トップページへ戻る
*イラン紀行から、2008.04.02訪問

イランの正月

 イランの正月・ノウルーズは春分の日から始まり、12日間続く。昔は10日間だった時期もあったという。
 今回の旅でテヘランの土を踏んだ4月2日は、イラン暦でファル・ヴァンディーン月(1月)13日に当たっていたが、空港から宿までの途中、人々が公園や水辺に集まって楽しんでいる様子が見られた。

※イランの暦 
 現在のイランでは、ヒジュラ歴(イスラム暦ともいう)・イラン歴・西暦(グレゴリオ歴)という3っの暦が併用されている。
 人々は、日常生活ではイラン歴を、宗教行事ではヒジュラ暦をと使いわけ、西暦は外国人の利用が多い旅行会社など特異な場所で使われるだけで一般的ではないという。

◎ヒジュラ暦
 イスラム社会で広く使われている暦で、教祖ムハンマドが、メッカでの迫害を避けてメディナに移住した年(622、聖遷・ヒジュラという)を紀元とし、月の満ち欠けを基準とした純粋太陰暦である。

 ヒジュラ暦は一月(ヒトツキ)を29日と30日の繰りかえしで数えるため一年は354日となり、太陽暦に比べて約11日(10.8752日)不足する。
 しかし、そのズレ解消の処置がとられていないために、太陽の運行すなわち四季の移り変わりとの同調は皆無で、15〜16年経つと季節がほぼ逆転し、有名にラマダン月(断食月)が夏にきたり冬になったりすることになる。

 このように季節を反映しないため農作業などには不向きだが、宗教優先のイランではイスラムの祭や宗教行事はすべてこの暦によっている。

◎イラン歴
 イラン歴は、ペルシャ歴・イラン太陽暦とも呼ばれる太陽暦の一種で、イランやアフガニスタンなどで用いられているという。
 イランには、アケメネス朝時代(BC559--330)にバビロニアから太陽暦が伝わり、その元旦は、メソポタミア地方の伝統である“春分”あるいはその近くの“新月”(朔)の日だったというが、詳細はわからない。
 春分新年ということは、厳しい冬が終わり、草木が芽を吹きだして宇宙的秩序が回復される時期に、人間もまた新しい年を迎え再生するということであろう。

 そのイランにも、イスラム化によって純粋太陰暦であるヒジュラ暦が導入され公式暦とされたが、季節との相関が皆無であるため、農作業とか伝統的な祭(ノアルーズ:新年祭、メフラガーン:秋分の日など)といった季節を重視する場合の暦としてイラン歴が併用されたという。

 今のわが国では、各月の名称を数字で呼んでいるが、現行イラン歴では宗教的な意味をもつといわれるジャラリー歴の名称を踏襲し、ムハッラム月(1月)とかラジャブ月(9月)とか呼び、月々の日数も、前半の6ヶ月は31日、後半5ヶ月は30日、最後の月が29日とされ、誤差修正のため4年ごとに最後の月に1日が加えられている。

 なお、イスラム革命(1979)の後、ヒジュラ暦が公式歴とされたが、日常生活を律する暦としてイラン歴の併用も認められているという。

 イランの新聞にはヒジュラ暦・イラン歴・西暦が並記されているが、数字が通常の算用数字でないためよくわからない。

※シーズダ・ベダル(「13日の外出」の意とか)
 イランでは古くから、正月明けの13日を『シーズダ・ベダル』と呼んで特別の日とされてきた。
 人々は、この日を「不幸の日」と呼んで家にいることを忌み、悪運がわが身に降りかからないように家を空けて郊外の水辺や山麓などに出かけ、食事をしたり踊ったりして過ごし、夕刻になって家に帰るという。車窓からの光景はそのひとつである。
 ガイドの言では“13という数字からくる”というが、13を忌むのは、キリストを売ったユダが13番目の弟子だったからというのが一般の理解で、それがイスラムで云々されるのは不思議であり、また昔、正月が10日間だった頃は11日が正月明けとなるから、数字13からというのは疑問である。

