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石上神宮(天理市)
奈良県天理市布留町
祭神--布都御霊大神・布留御魂大神・布都斯魂大神
      フツノミタマ     フルノミタマ       フツシノミタマ
配祀神--五十瓊敷命・宇摩志麻治命・白河天皇・市川臣命
             (イニシキ    ウマシマジ       シラカワ   イチカワオミ)
                                                      2008.08.25参詣、2015.08.全面改訂 

 奈良盆地の中央東寄りにある龍王山(H=586m)の西麓、布留山(H-266m)の北西麓の高台に鎮座する古社で、延喜式神名帳に、『大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社(イソノカミニイマス フツノミタマ) 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社。
 当社社名は史料によって異なり、一般には石上坐布都御魂神社というが、神名帳吉田家本・大日本史には“石上坐布留御魂”と、古事記・日本書紀・古語拾遺には“石上神社”とあり、他にも“石上布都大神”・“布都奴斯神社”・“石上振神宮”・“石上社“などとあるという。

 JR桜井線・近鉄天理線の天理駅の東約2㎞、天理教本部を過ぎて県道天理環状線を南下した東側の高台に鎮座する。

※由緒
 当社刊冊子(石上神宮)に記す略記(以下、略記という)によれば、
  「当神社は日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰のなかでも特に異彩を放ち、・・・。
 主祭神の布都御魂大神(フツノミタマ)の御神体は、神代の昔武甕雷神(タケミカヅチ)が帯びておられた神剣“韴霊”(フツノミタマ)で、“平国之剣”(クニムケノツルギ)とも申し上げます。
 記紀によれば、神武天皇御東征の折に天降られ、邪神を破り国土を平定された御偉功により、天皇御即位の後、勅により物部氏の遠祖・宇摩志麻治命(ウマシマジ)が宮中に奉祀されました。この時、宇摩志麻治命が御父・饒速日命から継承された天璽(アマツシルシ)・十種瑞宝(トクサノミズノタカラ)も一緒に奉祀されたといいます。
 その後、崇神天皇7年に至り、勅命によって、物部氏の祖・伊香色雄命(イカガシコオ)が韴霊剣と十種瑞宝を石上布留高庭にお遷しして奉祀したのが当神宮の創始で、以後物部氏が代々当神社の祭祀を預かることになりました」
という。

 当社主祭神の御神体というフツノミタマノツルギについて、“神武天皇御東征の折云々”というのは、書紀・神武即位前記に、
  「天皇が軍を率いて熊野の荒坂の津に着かれたとき、神が毒気を吐いて人々を萎えさせた。それを知ったアマテラスがタケミカヅチに、『葦原中国は乱れ騒がしい。汝が行って征て』といわれた。
 タケミカヅチは『我が行かずとも、我が国を平らげた剱を下せば、国自ずから平らかにならむ』と答えて、熊野の高倉下に『我の剣はフツノミタマという。これを汝の倉の中に下すから、取って天皇に献上せよ』と夢告された。
 翌朝目覚めた高倉下が倉の中を見ると、倉の底板に逆さまに刺さった剣があったので、それを取って天皇に献上した。その時、眠っておられた天皇が目覚められ、毒気に当たっていた兵卒も皆目覚めて起き上がった」(大要)
との伝承を指す。
 (古事記には、同意記述に続いて「この刀の亦の名は甕布都神-カメフツと云ひ、亦の名は布都御魂-フツノミタマと云ひ、石上神宮に坐す」との注記がある)

 ただ、略記には“神武即位後、勅によりウマシマジ(物部氏の祖)が宮中に祀った云々”というが、記紀に、これに対応する記述はみえず、先代旧事本紀(9世紀前半)に記す、
  「天皇即位後、ウマシマジは天瑞宝(アメノミズノタカラ=十種瑞宝)を天皇に奉り、神盾を斎き立て、また斎木(ユキ=榊)を立て、また五十櫛(イグシ・忌串)を布都主剣大神(フツヌシノツルギ)のまわりに刺し巡らせて、大神を宮殿の内に崇め祀った」(漢文意訳)
との伝承によるものであろう。
 旧事本紀は物部氏系の史書であることから、その祖・ウマシマジの功績として特記するが、これは旧事本紀独自の伝承で、記紀には、韴霊剣及び十種瑞宝を宮中に祀ったとの記述はない。

