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磐船神社
大阪府交野市私市 9-19-1
祭神−−饒速日命(ニギハヤヒ)
                                                2008.03参詣・2021.03.27再訪改訂

 磐船(イワフネ)神社は、京阪交野線・私市(キサイチ)駅から国道168号線を約3q南下した交野市の南端、もう少しで京都府生駒市という府県境近くに鎮座する。
 私市駅西の国道168号線にある京阪バス・京阪私市停留所からバス便はあるが、土・日・祭日のみの運行で且つ午前1便(10:39)・午後1便(16:09)の一日2便のみ(2021年.現在)

※由緒
 社頭の御由緒には、祭神・饒速日尊(ニギハヤヒ)の降臨神話のあとに、
 「当神社は、饒速日命が乗ってこられた天磐船(アメノイワフネ)をご神体として祀り、古来より天孫降臨の聖地として崇拝されている。
 当神社の創祀年代はつまびらかではないが、磐座(イワクラ)信仰という神道最古の信仰形態と伝承の内容から、縄文から弥生への過渡期にまで溯ると考えられている。

 その後、物部氏を中心として祭祀がおこなわれていましたが、物部本宗の滅亡(587)後、山岳仏教や住吉信仰などの影響を受けるようになり、平安時代には『北嶺の宿』と呼ばれ、生駒山系における修験道の一大行場として変貌を遂げるに至り、境内には四柱明神の石仏や、不動明王像が祀られ、弘法大師の作とされる磐船和讃が伝承されています。
 今でも神仏習合を色濃く残しており、例大祭には護摩壇を設けて大火焚祭(オオヒタキマツリ)が行われています。
 また、当社大岩窟は、古来より行場として知られ、現在でも多くの行者や拝観者が訪れます」

 「北河内のお宮」(2009)には
 「当社御祭神饒速日尊は、古事記・日本書紀・先代旧事本紀などの古典によると天照大御神の御孫神にあたり、大御神の神勅により、高天原より天の磐船に乗って河内国川上の哮が峰(イカルガノミネ)に降臨され、天津神として初めて大和国に入り大和地方を開発し、我が国建国の礎を築かれたと伝わる。
 神武天皇が日向より大和に東遷され橿原宮において初代天皇に即位された後、尊の子・宇麻志麻遅命は天皇に仕え、後の物部大連の祖となる。
 交野の地に於いては肩野物部と呼ばれる一族が栄え、交野が原に農耕文化を伝えた。

 当社は尊が降臨の際に乗ってこられた天の磐船と伝わる巨石をご神体として祀る磐座であり、物部氏が中心となり祭祀を行っていたが、物部本宗家が蘇我との争いに敗れた後は交野の地からも物部の勢力が一掃され、秦氏をはじめとする帰化系の氏族が入り、後に平安京の貴族たちが交野ヶ原において歌枕や狩場を求めるようになると、当社も饒速日尊降臨の地としての信仰が衰微し、航行の神・和歌の神である住吉信仰の影響を受け、主祭神が住吉神に変更されてしまう。 
 また、神仏習合の影響を受けて当社境内にある岩窟が平安時代には生駒修験道の行場となり、修験道の霊地として栄えていたようである。

 江戸時代には私市・星田・河内田原・大和田原4村の総氏神として各村の宮座が輪番で祭祀を行っていたが、宝永年間打ち続く天災により社殿・神宝の多くを流失し、それを発端に4村宮座の内に争いが起り、ついに各村それぞれに御分霊を御輿に乗せ、残った神宝類と共に持ち帰り地元に新に氏神の社を設け、それ以降当社は衰退の一途をたどった。
 昭和のはじめの頃にはご神体をはじめとする巨石群と小さな祠が残るばかりの状態であったが、御祭神の御神威を仰ぐ多くの人々の奉賛を得て、社殿その他を整備し、御祭神も元に正し、現在の姿に復興されたものである」
とある。

 天孫降臨といえば、記紀では天孫・瓊々杵尊が日向の高千穂峰に天降ったとするが、物部氏系の古史書・「先代旧事本紀」(センダイクジホンキ、9世紀前半)には、
 「瓊々杵の兄に当たる饒速日が、天照大神の命をうけて天磐船に乗り、十種の宝物(マジナイの道具)を携えて河内国の川上の哮ガ峰(タケルガミネ・イカルガミネ)に天降った」(大意)
とあり、その降臨の地・河内国・川上の哮ガ峰が当神社の辺りとされている(諸説あり)

