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イラン/イスファハーンと王の広場

 イラン高原のほぼ中央部にある古都・イスファハーンは、イラン高原最大の川・ザーヤンデルードの北側に位置する。ザーヤンデルードとは“恵みを生み出す”との意で、その名のとおり、この川あってこそのイスファハーンである。

 イスファハーンは、紀元前6世紀頃のユダヤ人町・ヤフ−ディヤと、ササン朝時代(226--642)の軍営基地・ジェイフという二つの町を核として始まったという。
 そのイスファハーンが脚光を浴びたのは、サファーヴィー朝(1501--1736)がこの地に首都をおいたときに始まる(1588)
 この王朝は、13世紀中頃から続いたジンギスカンからチムールに至るモンゴル系民族の支配に代わって、300年ぶりに興った在地印欧系民族の王朝である。

 サファーヴィー朝の最盛期は、第5代・アッパースT世(1588--1629)時代で、王は旧都タブリーズからこの地に遷都し、旧イスファハーンの南西部に「王の都」を中心に宮殿域・モスクなどを擁する新都市を建造、既成市街地の中心広場やバザールと結ぶことで商業活動を活発化し、併せて宮殿域の西側にザーヤンデルード川に至る南北の幹線道路を建造、旧市街地の西方から南方にかけて新市街地を開発したという。

 イスファハーンは、王朝の政治的中心としてだけではなく東西交流・交易の中心都市となるべく、王が描いた構想にもとづいて計画的に造られた新都市で、王の広場を中心とする国際的な交易都市であるとともに庭園都市として、「イスファハーンは世界の半分」と賞賛され、繁栄したという。当時の記録では、市域内にはモスク162ヶ所・学校48校・隊商宿1802ヶ所・浴場273ヶ所・があった、という。
 王朝は、11代200有余年にわたってイラン高原とその周辺を支配したが、18世紀初頭、勃興してきた遊牧民・アフガン族の反乱によるイスファハーン陥落(1722)によって実質的な政治権力を失っていったという。
イスファハーン/想定復元図
想定復元図・17世紀

※王の広場−−世界文化遺産(1979指定
 イスファハーン観光の目玉は【王の広場】である。イスラム革命後は“イマーム広場”と改名されているが、“王”・“イマーム”ともに最高権力者ということでは同じといえる。

 外から見た広場は、周囲を煉瓦色をした素っ気ない壁で囲われているが、一足中に入ると別天地が広がっている。
 内部は、周囲を2階建ての回廊で囲まれた東西160m、南北500mほどの広大な空間で、広場の周りを囲む統一されたデザインと色彩に彩られた回廊と広場を彩る緑の緑地広場は、イスラム特有の幾何学的な整然とした空間を形作っている。

 広場の中央部には長方形の池が設けられ、幾何学的な園路で区画された芝生には季節の草花が咲き誇り、回廊との間には幅広い遊歩道が巡っている。ただ眺めるだけでも良し、芝生に寝ころんでも良し、といった空間である。

 17世紀後半の広場は、周囲を煉瓦造の水路で囲まれた土間で、王の臨席を仰いでの国家儀式やポロ競技などがおこなわれ、それ以外の時は金物商・古着屋・両替屋・野菜売りなどの露天商で賑わったといわれ、馬市・駱駝市なども開かれたという。

 今、広場を囲む回廊はバザールとなっている。回廊内部にも通路が巡り、広場に向いた店とともに二重三重の商店が並んでいる。昔は日用品を商ったというが、今は観光客相手の土産物店がほとんどで、昔、住居だったという2階部分は使われていないという。

イスファハーン/王の広場・平面図
王の広場・平面図(17世紀)
イスファハーン/王の広場・南側景観
同・南半分を望む
(塔をもつ建物は王のモスク)

 広場の南側に【王のモスク】(現イマーム・モスク)が、東には【聖職者長のモスク】(シェイク・ロトフォッラー・モスク)が建ち、西には【アーリー・カーブ宮殿】が接している。また北には、延々1kmも続くという大バザール(路線商店街)へのイーワーンが口を開いている。