 略記後段には、“崇神7年、物部氏の祖・イカガシコオ(ウマシマジ6世の孫)が勅命により韴霊剣と十種瑞宝を(宮中から遷して)宮中から移して石上布留高庭に奉祀したのが当社の始まりで、以後、物部氏が当社の祭祀に預かった”とあるが、
 書紀・崇神7年条には、
 ・8月7日 物部連の先祖・イカガシコオを神班物者(カミノモノアカツヒト・神への供物・祭具を扱う人)としようと占うと吉(ヨシ)と出た、ついで他神(アダシカミ=八十万神)を祭ろうと占うと吉(ヨ)からずと出た
 ・11月13日 イカガシコオに命じて、沢山の平瓮(ヒラカ・祭具)を祭神の供物とさせた。・・・長尾市(倭直の祖)を倭の大国魂神を祀る祭主とし、ついで他神を祀ろうと占うと吉と出た。そこで別に八十万の群神を祀った
とあるのみで、
 ここでのイカガシコオは、神マツリに必要な供物・祭具等にかかわる人であって、神マツリそのものにはかかわっておらず、逆に、イカガシコオをして他神(三輪の大物主・倭の大国魂以外の神々を指し、当社祭神もこれに含まれる)を祀らせようとしたら不吉と出たとある。

 ただ、先代旧事本紀・天孫本紀に
  「開化天皇の御世、イカガシコオ命が布都大神の社を大倭国山辺郡石上邑に遷して建てた。天の祖神がニギハヤヒ尊に授けられた天璽瑞宝も同じく共に収めて、石上大神と申し上げた」
とあり、略記の記述はこれによると思われるが、これは旧事本紀独自の記述であり、また時代が一代異なっている(開化は崇神の父)

 当社は、古くからフツノミタマ剣をはじめとする兵器を奉祀する神社として知られるが、その始まりは、書紀・垂仁紀39年条の
  「冬10月、五十瓊敷命(イニシキ・垂仁天皇の皇子、景行天皇の兄)は、茅渟(チヌ)の菟砥(ウト・大阪府泉佐野市日根野に比定)の川上宮で剣一千口を造らせ、石上神宮に納めた。この後、石上神宮の神宝を掌らせられた」
 (古事記には、「イニシキイリヒコ命は、鳥取の河上宮に坐して、横刀(タチ)壱千口を作らしめ、これを石上神宮に納め奉り・・・」とある)
との記述で、同87年条には
  「イニシキ命が妹の大中姫(オオナカツヒメ)に、『我は年が寄ったので神宝を掌ること(管理)ができない。今後はお前が掌れ』といわれたが、姫は、『私はか弱い女ですから・・・』と辞退し、物部十千根(モノノベノトチネ)大連に授けて治めさせられた。物部連が今に至るまで石上神宮の神宝を治めているのは、これがもとである」
とあり、ここではじめて物部氏が当社の神宝の管理者として登場する。

 ここでいう神宝を治めたとは祭祀にかかわったとも解されるが、39年条には別伝として
  「イニシキ命は、菟砥の河上で造った一千口の太刀を忍坂邑に蔵めた。その後、忍坂邑から移して石上神宮に蔵(オサ)めた。この時、神が『春日臣の一族・市河(市川とも)に治めさせよ』と告げたので、市河に命じて治めさせた。これが今の物部首(モノノベノオビト)の祖である」
とあり、石上神宮の祭祀は物部首・市河が初代神主となって祭祀を掌ったという。

 当社の祭祀を預かった物部首・とは、物部とは名乗るものの古代豪族の物部氏一族ではなく、新撰姓氏録に
  「大和国皇別 布留宿祢 柿本朝臣同祖 天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命(タガネツキオオオミ)之後也
      仁徳天皇の御世、布都奴斯神社(フツヌシ)を石上の御布留村高庭の地に賀(イハ)ひ祀る。市川臣を以て神主と為す。
      斉明天皇の御世、蘇我蝦夷、四世孫・武蔵臣の姓(カバネ)を臣(オミ)から首(オビト)に落とし物部首と為す。
      天武天皇の御世、物部首、社地名に依り布留宿祢と改姓」(大意)
とあるように和爾氏系の氏族で、5・6世紀は勿論、7世紀以降も、石上神宮の神主は和爾氏系氏族が勤めたという。
 なお、天足彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒト)とは第5代孝昭天皇の皇子で、古代豪族・和爾氏の祖という(書紀)

