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*2005.04訪問

ペルシャ/パサルガタエ遺蹟
(キュロス大王墓)

 『パサルガタエ』とは、イラン南部やや西よりのザグロス山脈中に位置するパーサル(現ファーサル)に発し、東のインダス川から西はシリア・エジプトまでを支配した大帝国・アケメネス朝ペルシャ(BC559〜BC330)を興したキュロス大王(キュロスU世、BC559〜BC530)が築いた最初の首都で、そこはまた大王の奥津城(オクツキ、陵墓の地)でもある。

※パサルガタエ遺跡
 パサルガタエはペルシャ帝国の首都・ペルセポリスの北東87qに位置する古代都市で、紀元前546年、キュロス大王によって建設され、2代後の王・ダリウスT世(BC522〜BC486)がスーサに遷都するまで、ペルシャ帝国の首都であった。今、世界文化遺産として登録されている(2004)

 パサルガタエとは、古代ペルシャ語のパルサガード・「ペルシャ人の町」が訛ったもので、そのギリシャ語訳がペルセポリスだという。

 幹線道路から6qほど外れた小村の傍らに遺跡への入口があり、そのすく奥に“キュロス大王の墓”というものが見える。
 遺跡とはいっても一ヶ所にまとまったものではなく、広さ1.6平方キロというという荒漠たる遺跡内の道路沿いに幾つかの宮殿跡などが点在する遺構群で、ガイドに従って車で巡ることになるが、遺蹟の全体を示す地図などもなく、全体像の把握は困難。
 なお、右図は帰国後入手した概略図。


概略平面図
左下がキュロス大王墓
(資料転写)

 往時のパサルガタエは、幾つかの宮殿・神殿を擁する壮大な大都市だったというが、いま現地に立つとき、緑がほとんど見えない荒漠たる茶褐色の荒野の中に、かつての宮殿・神殿の址、それらを飾ったであろう門柱や柱の礎石などが点在して見えるだけで、全体を把握することは難しい。

◎キュロス大王墓
 
アケメネス朝ペルシャの創立者・キュロス大王は、東方辺境での反乱鎮圧の戦場で倒れてその生涯を終えたが、その遺骸は、王国の発祥の地パールスにある王都パサルガタエに葬られたという。その陵墓といわれるのが、この遺構である。

 陵墓は、切石を6段に積んだ階段状基壇(最下段:13.4×14.4m、H=5m)の上に、切妻屋根をもつ“家型方形墓”(H=6m)が堂々と乗っている。
 大王と王妃の遺体が納められていたともいうが、今は小さな入口が真っ黒い口を開けているだけで、中の様子は見れない。
 建造時は、何らかの装飾がなされていたと思われるが、2400年余の風雪はそのすべてを消し去り、今はただ茶色味を帯びた石面が、紺碧の空のもと荒れた素肌を見せているだけ。

 
キュロス大王墓
 
同・正面
 
同・背面

 アケメネス朝歴代の王墓は、ナクシェ・ロスタムにみるように、岩山の中腹に造られた横穴式の磨崖墓が主流だが、この近くに岩山がないという立地からか、あるいはそういう習慣が未だなかったのか、キュロスの墓だけが平原の中の方形墓という形をとっている。

 墓の様式が異なることから、この方形墓をキュロスの墓かどうか疑問視する向きもあるが、ギリシャ時代の資料によれば、
  『余はカンピュセスの子キュロス、ペルシャ帝国の創始者、東方の王なり。この墓を余に与えることを惜しむなかれ』
との碑文があった、というから間違いはないだろう。

 今、墓の中には何もない。発掘調査によれば、石棺はもとより、その破片すらも残っておらず、柩があったという痕跡もないという。
 ギリシャ・ローマ時代の史家たちは、
 「広さ6uほどの小さい墓室には黄金の柩と寝椅子・卓などが置かれ、壁には王者の標てある紫を主調とした豪華な衣服が掛かり、宝石をちりばめた装飾品があったというが、アレクサンドロスが当地にやってきたときには、既にそのほとんどがなくなっていた」
と記している。伝聞記事ではあろうが、この通りだとすれば、古くからの商売・墓泥棒がここにも出没していたことを示している。

 ところが調査によって、2枚の大きな石で造られた天井板の上に、更に、人一人横になれるほどの窪み2ヶ所をもつ板石(6.3×3m、厚さ50p)があり、その上を2枚の板石で屋根状に覆った遺構が発見されたという。
 一説によれば、ここがキュロス大王とその妃・カッサンダーネの終の棲家(ツイノスミカ)と推定されるという。