 資料(井本英一著書)によれば、この日、地方によっては動物の仮装行列がおこなわれたという。
 霊魂がいろんな動物に移り変わり、最後に新しい人間として生まれ変わるという一種の輪廻思想で、中国からわが国へ伝来していた人日(ジンジツ、1月7日)の思想、正月はじめの六日間を鶏・犬・羊・猪・牛・馬に生まれ変わり、七日目に人間として再生するという思想と同じである。

 また古くは、この日の夜には火祭りがおこなわれていたともいう。郊外の水辺へ出かける風習は、河原でトンド(焚き火)を焚いたことの名残かもしれない。ただ、今のイランには不幸の日という観念はあるものの、仮装行列や焚き火などの風習は残っていないという。

 いずれにしろ、イラン暦の1月13日はひとつの節目で、それはわが国の小正月(1月15日)に相当する。
 シーズダ・ベダルの風習は、その日が不幸の日だからではなく、家あるいは町という日常空間から出て、川辺あるいは山麓という境界へ出向き、その向こうにある非日常的な場所すなわち異界と接し、そこで祖霊と共食することで活力すなわち新しい命をもらって再生するという儀礼ではないかと思われる。

 わが国の古事・慣習などを記した古事類苑(大正3年)
 『古く、正月・子(ネ)の日に、高きに登りて遠く四方を望み、以て陰陽の精気を得るに基づくといふ。・・・この日朝廷にて宴を給ひ、野に行幸し給ふことあり。故に臣庶にありても、亦野外に遊び、小松を引き、若草を摘むを以て例とす』
とある。
 今、7日に七草粥を食するのは、正月の飽食で疲れた胃腸を休ませるというより、春の野に出て精気をわが身に付け再生しようとする風習が形を変えたものといえる。
 十二支の“子”は、新しい生命が種子の内部から萌しはじめる状態というから、新年に当たって、“ものの芽生え”にあやかって生命を更新しようとした行事で、新しい年の特定の日に野外に出て生命の再生を図ることでは、日付の違いはあるものの、その意味するところはイランのそれと同じである。

[追記](2016.09)
 一年の中で、日を定めて野外で過ごす習慣は嘗ての我が国にもあったという。
 柳田国男は、“歳時小記”のなかで次のように記している(1955、年中行事覚書・1977所収)
 「山磯遊び(3月3日)
 3月3日の節句の日に、終日外に出て楽しく飲み食いして遊ぶ風は、ほとんど全国の隅々にまで行き渡っている。
 東京の潮干狩りなどもその一つの変化というに過ぎない。前年私は対馬の西北海岸づたいに、この盛んな磯遊びを見て歩いたが、女や子供が幾十組ともなく、手に手に重箱を下げて良い場所を見つけて歩く光景は、和やかなものであった。・・・
 伊豆半島のある村では、女の児が雛壇の前に集まって、ままごとをするのを磯遊びと呼んでいる。
 それから考えていくと、雛の宵の可愛い飲食なども、本来は野外の楽しみを移したものらしく、しかも天龍川や相模川の川沿いで、この際に古雛を送り流し、また正月に墓所に立てておくタッシャ木という木ぎれを集めて、煮炊きの燃料としたというのを見れば、これは一つの定まった方式であって、単なる遊戯とはいわれぬものであった。
 全体にこの日を気味の悪い、用心をしなければならぬ日のように、考える風はまだ残っている。家の中でじっとしておらぬ方がよいので、外へ出て日を暮らすというのが元ではなかったかと思う」
 これが何時頃まであった風習かはわからないが、大正末あるいは昭和初期頃までのそれと思われる。ただ、昭和初期・町中生まれの小生には記憶がない。

