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ペルシャ/ペルセポリス遺跡

 ペルセポリスはペルシャ帝国5番目の都で、パルサガタイの南西約50km、クーフ・ライマト(恵みの山)の麓に広がる丘陵地に位置する。
 帝国3代目の王・ダリウス一世(BC522--486・ダリウス大王ともいう)が即位早々に造営が始められ、孫にあたるアルタクセルクセス一世(BC456--424)までの3代・約100年の歳月を要して完成されたという。 

 この都は、、それまでのそれと違って、政治的な都というより祝祭都市的色彩が強く、歴代の王は、この都市で国家的儀式を催したという。
 ダリウス大王は、冬はスーサ、夏はエクバタナと転々し、ペルセポリスに常住はしなかったようだが、新年祭(ノウルーズ・春分の日)には必ず当地に帰って、属州・属国からの奉賀使節たちを謁見したという。

 ペルセポリス建設から百数十年、アケメネス朝ペルシャの栄華ともに栄えたこの都は、アレクサンドロス大王東征によるペルシャ帝国の滅亡と時を同じくして炎上消滅したが(BC330、失火・放火いずれかは不明)、それは、ペルシャという古代大帝国の終焉を悼む壮大な忌火だったといえる。

 古都・ペルセポリスの遺跡は、南北約455m・東西約300mという長方形の大基壇(約135,000㎡)の上に、更に、各建物の基壇を設けてそれぞれに宮殿が建っていたという、大規模な古代都市遺跡である。

 見学コースである西方から近づくと、まず巨石を積み上げた大基壇の西壁(H=12m)と、その上に立つ万国の門(クセルクセスの門)の円柱が見る者を圧倒する。


西から大階段を望む
(基壇上に見えるのは万国の門) 
 
建物配置図
(左上が万国の門)

 遺跡西壁の北寄り、壁に沿って左右に逆八の字状に開く大階段を登ると、目の前に【万国の門】(クセルクセスの門ともいう)の円柱が聳え、右手に【アバタナ】(謁見の間)が、やや遠くに【百柱の間】(玉座殿)以下の宮殿が見える。
 大基壇上には10指を超える宮殿跡があるが、各建物跡が密集しているため、各建物の確かな比定は困難、少なくとも配置図持参が必要。


ペルセポリス・全景(東の丘から) 
 
ペルセポリス・全景(上写真の左に続く)
 
想定復元図
(写真とは左右が反対)


※万国の門(クセルクセス門)
 遺跡西北部に建つ万国の門は、ペルセポリスの正門として造られた小振りな建物(一辺30m余)で、遺跡群の中では比較的遅く、クセルクセス一世(在位BC486--465)によって造られたといわれ、門柱内側に刻まれた碑文には、
  「余は偉大なる王・諸王の王・全民族の王であり、大地の王である。余はアケメネス朝ダリウス大王の息、クセルクセス。
 余を護る神・アフラ・マズダーの意志により、征服せる全世界の国々の記念門としてこの門を造る。余がなせる仕事は、神アフラ・マズダーの恵みによるものである」
とあり、万国の門との呼称はこれによるという。

 この門には東西および南側に門(出入口)3基が設けられ、西門から入ると、南門はまっすぐ公式宮殿・アバタナに、東門から出て直進して南に折れると百柱の間に連なっていたといわれ、
 その位置からみて、この門は単にペルセポリスへの出入口であるだけでなく、各地から訪れた奉賀使節等が、宮殿に伺候する前に身支度を調えた“控えの間”ではなかったかという。

 今、東西両出入口の大きな門柱と、中央広間(25m四方)に立つ円柱3本が(元は4本)空に向かって聳えるだけで、嘗てあった南側門柱の痕跡はない。

 東西両門とも、左右の門柱は一対の巨大な有翼(東門)・無翼(西門)の人面牡牛像によって飾られている。
 その詳細・意義等については別項「人面牡牛像」参照のこと。

 
万国の門・全景
(東南側より)
 
同・現存する東門と円柱
 
有翼人面牡牛像(東門)
 
無翼人面牡牛像(西門)

※アバタナ(謁見の間)
 万国の門の南に広場を隔てて建つ【アバタナ】は、ペルセポリスの中心となる宮殿で、即位・朝賀などの国家的儀式がおこなわれた公式宮殿(謁見の間、ただ、玉座らしきものがないことから、謁見は別の宮殿でおこなわれたともいう)で、ダリウス大王が大略建造し、クセルクセスが細部を完成したという。