 この閉所がキュロス大王の墓室だとすれば、一つの陵墓を上下に区分して、人目につかない天井裏に遺体を埋葬するという葬法、しかも普通の墓室ではなく、遺体を密閉するように石と石の間に閉じこめるという葬法は、古代世界の何処にも例を見ない珍しい葬法である。

 今ではほとんどみられないようだが、わが国には“両墓葬”(両墓制)という葬法がある。簡単にいえば、遺骸を埋める場所(埋め墓)と、死者を供養する場所(詣り墓)を遠く離れた別々の場所に設けた墓制で、葬儀終了後、遺族は埋め墓には近寄らず、詣り墓のみに詣でるという風習だが、同じようなものが古代エジプトにもみられたという。

 これからにみると、キュロスの墓は一種の両墓葬だともいえる。ただ、そのふたつの墓が距離をおかずに上下に重なっているところが違うだけである。実際の遺骸は人の近づかない天井裏に納め、下を壮麗に飾ることで詣り墓としたのかもしれない。

 また遺骸を高所に納めたことは、死体を穢れたものとして土に埋めることも、水に流すことも、火で焼くことも禁じたゾロアスター教の教義にそったものともいえる。

◎ソロモンの母の墓
  この墓は俗称・「ソロモンの母の墓」とも呼ばれている。
 ソロモンとは、イスラエル王国の最盛期を統治したソロモン(BC965〜BC926)である。時代的にも地理的にも何ら繋がりのないソロモンの名が、キュロスの墓に冠せられていること、また、イランに残るペルシャの遺跡が、ペルセポリスをはじめほとんどが破壊されているなか、キュロスの墓のみが往時の姿をほとんどそのままに残しているのは不思議といえば不思議である。

 古代のイラン(ペルシャ)は3度外敵の侵入をうけ国土が荒廃している。
 アレクサンドロス大王の東征(BC333)、イスラムの侵入(AD624)、そしてチンギス汗の西征(AD1219)である。
 そのうち、チンギス汗はここまで至っていないので除外するとして、アレクサンドロスやイスラムがこれを破壊しなかった理由、特にアッラー以外の神を極端に拒絶するイスラム教徒がこれを壊さなかったのには、それなりの理由があったと思われる。

 アレクサンドロスについては、自らの東征の目的をアケメネス朝を凌駕する大帝国の創建とするアレクサンドロスにとって、王朝の始祖・キュロスとは自らを擬する偉大なる先人でこそあれ、その存在を否定するものではなかったはずで、その彼が、当陵墓を破壊する理由はなかったともいわれている。

 つづくイスラムだが、イスラムにとってのソロモンとは、コーランに
 『吾ら(アッラー)がダビデとソロモンに知恵を授けたので、二人は「讃えあれ、アッラー。信仰深い僕(シモベ、イスラム教徒を指す)の数多い中から特に我らを選び出し給うた」と神を賛美した。また吾らは、ダビデに後継者としてソロモンを与えた。あれほど立派な僕はまずあるまい。実に良く改悛する男であった』
とあるように、ソロモンは神・アッラーを畏れる敬虔なイスラム教徒であり、神に祝福された王者として描かれている。

 侵入してきたイスラム教徒に対して、この墓は“ソロモンの母の墓”であると説得することで破壊を免れた。それが俗称・ソロモンの母の墓の由来だというが、真偽不明。
 ただ、その証拠としてか、切妻側に明けられた小さな入口の右手に、コーランの一節が刻まれているというが、摩耗していて識別不能。

※その他の遺構
 往時のパサルガタエは、幾つかの宮殿・神殿などを備えた壮大な都市だったというが、今は謁見の間址・迎賓宮殿址・楼門址・神殿址などを飾ったであろう門柱や柱の礎石などが点在するだけ。

◎謁見の間
 キュロスの墓の北に残る宮殿址。
 中央広間とその周りの柱廊をもつ建物跡で(56×44m)で、中央広間の2層に敷かれた敷石が床面だったというが、今は、上層敷石の大半が持ち去られ、下層のそれも荒らされている。 

 今、中央広間に立つ8本の大理石製の円柱うちの1本だけが復元されて高く聳え(径1m、H=13もほど)、他は、幾つかの方形礎石の上に円柱下部が復元されている。

◎迎賓宮址(キュロスの私的宮殿)
 謁見の間の西にある遺構で、多分、キュロスの私的な宮殿で迎賓館の機能も兼ねていたのではないかという。
 中央広間と東西二つの柱廊からなるH形の建物だったろうという(77×44m)
 今、中央広間址に十数本の円柱下部のみが残り(5列×8段、40本あったらしい)、その横に、縦長の柱廊(73×35m)を支えた柱の基礎の一部が並んでいる。

   