 その一つ、京都府京田辺市高船里にある「石船神社」の案内(京田辺市教育委員会)には、
 「古老の口伝によると、饒速日尊が天磐船に乗りこの地の樛峰(カジカミネ)に降臨し、それから河内の哮峰(当地)に至り、更に大和の鳥見白庭山に遷ったとの伝承がある」
とあり(ネット資料)、饒速日命は先ず高船里の樛峰に天降り、その後河内の哮ヶ峰を経て大和の鳥見に移ったという。


※祭神
   天照国照彦天火明奇玉饒速日尊(饒速日尊)(アマテルクニテルヒコ アメノホアカリ クシタマ ニギハヤヒノミコト)

 饒速日について、社頭の御由緒には
 「日本書紀や古事記・先代旧事本紀などの古い書物によりますと、天孫饒速日尊は天照大御神の御孫神にあたり、大御神の御命令により、高天原より天の磐船に乗って河内国河上哮ヶ峯に降臨されました。
 のちに大和国に入り、大和河内地方を開発し建国の礎を築かれ、人々より天津神と崇敬された神様であります。
 また、饒速日尊が降臨に際して、天空より国土を望まれて『虚空見つ日本国』(ソラミツヤマトノクニ)と言われたことが『やまと』という国号の始まりとされています。(中略)
 尊の子孫は物部氏と呼ばれる古代大和朝廷における最大最強の氏族を形成し、大連(オオムラジ)として代々の天皇に仕えており、ここ交野の地には肩野物部という一族がおりました」
とある。

 ここでの饒速日尊は、「日本書紀・古事記・旧事本紀などによると、天照大神の孫神」とあるが、
 書紀には
 ・神武が東征を皆に謀ったとき、塩土翁(シオツツノオジ)が「東の方によい土地があり、その中に天の磐船に乗って飛び降りたものがある。その者は饒速日という者であろう」と告げた。
 ・東征してきた神武に抵抗していた長髄彦(ナガスネヒコ)が使いを遣わして「昔、天神の御子・櫛玉饒速日命が天磐船に乗って天降られ、吾は命を君として仕えています。
 一体天神の子は二人おられるのですか。天神と名乗って人の土地を奪おうとするのは偽物でしょう」と告げて、饒速日が天神の御子であることを証する天の羽々矢(アメノハハヤ)と歩靫(カチユキ)を示した。
 これを見た天武は「偽りではない」として饒速日が天神の御子であることを認め、自らが持つ天の羽々矢と歩靫を示された。
 その後、饒速日命は抵抗する長髄彦を殺し天皇に帰順された。これが物部氏の先祖である。

 古事記には
 ・饒速日命が神武のもとへ参上して「天つ神の御子が天降られたと聞いたので、後を追って天降って参りました」と申し上げ、天つ神の証である宝物を献上して仕えた。
とあり、
 両書共に饒速日が天照大神の孫神とは記しておらず、又その降臨地についての記述はない。

 一方、饒速日尊を天照大神の孫神とするのは先代旧事本紀(9世紀前半頃、物部氏系史書)で、その天孫本紀に
 ・天照大神が、豊葦原の千秋長五百長の瑞穂の国は、わが御子・天押穂耳命(アメノオシホミミ)の治めるべき国であるとして、天押穂命を天降らせようとされた。
 ・その時、天押穂耳命に御子・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊がお生まれになったので、この子を天降らせたいと申し出られた
 ・天照大神はこれを許し、天孫の璽である瑞宝十種を授けて天降らせた。
とあり、ここでの饒速日尊は天照大神の孫神であって、大神の命をうけて天降ったという。

 饒速日尊とは、神武東征に先立って天降り、日向から大和へ東征してきた神武軍を悩ませた長髄彦が奉じていた天神の御子で、最後には、抵抗するナガスネヒコを誅殺して神武天皇に帰順したとされ、初期大和朝廷で蘇我氏とともに朝政を二分していた物部氏の祖とされる(日本書紀・神武紀)