 高さ4mほどの基壇上には、中央に正方形の大広間(一辺60m)と、それを囲む北(正面玄関)・東・西3方の細長い柱廊からなる建物が建ち、
 日干煉瓦の壁に囲まれた中央広間には36本の円柱(6本×6列、L=約20m)が、各柱廊には12本の円柱(6本×2列、L=約16m)、計72本の長大な円柱が林立していたという。
 今、広い基壇の上に13本の長柱と幾つかの礎石が点在するだけとなっている。


アバタナ跡(西から東を望む) 
 
アバタナ跡(北から南を望む)

 宮殿が乗る基壇の壁は、各種の【装飾浮彫】で埋められている。

 その構成はおおまかにいって、基壇中央部の壁面にはには左右対称に向き合った人物像が並び、階段壁の三角部には牡牛を襲うライオン像があり、その上を朝貢者たちが贈り物を持って登っていく有様が刻まれている。

 アバタナを飾るモチーフは、高位高官・親衛隊・儀仗兵・朝貢者群・動植物・想像上の動物など多彩だが、いずれの人物像も、帽子・衣装・持ち物などの細部には多少の差異はあるものの、ほとんどが横向きの同じ姿で描かれ、且つ、動きが停止し図案化した静止描写で描かれている。

 人物の顔も同じで、どの顔も堀が深く、目はアーモンド型で大きく、眉は長く、鼻筋はまっすぐに通り、顎の下には豊かな髭が垂れている。
 一口にいって無表情、そこには民族の違いを無視した、ただひとつの顔々が並んでいる。
 ただ、新年参賀にやってきた朝貢者の民族衣装・捧げ持つ貢献物に、個々民族の特徴が現れているというが、一介の旅人にその区別はできない。

 
親衛隊兵士浮彫
 
朝貢者浮彫
 
牡牛を襲うライオン像

 *“牡牛を襲うライオン像”は、此処だけでなく他にも多見できたが、西イランでも発見されており、このモチーフは古くからのものという
 ライオンに襲われた牡牛は、背に噛みついたライオンを振り向いてはいるが、その顔に悲壮感はみえず、泰然自若・我関せずといった姿ともみえる。

 この描写は、自然界の弱肉強食の世界を描いたものではなく、順調な自然の循環を描いたものという。
 冬の中天に輝く星座・“牡牛座”が、春の星座・“獅子座”に席を譲って西の空に消えていく、そんな春分の頃の自然界を表すもので、春を迎えて万物が芽生え再生するのを象徴したといわれ、春から夏にかけての豊穣を祈る人々の願いを表すという。
 また、ライオンは帝王を、牛はトーテムを意味し、王がトーテムを殺すことで生命の更新を図っているのだとの説もある。命の更新は豊穣へと連なるものであり、両者とも、その根本は同じといえる。

※百柱の間
 アバタナの東に位置する公式宮殿で、これもアバタナと呼ぶべきところ、百本の柱(10本×10列、L=約12m)が立っていたことから【百柱の間】と呼ばれている。

 ダリウス大王着工、クセルクセス完成というが、何故、公式宮殿(アバタナ)が近接して2ヶ所ある理由はわからない。2ヶ所に別けねばならないほど参賀者が多かったのかもしれないが、同じ儀式を2ヶ所で繰り返すことで、一連の儀式が完了したのかもしれない(わが国大嘗祭でも、一つの儀式を悠紀殿・主基殿で2度おこなわれるなど、儀式は2度おこなうことで完了するとする考えは、洋の東西を問わず多いという)

 宮殿の規模はアバタナより大きいが、基壇がないため床面がアバタナより低く平板にみえる。
 今、中央の広間(一辺70m)に並ぶ円柱礎石と、長柱一本、窓枠(広場側に設けられた“めくら窓”)の一部が残るだけだが、唯一の開口部であるである北側出入口を飾る浮彫は一見に値する。


全 景 
 
北門付近
 
門柱を飾る牡牛像

 ◎門柱を飾る浮彫
    門柱の内側面には種々の浮彫がある。そのうち保存のいいものを・・・。

 
玉座かつぎ
 
大王と近衛兵
 
同左-上部拡大

*玉座かつぎ
  最上部に、玉杖をもつ大王が正面を向いて玉座に座り、それを下から14人の人々が両手を挙げて支えている(3段構成)。  大王の上には、神アフラ・マズダーを象徴する有翼円盤があるというが確認できない。
  下から玉座を支えている人々は、被征服民族を示すという。