◎王のモスク(1611--30建造)
 広場の南に建つのが【王のモスク】で、広場との接点には両側に2本の塔をもつイーワーンがあり、右手後方には大きな玉葱形の巨大ドームが青く輝いている。
 イーワーンに一対の塔を立てるのは、ミナレットが発展した“ドゥ・ミーナール形式”(2ミナレット)と呼ばれるもので、イーワーンの高さを強調するためという(通常、ミナレットは拝礼の呼びかけ-アザーン-ために建てられるが、ミーナールの上からのアザーンはないという)

イスファハーン/王のモスク・正面入口
王のモスク・正面イーワーン
イスファハーン/王のモスク・全景
同・広場からの全景
イスファハーン/王のモスク・内部模式図
同・モスク内部模式図
イスファハーン/王のモスク・平面図
同・平面図

 半円球状に凹んだ入り口のイーワーンに立つと、頭上から鍾乳石を模した見事な飾りが垂れ下がり、壁面は手の込んだモザイク・タイルで埋め尽くされている。イスファハーンの建物のほとんどは、青を主体とした色鮮やかなタイルで飾られているが、それは17世紀イラン芸術の集大成という。

 入口を入ると、通路は右へ45度曲がって中庭に続く。
 4イーワーン型の当モスクは、中庭(70×50m)を囲んで四方にイーワーンが大きなアーチを開き、それぞれにドームを戴く広間(礼拝室)へと続いている。
 イランでは、南西方向がイスラムの聖地・メッカで、当モスクの主礼拝室は、入口が45度折れた軸線の正面に位置する南西方の大広場で、メッカの方向を示すミフラーブが設けられ、このイーワーンのみが一対の塔が設けられている。

 モスクでの礼拝室は天井即ドーム外郭というのが普通だが、ここの主礼拝室のドームは、下から見える美しい丸天井の上に、外殻となる玉葱型のドームを重ねた“二重殻ドーム”(内殻ドーム:H=38m、外殻ドーム:H=54m)となっている。
 そのためか、室内の音響効果は抜群で、同行の現地ガイドが詠唱するコーランの一節が朗々と響きわたり、中庭にまではっきりと聞こえていた。

 コーランは“読んで理解するもの”ではなく、“声高々と唱えることで神の意志を知るもの”だという。それに相応しく、アラビア語の詠唱は、その意味はわからないものの、その強弱・抑揚・リズムのなかに、聞く者をして、ゆったりとした時間の流れに誘ってくれる何かがあり、そこには仏教者の称名に通じるものが感じられる。

 古い伝承では、ミフラーブの上の戸棚に1000年前のイマーム・レザ手書きのコーランと、イマーム・ホセインが致命傷を負ったとき着ていた血染めの衣が収められている。
 この衣は決して人に見せてはならず、王国存亡の危機に際して、この衣を槍の先に掛けて敵に見せると、敵は戦わずして敗走すると信じられていたという。いずこもある聖遺物信仰である。

◎シェイク・ロトフォッラー・モスク(聖職者長のモスク 1602--18建造)
 広場の東側に位置する小さなモスクで、アッパースT世が心酔していたシーア派説教師・ロトフォッラーを記念して建てられたという。
 “王室専用のモスク”として使用されたため、中庭のない1ドーム形式で、礼拝を呼びかけるミナレットもない。

 このモスクの主軸も東西軸に対して45度に折れている。
 入口から入って、まず左へ45度、次いで右へ90度曲がってモスクの北西側から礼拝室へ入ることになる。
 外から、王の移動が見えないように、宮殿から、王室専用の地下道で続いていたという。


シェイク・ロトフォッラー・モスクと東側回廊

シェイク・ロトフォッラー・モスク

同・平面図

 “王のモスク”が青色を主体に装飾されているのに対して、ここのドームは黄色を主体とした暖かみのある色で、その黄色のなかに赤・青・白色などのタイルを組み合わせた美しい蔓草模様が描かれている。
 壁面の青とドームの黄色というコントラストはそれなりに印象深い。ハレムの女性たちも訪れたであろう王室専用にプライベート・モスクに似つかわしい瀟洒繊細なモスクである。

 礼拝室に入ると、ドーム頂上から降り注ぐきらきら輝く光の束が、あたかも孔雀の尾のように垂れさがって見える。立つ位置を変えると見えなくなる。ドーム頂上からの光と下部の窓から差しこむ光とが交差することで起こる屈折現象である。
 ここに入った敬虔なムスリムたちにとって、この光の束は、アッラーの降臨と受け止められていたのであろう。

