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イラン/モスク雑感

 イスラムを国境とするイランには各処にイスラムの聖所・モスクが建っている。
 今回の旅ではイスラムを直接見聞きすることは少なかったが、そのなかで訪れた幾つかのモスク他の印象を記す。

※モスク
 モスクの基本は、メディナにあった教祖『ムハンマドの家』(預言者のモスク)がその原点で、
 ①人々か集団で礼拝できる室内空間
 ②メッカの方角を示すミフラーブ
 ③外の世界から仕切られた中庭
 ④死を浄める泉(ホウズ)
 ⑤礼拝を呼びかける塔(ミナレット)
 ⑥導師が説教をおこなう説教壇(ミンバム)
をもつのが普通だという。
 *ムハンマドの家は、30m四方ほどの中庭の周りにナツメヤシの柱を立て、草葺屋根を架けた粗末なものだったという。

 モスクはあくまでも“礼拝の場”であって、神社仏閣や教会のように神仏が坐す聖所ではなく、仏像やキリスト像・マリア像といった彫像や、きらびやかな祭壇など一切なく、その何もないというところに価値があるともいえる。

 キリスト教教会の主軸は東西で、西に入口、東に祭壇を設け、その間を礼拝室とするのが普通だが、モスクで最も重視されるのは“メッカの方角”であって、その方角に【ミフラーブ】が設けられ、主軸に直交する横軸に沿ってムスリムたちが並び一斉に礼拝をおこなう。ムスリブにとってメッカの方角が聖なる軸線である。
 コーランには
 「(神が)見ていると、お前(ムハンマド)はどっちを向いてお祈りしていいかわからずキョロキョロしている。お前に納得がいくような方角を決めてやろう。
 よいか、お前の顔を聖なる礼拝堂(メッカ)の方に向けよ。汝らも、何処の地であろうと、必ず今いった方角に向けて祈るのだぞ」
と教えている。
*イランではメッカは南西の方向に当たり、ホテルの部屋には必ずメッカの方角を示す矢印があった。

 モスクにはいろんな型がある。
 預言者の家の形そのままといわれる素朴な【多註式モスク】(柱を碁盤の目状に立て、それをアーチで繋いで礼拝する空間を作り、その前、中庭を囲んで回廊を巡らしたもの、右の上図)から、イスタンプールのスレイマニ・モスクのように、主ドームと 幾つかの半ドームを組みあわせた【複合型モスク】まで、時代と地域によって特徴あるモスクが造られてきた。

 イスファハーンには【チャハール・イーワーン型】(4イーワーン型、右の下図)と呼ばれるモスクが多く、その簡略型ともいえる“ドゥ・イーワーン型”(2イーワーン型)もみられる。
 4イーワーン型とは、中庭の周りを建物(回廊)で囲み、中庭で直交する縦横の中心線と回廊との接点に4っのイーワーンを設けたもので、そのうちメッカの方向に建つイーワーンの背後に大ドームを頂き、反対側にミナレットが立つのが普通。
 *イーワーン--イスラム建築に多用される空間構造で、三方を壁に囲まれた吹き放しの広間で、中庭側に開けられた大きなアーチで外部空間と繋がり、その中に礼拝空間が設けられる場合が多い。
 

 モスクにはドームが付きものだが、最初からあったものではなく、イスラムにおけるドームは、8世紀、預言者のモスクを拡張するに際して、ムハンマドの墓の上に架けられたのが嚆矢で、本格的なそれとしては13世紀、同モスクの木製ドームにはじまるという。

 ドームを造る技術はイスラム以前に遡り、アラブ特有のものではない。しかし、預言者の墓への崇拝とドームとが結びついたことから、イスラムのドームは聖性あるいは天国を象徴するものとなったという。

 ドームには、“半球型”(地中海・初期ペルシャ)から“砲弾型”(エジプト・マムルーク朝)・“ドングリ型”(ティムール朝)・“宝珠型”(インド・ムガール朝)などがある。
 ペルシャのサファヴィー朝のそれは、胴部が膨らみ下部がくびれた“タマネギ型”が主流で、青を主体とした繊細美麗なモザイクタイルが飾られているものが多い。

※ジャーミ・モスク
 イスファハーン・王の広場の北東、旧市街地のほぼ真ん中に建つモスクで、アッパース朝時代、ヤフィーディヤによって建てられた“金曜モスク”を前身とするイスファハーン最古のモスクという(773・地域の中心となるモスクだったという)。 
 セルジューク朝時代に火災にあって焼失したが直ちに再建(1172)、その後も増改築が繰りかえされている。