 その物部氏が、自家が天皇家に匹敵する由緒を持つとして編纂したのが先代旧事本紀といわれ、記紀とは異なる物部氏独自の神話伝承を記すところが特徴で、古代の鎮魂儀礼などを知るうえで貴重な資料とされている。
 旧事本紀で記紀にいう天孫瓊々杵に代わって降臨した饒速日尊が、記紀では神武紀に出てくるのは年代的に平仄があわないが、そこが神話であろう。
 なお旧事本紀は、古事記・日本書紀・古語拾遺などを取り混ぜて作られた後世の偽書との説もある。

 なお天神の御祖神から饒速日尊に授けられた瑞宝十種(トクサノミズタカラ )とは、旧事本紀(天神本紀)によれば、
 ・瀛キ鏡(オキツカガミ) ・辺キ鏡(ヘツカガミ) ・八握の剣(ヤツカノケン) ・生玉(イクタマ) ・死反(マカルカエシ) 
 ・足玉(タルタマ) ・道反の玉(チカエシノタマ) ・蛇の比礼(ヘビノヒレ) ・蜂の比礼(ハチノヒレ) ・品物の比礼(クサグサノヒレ)
という十種の宝で、御祖神は
  「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一・二・三・四・五・六・七・八・九・十といって、ゆるゆると振るわせよ。このようにするなば、死んだ人も生き返るであろう」
と仰せられたという。

 ただ、江戸時代の当社は住吉四神を祀る社として信仰されていたようで、
 江戸時代の観光ガイドブック『河内名所図会』(享和元年・1801)には、
 「石船巖(イハフネイハ)  私市村より東 廿町斗にあり。
 此地、左右、峨々たる青山にして、峡中に大巖あり。高さ弐丈余、長さ五尺許(バカリ)。渓水(タニミヅ)石下を通じて、水音つねに囂(カマビス)しく、此の辺り和州の通路にして、岩船越といふ。(中略)
 石船の傍に、仏像四躯、梵字を彫る。又、石の玉垣あり。土人、此の巌を住吉明神と称して、毎歳六月晦日、村民ここに聚(アツマ)りて、禊事(ケイジ)を此の神座石(シンザセキ)にて修す(巌の前で禊ぎをする、か)
 むかしは和州南田原村石船明神の御輿、ここに幸す。故に石船岩といふ。此の祭式、今は廃し侍べる。(中略)
 河内志に、此の石船山を河上哮峰(カワカミタケルガミネ)と称ずるは、謬りならん。旧事記の地理と違(タガ)ふ」
とあり、下の絵図が載せられている。

 絵図には、中央に大きく船形巨巌(船岩とある)が描かれ、その右に住吉四神の本地仏といわれる四所明神岩が見え、左下には巨巌をみて驚く旅人が描かれ、上部には奈良に抜ける磐船街道と、そこを通る旅人や里人らが見える。 


河内名所図会・磐船 

 当社祭神が饒速日命から住吉四神へと変化した経緯について、交野町史(1963)には
 ・饒速日命は天磐樟船で大和国に来り、長髄彦(一名:鳥見彦)に迎えられて鳥見(生駒山東部一帯)地方の君主となったが、長髄彦が滅ぼされた後も、その子・加美真手命(ウマシマテ)以降代々大和朝廷に仕えて、物部氏の祖先となり繁栄した。
 ・鳥見一帯を中心とした物部氏の勢力は、生駒山を越えて次第に西方へと拡がり、交野地方天野川に沿った村々から枚方までの間が交野物部氏の勢力範囲となった。

 ・こうした交野物部一族による交野地方天野川沿岸の開発と相まって、磐船の巨巌は、その形から饒速日命が渡海に用いた天磐樟船に議せられ、その一族が尊崇するところとなった。

 ・その後、物部本家(物部守屋)の滅亡にともなう一族の弱体化と相まって、船形巨巌に纏わる饒速日命伝承は人々の記憶から失われ、
 ・平安時代になって、京の宮廷人が交野地方へ遊猟に訪れることが多くなると、天体を崇拝し、叉詩歌などの文芸趣味をもった人々が多かったことから、この地方で彼らが目にするものに、甘野川を天野川、機物(ハタモノ)の宮を棚機女(タナバタツメ)を祀る宮、天野川に架かる橋を“かささぎ橋”などといった文学的な名を付けるようになった。

