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石清水八幡/摂社
                                                             2008.01参詣

 神社配布の「石清水八幡宮由緒略記」(以下「由緒略記」という)によれば、今、境内の内外に摂社8社・末社7社が祀られている。古書・「石清水八幡宮末社紀」(14世紀末、南北朝時代、以下「末社紀」という)や「男山考古録」(1848、江戸末期、以下「考古録」という)には30社あまりが記されているが、今では、その半分ほどがなくなっている。

 摂社・末社とは、本社の管轄下にある小規模神社で、本社祭神の后・御子など由緒のある神、本社鎮座前から鎮座していた神、その土地の地主神、特別に由緒のある神などを祀るのが摂社で、それ以外を末社という。ここでは現在の摂社8社について記す。

※武内社(本殿内・貞観2年鎮座)−−祭神:武内宿禰命(タケウチスクネ)
 考古録に、「本宮瑞垣の裏戌亥(北西)隅にある南向きの小祠で、俗形2躰(男女)の木彫像を祀る。
 今(江戸末期)の祠は寛永11年(1634)・家光公の御造営」とあるが、今は本殿内に合祀されていて外からは見えない。

 祭神・タケウチスクネとは、古代大和王朝で景行・成務・仲哀(神功皇后)・応神・仁徳の5天皇に仕えたといわれる伝説上の人物で、葛城・蘇我氏などといった古代豪族の祖とされる。
 神功皇后・応神天皇を補佐した最重要人物として本殿内に合祀しているのであろう。

※若宮社(築垣内・本宮北右寄り、貞観11-869-鎮座)−−祭神:仁徳天皇
 祭神・仁徳天皇は、応神の跡を継いだ16代天皇。
 摂社の中で最も大きな社殿を有するが、社殿そのものは相当古い。
 考古録では、「本宮鎮座の頃からの小祠で、仁徳天皇1座を祀る」とある。中に柔和型・忿怒型2躰の神像が祀られているという。
 神がもつ和魂(ニギタマ)・荒魂(アラタマ)というふたつの神格を2躰に別けて顕したのかもしれない。本殿改修時などでは仮本殿とされるなど、重要視されている社である。

 仁徳の難波高津宮(大阪市中央区法円坂)での治世は仁政として伝えられ、宮の高殿から望んだとき、民の竈から煙が立ちのぼっていなかったので3年間租税を免除し、自らも倹約に努めたという逸話が残っているが、艶福譚も多く、そのため皇后の嫉妬に悩まされたという人間くさい一面も伝えられている。

 ただ、事績の一部が父・応神と類似していることから、一人の天皇の事績を二人に別けて記したという説もある。5世紀後半の天皇と推定され、堺市の大仙古墳が墓陵とされている。

 当社では男性の守護神とされ、特に厄年の男性がお詣りすれば験ありというが、その由縁など不詳。理屈なしで信じるのがカミ信心かもしれないが、どうもしっくりこない。
石清水八幡摂社・若宮社

※若宮殿社(築垣内・本宮北・若宮社の右、貞観11年鎮座)−−祭神:応神天皇の皇女
 考古録によれば、応神の皇女2柱を祀る故に「若姫殿」とも呼ばれ、神像2躰を祀るとある。ただ、その名前については諸説を列記しているものの、はっきりしない。

 当社では女性の守護神とされ、特に厄年の女性を護るという。
 若宮社も同じだが、何時行っても、祈願を掛けた人々が奉納した黄色いタスキが社殿の柵に掛けられている。
石清水八幡摂社・若宮殿社

※水若宮社(築垣内・本殿右の北寄り、貞観11年鎮座)−−祭神:宇治稚郎子命(ウジノワキイラツコ)
 考古録によれば、当社の正しい社名は「小若宮」だったが、後世「水若宮」と称した。墨書された“小”を“水”と読み誤っての写し誤りだろう、という。

 祭神・ウジノワキイラツコは、父・応神に最も愛された皇子で、記紀によれば、応神の命により一旦は皇太子となるが、応神の死後、皇位は兄であるオオサザキ(後の仁徳)が継ぐのが正統として皇位につかず、互いに3年間譲り合った末、宇治にあった離宮で自ら命を断ったという、ある面では悲運の皇子。実態は、両者の覇権争いかもしれない。
 宇治の平等院から宇治川をはさんで対岸にある宇治神社・宇治上神社の主祭神。菟道稚郎子とも書く。
石清水八幡摂社・水若宮社

※住吉社(築垣内・本殿北左寄り、貞観11年遷座)−−祭神:住吉三神(ソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノオ命)
 祭神・住吉三神は、黄泉国から帰ったイザナギが穢れを祓おうとして筑紫のアワキ原で禊ぎしたときに生まれた神々で、海の神・航海安全の守護神。

 神功皇后の朝鮮出兵に際して神威を顕し、その帰還のとき「吾が和魂を大津の渟名倉(ヌナクラ)の長狭(ナガサ)に居さしむべし。すれば往来の船を見守るであろう」と託宣して祀られたのが今の住吉大社で、この三神に神功皇后をあわせて住吉大神と総称する。
 神功皇后との関係で祀られたもの。
石清水八幡摂社・住吉社