 このモスクは典型的な4イーワーン型の多柱モスクで(150×175m)、中庭(76×67m)の周りに建物を巡らし、直交軸の上の4ヶ所にイーワーンが口をひらしている。

 
中庭からの景観
(左:南西イーワーン、右:北西イーワーン)
 
南西イーワーン
 
北西イーワーン

 このモスクは、12世紀の再建後も継続して増改築がおこなわれたため、中庭を囲む建物の内部空間(柱・天井様式など)は時代毎に異なる多様な様式が混在しており、モスク建築の時代変遷を学ぶには格好の教材となっているという。
 なお、今は特別の時以外は使用されていないという。

回廊内部--内部は暗く且つ柱・壁等が輻輳しておりよくわからない
     
   

 ジャーミ・モスク中庭の中央に方形の池があり、水の中に方形の箱のようなものが立っている。水上の舞台ともとれるが、訪れた時には絵が描かれた黒い布が垂れていた。
 垂れ幕の上部に2本のミナレットをもつドームが描かれ、その下には、主のいない白馬が首を垂れてたたずみ、2人の黒衣の女性が白馬にすがり、その横では2人の女性が前身を地に投げだして嘆き悲しんでいる。
 カルバラにおいて暗殺された第3代イマーム・アル・フサインの死を嘆いている場面という。

 カルバラにおけるフサインとその一族の惨殺(ヒジュラ歴59年ムハッラム月10日=西暦680年10月10日)は、シーア派最大の悲劇で、これを殉教とみるシーア派にとって、ムハッラム月(1月)10日という日は、フサインの殉教を偲び、我が町に招きながらもウマイヤ朝の圧力を受けてフサインを見殺しにした自分らの無力さ・卑怯さを懺悔する日であり、シーア派の宗教行事“アシュラー”として今もつづけられている。

 訪れた日は、アシュラーではないが、フサインに関する何らか行事がおこなわれていたようで、黒い垂れ幕もそのためのものであり、バス移動中にも大きな幕やプラカードを拡げて行進する人々がみえた。

 
垂れ幕の刺繍文様)
   
同・下段拡大


※メナーレ・ジョンバーン
 イスファハーン中心部から西方約6㎞ほどに、俗に【揺れるメナーレ】と呼ばれる霊廟があり、聖者アブドゥッラーを葬るという。
 方形の小さな霊廟で、正面には建物いっぱいの尖塔型アーチをもつイーワーンが開き、奥の龕に、緑の布を被せた石棺が置かれているだけの簡素な造りである。

 この何の変哲もない小さな霊廟を有名にしているのは、イーワーンの上に立つ一対のミナレット(H=7.5m、地上から17.5m)の、対となった一方を揺らすと、それに共鳴して他方の塔も揺れる、という現象からで、ガイドブックなどにも紹介されている。
 この現象は、建物の構造如何によって起こりえることだが、今は登ることも揺らすことも禁止されているので実際に経験することはできない。

 
正 面
 
内 部

奥に安置されている聖者の石棺 

 イスファハーンには、バザールの一画や裏道・路地裏などに多くの【イマーム・ザーテ】と呼ばれる聖者の霊廟があり、モスクより多いともいう。

 聖者を葬った上に棺型の石碑が安置されたイマーム・ザーテは、人々の願いを叶えてくれる神秘的な力があるとして、人々はこれら霊廟にささやかな願いを託すといわれ、メナーレ、ジョンバーンもその一つである。

 イスラムでは、祈りはすべて神アッラーに向けられ、始祖ムハンマドも預言者・使徒てはあっても、“ものを喰う一人の人間”であって祈りの対象ではない。まして、いかに聖人であろうと、死者に祈りを捧げるなど異端そのものである。

 しかし人間の弱さからか、イマーム・ザーテには、人々の日常的な願い、例えば病気治癒から家内安全などの願いが捧げられるという。
 身近な神あるいは聖者に日頃の苦しみや願いを訴え、救いや安心を求めるのは宗教の如何を問わず庶民共通の心情であって、イスラムにおけるイマーム・ザーテ信仰も、キリスト教のマリア信仰やわが国の観音信仰・稲荷信仰などにも通じるものであろう。


※ホメイニ廟

   テヘラン郊外の広大な土地に、イスラム革命(1979)を主導したアヤトッラー・ホメイニ(1902--89)の霊廟建設がつづいていた(外部はほほ完成・内装工事中)。 
 ドーム--H=68m、ホメイニの死亡年・イラン歴1368年(西暦1989)に因む
 ミナレット--H=91m、ホメイニの没年齢に因む