 ・また船形巨巌にかかわる饒速日命も、船に乗ってきたということから海神に転じ、同じ海神であり和歌の神でもある住吉神に変えられてしまった。
 ・それとともに、かつては物部の祖神・饒速日命を祀っていた天野川沿いの村々の氏神社も、その総社である磐船神社にならって、いずれも住吉四神を祀る社へと変わっていった。
とあり、添付の略図には、天野川沿いにある住吉四神を祀る神社11社が記されている。:磐船神社)

 ただ今の当社由緒書での祭神はあくまでも饒速日命であって住吉四神についての記述はなく、祭神を住吉四神とするのは俗信として扱われているらしい。

天野川沿岸の住吉神社


※社殿等
 府道168号線(磐船街道)・磐船神社前バス停から約200m程ほど引き返した道路の右側(北東方)に鳥居が立つ。
 鳥居を入った左側が境内で、その中央にご神体である巨巌がみえる。

 
磐根神社・社頭

同・鳥居 
 
同・境内(建物左の岩がご神体)

◎ご神体
 当社には本殿はなく、鳥居を入った境内左手にある船形の巨巌(H≒12m、W≒12m)を『ご神体』として崇め、その前に拝殿が設けられているのみ。
 このような巨巌は『磐座』(イワクラ)と呼ばれ、当社の原姿が磐座信仰であったことを示唆するもので、当社がそれだけ古い神社であることを示している。


ご神体の磐座(左建物は拝殿) 
 
磐 座

 南西方を向いた拝殿は、大きな唐破風を有する切妻造・妻入りの社殿で、ご神体の下に潜り込むように建っている。


磐座神社・拝殿(後の岩がご神体) 
 
同・拝殿(側面、ご神体の巨巌が被さっている)

同・内陣 

 ご神体とされる巨巌・磐座は、一見して“船の舳先(ヘサキ)”とも見え、拝殿に覆い被さるように座っている。
 大阪府全志(1922)には
 「謂ゆる磐船是れにして高さ六尺・長さ 五尺、其の形船の如し。即ち岩船神社の神躰にして、表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯姫命を祀る」

 また交野町史には、
 「この渓流は、地質学者にいわせると生駒山脈隆起以前からのものであって、山脈の隆起に従って水が次第に渓谷をうがち、この岩石を露出させたものという。
 その後、原史時代の人々は、いつしかこの巨巌の永遠性と、その人を圧する異様に打たれ、永くこれを石神として崇めていたが、弥生時代には、この地方の饒速日命の降臨伝承と結びついて、当社の船形巨巌を命を乗ってきた天の磐船だとして崇敬するようになった。

 磐船とは天の磐樟船(イワクスブネ)の略称で、太古の船は殆ど樟材である。それは磐のように堅くて強いことから磐と形容したものである。
 したがつて饒速日は樟で作った丈夫な船で海を渡ってきたと解すべきで、天降ったとは、こちらよりも文化程度の高い国から、この未開の地へ移ってきたとの意味で、これを大空から磐の船で飛んできたと文字通りに解すると、何か何だかわからなくなる」
とある。

 磐船神社には高幅ともに数メートルという巨岩が多いが、大きいだけが磐座の条件ではない。その地の人々にとって聖地とされているとか、特に変わった形をしているとか、露頭部は小さくても地下に根深く拡がっているとか、何か人々に訴える神秘感・威圧感をもち、カミが坐す聖地として相応しいものが磐座といえる。
 古代の人々は、それらの巨巌の前でカミを迎え祭をおこなうことで、四季の巡りの順調ならんことを祈り、そこからもたらされる豊かな稔りに感謝を捧げてきた。
 そういう意味で、磐座信仰とはカミ信仰の初期的段階を示すもので、磐座という祀りの場は後世の神社の初期的形態といえる。
◎天の磐船(ミニチュア)
 拝殿の前面右手に古代の船を模したような小さな岩がある(H≒1m弱)
 自然石に人の手を加えたものだが、形からみて天の磐船を模したものであろう。
 側面の銘板には、神武紀に記す
 「饒速日命、天磐船に乗りて大虚(オホゾラ)を翔行(メグリユ)きて、是の郷(クニ)を睨(オセ)りて降りたまふに及至(イタ)りて、故、因りて目(ナヅ)けて『虚空見つ 日本の国』(ソラミツ ヤマトノクニ)と曰ふ」(原文:漢文)
 〔饒速日命が天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて『虚空見つ 日本(ヤマト)の国』(大空から眺めて、よい国だと選ばれた日本の国)という〕
との一節が刻まれており、これが、古くわが国をヤマトと呼んだ起源伝承という。

