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石清水八幡宮
                                                                2008.01参詣

 石清水八幡宮は、淀川上流部の左岸、桂川・賀茂川・木津川3川の合流点の南に聳える男山(雄徳山とも)の山頂(鳩ケ峰H=142m)に鎮座する。社地の標高123m。
 淀川を挟んで対岸の天王山に挟まれた山崎地峡は、山城と河内を結ぶ古くからの交通の要衝である。

※創建由緒
 「石清水八幡宮護国寺略記」(以下「略記」という)によれば、
 『奈良・大安寺の僧・行教が貞観元年(859)4月から筑紫・宇佐八幡宮に参籠していたが、帰京しようとした7月15日の夜半、八幡神から「吾、汝が修善に深く感応した。須く都の近くに移座して国家を鎮護せん」との託宣を受けた。
 託宣を受けて帰路についた行教が京・山崎の地に着いた8月25日に再度神の託宣があり、「吾が都近くに移座するのは、王城を鎮護せんが為なり」と告げられた。行教が移座されるべき処を問うと、「移座すべき処は、石清水男山の峰なり」と告げられ、男山の頂上が光り輝いた。
 翌朝、行教が男山に登り草庵を設けて籠もり3日間祈願し、この奇瑞を朝廷に上奏した。朝廷は勅使を派遣して実地を見聞させ、木工寮に命じて6宇の社殿を造営させて八幡三神のご神体を安置した』という。

 簡単にいえば、行教という僧が、八幡神から「国家・王城を護るために、都近くに遷りたい」との託宣を受けて創建されたということで、その時期は、略記によれば貞観元年(「石清水遷座略記」によれば貞観2年)という。

 この貞観元年という年は清和天皇即位の翌年に当たる。
 清和帝は、兄皇子3人を差しおいて9歳で皇位についたという幼帝で、その即位に当たっては生母の父・藤原良房の暗躍があったという。
 藤原北家の頭領である良房は、娘・明子と先帝・文徳天皇との間に生まれた惟仁親王(後の清和帝)を即位させることで政治の実権を握ったが、幼帝即位を正当化し朝臣の不満を抑えるために、かつての称徳女帝時の道鏡事件にみるように皇位継承に重大な影響をもつとされる八幡神の託宣を得ることを望んだという。
 なお良房は、清和天皇即位後に人臣最初の摂政に任じられている(858)

 そのような政治情勢のなかでの八幡神の男山遷座という出来事は、宇佐八幡宮に直接関係のない一僧に託宣があったこと、その託宣でいう“国家鎮護”とは清和帝の守護という意味が強いこと、託宣上奏後直ちに社殿造営の命がおり建造の取りかかったこと、また社殿造営直後に宇佐八幡宮の宮司に五位の官位が授けられたことなどからみて、良房・行教・宇佐八幡宮宮司の間で事前に打ち合わせがあり、それに従った行教の働きによって創建されたものと推測され、極めて政治色の強いものだったといえる。

 宇佐にはじまる八幡信仰は、他の神社に比べて中央指向が強く、大仏造像や道鏡事件にみるようにその動きには政治的色彩が強いが、宇佐八幡はあくまでも九州の一地方神であった。
 石清水八幡宮の創建は、その目的が政治的な権謀術策であったにしろ、八幡神が国家鎮護の神として大きく飛躍する転機だったといえる(東大寺脇にある手向山八幡宮−749創建−は、国家鎮護というより東大寺の守護神という神格が強い)

※参詣記
 石清水八幡宮は京阪・八幡駅の南にそそりたつ男山の山頂近くに位置する。表参道は、駅前広場の左奥に建つ一の鳥居からはじまり、男山東側の山腹を迂回する形で本宮まで続く。
 一の鳥居から頓宮・二の鳥居を経て七曲がり付近までは平坦な道だが、その先は葛折りの石段が断続して続く結構険しい山道である。
 なお、駅の右手にケーブル(全長400m、標高差50m)があり、これを利用すれば本宮北側に至り、時間的にも距離的にも短縮できる。