※正月飾り
 到着したホテルの玄関には“正月の飾り物”(縁起物)が飾られていた。
 丸いテーブルの中央にコーラン、周りに青い大麦の苗、ガラス鉢に入った赤い金魚、赤い花、豆、木の実、飾り燭台等々である。
 明くる日の朝には片付けられていたが、その日訪れたサーダバート宮殿には豪華なそれが飾ってあったし、バスの運転席にはミニチュアの造りものがあった。
 また考古学博物館でみた七宝が飾られた大皿には、真ん中とその周りに7個の半円球型の窪みがあり、7種の縁起物を飾る特別の容器だというから、相当古い頃からの慣習らしい。
 なおコーランというのは、今のイランの宗教がイスラムであるためで、本来の飾り物ではない。


ホテル玄関の縁起物
正月も終わりということで
花は散っていたし、金魚は死んでいた

バスの運転席の縁起物
ミニチュアの造り物
さすがに金魚はない
 
古い縁起物容器
(考古学博物館)

 イランでは正月、大麦の苗・水鉢の金魚・蝋燭(燭台)・ペルシャ語のSではじまるもの(豆・アーモンドなどの木の実・グラジオラス・リンゴなど)を7種類を集めて飾るという。
 これらの飾り物は、わが国正月の注連飾り・鏡餅などと同じく、正月を祝い、その年の幸せ・豊饒を祈る縁起物・祝儀物であり、且つ正月に帰ってくる祖霊の依り代でもある。
 バスにあったミニチュアは、わが国で自動車などに注連縄を飾ることと同じだし、13日に取り払うのは、わが国で15日に正月飾りを燃やすこと(ドンド焼き)と同じである。

 古代オリエントでは、年の暮れに籠や鉢に大麦の種を蒔いて正月に発芽させ、これを“アドニスの庭”と呼んだという。
 神話によれば、アドニスとは地母神アフロディーテに愛された美少年で、女神がこの美少年を箱に入れて冥界の女王ペルセポネに預けたことから、両女神の間で取り合いがおこり、ゼウスの調停で、一年の三分の一を冥府でペルセポネと、三分に二を地上でアフロディーテと暮らすことになった。
 そのため、アフロディーテの元愛人のアレスに嫉妬され、狩りの途中でアレスの化身である猪に殺され、その時の傷から流れ出た赤い血がアネモネに化し、それを見たアフロディーテの涙から赤いバラが生まれたともいう。

 アドニスは穀物の霊魂・穀霊である。穀物が秋に刈りとられて死に、春に種子を蒔かれて再生するように、アドニスも冬に死に、春になって母であり妻でもあるアフロディーテに冥府から呼び戻されて蘇ると信じられていた。
 穀物神アドニスが一旦死んで蘇るのは、自然の循環の象徴であり、自然の再生を意味している。女たちが正月にアドニスの庭を祀り、8日目に慟哭のなかで川に投げ捨てるのは、新しい年の豊穣すなわち生命の再生を祈る呪的行為いえる。

 またイランでは、暮れに蒔かれた大麦の種子が正月に発芽する状態を見て、その年の豊饒を占うという。古代のアドニスの庭の変形といえる。
 いずれも死と再生、いいかえれば四季の順調な循環と豊饒を祈る呪的行為である。

 正月飾りに金魚というのは面白いが、理由は不明。イランの古俗では、大地は巨大な牛の角の片方に乗り、牛はまた巨大な魚の上に乗っている。年が変わる瞬間、魚がピクンと動き、そのとき大地はもう一方の角に乗りうつると信じられていたという。
 また人々は、春分(正月)の直前水を張った鉢に金魚を入れ、木の葉を一枚浮かべて時を待ち、太陽が春分点を通過する瞬間に、金魚と木の葉がピクンと動くともいう。

 また正月飾りには赤いものが多いが、赤色は再生のシンポルでもある。わが国で、還暦に赤い着物・頭巾を付けるのも、人生の節目である干支一巡の歳に新しい命を得て再生したことを意味している。
 イランの正月飾りに赤いものが多いのも、再生を願ったものといえる。

 正月は蘇り・再生の時である。その蘇りを確実なものとし、その年の豊饒を祈る。正月飾り・縁起物には、そんな願いが込められているわけで、それはわが国の正月飾りと同じ意味をもつといえる。