◎宮殿址

 謁見の間から遠く離れた南東部に一つの遺構があり、“東の宮殿”とも“玄関の間”あるいは“楼門址”とも呼ばれる。 

 遺構の東を北東から南西に流れる小川の辺りに建つもので、王宮への正門ではないかという。

 かつては堂々たる楼閣だったらしいが、今は、広間址に10本ほどの円柱跡が残っているだけだが、広間の端に立つ 石柱に(北側の門ともいう)“有翼人物像”が刻まれている。、

※遺跡に残る浮彫像
 往時のパサルガタエは、幾つかの宮殿・神殿などを備えた壮大な都市だったというが、今は謁見の間址・迎賓宮殿址・楼門址・神殿址などを飾ったであろう門柱や柱の礎石などが点在するだけ。
 そんな中に、面白い浮彫像が3基ほどみられる。

◎魚体人間像
 “謁見の間”東入口の門柱に刻まれた浮彫だが、上半分は破壊されているため全体像は不明。
 右側に、宮殿内に向かって進む人間の片足の膝から下、人魚の下半身みたいなもの(下から人の足先が覗く)の一対、左に牛の後脚らしきものが見える。
 これが別々の像なのか一体のものかは不明だが、間隔並びに構図からみて一体と思われる。

 魚の皮を被った人の像は「アプカルル」と呼ばれ、BC16世紀頃に始まり、アッシリア・新バビロニアまでつづくという。
 バビロニアの伝説では、大洪水以前に生きていた“賢聖”だというし、アッシリア出土の水盤には、手足は人間で身体は魚という合成動物(魚の皮を被った人間か)が描かれ(BC600年代)、“知恵の神・エア”を表すという。

謁見の間・浮彫像

 古代メソポタミア地方で人と魚が合体した神像がみられることから、この不思議な像も、人間と魚・牛の三者が合体した神像であろうが、その正体は不明。

◎有翼天使像
 上記“宮殿址”の北側の門柱とおぼしき角柱の内側に、『有翼天使像』と呼ばれる浮彫が残っている。
 風化による摩耗が大分進んでいるが、長衣をまとった横向きの人物が、羽根を広げた蝶のように翼を左右に広げている。 翼をもつ人物像は通常“精霊”を表すとされ、アッシリア・メソポタミア地方に多くみられる意匠だという。

 この人物像は、何かに向かって祈るかのように両手を差し出している。その髪型はエジプト遺物にみられるようなオカッパ頭で、頭上の左右に分かれた角の上には筒状の瓶(ポウリングのピンに似たもの)が3本立っている。この冠は「三つのアテフの王冠」と呼ばれ、エジプトではホルス神の象徴として、万能にして慈愛に満ちた王を表すという。

 また、像がまとっている足首まで垂れる長い衣装は、優雅な宮廷文化が栄えたエラムの伝統的衣装だという。

有翼天使像

 冠と髪型がエジプト、衣装がエラム、翼はアッシリア風といった全体像は、当時のオリエント諸文化の混合で、各民族間の文化交流を伝えるとともに、ペルシャ的美術が完成する以前の過度的作品だという。

 この像には、キュロス大王説、その父カンピュセスT世説、あるいは王宮の守護神説などの諸説があり、はっきりしない。
 かつて、この像の上に「余はキュロス、アケメネス朝の者」との楔形文字が刻されていたが、19世紀末に、その部分が剥ぎ取られて以後行方不明という。とすれば、王朝の創始者・キュロス大王を神格化したものかもしれない。

◎人物像
 謁見の間の西にある「迎賓宮殿」(「キュロスの私的宮殿」ともいう)の広間に入る入口の角柱に、上部の壊れた下半身像が残っている。

 襞のついた長衣をまとった腰から下だけの人物像で、衣の上に垂れる飾紐には黄金の象眼が、サンダルを履いた足首には黄金のバンドがはめ込まれていたというが、今、それらしき痕跡はあるものの、黄金片は見えない。

 伝承では、キュロス大王の像だというが確証はない。

迎賓宮殿・浮彫人物像

※伝・ゾロアスターのカアバ

 遺蹟の真ん中ほどに、建物の壁と思われる異様な遺物が立っている。
 建物の三方は壊れていて正面の壁のみが残ったもので、崩壊を防ぐため背後から簡単な支柱で支えられている。

 これが何であったかは不明だが、一説では“ゾロアスターのカアバ”と呼ばれる祭祀施設ではないかといわれ、同種の遺構がキュロス大王の後裔大王4人が眠る聖地ナクシェ・ロスタムにも残っている。(別稿・「聖地ナクシェ・ロスタム」参照)


伝・ゾロアスターのカアバ

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