天の磐船

◎岩窟巡り
 拝殿の左手一帯、巨巌が幾重にも重なりあった岩場があり、“岩窟巡りの聖地”となっており、これを目的に来社する人が多い。
 由緒書には 
  「行場岩窟  白龍社・黒龍社・金龍社・白永社」
  「当社大岩窟は古来より行場(ギョウバ)として知られ、現在でも多くの行者や拝観者が訪れます」
とあり、修験行者(山伏)によって開かれた修行の場だろうが、無断立入は禁止で、希望者は社務所で申込が必要(有料)

 岩窟巡りは、累々と重なり合い組み合った巨岩の隙間をくぐり抜けるわけだが、寺院でよく見かける“胎内くぐり”と同じく、“死”と“蘇り”を体験する擬死再生の修行で、岩窟内に入ることは一旦死んで母の胎内に戻ることで、狭い隙間を通りぬけて外に出ることは新しい誕生を意味し、単なるレクリエーションやアバンチュールではなく、修行のひとつである。
 (ただ、今の人でこれを修行とみる人はおらず、小さな冒険として巡っているわけで、面白かったという人が多い)

 岩窟内は広狭さまざまで足許に注意しないと危ない。特に途中にある小さな滝から先は隙間が狭く、且つ足場となる岩面は滑りやすいうえに掴まる鎖などもなく、一人で入るには注意が必要。

 
岩窟巡り・入口
   
岩窟への降り口

岩窟内(2008年撮影) 
 
同 左(奥に赤い鳥居が見える)

同左(小さい滝がある) 


◎四所明神の磐座
 ご神体の右手、天野川の対岸に4躰の仏を彫りこんだ巨岩があり、由緒書きには、
 「四所明神  大日如来・観音菩薩・地蔵菩薩・勢至菩薩(住吉四神) 鎌倉時代
とあり、住吉四神の本地仏という。
 
 通常、住吉四神の本地仏は“薬師如来・阿弥陀如来・大日如来・聖観音”とされ、当社のそれとは異なる。
 本地仏とは、“神とは仏がわが国の衆生を救済するために仮に姿をかえて現れたもの”とする本地垂迹説をうけて充てられた仏菩薩だが、本地仏の比定には確たる基準はなく、同じ神でも違った本地仏を当てる場合がある。

 ちょっと遠いうえに木の枝根等が邪魔してよくわからないが、仏像は座像で、最右のそれは錫杖らしきものが見えるから地蔵菩薩であろう。


四所明神岩 

同・明神像部分 

同・拡大 

◎不動岩
 境内に入って左、拝殿前の道路寄りに“不動明王”が彫りこまれた巨巌があり、
 由緒書に
 「不動明王  『天文14年(1543)12月吉日、観請開白大蔵坊法印清忍』の銘あり 室町時代
 交野市史に
 「不動像の左右に、『交野郡住吉大明神関白大蔵坊  天文拾四年乙巳十二月法印清忍』との銘がある」
とある。


不動岩(左:不動尊、右:稲荷社) 

不動尊部 
 
不動明王像

◎磐船稲荷
 不動岩右前にある小社で、鳥居には「磐船稲荷大明神」とある。


磐船明神社 
 
同・社殿

 不動岩の後にまだ新しい小祠が祀られているが、案内等なく社名・祭神名等不明。

 叉不動岩の左・道路寄りに「天孫饒速日命」と刻した石碑が立つ。


不動岩背後・不明社 
 
天孫饒速日命石碑 

◎天岩戸宮
 ご神体磐座の裏手、小川の対岸に『天岩戸宮』と称する岩場がある。
 この宮は、磐座神社の境内にあるが、この宮と神社との関係は不明。
 岩窟巡り出口の上にあり巡りの帰り道となっているが、逆に社務所横から行くこともできる(但し岩窟巡りの一環として申込みが必要)