 また、日本後記・延暦24年(805)2月条に
   「石上神宮には多くの武器が納められているが、遷都した平安京から遠くなってしまったので、近京の地に遷すべきであるとして、延べ157,000余人を動員して近京の地・山城国葛野郡へ遷そうとした。
 その時、布留宿祢高庭が、石上の神・布留御魂から『今、吾が神宮の庭を汚して神宝を遷しているのは不当である』との神告があったと奏上してこれを止めさせ、元に戻させた」(大要)
とあり、桓武朝(平安時代)にあっても当社の祭祀は布留宿祢一族が掌っていたことを示唆している。

 これらのことから、石上神宮における物部氏の役割は、
 ・神宝としての武器庫の管理と警護
 ・各地の服属者の武器を収める役目
 ・神宝としての武器を造らせる役目(物部氏は鍛冶・鋳物などの技術集団を統轄していた)
であって、物部氏は、武器を主とする神宝の管理・警護と製作・収納などを役目として石上神宮にかかわったのであり、為に、垂仁87年条に、物部連等は、今(書紀編纂時)に至るまで“石上の神宝を治む”と書き、“石上の神を祀った”とは書いていないのだ、という。(以上、神社と古代王権祭祀所収・石上神宮2009による)

 上記略記は、「石上神宮は物部氏の総氏神として・・・」というが、上記のように、古事記・日本書紀は当社を物部氏の氏神社とは記していない。
 しかし、一般には石上神宮は物部氏の氏神社であって、その祭神は氏神であると認識されているが、これは
 ・物部氏が古代ヤマト朝廷にあって最強の軍事氏族であり、兵器の製造管理を主掌していたこと
 ・石上神宮の御神体が武器・フツノミタマの剣であったこと
 ・石上神宮には多くの武器が納められていて、それらを物部氏が管理していたこと
 ・物部氏が、雄略朝以降ヤマト朝廷の中枢に進出し、蘇我氏と勢力を二分する大豪族であったこと
などから、時期は不明ながら、物部氏が石上神宮の祭祀権を手中に収めて(悪くいえば簒奪して)自家の氏神社とし、主祭神・フツノミタマ大神を人格化したフツヌシ神を氏神としたと思われる。

 当社に対する神階綬叙記録等として
 ・大同元年牒(806)--石上神 八十戸 大和廿戸 備後十戸 信乃五十戸
 ・文徳天皇・嘉承3年(850)10月辛亥--大和国石上神・・・正三位を授く--文徳実録
 ・清和天皇・貞観元年(859)正月27日--大和国正三位勲六等石上神・・・従一位を授く--三代実録
 ・  同   ・貞観9年(867)3月10日--大和国従一位勲六等石上神の階を進め正一位を加ふ--三代実録
があり、9世紀には国家守護の神として重要視されていたことが示唆される。

※祭神
 現在の祭神は、フツノミタマ以下の3座となっているが、延喜式にフツノミタマ神社・一座とあることからみると、本来の祭神はフツノミタマ一座であろう。

 当社刊に記す御祭神によれば、
 ・布都御魂大神(フツノミタマ)
   当神宮の主祭神で、国土平定に偉功のあった神剣・韴霊に宿られる御霊威を称えて布都御魂大神と申し上げます。
 ・布留御魂大神(フルノミタマ)
   天璽瑞宝に宿られる御霊威を称えて布留御魂大神と申し上げます。
 ・布都斯魂大神(フツシミタマ)
   神代の昔、スサノオ尊が出雲国・簸の川上で八岐大蛇を斬られた天十握剣(アメノトツカノツルギ)に宿られる御魂を称えて布都斯魂大神と申し上げます。
という。

 フツノミタマとは、上記のように、タケミカヅチ神が葦原中国を平定したときに帯びていた剣で、神武天皇が東征の途上、熊野で困窮されたとき、熊野の高倉下(タカクラジ)を通じて天皇に奉られ、大和平定に功をたてた霊剣を指す。

