祖・荷田殷・嗣・早・龍の四座を合祀する。
   和銅4年稲荷大神稲荷三峰鎮座の際、最初に奉祀したのが第 21代雄略天皇の皇子・磐城王の裔であって、爾来荷田家は代々稲荷社正宮御殿預職を勤めましたが、この祖神のうち特に龍は高徳で学問をよくし、弘法大師とも親交があり、龍頭太夫・龍頭太(リュウトウタ)などとも称せられた。
 弘仁8年12月12日、その帰天のとき、雷鳴風雨激しく、早咲きの梅花悉く裏向きに降らし、黒雲を呼び、あかたも龍神昇天の如くあったと伝えられています」
とある。
 ここでいう荷田龍の別名・龍頭太とは、稲荷伝承で弘法大師の前に稲荷山の地主神として顕れた龍頭太を指すと思われ(別稿・稲荷神顕現伝承参照)、当社旧社家の一・荷田氏に伝わる伝承であろう。
 なお、東丸神社の祭神・荷田東丸命とは、江戸中期の国学者・歌人で、賀茂真淵等とともに国学の四大人(シタイジン)と呼ばれたの荷田春満(カタアズママロ、1669--1736)を指す。

 
荷田社・社頭

同・拝所 
 
同・お塚

末社・荷田社
 
東丸神社の荷田社

※春繁社
 参詣路を一の峰(南)から東へ回り込んだ処にある“お塚”で、春繁大神を祀るというが神名由来等詳細は不明。

 
春繁社・拝所
 
同・全景
 
同・お塚

※御劔社(ミツルギシャ)--別名:長者社
 一の峰を過ぎて、お山の東から北側に回り込んだ処にある小祠で、拝所の背後、やや小高いところにある注連縄を張った巨石・劔石をご神体とする。

 社頭の案内には、
 「劔石 長者社御神蹟 此の処は稲荷山剱石(ツルギイシ)と称し 長者社の御神蹟の霊地である」
とあり、社前の茶店に掲げる案内には、
 「御神体は社殿奥にある御劔石(ミツルギイシ・雷石)。御劔石は長者社の神蹟であり、稲荷山に存在する他の六つの神蹟地[神様が鎮まり、かつて祠があった場所。応仁の乱で祠が焼失し、再建されずに現在に至る]と同じく、古くから神祭りの場であったことがうかがわれる」
とある。

 朱の鳥居を入った右手に拝所が、その裏に劔石が鎮座し、拝所内には御劔大神と記された朱の小鳥居がうずたかく奉納されている。
 この“お塚”は信者が多いとみえ、何時行っても熱心に祈る人がみえる。

 長者社といえば本殿裏の左にも同名の小祠があり、『末社・長者社 御祭神:秦氏(当社旧社家)祖神』とある。伊奈利伝承にいう“秦伊侶具”(ハタノイログ)を祀った祠で、イログが長者であったことから“長者社”と称するのだろうが、この末社・長者社と当社との関係は不明。

 
御剣社・社頭
 
同・拝所
 
同・拝所内部

◎劔石
 この劔石は、古く稲荷山十二景のひとつとされ、古書に「巨石は高さ一丈(約3m)あまり、周囲は四抱えほど、苔生した様は奇怪な形で、“剱巖の蒼苔(アオゴケ)”という」(意訳)と詠われたという。
 巨岩をご神体とするのは古代信仰のひとつ“磐座(イワクラ)信仰”からくるもので、巨岩に注連縄が巻かれているのは、これが“聖なる磐座”であることを示している。

 またこの磐座には、『昔、この岩に雷が落ちたので、神人がマジナイをして雷をこの岩に封じ込め縄で縛った』との伝承があり、“雷岩”とも呼ばれたという。
 稲荷伝承にいう山の神・竜頭太は「その面 龍の如し」というように、竜の面影をもっている。竜は水を司る水神で、それは雷に連なる。
 この岩に雷が落ちたというのは、稲荷神が竜頭太として顕現する以前の雷神(水神)信仰を示唆するといえる。

 なお、この磐座は“雷岩”であって、“劔石”は拝所の中にあるともいうが、拝所の中がどうなっているか確認できない。

   