 天岩戸宮がある巨巌の下に鳥居が立ち、石段を登って宮に至る。
 当宮は2個の巨岩の上に1個の巨巌が被さった磐座から成っている。


天岩戸宮への石段 

同・全景 
 
天岩戸宮・磐座

 その3巌が接する窪みの前に5基の石碑が立ち、中央、日輪の下に「皇祖皇宗天神地祇神霊遙拝」、右に「天上天下唯日獨照」、左に「一天四海皆帰皇道」と刻した石碑が立つ。

 今は忘れられたような聖地だが、ここが擬死・再生を体験する岩窟の出口近くにあることからみると、記紀神話で天照大神が隠れたという天の岩屋戸をこれに擬したものであろう。
 ただ石碑に刻された碑文からみて、この石碑は戦前の国家神道隆盛期に建立されたもので、その残骸と化したのが現状といえる。

 石碑群の左に「登美毘古大神」と刻した石碑が立つが、登美毘古とは饒速日に仕え神武東征に際に交戦した鳥見の長髄彦の指すと思われる。
 当社祭神・饒速日尊に関連して建立されたものかと思われるが、建立由来等は不明。


窪みの前に立つ石碑群 
 
中央石碑
 
登美毘古大神の碑(左側)

 石碑群右側に「白龍大神」・「岩戸大神」との石碑が立ち、その右に「天岩戸宮」と刻した石碑が立つ。
 白龍大神とは、社務所横の小祠にも祀られており(下記)、岩窟の中にも祀られているというから(未確認)、天野川を含む当地一帯の水を司る龍神と思われる。
 岩戸大神は、石碑の前に朱塗りの小鳥居があることから稲荷神であろう。

 なお、岩戸宮の左少し離れて「オキ大神」との石碑があるが、如何なる神かは不明。


右側に立つ石碑3基 
 
オキ大神の碑 
 オキ大神石碑のすぐ下に「国民精神総動員 日之本講大会記念」との銘板がある(昭和11年建立)
 記されている文面からすると(漢文で読みにくい)、2次大戦突入以前、国家総動員令をうけて一致団結しての国威発揮を祈願した大会の記念碑のようで、その大会が当宮の前でおこなわれたのかもしれない。

◎大岩・白福岩(いずれも仮称)
 天岩戸宮から社務所へ向かう山道の途中に大巌が2基座っている。(この辺りには他にも大巌がゴロゴロしている)
 大巌に名前は付いていないが、左の大巌に「大岩大神」と右のそれに「白福大神」との神名が微かに見えることから、一応、大岩・白福岩と呼んでおく。

 両大岩ともに、それぞれの大神が降臨された磐座として信仰されていたものだろうが、詳細は不明。
 なお白福岩は、大巌が縦に二つに割れていることから、この岩を陰陽信仰(性石信仰)の陰石とみる見方もあるが、辺りにその対になる陽石は見えない。

中央:大岩・右:白福岩 
 
大 岩

白福岩 

◎白龍社
 天岩戸宮からの帰り道の出口に鳥居が立ち、出た所に小祠があり、朱塗り鳥居の神額にはに「白龍大神・福高大神・天雷王大神」とあるが祭神の神格・鎮座由来等は不明。


出口に立つ鳥居 
 
白龍社


◎伴林光平先生顕彰磐座
 境内に入ってすぐ右手の道路際に高さ2mほどの巨巌がある、傍らに苔生した古い大きな石灯籠が立っている

 傍らの顕彰碑(昭和62年建立)には、
 「今この処の岩窪に伴林光平(トモバヤシミツヒラ)先生の二首の和歌を録し奉る。
 これらは嘉永の年並びに文久の年の御歌であった。殊に文久3年10月11日の日付をもってせられた南山踏雲禄中の御歌
  梶を無み 乗りて遁れん世ならねば 岩船山も 甲斐なかりけり
とあるは、深くこの処の神域に関わるものであった。(以下略)
とあり、もう一首には
  神国は いはほ(巌)と共に動かねば よせてはかえす 沖つしら浪
とあり、黒船到来に際しての憂国の歌という。