 フルノミタマとは、ウマシマジがフツノミタマとともに祀ったという十種神宝を指す。
 十種神宝とは、物部氏の祖神・ニギハヤヒが天降ったとき、天津御祖(アマツミオヤ)から授かった十種の神宝で、鏡二面・剣一振・玉四種・比礼(ヒレ)三種の呪具からなる。
 御祖の教えによれば、呪文を唱えながら、これらの品々、特に比礼をゆっくりと振り動かせば、死者さえも蘇る力があるという(旧事本紀)
 比礼を振るとは、枯渇した魂を活性化し、飛び去ろうとする魂を呼び戻そうとする呪的行為で、古代の宮中でおこなわれた鎮魂祭(タマシズメのマツリ)で、神祇官が一から十までゆっくりと数えながら鉾で桶の底を突く音に合わせて、巫女が比礼(この場合は天皇の衣服)をゆっくりと振り動かして天皇の魂の再生を図ったという。

 この十種神宝のもつ呪力を神格化したのがフルノミタマで、布留とは石上神宮が鎮座する地名であるとともに、比礼を振るという呪術にも通じている。

 残る祭神・フツシノミタマとは、スサノヲが八岐大蛇を斬った十握剣(虵之麁正オロチノアラマサ・韓鋤之剣カラスキ・天蠅斫之剣アメノハハキリともいう)という。
 伝承によれば、始め吉備の神部に祀られていたが、仁徳天皇56年、市川臣が勅を奉じて石上の高庭に遷し、地下の石窟にある霊剣・フツノミタマの左に祀ったという。
 なお、書紀8段一書3に「スサノオが蛇を斬られた剣は、いま吉備の神部(カムトモノオ・神主)のところにある」とあり、吉備の神部とは、今、岡山県赤磐市石上にある石上布都魂神社だというが、確証はない(別稿・石上布都魂神社参照)

※神宮創建以前の布留における祭祀
 石上神宮の祭祀は、上記のように神霊とされる神剣が宮中から当地に移され、物部氏にその管理を委ねたことに始まるとされ、拝殿背後の禁足地に対する信仰というが、その原点は、以前からあった神奈備山(神体山)としての布留山への信仰、そこから流れくる布留川に坐す水神信仰だろうという。
 伝承によれば、
  「石上神宮近くの川床に7つの神石があり、布留川上流の日谷に天降った神霊を、神剣を捧げ持った巫女が待ち受け、その神剣を7つの神石の上に置いて神霊を依りつけた」
とあり、また、石上大明神縁起には
  「昔、布留川で女が布を洗っていると、川上から剣が流れてきた。
 この剣は接する石草木全てを切断したが、この布にはまとわりつかれて留まってしまった。
 俗人がこの剱をとって神として祀ったところ、一夜にして杉が生い出でた。この杉を神杉と云う。
 但し、今に至るまで、神剣を払殿の岸下、布留川の石の上に安置して祓除を修する故実があるのをみれば、神剣が此の地に鎮座されたとき、仮に石の上に祝い奉ったことがあって、其の由縁から石上と名づけたのであろう」
とあり、いずれも布留川を流れ下ってきた神剣を石の上に祀ったとあり、これが石上の由縁だという。

 この伝承は、各地に残る川辺で巫女がカミの降臨を待ち神の子を産んだという伝承のバリエーションのひとつだが(神婚譚が脱落したとみる)、布留川が奈良盆地に流れ出る地点に布留遺跡(弥生後期から古墳時代を中心とする集合遺跡)があったことからみると、古くから、その上流部で水神を祀る祭祀がおこなわれていたと思われ、はじめ、北岸でおこなわれていた水神祭祀が、南岸の石上の地に移ったのが当神宮祭祀の始まりともいう。
 古代にあって、各地でみられた水神を祀って豊穣を祈願する祭祀が原点といえる。

 江戸時代の文献(神斎集1746)によれば、旱天の折、村人が布留川の源である龍王山に登り、布留社の禰宜が降雨を祈り、社僧が祈祷文を読み上げたという。神仏一体となって降雨祈願をしたということで、雨乞いという形での豊饒祈願・水神崇拝は、神宮創建後も続いていたことを示している。