 このモスクは別名を“聖職者長のモスク”という。アッパース朝の時代、モスクに隣接して聖職者長の屋敷があったことからの俗称という。

◎アーリー・カーブ宮殿
 広場の西側、ロトフォッラー・モスクの対面に、宮殿域へのイーワーンが口を開いている。
 広場の西側一帯は王朝の政治的中心部および王室の宮殿域で、このイーワーンは宮殿域へ至る門である。
 今、この宮殿のみがかつての姿を留め、背後に広がっていた宮廷建物群はほとんど残っていない。

 宮殿は、前面2階建て背面5階建てでイラン初の高層建築物といわれ、前面部が広場のなかに突出している。2階の屋上には18本の木柱で支えられた屋根をもつバルコニーとなっている。かつて王が、広場でおこなわれるポロ競技などを楽しんだといわれるほどあって、展望はよい。

 アーリー・カーブとは“高い門”あるいは“聖なる門”という意味で、初代イマームである“アリーの門”が訛ったのではないかともいう。また
 「この門内は神聖にして犯すべからざる避難所であって、破産者や盗賊は、自分らの問題が解決されるまでこの中に逃げ込んだ」
ともいわれ、古代から各地にあった聖なる避難所・アジールでもあったという。
イスファハーン/王の広場・アーリーカーブ宮殿
アーリー・カーブ宮殿

 通常、アジールには寺院などが当てられるが、17世紀のイランでは、宗教施設であるモスクはアジールとは認められず、聖者の墓・宮廷の門・王の厨房と厩舎だけがアジールとして認められたという。
 そこに逃げ込んだ人は、唯一王だけ、あるいは王の特別の命令だけが、そこから引き出すことが出来たという。ただ面白いことは、たとえ王であっても力ずくで引き出すのではなく、食べ物を与えないことで、自分から出ていくよう仕向けたという。
 アジールとは、そこに逃げ込んだら身の安全が保証されるという聖域で、古くから各地にあったというが詳細は不明。わが国の縁切り寺もアジールのひとつである。

※イランのモスク
 イスラムの町を訪れると、モスク、というよりモスクを覆うドームと傍らのミナレット(礼拝の時刻を告げる塔)が輝いて見える。
 モスクの基本構成は、人々が集団で礼拝できる室内空間(広間)・メッカの方向を示すミフラーブ・外の世界から区切られた中庭の3ッで、これらは、メディナにある始祖・ムハンマドの家(現預言者のモスク)を手本としたものだという。
 その他に、モスクの外に身を浄める泉(ホウズ)・礼拝を呼びかける塔(ミナレット)、モスク内に導師が説教する説教壇が(ミンバム)が備わっているのが普通。

 イスラムのモスクはあくまでも“礼拝の場”であって、神社仏閣あるいは教会のように神が坐す聖所ではないし、仏像やキリスト像・マリア像といった彫像や、きらびやかな祭壇などは一切ない。
 何もないところに、より高い宗教的精神的価値を認めたともいえる。以前訪れたトルコで一般のモスクを瞥見したが、室内にはミフラーブと説教壇以外には何もない清楚な空間が広がっていた。ただ、室内に敷かれた赤い絨毯が印象に残っている。

 キリスト教教会の主軸は東西で、西に入口が・東に祭壇を設け、その間が礼拝室というのが通常である。わが国の神社仏閣は南を向いているものが多い(儒教では「天子は南面す」という)
 しかし、モスクで最も重視されるのはメッカの方角であり、その方向を示すミフラーブが設けられ、その方向に向かって並ぶムスリムたちがいっせいに礼拝をおこなう。ムスリムにとってメッカの方向が、聖なる軸線である。

 コーランには、
 (神が)見ていると、お前(ムハンマド)はどっちを向いてお祈りしていいのやらわからずキョロキョロしている。お前が納得のいくように方角を決めてやろう。よいか、お前の顔を聖なる礼拝堂(メッカのカアバ神殿)の方に向けよ。汝ら、何処の地であろうとも、必ず今いった方角に顔を向けて祈るのだぞ」
と教えている。だから場所によって向かう方向が異なっている。