 伴林光平(1813〜64)とは幕末の国学者・歌人で河内の人。
 本来は僧侶だが勤王思想に共鳴して還俗、天誅組(文久3年・1863)に加わるが破れ、捕らえられ斬罪に処せられた勤王の志士。
 岩肌に刻まれた和歌・梶を無み・・・は処刑前年に獄中で詠んだ歌といわれ、顕彰碑には『その日、その折りの先生の悲懐を偲び、誰か万斛(バンコク)の涙なきを得ん』とある。明治24年従四位追贈。

 
伴林先生顕彰磐座
 
同 左

伴林先生・歌碑 

【磐船神社から京阪私市の間

 磐船神社から京阪交野線・私市駅までの間に、当社に関係するとおぼしき伝承地が幾つかあり、道路から見えるものとして、

◎「梅の木」伝承地
 磐船神社の北約600m、“梅の木バス停”前の道路東側の藪の中に八幡宮と刻した石灯籠が1基立っている。
 傍らの案内には、
 「古代神功皇后が三韓征伐にお立ちになる前、祖父・迦邇米雷王(カニメイカヅチ)に別れを告げるため天王(京田辺市付近)にお出でになり、暇乞いをされたのち磐船谷に沿って大和に行かれた。
 その途中、磐船明神の前あたりの路傍で兵を止め休息され食事をとられた。その食後、皇后は梅干しの種を棄てられたが、その種が芽吹いて立派に生長した」

 交野町史(1963)には
 「路傍の一段高い処に、『石清水八幡宮』と彫った石燈籠と『梅の古木』がある。
 これは毎年秋、石清水八幡宮の放生会行列に奉祀する私市村の御前払(ミサキバライ)神人が、笏とともにこの梅の枝を持って道を祓いつつ行列の先駆をするという伝統の梅の木である」
とある。

 案内にいう神功皇后云々とは、各地に残る貴人が食事の後、箸や食べ残しを土に挿しておいたら成長したという伝承の一つで、後世作られた由来であって、町史がいう由来が信用できる。
 ただ、附近に梅の木は見かけなかった。
     

◎哮(タケルガミネ、イカルガミネともいう)
 饒速日伝承では、饒速日尊は河内国川上の哮ヶ峰に天降ったというが、その伝承地については古来諸説があって定説となるものはない。

 その一つが、梅の木伝承地を少し北へ行った天野川西側にある府営“ほしだ園地”の一画に聳える『哮峰』(H=186m)と呼ばれる山がそれで、交野町史には
 「がんない洞と哮峰伝説
 川の西岸に石切場があり、その上には川に迫る如く雄偉な岩壁がある。
 この岩壁には古来珍奇な蘭科植物が自生し、それをもとめて洞内に入ったといわれ、又この頂上は伝説の哮峰だという」
とあり、道から見える切り立った岩壁はかつての石切場の跡という。

 ただ、前回道路から見た石切場は圧倒的な迫力があったと記憶するが、今回は周囲の樹木が繁茂したためか狭い範囲しか見えず、見つけるのに苦労した(撮影ポイントも異なる)


峰 

石切場(今回) 

石切場(2008年) 

◎磐座神社御旅所跡
 梅の木バス停から約800mほど下がった“しぐれの里バス停”前の道路東側に古い石灯籠が2基立ち、傍らの標柱には「磐座神社御旅所」(兼御輿休憩所)とあるが、今はなくなっている。

 傍らの案内には、
 「磐船神社のご祭礼になると、私市の村では磐船明神の神霊を神輿に乗せて磐船街道をくだり、村にお迎えし若宮神社にて祭礼を催すとともに安泰と繁栄を祈願して私市村内を一巡した。
 その御幸の行き帰りに、神さまと人々が休憩するために、ここ“しぐれの里”にお旅所が建てられた。
 その後の交通事情などで御幸の神事は廃れ、お旅所も現存せず、二基の灯籠のみが往年の神事を偲ばせている」

 交野町史には
 「哮峰からさらに下ると、谷が拡まり一帯の雑木林となるが、路傍に時雨(シグレ)の茶屋という軒が見え、その前の林中には、昔磐船明神の祭日に村々の氏宮と当明神の間を担いで往復した御輿の休息所跡と称する処がある」
とある。

 今は石灯籠2基があるだけで時雨茶屋との建物はなく(跡地も不明)、隣接して工場らしき建物が建っている。


御旅所跡・石灯籠 
 
同 左
 
同・標柱

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