◎小鍛冶伝承
 御剱社に関連する伝承として、謡曲に“小鍛治”(コカジ)という一曲がある。
 その粗筋は、
  「一条帝が『三条の小鍛治宗近に剣をうたせよ』との霊夢を受け、勅使を派遣して剣を打つよう命じる。
 宗近は相槌を勤めるに相応しい相手がいないと困惑し、氏神である稲荷明神に祈願に行こうとする途中で、一人の童子(イナリ神の化身である白狐)が現れ、『剣を打つ用意をして待て』と告げて姿を消す。
 宗近が注連縄を張って祭壇を清め諸神に祈りを捧げていると、先ほどの童子が現れ、宗近の相槌を見事に勤め、剣の表に小鍛治宗近、裏に小狐との銘を入れ、この名剣は天下泰平・五穀豊穣をもたらすとして勅使に渡し、己は稲荷山へと飛び帰っていく」
というもので、後半部で、宗近と童子(白頭の冠を被り小飛出-コトビデの面を付ける)とが槌をもって剣を打つ様を、
 「(童子が)さて御剣の鉄(カネ)はと問えば、宗近も、心を先として鉄取り出し、教えの槌をはったと打てば、ちょうと打つ、ちょうちょうちょうと打ち重ねたる槌の響き、天地に聞こえて夥しや」
と詠う。

 
小鍛治・後シテ(霊狐)
   能面・小飛出

 ここで相槌を務めた童子はイナリ神の命をうけた白狐といわれ、白狐はその童子性・飛翔性あるいは叢雲に乗って飛び去ったことなどから雷神との関係が強いともいう。
 ただ、ここでのイナリ神は、一般にいう稲の神というより、鍛冶神としてのイナリ神が童子として化現して相槌を打ったと解する方が筋がとおる。

 なお、別伝として
  「当社を篤く信仰していた小鍛冶宗近が、神の託宣を受けて当山の土をもって焼刃用の土とし、狐の教えのまま刀を打って利刀を得た」(稲荷谷響記)
との伝承があるという。
 ここでいう“焼刃用の土”とは、焼き入れに際して刀部に鋭利さを・峯部に粘りを与えるために刀身を覆う土のことで、古くから、稲荷山出土の赤土は焼刃土として最適とされてきたといわれ、それはイナリ神がもつ鍛冶神的神格に通ずるという。

◎焼刃の水
 拝所の左奥、石垣の下に“焼刃(ヤケバ)の水”と呼ばれる小さな井戸がある。今も湧水があるようだが、はっきりしない。
 茶店に掲示する案内には
  「謡曲“小鍛治”では、勅命を受けた山上小鍛治宗近が、この地で稲荷大神の力を借りて名刀“小狐丸”を鍛えたとある。
 これにちなみ、鉄工の神様、ものづくりの神様として金属加工事業者や製造業者の信仰を集めている。
 例年、11月8日には火焚祭が行われる」
とある。

 案内には、三条小鍛治宗近は当地で名剣を打ったというが、
 ・宗近は平安中期に実在した刀匠で、三条粟田口に住んでいたこと、
 ・謡曲・小鍛治が
  「其の氏の神は稲荷の明神なれば、これより直ちに稲荷に参り、祈誓申さばやと存じ候」
と語ることから、
 宗近の鍛冶場は三条にあったと思われ、案内がこの辺りで名剣を打ったというのは平仄があわない。
 因みに、製鉄に従事する鍛冶職を大鍛冶、刀剣を打つ刀工を小鍛治と称したという(包丁・農具などは野鍛冶)

     

 今、伏見大社では、11月8日に“火焚祭”がおこなわれている。資料(稲荷大神)には、
  「火鑽(ヒキリ)で熾された忌火をもちいて神田で採れた新藁を焚きあげる神事で、稲魂が宿る藁を焚きあげることで、大神の御魂を元の座に返し、来る年の復活を請う意味と考えられる。
 火を用いた神事には、遊離しようとする御魂を元に鎮めるとともに、活力を振り起こして蘇らせる鎮魂の意味が込められている」
とあり、新嘗祭に先立って行われる鎮魂祭が仏教・修験道などと習合して、形を変えたものと思われる。

 この火焚祭は俗に“フイゴ祭”とも呼ばれたが、それは、江戸時代までの呼称・“吹革祭”(フイゴ)によるもので、全国の金属加工業・鍛冶業などに従事する人々が多数参詣したという。
 この祭をフイゴ祭と俗称するのは、イナリ神の原姿が鍛冶の神であったことの名残とみることができる(以上、別稿・稲荷神顕現伝承・追加の項参照)

◎合槌稲荷明神社
  京都市東山区中之町
 小鍛治宗近が住んだという三条粟田口には“合槌稲荷明神社”との小社がある(地下鉄東西線・東山駅の東)
 三条通りの北側、民家に挟まれて淡い朱色の鳥居が立つ参道(路地)があり、狭い路地を進んだ先に鎮座する。鳥居右手に「合槌稲荷神社参道」との石柱と案内板があるが、気づく人は少ない。