※大正月と小正月
 今のイランの正月は12日間続くが、昔は10日間だった頃があり、且つ 前後に二分されていたという。
 その頃、大晦日に帰ってきた祖霊が前半の5日間を家族と共に過ごして他界へ帰ったあと、6日になって本当の正月が始まるとされ、前半を「庶民の正月」、後半を「王の正月」(王侯貴族の正月)と呼んだという。

 それは、古く、わが国正月の14日間を前半七日間と後半七日間にわけ、前半を「殿様の正月」(大正月)後半を「百姓の正月」(小正月・女の正月)と呼んだことと同じである(今も長野県の一部などには残っているという)
 この慣習は、新年は死に象徴される混沌からの再生、新しい秩序への転換とされることから、後半の再生・復活に向けて、あるいはそれをより確実なものとするために、前半に身を慎んで忌み籠もって過ごしたのかもしれない。
 ただ、ガイドの言によれば、正月に先祖の霊が帰ってくるという観念はあるが、正月を二分するという意識はないという。

 東アジアで“人日”(5節句の一つ・1月7日)が正月を前後に分ける節目になっていたように、10日正月だった古代イラン(ペルシャ)では後半の初日・1月6日は「大正月」と呼ばれる一つの節目とされ、“神が創造を終えた日”とされ、伝承によれば、この日、イラン神話の王ホスローが即位し、同じく王シャムシード(別名・マヤ)が悪魔を退治し宿敵を打ち破ったという。

 人々はこの日を「希望の日」とし、この朝カナート(地下水路)から“若水”を汲み、その水で沐浴し、互いに水を掛け合って祝ったという。
 わが国で元旦の早朝、いまだ他人が汲んでいない井戸から若水を汲んで神に捧げ、その水で焚いた雑炊を食したのと同じである。
 若水とは“生命の水”であり、すべての生命を維持する力をもつ水を飲んだり浴びたりすることで、一年間の罪穢れを祓うとともに、新しい生命として再生するとされていた。

 また、この1月6日が希望の日とされたことは、それが“神が顕現した日”であることを意味する。
 この日を誕生日とする神・聖人・英雄は多く、ゾロアスター教の始祖あるいはアレキサンドロス大王などがそうだと伝えられているが、その典型がイエスである。
 キリスト教の祝祭日には異教時代の習俗が姿を替えて取り込まれているが、イエスの誕生日・クリスマスもそのひとつで、古くは1月6日が誕生日・クリスマスだったという。
 イエスの実際の誕生日は不明だが、それがこの日にされた裏には、この日が神顕現の日とされていたことがあるといえ、今でもアルメニア教会では1月6日を聖誕日として祝うという(クリスマスが12月25日となったのは4世紀の頃というが、これも太陽が蘇る冬至にあわせたものとい)

 この正月を前後二分するように、ある行事を二分し同じことを繰りかえすことは、東大寺・二月堂の修二会(お水取り)にもみることができる。
 3月1日から2週間続く修二会は前半7日(上七日)と後半7日(下七日)に二分され、対応する日毎にほぼ同趣旨の行事が繰りかえされる。
 前半の7日間は、5日目に読み上げられる過去帳と、それにつづく実忠忌にみられるように死者を追悼する期間ともみられ、それが3月7日の“小観音”(コガンノン)出御によってクライマックスに達し、この時、秘仏とされる修二会の主尊・大観音が小観音へと姿を替えてして堂衆の前に現れる。
 これは大観音が小観音として再生・復活したことを意味し、この行事そのものが、死の儀礼から後半の生の儀礼へと転換したことであり、それは古代オリエントで1月6日を神の顕現日とするのと同じである。

 イランの正月あるいは古い習俗とわが国のそれとの間には、意外と類似するところが多い。古代ペルシャの文物が、シルクロードを通って中国を経由してわが国に伝えられた(正倉院御物にはペルシャ系のものが多々みられる)のと同じく、風俗習慣もまた伝来していたのかもしれない(夏の盂蘭盆会の原形はペルシャにあるともいう)

トップページへ戻る