※社殿等
 近鉄天理線・天理駅から駅前商店街を東へ、天理教本部前を過ぎて布留交差点を右折(南へ)、県道・天理環状線を約450m程行った左側(東側)に当社への参道入口がある。

 参道途中に立つ大鳥居を過ぎた先が境内で、突きあたりの石垣上の回廊に囲まれた中が社殿域。
 石垣右の石段を登った先・左に重層の楼門が南面して建つ。

 
社殿配置図(現在)
 
石上布留神社絵図(明治初年頃・部分)
(当社刊資料より転写)
 
大鳥居

◎楼門(重要文化財)
  棟木に「右奉為 聖朝安穏 天長地久 社頭繁栄 興隆仏法 郷内泰平 諸人快楽 御造立如件 文保二年卯月29日」との墨書があり、鎌倉末期・後醍醐天皇(1318--39)・文保2年(1318)の建立という。
 重層の入母屋造で屋根は桧皮葺。神仏習合期には、上層に鐘が吊されていたが、明治初年の神仏分離で取り払われ、売却されたという。

     

◎拝殿(国宝)
 白河天皇(1072--86)が、当社でおこなわれる鎮魂祭用の社殿として、永保元年(1081)に宮中三殿のひとつ神嘉殿(シンカデン、天皇が天神・地祇を祀った殿舎)を拝殿として寄進したものというが、建築様式からみると鎌倉初期の様式とも考えられるというが、いずれにしても、現存する同型の拝殿としては最古のものという。
 なお、回廊などは、江戸期の補作。

 
拝 殿
 
同・内陣

◎禁足地
 拝殿の背後、「布留社」と刻した剣先状の石製瑞垣でとり囲まれた中が“禁足地”で(東西約44.5m・南北約29.5m)、当社で最も神聖な霊域とされている。

 明治末までは南側の半分強(南北約18m)の広さだったといわれ(明治43~大正2年に拡張されたという)、石上大明神縁起(1699、江戸前期)には、
 「本社の後ろに禁足と名づくる所あり。巡らすに石籬を以てす。社家説に霊崇あるによりて石櫃に安鎮し、此処に斎埋す」
とあり、近世には、中央に約85cmの高まりがあったというが、それが鎮座当初からのものかどうかは不明という。

 この地に、当社御神体である神剣・フツノミタマが埋納されているとの伝承があり、明治7年(1874)8月、大宮司・菅政友が官許を得て発掘したところ、剣・矛・玉類・鏡類等が多数出土したといわれ、
 「地下凡そ一尺余りに、一面瓦で覆われた一間半四方ばかりの石室があり、鋒を東に向けた剣一振りが、折れ損じもなく出現した。その他、刀剣様の物は一切なかった。この剣が、伝承にいうフツノミタマであることは疑うべきにあらず」
と報告している。
 この神剣出土の地は、本殿前に置かれた大きな丸石の辺りという(下写真)

  この剣がフツノミタマだとする確証はないが、今は、ご神体として本殿に奉祀されており、神宮刊資料にみる刀身全体が銹ついた太刀(L=78.4㎝、社宝)がそれだという(右写真)

*本殿
 今、禁足地内の中央に本殿(流造・桧皮葺)が建っているが、禁足地内にことで実見不能。
 大正2年(1913)禁足地出土の神剣を奉齊するために建造したもので、それまで本殿はなかったという。

 
禁足地を囲む剣先状瑞垣
(当社刊資料より転写)
 
本 殿(同左) 

*神庫(ホクラ)
 禁足地の南西隅に建つ寄棟造の校倉(アゼクラ)で、現在の神庫は、嘉永4年(1851・江戸後期)、拝殿の西に再建されたものを、明治45年(1912・大正元年)の本殿造営に際して現在地に移築されたものという(実見不能)

 上記、垂仁天皇の皇子・イニシキ命が造った一千口の剱を納めた高床式の建物(書紀・垂仁39年条より推測)が、この神庫の前身というが、確証はない。
 石上神宮略記によれば、
  「昔は高庭の左右にあり・・・左は伴氏、右は佐伯氏之を掌る。・・・今は右殿のみ形の如く残る」
とあるが、延宝(1673--81・江戸前期)の古図には左殿が描かれていないことから、永禄頃(1558--70・室町末期)には右殿のみとなっていたろうという(上掲・明治初年の絵図にも拝殿の左に校倉が見える)