 参道入口に立つ案内には
  「ここは刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通りの南側・粟田口にあったと伝える。宗近は信濃守粟田藤四郎と号し、粟田口三条坊に住んだので三条小鍛治の名がある。
 稲荷明神の神助を得て名剣・子狐丸を打った伝説は有名で、謡曲『小鍛治』も、これを基にして作られているが、その時合槌をつとめた明神を祀ったのが此処だという。
 なお宗近は平安中期の人で、刀剣を鋳るらに、稲荷山の土を使ったといわれる (謡曲史跡保存会)」
とある。

 
合槌稲荷社・参道入口

同・社殿 
 
同・拝所内陣

※薬力社・薬力の瀧・薬丸社・石井社・おせき社
 御劔社から西へ進んだところに、薬力社他の“お塚”が4基ほど集まるが、いずれも、その由緒など不明。
 薬力社近くの岩場に囲まれた奥に“薬力の瀧”と称する小さな瀧があるが、気づく人は少ない。かつての行場跡と思われる。

薬力社・拝所

同・お塚

薬力の瀧

薬丸社・拝所 
 
同・お塚 
 
石井社・拝所
   
同・お塚
 
おせき社・拝所
   
同・お塚

※傘杉社・三本杉社・二本杉社・天龍社
 薬力社前の二股になった巡拝路を右にとった先にある“小祠”。
◎傘杉社--拝所の後ろに、梢が傘のように開いた杉の大木がある
◎三本杉社--拝所の後ろに、杉の大木3本が近接して立っている
◎二本杉社--巡回路をはさんで傘杉社の反対側の谷筋にある小祠で、背後に杉の大木が立つ(ただ、2本とはみえない)

 この辺りには杉の木が多く、その中で特異な姿をした杉の大木をご神木としたもののようで、資料・稲荷大社には、
 「稲荷山の杉の小枝を折って身に付け、参詣した証とすることが平安時代から盛んとなった。これを『験の杉』(シルシノスギ)という。2月の初午詣での際に特に求められたため、
  『きさらぎや けふ初午のしるしとて いなりの杉は もとつ葉もなし』
     (2月初午の頃、人々が参詣の験として小枝を持ち帰ったため、稲荷の杉は葉がなくなってしまったであろう)

などと詠まれ、多くの人が杉の小枝を持ち帰ったことが知られる。
 玉串や神籬(ヒモロギ)と同様、神木の枝に神霊が宿っていると見なしたものと思われ、現在の大社では、初午大祭の時に授与されている」
とあり、古代の樹木信仰を引き継いだものといえる。

 
傘杉社の杉
 
同 左
 
二本杉社

三本杉社・拝所 
 
同・杉
 
初午で頒布する
験の杉
(資料転写)

◎天龍社--傘杉社から西へやや離れた山腹にある“お塚”。小川が流れる谷筋に面しており、社名からみて水神信仰の小祠であろうが詳細不明。


拝所への石段 
 
天龍社・お塚 

※御膳谷奉拝所(ゴゼンダニホウハイショ・山上祈禱所がある)
 三の峰(下社)から北に峯を越えた処にある“お塚”群集地だが、朱鳥居が林立する石段(3ヶ所あり)を登った上に位置し、参詣路からは直視できない。
 参詣路から高くなった一画に、力松社・奥村社を中心に200基余りの“お塚”が密集している。

 この地は、稲荷山三峯の峡谷が集まるといわれ、参詣路脇に立つ「御日供奉献のご案内」には、
  「この御膳谷は、その昔稲荷大神が稲荷三峯に御鎮座の頃、御饗殿(ミアヘドノ)・御竈殿(ミカマドドノ)等が設けられた処で、《神々の前の谷》と称せられた由緒ある地であります。
 古人はこの場所で種々お供えをしたところから御膳谷の字が充てられ、世情の平穏・安泰・穣災・招福を祈ったと伝えられております」
とある。
 なお、中央石段を上がった上に“山上祈禱所”があり、「稲荷山神域のお塚の神々に日々御饌供進の誠を捧げる御日供(オニック)がおこなわれています」とある。


御膳谷入口 

御膳谷・力松社 
 
同・お塚
 
御膳谷・奥村社

同・お塚 
 
山上祈禱所
 
御膳谷・お塚群
 
同 左
 
同 左

※眼力社
 御膳谷から四つ辻方に進んだ左手の山麓にある“お塚”、俗信では眼病治癒に験ありという。
 拝所内には朱の小鳥居と蝋燭が奉納され、その背後の山腹、覆屋の中に“願力大神・石宮大神”と並刻されたお塚が立つ(二つの大神名を刻したお塚は各処に見られる)
 一般に、手水の吐水口は龍頭が多いが、当社のそれは、狐が口にくわえた青竹から水が流れ出るといった珍しい形をしている。