 ただ、初めの頃はエルサレムに向かって祈っていたが、ユダヤ教徒との不仲が決定的になった頃からメッカを向くようになったともいう。
 因みにエルサレムは、ムハンマドが天使ガブリエルの導きで、天馬に乗ってメッカからエルサレムに行き、岩のドームから天に昇り、アッラーを礼拝して帰ったという伝承から、イスラムでも聖地とされている。
 また今回の旅でも、宿泊者の祈りを助けるため、ホテルの部屋には必ずメッカの方向を示す矢印が表示してあった。

 モスクにはいろんな形があるが、預言者の家そのままといわれる素朴な“多柱式モスク”(柱を碁盤目状に立てアーチで繋いで礼拝空間を作り、中庭を囲んで回廊を設けたもの)から、イスタンブールのスレイマニ・モスクのように、主ドームと幾つかの半ドームを組み合わせて造った大空間をもつ“複合モスク”まで、時代と地域によってそれぞれに特徴をもったモスクが造られてきた。

 イスファハーンには、“チャハール・イーワーン型”(4イーワーン型)と呼ばれるモスクが多いが、その簡略形ともいえる“ドゥ・イーワーン型”(2イーワーン型)も見られる。
 4イーワーン型とは、中庭の周りを建物で回廊風に囲み、中庭を直交する軸線と回廊との交点に4っのイーワーンを設け、メッカに向いたイーワーン背後に大ドームを戴く型で、通常、この反対側にミナレットが立つ。11世紀末頃から流行した形という。
 因みにイーワーンとは、イスラム建築に多用された三方を壁で囲まれた広間構造で、一方に開けられたアーチ状の開口部で外部空間(例えば中庭)へ接し、その奥には主要な礼拝室が設けられることが多い。

 モスクにはドームが付きものだが、最初からあったものではなく、イスラムのドームは、8世紀、預言者のモスクの拡張に際して、ムハンマドの墓の上にかけられた天蓋を始まりとし、本格的なものは13世紀に天蓋を木製ドームに改造したときに始まるという。
 ドームを造る技術はイスラム以前からあったもので、アラブ特有のものではない。しかし、預言者の墓への崇拝がドームと結びつくことで、イスラムのドームはセイセイ聖性あるいは天国を象徴するものとなったという。

 ドームには半球型(地中海・初期ペルシャ)から砲弾型(エジプト・マムルーク朝)・ドングリ型(ティムール朝)・宝珠型(インド・ムガール朝など種々の型があるが、サファーヴィー朝のそれは、胴部がふくらみ下部がややくびれた玉葱型で、青を主体とした繊細美麗なモザイクタイルで飾られているのが多い。

※装飾タイル
 イスファハーンの建物には青いタイルで飾られているものが多いが、イランで好まれる色は“青”で、青は空の色であり、水の色である。
 コーランに
 「信仰を抱き、かつ善行をなす人々に向かっては喜びの音信を知らせてやるがいい。彼らはやがて、潺々と河水が流れる緑園に赴くであろう」
と告げるように、水を渇望する沙漠の民にとって、水を象徴する青は、何よりも大切な色である。
 また、モスクの中庭に必ずといっていいほど池があるのも、同じように豊かな水へのあこがれといえる。

 サファーヴィー朝で愛用されたタイル装飾には二つの技法が使われている。
 そのひとつ“モザイク・タイル”は、一辺約20cm角ほどの単色のタイルを文様に合わせてノミで刻み、数色のタイルを組み合わせて文様を描く技法で、イランでは、流麗な曲線からなる植物文様・蔓草文様が好まれたという(この文様が日本に入って唐草文様になったという)
 一方の“絵付けタイル”は、大きな模様の一部をなすタイル一枚一枚にに、文様に合わせて数色を絵付けして焼いたもので、それらを貼り合わせて大きな文様とする技法である。

 今回の旅で見た限りでは、イランではモザイク・タイルを使った装飾が多いように思える。
 小さい単色のタイル片を丁寧に削って組み合わせ、大きな文様に仕上げるという気の遠くなるような作業は、アッラーに対する敬虔な信仰心からくるものであろうし、今の我々には到底不可能な作業である。

モスクを飾るモザイク・タイル

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