 この神庫には、イニシキ命が造った剣をはじめ出雲の神宝・アメノヒホコ伝来の神宝など数多くの財宝)が収納されていたといわれ、その中で、最も有名且つ貴重なものに「七支刀」(シチシトウ、ナナツサヤノタチともいう。L=74.8㎝)があり、他に「鉄盾2面」(H≒143㎝・140㎝、推定5世紀後半)、「色々威腹巻」(伝足利尊氏奉納、室町後期)などがあり、剱をはじめとする兵器類が多いのが特徴となっている。

 七支刀とは、刀身の左右に各3本の枝刃が段違いに出ている異様な鉄剣で、表裏合わせて60余文字の銘文が金象眼されている。
 その冒頭の文字・“泰和4年”を東晋の年号“太和”とみて西暦369年の鋳造と推定されているが、銘文の解釈を含めて伝来由来については諸説があり、定説はない。
 いずれにしろ、4世紀後半頃に伝世した刀剣で、銘文(表)に「この刀を帯びれば百兵を避く・・・」とあることからみて、実用的な武器というより祭祀に用いられる呪的な刀剣であろう。
 俗に、日本書紀・神功皇后摂政52年に、百済から献上された“七支刀一口”がこれに当たるという。

 今、七支刀・鉄盾などの神宝は、他の伝世品とともに、禁足地西に建つ「宝物収蔵庫」(昭和55年建立)に収納されている。

 
神 庫











 (当社刊資料より
転写)
 
七支刀(右・表)

※摂末社
 楼門から参道をはさんだ南側の高台に、摂社:出雲建雄神社・天神社・七座社と末社:猿田彦神社が鎮座している。

◎出雲建雄神社(イズモタケオ)--摂社
   祭神--出雲建雄神
   神社資料では、出雲建雄神とは草薙剣(クサナギのツルギ)の荒魂(アラミタマ)という。

 石段を登った右側にある社で、江戸中期の縁起によれば、
  「天武天皇の御世、布留邑智(フルノオチ)という神主が、布留川の上に八重雲が沸きたち、その中に神剣が光り輝いている夢を見た。翌朝その地へ行ってみたら、八つの霊石があり、神が『吾は尾張氏の女(巫女)が祀る神である。今この地に天降って皇孫を安んじ諸民を守ろう』と告げたので、社殿を建てて祀った」
という。

 草薙剣とは、スサノヲが退治した八岐大蛇の尾から出てきた剣で、スサノヲからアマテラスに献上され、天孫降臨に際して天孫・ニニギに授けられ、後に伊勢神宮に祀られていたが、ヤマトタケルが東征に赴く際に斎宮・ヤマト比売から授かり、タケルの死後、熱田神宮に祀られた霊剣をいう。

 アラミタマとは、霊魂のもつ働きのうち、荒々しく雄々しい働きをもつ霊威で、当神宮が兵器類を奉斎することから、草薙剣の分身を荒魂という形で祀ったのであろう。

 また江戸時代には、祭神・フツシノミタマの御子神とされ、「若宮」と呼ばれたともいう。フツシノミタマは、八岐大蛇の尾を切り裂いて草薙剣を顕した剣であるから、摂社としては、この方が似つかわしい。
 
*出雲建雄神社・拝殿(国宝)
 出雲健雄神社社殿と相対する建物で、元、興福寺大乗院末寺の内山永久寺(鳥羽天皇・永久年間1113--18建立)の鎮守・住吉社の拝殿が、明治以降、荒廃したまま放置されていたのを、大正3年(1914)、当地に移築したもの。
 平安末期の保延3年(1137)に桁行三間の建物として建造され、13世紀中頃に桁行五間に改築、正安2年(1300)に現在の形に改造されたという。
 今の拝殿は桁行五間・梁間一間の切妻造で、中央に馬道(メドウ)と呼ぶ通路が通っている。このような拝殿を「割拝殿」と呼ぶ。馬道の前後に唐破風を乗せた優雅なもので、国宝となっている。