眼力社・社頭 
 
同・お塚
 
同・お塚
 
同・拝所内陣
 
同・狐の吐水口 

※大杉社
 御膳谷と四つ辻の中程にある小祠。
 巡拝路に沿って連なる朱鳥居列の先に拝所があり、その背後の覆屋の下、御簾に囲まれて注連縄を巻いた枯木が立っている。これが大杉社の由来となったご神木で、拝所の横にある杉の大木が現在のご神木かもしれない。


大杉社・社頭の鳥居列
 
同・拝所
 
同・ご神木(枯木)
 
同・ご神木?

※「お塚」
 以上記した以外にも、上中下社神蹟の周りや巡拝路の各処に中小の“お塚”が群集し、その前には朱塗り小鳥居と石または陶製の白狐像が奉納されている。

 資料・稲荷大神には
 「個人が石に神名を刻んだ“お塚”を稲荷山中の神蹟周辺に奉納する信仰が、明治以降に盛んとなった。“お塚”の多くは末広大神や薬力大神など、個人が稲荷神に寄せる信仰に基づく神名となっている。
 明治の初期には約2500基だったお塚は次第に数を増し、現在は一万基を超えるという」
とある。

     
     

 お塚に彫られた神名には、稲荷三峰の末広・青木・白菊大神をはじめとして、白髭・白竜・白狐・玉姫・奥村・高倉大神といったものから、伊勢・春日・諏訪大神といった著名な神名あるいは弁財天・夷・布袋などの福神まで種々雑多な神名が見うけられ、中には、脳天大神・勝美乃大神・大学大神といった面白い(信仰する人には失礼だが)お塚も見かける。
 これらの神々が祀られた由来などはわからないが、朱の鳥居と同様、稲荷神を信仰する人々の素朴な願望・心情を表したものとみられ、それだけ、稲荷神にかける人々の想いが多種多様であることを示している。

 信仰する人にとってはそれ相応のご利益(現世利益を求めるお塚が殆ど)があるのだろうが、伏見大社では、すべて私的に祀られたもので由緒など不明といっている。これも不思議な話ではある。

※田中社--荒神峰
 巡拝路が交差する“四つ辻”左にある石段登った「荒神峰」の頂きに鎮座する。荒神峰も古代の古墳だという。

 拝所に掲げる神額には「田中社」、拝所・幟旗には「権太夫大神」とある。
 田中社の祭神は本殿五座のひとつ“田中大神”であろうが、古書・「社司伝来記」に『荒神峰は、山神を祀る処』とあるだけで、その神格、鎮座由来などは不明。

 ただ、明治初期の古資料神社覈録・特選神名牒には『田中社 大己貴命』とあり、出雲の大神・オオナムチ(オオクニヌシ)を当てているが、何故オオナムチなのかは不詳。
 特選神名牒は「伏見稲荷大社の祭神5座はスサノオ命及びその后及び御子たち」であり、田中大神は御子の一人オオナムチだという(オオナムチは主祭神ウカノミタマの兄弟神)
 一つの見解だろうが、稲荷神の顕現伝承からみてスサノオ一家を祀るとするのには疑問がある。

 一方、当社にかかわって、
  「和泉式部が稲荷に参る途中、田中明神の辺りで時雨れてきたので、稲刈りをしていた童から襖(アオ、上着)を借りて参詣を済ませ、帰りには晴れてきたので童に返した。
 次の日、式部がふと見やると、部屋の隅に“大きやかなる童”が文をもって佇んでいたので、何者かと問うと、この文を差し上げたいと答えた。
 文をひろげてみると、『時雨れする稲荷の山のもみぢ葉は あおかりしより 思いそめてき』とあった。この歌に心打たれた式部は、童を部屋に招き入れた」
との伝承がある(古今著聞集・巻5、大意)
 この伝承で、童が稲を刈っていたことは、童が田の神・穀神であることを示唆するもので、式部に襖を貸した童は田中大神の化身で、式部はカミの訪れを待つ巫女ともみられ、神と巫女との神婚によって豊饒がもたらされるとの説話のひとつと思われる。
  今、田中社は下社の摂社とされているが、和泉式部伝承からみて稲荷三峰とは別系統の田の神(山の神)かとも思われ、同じ穀神ということでウカノミタマを祀る下社に取り込まれたのかもしれない。
 
田中社・参道
 
同・拝所
 
同・お塚
 
同・お塚

トップページへ戻る