◎本宮
  祭神  中御前−−誉田別尊(ホンダワケ=応神天皇)
       西御前−−比売大神(タギリヒメ・イチキシマヒメ・タギツヒメ=宗像三女神)
       東御前−−息長帯比売命(オキナガタラシヒメ=神功皇后)

 南総門をくぐると、まず拝殿上に聳える朱塗りの楼閣が目にはいる。

 「本宮」と呼ばれる聖域で、拝殿の左右に連なる回廊で囲まれた本宮内には、“八幡造”と呼ばれる八幡宮独特の本殿が収まり、本宮の背後左右には摂末社が並んでいる。
 因みに八幡造とは、切妻造・平入りの2棟の建物が前後に連なった建築様式をいう。

石清水八幡・南総門

同・本宮拝殿
 この八幡造という建築様式は総本社・宇佐八幡宮も同じだが、宇佐が3棟それぞれ別棟となっているのに対して、当社は一棟の社殿(相殿)になっているところが異なる。
 ただ、由緒略記に「貞観2年、正殿3棟・礼殿3棟創建、応安4年(1371)正殿3棟造替」とあることからみると、古くは3棟の社殿があったと思われる。

 当社の社殿は、創建後17度の造替7度修復17度を数える。今の社殿は寛永14年(1637)徳川三代将軍家光による大修理のもので、本殿・弊殿・舞殿・楼門・回廊・武内社(摂社)は重要文化財となっている。

◎頓宮殿(トングウデン)
 一の鳥居からすこし進んだところに回廊に囲まれた一画がある。南北それぞれに楼門があり、境内には、古びてはいるが堂々とした頓宮殿が建っている。
 頓宮とは仮宮とか行宮とか呼ばれる建物で、祭神や天皇の旅先での宿舎に当たる。神社の場合、本宮(上院とも)に対して下院とも呼ぶ。

石清水八幡・頓宮殿
石清水八幡・頓宮殿
石清水八幡・頓宮南門
同・頓宮南門

 石清水八幡では幾つかの祭儀に当たって当頓宮が舞台となっている。
 まず9月15日の“石清水祭”では、3祭神が深夜に本宮を出て午前4時ころ当頓宮に到着、古式にのっとった祭祀が執りおこなわれ、あわせて頓宮東の放生川で魚鳥を放つ“放生会”がおこなわれる。
 この祭は、古く清和天皇・貞観5年(863)8月15日(旧暦)におこなわれた放生会にはじまるという由緒ある祭祀で、かつては勅使を迎えて厳粛におこなわれたという。ちなみに神事は、深夜におこなわれるのが本来の姿である。

 放生会とは仏教の不殺生戒に由来する法会で、捕らえた魚鳥を山谷に放す一種の慈悲行である。
 わが国では6世紀中葉にはじまり8世紀中葉には盛んにおこなわれたという。宇佐八幡では、養老4年(720)の大隅隼人の反乱に八幡神が参陣して多くの隼人を殺したため、その滅罪・成仏のためにおこなわれたのがはじまりという。

 当頓宮は別名・“疫神殿(エキジンデン)ともいう。古く平安時代の“道餐祭”(ミチアヘノマツリ)に因んだ呼称で、今は“青山祭”と呼ばれている。
 道餐祭とは古代祭祀のひとつで、悪霊や疫神などの悪しき“モノ”が都に入ることを防ぐため、6月と12月の晦日、都の四方の大路に祭壇を設け、ヤチマタヒコ以下3カミを招いておこなわれた祭祀儀礼で、疫病や災厄が悪しきモノの仕業とされていた古代にあって、それら悪しきモノをの侵入を道端で遮るとともに、饗応してお引き取り願おうというものである。

 当社の青山祭では正月18日におこなわれ、頓宮前庭に斎場を設け、四方に忌竹を立て、注連縄を張り回した聖域を設けて神を勧請し、悪霊・疫病の侵入を防ごうというもので、かつては相撲や田楽・舞楽などが奉納され、京・大坂から多くの人々が集まり、出店なども出て賑わったという。

 今の頓宮殿は、古社殿が慶応4年(1868)の戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで焼失したものを。大正3年(1914)に再建したもの。

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