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石清水八幡/末社
                                                               2008.01参詣

 石清水八幡宮に属する末社7社について記す。

※気比社(ケヒ・築垣内北東隅・永正2年1505鎮座)−−祭神:気比大神
 水若宮社(摂社)の左にある小祠。
 祭神・ケヒ大神(別名・イサザワケ命、オオトモワケ命)は、福井県・敦賀にある気比神宮(式内社)の主祭神で、北陸地方における海上交通の要衝であった敦賀に、古くから坐す神。
 気比神社伝承では、朝鮮半島諸国と緊張関係にあったとき即位早々の仲哀天皇が参詣し、また朝鮮出兵前の神功皇后が訪れて戦勝を祈願した。そのとき同行の玉妃姫が神憑りして勝利を予言したので、出兵に成功して凱旋した皇后はホムタワケ皇子らを従えて参詣したという。

 また古事記(仲哀紀)には、当地を訪れていた太子・ホムタワケ(後の応神天皇)の前に大神が顕れて、互いに名前を交換したとの伝承が記されている。
 この伝承が何を意味しているのかわからないが、本居宣長は、大神と太子と名前を交換したのではなく、太子が持っていたオオトモワケの別名を譲られたもので、この時からケヒ大神は、それまでのイサザワケに加えてオオトモワケとも呼ばれるようになった、という。
 これら、神功皇后・応神天皇との関係から祀られたのであろう。
石清水八幡末社・気比社

※貴船社・龍田社相殿(築垣内・本宮北、建久2年1191鎮座)−−祭神:タカオカミ神・シナツヒコ神・シナツヒメ神
 考古録によれば、八幡宮別当・慶清が私願により勧請したというが、詳細不明。

 貴船社の祭神・タカオカミは水神、龍田社のシナツヒコ・シナツヒメは風の神。
 神功皇后朝鮮出兵のとき「風の神は風を起こし、波の神(水神)は波をあげて船を助けた。・・・」とあるのにからんで、水の神・風の神をあわせ祀ったのかもしれない。

 また、水の神・風の神をあわせ祀るのは、四季の順調な循環、そこからもたらされる豊穣を祈った、とも考えられる。
石清水八幡末社・貴船社龍田社

※一童社(築垣内・本宮北、鎮座年代不明)−−祭神:磯良神(イソラ)
 祭神・イソラ命とは“海の神・航行安全の神”。
 神功皇后朝鮮出兵のとき神々を招いたが、海底に住むイソラだけは、顔に牡蠣や鮑が付いていて醜いのを恥じて現れなかった。
 しかし、住吉神(高良神ともいう)が奏する楽に誘われて現れ、竜宮から潮の干満を自在に操る潮満珠・潮干珠の宝珠を借りうけて皇后に献上し、その宝珠のおかげで皇后は戦いに勝つことができた、との伝承がある。

 この伝承からイソラ神を祀ったと思われるが、それが何故“一童社”と呼ばれるのか不明。
 考古録は「磯良社となすべきか」と記し、
  「末社紀に応神の皇子・額田大仲彦命を祀るとあるが、古書に見えない。後人の付会である。
 また古書に“イツ童”との裏書きがある。イツの“ツ”は“ソ”を誤記したもので、“イソラ”の読みが古伝」
とある。
 かつては東側鳥居の外にあったそうだが、江戸期に一旦なくなり、今は築神内に南面して建っている。場所を変えて再建されたものと思われるが、詳細不明。
石清水八幡末社・一童社

※広田社・生田社・長田社相殿(築垣内・本宮西、天慶3年1055鎮座)
            −−祭神:アマテラス大神(広田社)・ワカヒルメ命(生田社)・コトシロヌシ命(長田社)
 この3社の本社である広田神社(西宮市大社町)・生田神社(神戸市中央区)・長田神社(神戸市長田区)のいずれも、神功皇后が朝鮮遠征から凱旋されたとき、それそれの地先で「この地に祀れ」との神託をうけて祀ったのが始まりとされ、当社へは神功皇后との関係で勧請したものという。

 考古録には、それぞれ別殿と記されていて、それが相殿に祀られた時期など不明。
 また末社紀には、“南宮”・“戎”・“三郎殿”の名で記されているが、考古録は、いずれも兵庫にある本社に祀られている末社の名を誤って記したものという。
石清水八幡末社・広田・生田・長田社

※水分社(ミクマリ、東総門の外、弘安3年1280鎮座)−−祭神:国之水分神(クニノミクマリ)
 本宮東総門の外にある小祠。石段の下に裏参道が通っている。
 ミクマリ神とは水を分かち与える神で、水源地や分水嶺などに祀られることが多い。
 社頭の説明には、「御神徳−水流の神さま、転じて豊作の神さま」とあり、考古録には「男山に湧出する霊水を司る神」とある。いずれも稲作に必要な水を司ることからのもの。

 水分と書いて“ミクマリ”と読み、“水を配る”の意。
 よく、水分社を転じて子守社とすることが多く、末社紀にも子守社と記している。ミクマリのクバルからクマリへ転じ、それがコモリと訛り、子守の神と解されて子授け・安産の神・子供の守護神として信仰されたという。
石清水八幡末社・水分社

※三女社(サンミョウ、本宮西南方、暦応2年1339鎮座)−−祭神:宗像三女神
 ケーブル山上駅から本宮へ至る道筋の脇にある神社。
 祭神・宗像三女神とは、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた3柱の女神・タゴリヒメ・イチキシマヒメ・タギツヒメを指す。
 一般には、玄界灘の沖津島・大島および玄海町に別れて祀られる宗像大社の祭神で、航行安全・豊漁などを司る海の神という。