*大王と近衛兵
  最上部に、玉座に座って拝謁者と会っている大王がみえる。その上に有翼円盤があったというが今は欠けていてみえない。
  玉座の下には、50人の長槍を持つ近衛兵が立っている(5段構成)。この近衛兵たちは“不死の一万人隊”と呼ばれた最強の軍団だったといわれ、彼らが大王に近侍護衛する姿を描くものという。

※タチャラ(ダリウス大王の宮殿)
 ペルセポリスには、国の公的儀式をおこなう宮殿と、大王の日常生活に使われる私的宮殿があったという。
 その一つが、“ダリウス大王の宮殿”といわれる【タチャラ】で、アバタナの南・西寄りに隣接する。

 タチャラは比較的小さな宮殿で、長方形基壇(30×40m、H=2m)上に中央広間と南側出入口の柱廊が残り、南正面と西側に階段がある。
 基壇の南・西壁面にはアバタナ同様各種の浮彫が施され、“従者を従えた大王”・“槍を立てて近侍する近衛兵”・“ライオンや牛・怪獣の戦う大王”など、私的宮殿に相応しいものがみられる。

 南側面に3カ国語で記された碑文があるという。碑文の大意は、
  「かつて、ここには砦は建てられていなかった。王ダリウスが、この地にこの砦を建てた。余はアフラ・マズダーの恵みによってこの砦を建てたのである。アフラ・マズダーは神々とともに、この砦を建てるべきであると考えられたので、余はこれを建てた。余はそれを確実に美しく適正に建てようと思い、そのとおりに建てた」という。
 ただ、ここでいう砦が、ペルセポリス全体をいうのか、タチャラのみを指すのかは不明だが、いずれにしろ、この地に始めて宮殿を建てたのがダリウス大王であることを示している碑文といえる。

 
南正面
 
同左・中央部拡大
(基壇部に槍を持つ近衛兵がみえる)

 中央広間の出入口の門には、各種の浮彫が施されている。

 
中央広間への門
 
牡牛と戦う大王
 
槍を持つ近衛兵

*牡牛と戦う大王
  王が、後足で立ち上がった牡牛の角を片手に掴み、片手の短剣を牛の腹に突き立てている。同種のものに“獅子と戦う王”・“怪獣と戦う王”などがあるが、サソリの尾に猛禽の爪を持ち、翼をもった獅子などもあるという。
 いずれも同じパターンだが、数としては“牡牛と戦う王”が圧倒的に多いという。

 いずれも、野獣と戦う勇者としての王であり、王の偉大さを表すものというが、単なる狩猟の場面ではなく、トーテムとしての牛を殺すことで、トーテムがもつ力を王のみに移し、王の活力の再生を図ったとの解釈もできる。

 ペルシャ以前のメソポタミアにも“牛を殺す勇者”の話が残っている。
 ギルガメッシュ叙事詩には
  「ウルクの王・ギルガメッシュは盟友・エンキドゥとともに森の王(怪獣)・フンババを倒す。
 その勇姿に惚れこんだ女神・イシュタルはギルガメッシュに求婚するが、それを拒否し侮辱したためにイシュタルは怒って“天の牡牛”送り込む。
 その牡牛を、ギルガメッシュは盟友エンキドゥとともに殺すが、その時『エンキドゥは牛の角を掴み、刀を首に突き刺して殺した』」
とある。

 この話は、天の牡牛殺害の咎を被ったエンキドゥの死、それを悼むギルガメッシュの嘆きと、不死を求めての旅、そしてその失敗へとつづくが、ここでの天の牡牛殺しは再生ではなく、死を招いているが、物語後半の不死の探求とあわせ考えると、ここでの死は再生を前提とした死ともいえる。

※ハディシュ(クセルクセス一世宮殿
  ダリウス大王のタチャラの南にある“クセルクセス一世の宮殿”を【ハディシュ】(住居の意という)と呼ぶ。
 この宮殿の規模はダリウスのタチャラより大きく、北側に広場をもっている。嘗て、北側の入口から入ると、36本の円柱が立つ広間があり、東西に小部屋2室がついていたという。