出雲建雄神社・社殿 
  同・拝殿 

◎天神社・七座社--摂社
 祭神--天神社--高皇産霊神(タカミムスヒ)・神皇産霊神(カミムスヒ)
       七座社--生産霊神(イクムスヒ)・足産霊神(タルムスヒ)・魂留産霊神(タマツメムスヒ)大宮能売神(オオミヤノメ)
               ・御膳都神(ミケツ)・辞代主神(コトシロヌシ)・大直日神(オオナオビ)

 石段を登って左側に鎮座する2社で、左に天神社が西面して、右に七座社が北面して鎮座する。

 天神社の2神は、記紀神話の天地開闢のとき混沌の中から成り出でた造化三神のうちの2神。
 タカミムスヒはアマテラスとともに天孫降臨を指揮した高天原の主宰神(書紀一書によれば、アマテラスより先行する主宰神ともいう)
 一方のカミムスヒ御祖神(ミオヤのカミ、母神)とも呼ばれ、どちらかといえば出雲系神話のなかに多く登場する。 

 ムスヒとは、天地万物を生成・発展・完成させる霊的な働きを意味し(ムス:産す・生れる、ヒ:霊)、宮中の八神殿に祀られている神々にはムスヒを名乗る神が多い。
 今、神宮ではテンジン社と呼んでいるが、その2神が天つ神であることから、アマツカミのヤシロと呼ぶべきであろう。

 七座社の祭神、オオナオビ神を除いた6神は、タカミムスヒ・カミムスヒとともに宮中八神殿に祀られている神々で、それぞれの神霊が天皇、さらには国家を守護するとされている。
 オオナオビ神は、禍や穢れを祓い更新してくれる神で、鎮魂祭に際して宮中八神とともに祀られたという。

 当社刊資料には、「両社の9座は、生命を守護してくださる宮中八神に、禍や穢れを改め治してくださる大直日神を併せてお祀りしたもので、当社の鎮魂祭と深い関係があり、上古から御鎮座になっていると伝えられている」とあるが、これは後世の付会であろう。

 
天神社・社殿
 
七座社・社殿

 上記以外に、境内内外に次の末社3社が鎮座する。
◎猿田彦神社
   祭 神--猿田彦神
   配祀神--住吉四神・高龗神(タカオカミ)
 出雲建雄神社の境内右手に祀られている小祠。
 神社刊資料によれば、当社は「江戸時代には祭王御前・山上幸神・道祖神社などと呼ばれ、現在地より東の山中に祀られていたが、明治10年に現在地に遷座した」とある。

 サルタヒコは、天孫降臨の際に天孫・ニニギを道案内した神で、道案内ということから、道の辻とか村境・峠などの境界にあって、邪霊の侵入を阻止する塞の神(サエのカミ、幸神とも書く)・道祖神として祀られた。江戸時代に山中にあったというのは、かつて山辺の道を通る人々を守る道祖神として祀られていたのであろう。
 配祀神の住吉四神は、上記・内山永久寺の鎮守・住吉社が廃絶したのを祀ったもの(明治43年1910)というが、タカオカミ(水神)の鎮座由緒は不明。水神であることからみて、かつての水神信仰の名残かもしれない。

◎神田神社(コウダ)
 
祭神--高倉下命(タカクラジ)
 参道を西に出た神宮外苑公園にあるというが、未見。
 神社刊資料によれば、神武東征のとき、熊野で遭難した神武に、当神社のご神体である霊剣・フツノミタマを天皇に奉ったタカクラジを祀るという。
 元、天理市三島町字神田にあったものを、平成2年現在地に移したもので、明治初年までは旧社地に神宮の神田があり、収穫された米が神宮での諸祭典に使用されたというから、元々は食の神・ミケツあるいは田の神を祀っていた小祠であろう。

◎恵比須神社--境外末社
 祭神--事代主神(コトシロヌシ)
 大鳥居から、参道を北へ約100m行った左手にある小祠。
 鎮座時期などは不明。江戸・元禄年間(1688-1704)の記録には、「戎社」・「恵比須殿」とあるという。

 コトシロヌシは、記紀神話・国譲りの段で、父・オオクニヌシに代わって国譲りを承諾した神で、神の託宣を取り次ぐ神とされるが、何故か、エビスと習合して同体とされる。
 国譲り交渉のとき海に釣りに行っていたことから、同じ漁業の神であるエビスと習合したのであろう。

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