 しかし八幡信仰にあっては、日本書紀(一書3)に記す「日神が生まれた三柱の女神を、葦原中国の宇佐嶋に天降らせた」との記述から、三女神はまず宇佐の御許山(オモトサン)に降臨され、後に玄界灘に移られたとして、この三女神を八幡大神の一柱・比盗_として、宇佐では二の御殿に、石清水では西御前に祀る。

 これとは別に、宇佐神宮の南に当たる安心院(アジム)盆地に単独の“三女神社”がある。
 安心院盆地は古代宇佐の豪族・宇佐氏発祥の地といわれ、その宇佐氏が祖神として祀ったのが三女神という。
 ここでの三女神は、八幡大神としての比盗_ではなく、八幡神が顕現する以前から宇佐に坐した地主神という色彩が強い。
石清水八幡末社・三女社

※大扉稲荷社(東山東山腹、鎮座時期不詳)−−祭神:御食津神(ミケツ)
 表参道の七曲がりを過ぎた影清塚の前にある稲荷社。ミケツ神とは穀物の神・食物の神。

 由緒略記には鎮座年月不詳とあるが、考古録によれば「この辺りにキツネが居て人々に仇をなすので、仮の小祠を造って祀っていたのを、文政12年(1829)のころ社殿に改築した」とある。
 また別伝として、京都七条あたりで占いを業としていた稲荷信者の男が、「吾は当山(男山)の相槌稲荷の子でトビラ明神なり」との神託をうけて造営したものともいう。
 社名“大扉”をトビラ明神からのものとすれば、後説が妥当か。
石清水八幡末社・大扉稲荷社

付記−−以上が石清水八幡宮末社7社の参詣記だが、古くは末社であったが今は独立社となっているものに、「相槌神社」がある。

※相槌神社(アイツチ)−−八幡市平谷
 男山の東麓、表参道・七曲がりすぐ下の山麓にある小さな神社。
 考古録によれば、古くは“相槌稲荷”と称して、七曲がりあたりにあった八幡宮の末社だったが、元禄9年(1696)に後藤庄三郎という人が麓の“山の井”脇に社殿を造営して遷した。その後、平谷町の住人が祀るようになったため、独立社として八幡宮から離れたという(時期不明)

 相槌稲荷といえば、三条小鍛冶宗近が稲荷神(キツネ)を相槌として神刀を打って天皇に献上した伝承が知られ、当社鳥居の神額にも“三条鍛冶”とあり、この小鍛冶伝承を受けた社であることを示唆している。

 しかし考古録によれば、多田満仲(平安中期、清和源氏2代目)の命をうけた筑紫国の刀匠が、男山の本宮に参籠して神助をうけ、髭切・膝切という二振りの名刀を打った。
 そのとき稲荷神がやってきて相槌を務めてくれたので、その時使った井戸の脇にこれを祀った、とある。

 刀匠の名は異なるものの、いずれも稲荷神の神助により名刀を打ったという伝承で、商売繁昌の神とされる稲荷神には鍛冶・冶金の神という神徳がある。神社の右に“山の井戸”が残っている。
石清水八幡旧末社・相槌神社

※影清塚

 表参道・七曲がりを過ぎた分岐点に“影清塚”との塚があり、「旧蹟 かげきよ塚」の石碑が立ち一対の柏樹が茂っている。
 ここから右に曲がり山へ入ると摂社・石清水社へ出る。山に入ったすぐの小川に“駒返橋”との石橋が架かり、ここからは徒歩となるため馬を帰したといわれる。

 由緒略記によれば、古く、この辺りを“祓谷”(ハライタニ)と呼び「祓谷社](祭神:セオリツヒメ)との小祠があったという。祓谷とは、禊ぎ祓いの場という意味で、古来、参詣人がこの小川の水で禊ぎをしたところで、また影清塚の名も、参詣人がこの水に吾が影を写して身繕いを正したからという。

 セオリツヒメとは、“大祓祝詞”(オオハライのノリト)で、速川の瀬に坐して、流れてくる諸々の穢れを大海原に持ち出すとされる女神。古く、不浄なるものは水によって祓い清められるとされていた。

石清水八幡・影清塚石碑

※松花堂旧蹟
 影清塚から摂社・石清水社へ至る途中に「史蹟・松花堂跡」がある。といっても、疎林に囲まれた小さな空き地で、説明板がなければ気がつかない。

 松花堂とは、江戸初期の文人・松花堂昭乗(1582〜1639)が隠居地として建てた方丈(庵)の名。
 摂津堺に生まれた昭乗は、奈良・興福寺で出家、のち石清水八幡の社僧(滝本坊住職)となっている。
 隠居して松花堂を名乗った昭乗は、和歌・戒が・茶の湯などに精通した当代きっての文人として知られ、特に書(滝本流)に堪能で、近藤伊尹・本阿弥光悦とともに“寛永の三筆”に数えられ、昭乗の隠居坊・松花堂は、小堀遠州など多くの文化人が集うサロンのひとつだったという。そこで出されていた弁当が、今の松花堂弁当の前身。

 松花堂の建物・庭園は、明治の神仏分離によって売却され、各地を転々とした後八幡市女郎花の東車塚古墳上に移築され、今、八幡市立の松花堂庭園・同美術館として公開されている。
石清水八幡・松花堂旧蹟

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