 この宮殿跡は、他に比べて火災による被災度が大きく、猛火によって石像物の表面が溶け落ち、浮彫も消えかかっており、アレクサンドロス時の火災が如何に激しかったかを示唆するという。
 今、門跡と円柱礎石30基ほどが残るだけで、入口の壁には“日傘の下に立つクセルクセス”の、窓枠には“羊を肩にかけた召使い”などの浮彫あるというが気づかず未見。

※トリビュロン(三角宮殿)

 アバタナの東階段を出た南に、こじんまりとした宮殿跡がある。
 南北と東に3ヶ所に出入口があったことから【トリビュロン】と呼ばれるが、“中央宮殿”とする資料もある。

 3基の出入口の門柱に描かれた有翼円盤の下に、ダリウス出御の浮彫が2面あり、浮彫の人物がペルシャとメディアの高官や軍人とみられることから、側近の高官あるいは特別の使者等を謁見した宮殿であったろうという。
 あるいは、ここで国家の重要事項が審議され決定されたのかもしれない。

 

※宝庫
 大基壇の東南部に面積約12,000㎡という宝庫の跡が残っている。
 二つの大部屋と付属の小部屋に別れ、王家の財宝、各地からの献上物が充満していたという。その量たるや、古代史家が、「アレクサンドロスが財宝を運び出すのに、駱駝3000頭と多くの驢馬が必要だった」と書いているほどで、兵たちは、それらを奪いあって 激しく争ったというが、今は、円柱跡の標石が整然と並ぶだけで、往時を偲ぶものはない。

 宝庫からの出土品で最も有名なものに、【ダリウス大王謁見の図】(幅6m強)と呼ばれる浮彫がある。
 そこに描かれたダリウスは、左手に手草(タグサ・草木を束ねたもの)を、右手に王権の標である長い杖をもってゆったりと座っている。
 ダリウスの後に、皇太子が・クセルクセスが立ち手草はもつが杖は持っていない。

 王がもつ手草には神霊が宿るもので、王権神授の象徴だという。それを皇太子がもつのは、後継者として神に認められたことを意味するという。

 皇太子の後には、一段下がって布をもつ貴族・剣をもつ軍人・槍を持つ二人の衛兵が立っている。   

 ダリウスに対面して、短い杖をもった謁見者が、右手を口のあたりに当てながら腰をかがめている。
 王に敬意を表し挨拶する仕草だという。その後には、槍を持った衛兵二人が立っている。

 大王と謁見者の間に、2基の細長い台があり炎が燃えている。拝火壇とも香炉台ともいう。

 この浮彫は、宝庫の玄関先にあったといわれ、今は、テヘラン考古学博物館に展示されている。顔面が破損されていることの多いペルセポリスの人物像にあって、これには破損がなく美麗である。

※牛のモチーフ
 ペルセポリスでは、牛・特に牡牛のモチーフが各所でみられる。人面牡牛像・獅子に襲われる牡牛・王と戦う牡牛像・柱頭を飾る牡牛像などである。

 インド・イラン民族にとって、牛は神聖な動物であり、今でも、インドでは牛を殺すことは勿論、牛をたたくこともタブーという。
イランでは、そのまではいかずとも、古く牛はトーテムとされていたらしい。
 トーテムとは、氏族民共通の先祖獣で、祭儀など特定の状況下を除き殺害・食用を禁じられていた動物をいう。

 イランには“原牛”という概念があったという。
 神話によれば、親なくして生まれた始原の牛・原牛が悪魔によって殺され、その精液は月に運ばれる。月で浄められた精液から牡・牝の牛が生まれ、そこからあらゆる有用動物が生まれた。また、精液の一部は大地に落ち、そこからあらゆる有用植物が生まれたという。
 神話で、原牛が凡てのものの祖ということは、かつて牛をトーテムとした時代があったことを示唆するという。

 またイランには、大地は牡牛の一方の角に乗っており、新年になる瞬間、牡牛は大地を一方の角から他方の角に移すという神話があり、その瞬間、器の水がかすかに揺れるという。この牛も原牛である。

 クレタ島に伝わる伝承では、8年ごとに、王と王妃は牛の姿をして交わる聖婚がおこなわれ、それによって、8年周期で終わりを迎える王の生命を更新(再生)させたという。
 8年とは、太陽と月が再び合致する最短の周期だというから、宇宙の更新にあわせて、宇宙の化身としての王の生命も更新する、と考えられていたのだろうという。
 弱った王の命を蘇らせることは、弱った大地を蘇らせることにも通じ、王と王妃が牛となって交わるのは豊穣を願っての祭祀ともいえる。

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