 内部は工事中で雑然としていたが、大ドームの真下にさがるシャンデリアの下に、緑の布が掛けられた大理石の石棺が安置され、その下にホメイニが眠るという。
 石棺を囲む格子窓の開いた囲いを取りまいて多くのムスリムが礼拝していた。


 イスラム法の厳格な解釈によれば、永続的な墓の建設は認められず、死後求められる墓は、質素な土盛りだけの墓であり、そこが墓であることを示す石が置かれたという。
 しかし実際には、イスラム社会の至るところに、イスラム建築の粋を集めた聖人や政治家の壮麗な霊廟が建設されているのも事実である。

※共同墓地
 時間があって、テヘラン最大といわれる共同墓地を訪れた。
 広い墓地の中には、規格化された墓石(60×120cmほど)が整然と並び、その間には樹木が植えられ緑陰をなしている。
 緑の少ない土地にあって、死者にとつての墓地は緑したたる緑園・天国でもあり、ここには墓地特有の陰惨さはみえない。

 墓石表面の墓標には、上部に故人の氏名・生年死亡年月日が、その下には、故人に因みのある詩文あるいはコーランの一節などが刻まれている。
 また、墓石の頭部に当たる処に立つガラス窓のついた小さな箱の中に写真を飾ったものもある(墓石の墓標にも写真が見られる)。子供や若者の写真が多いのは、イスラム革命あるいはイラン・イラク戦争の犠牲者という。

 
共同墓地
 
墓石に彫られた墓標

 イスラムの葬法は土葬である。何時かやってくる終末の日に、魂が帰るべき身体が火葬などによって無くなっていては、神の前に立って裁きをうけることが出来ないわけで、その人の魂は永遠に彷徨うことになるという。

 墓は、墓域の真ん中に人一人入るだけの墓室を掘り下げるだけで墓郭はない。その中に頭から足のつま先まで白木綿にくるまれた遺体を、頭をメッカの方角に向けて横向きに葬るという。やがてくる裁きの日に備える葬法である。

※コーランの門
 イラン南部の中心都市シーラーズの町はずれ、ペルセポリスに至る道の上にある門で、シーラーズの北の玄関口であったという。
 門の上の小部屋に鹿皮紙に書かれたコーランが2冊置かれていることからこの名があるという。

 今、すぐ横に自動車道路が通っているため、道としては機能していないが、門の前後は歩行者専用道、というより名所旧跡内の通路然として整備され、西側の崖面には著名な詩人の墓や洞窟チャイハネ(喫茶店・簡易食堂)などを中心とした公園として整備されている。


コーランの門 
 
門柱を飾る装飾文様

 この門にまつわる物語などは何も伝わっていないが、この門は、紛れもなくシーラーズという内なる世界と外の世界の“境界”を劃する門であり、小部屋に置かれたコーランは、異界からやってくる邪神・災厄の侵入を遮る境界神であって、それはまた、他郷へ旅立つ旅人の安全を護る神でもある。

 イランでは、旅に出るとき、捧げ持ったコーランの下をくぐって出たというが、家の門口は、町の門と同じく境界であり、そこでコーランの下をくぐったということは、この門をくぐったことと同じ意味をもっている。

 その意味では、門の上に置かれたコーランは、イスラムの聖典というよりギリシャのヘルメス、わが国の道祖神などに類するもので、教義上から、偶像がコーランに変わっただけともいえる。
 人々は、町外れのこの地で、他界・異界からの邪霊侵入をコーランの名において遮り、それらを他界へと追い払い、旅人は、旅先での安全と無事なる帰還を祈ったのかもしれない。

※ヴァーンク教会(アルメニア教会)
 イランはイスラム一色かと思いきや、アルメニア教会が堂々と観光客を集めていた。
 イスファハーン南部の下町に位置し、門前には日常品を売る小さな市場があった。

 キリスト教会とはいっても、外見はドームを頂くモスク然とした建物で、ドーム頂上に十字架を立てることでキリスト教会であることを示している。

 内部の正面祭壇にはキリスト磔刑の十字架が、周りには旧・新約聖書の各場面を語る壁画が並び、特異なものとして、アルメニアがキリスト教を受容した敬意が絵物語形式で描かれていた。

 
全 景(絵葉書転写)

正面付近 

門前の市場 

 アルメニアは、古来から断続的ながらもペルシャ帝国領あるいはイスラム王朝領だったことから、イラン人の間でも親近感が強いようで、現在、イランには約15万人ほどのアルメニア人が居住し(革命前は約50万人が居たという)、アルメニア教会(13ヶ所あるという)を信仰の拠り所として生活しているという。

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