※高良社(コウラ、境外摂社・頓宮南西側、鎮座時期不詳)−−高良玉垂命(コウラタマダレ)
 頓宮南門を出て、馬場先をすこし進んだ右手(西方)の高台に鎮座する。古くは本宮脇にもあったというが、今はない。

 考古録によれば、
 「もと男山の東を流れる放生川の河原にあって、“河原社”と呼ばれる八幡地区の氏神だったが、極楽寺や頓宮の造営に際して川幅が広げられたため現在地に遷った。その後、カワラがコウラと訛り、筑紫の高良大社(久留米市)を遷座せしめて『高良社』と呼ばれるようになった」
という。
 また由緒略記には「祖師(行教)の祀り給へること旧記に明らかなり」とある。 
 旧記が何を指すのか不明だが、八幡神勧請と同じ貞観2年に、それまでの河原社に高良大神を勧請して社名を替えたのかもしれない。
 ただし考古録にいう“もと”が何時を指すのか不明のため、河原社との繋がりはよくわからない。
石清水八幡摂社・高良社

 コウラタマダレを主祭神とする福岡・久留米の高良大社(祭神:高良玉垂命・八幡大神・住吉大神)は、延喜式神名帳に“高良玉垂命神社”とある式内社だが、記紀・風土記などにコウラタマタレの神名は見えず、タケウチスクネ説・ヒコホホデミ説などがあり正体ははっきりしない。
 資料(日本の神々・九州)によれば、「本来は筑紫・高良山の水分の神(ミクマリ、水神)だったらしいが、11世紀中頃なると筑紫一国の鎮守として崇拝をうけるようになり、八幡神が九州一円に広まるにつれて八幡神の伴神のなかに組みこまれた」という。
 また「高良玉垂宮縁起」(14世紀末、鎌倉後期)に、神功皇后の朝鮮出兵に際して「皇后の熱祈に応えて、まず舵取りに安曇磯良(アズミノイソラ)を招き、海神から潮干珠・潮満珠(潮の干満を自在に操る宝珠)を借り受け、臨月の皇后のために甲冑を工夫するなど出陣の準備を整え、大魚を従えて渡海し、寡兵をもって大敵と戦い、干珠・満珠を操って勝利に導いた」とあるように、神功皇后の朝鮮出兵にかかわる八幡神補弼の神として崇拝されたという。

 しかし考古録には、
 「末社記にいう。東武内神西住吉神也。武神也。善悪を糺し、当宮山下に垂迹し、狼藉を鎮護すべしとの八幡大菩薩の命を奉じ給ふ」
とある。
 国家に災厄が起こったとき、忽ち凶賊を取り押さえて国家を鎮護する武神として、武内・住吉の神を祀ったということだろうが、時代の経過によって伝承が変化したのかもしれない。
 いずれにしろ、コウラタマダレを八幡宮に祀るのは、神功皇后の朝鮮出兵にからんでのことで、宇佐・手向山・鶴岡など各地の八幡宮にも祀られている。

 当社社殿は、慶応4年の鳥羽伏見の戦いで焼失し、明治15年に再建、今のそれは大正4年再築されたものという。

 当社に関連して、徒然草(吉田兼好、1330)に、
 『仁和寺のある法師が、歳をとるまで石清水を拝んだことがないのを残念に思っていた。あるとき思い立って、ただ一人徒歩で参詣した。ところが彼は、極楽寺(男山山麓にあった神宮寺、明治元年に焼失)や高良社などを拝んだだけで、願いが叶ったと思いこんで帰ってしまった。
 そして仲間たちに向かって、「長年思っていたことをようやく果たしました。評判以上の尊いお宮でした。それにしても、あの時、参詣の人たちが皆、山に登っていきました。山の上に何があったのか気になったけれども、神へ詣るのが目的だと思って、私は山の上まで見物しませんでした」といったそうだ。少しのことにも、案内者は持ちたいものである』
との話が載っている。
 そこでの兼好は、生真面目で、そのくせ、ちょっと間が抜けた法師の失敗談を揶揄をこめて記しているが、一面、暖かい目差しも感じられる小文である。

※石清水社(境外摂社)−−祭神:天之御中主神(アメノミナカヌシ)
 本宮東に山中に鎮座する古社。八幡神鎮座以前の地主神を祀った社とされるが、社殿前の泉屋の中に井戸があることからみると、元は水神信仰にからむものと思われる。

 男山山中には5ヶ所の泉が湧き出し、八幡五水と呼ばれたという。当泉もそのひとつで、厳冬にも凍らず、旱天にも涸れることがない霊水で、古くから、宮廷や将軍家の参籠にあたっては、この水を神に献げるのを恒例にしたという。

 考古録によれば、泉殿の祭神は“水屋神”と呼ばれ、古くから神として拝まれていたもので、石清水社の社殿建造は後世のことという。
 涸れることのない泉を神あるいは神示現の場として崇めるのは古くからの習俗で、石清水八幡の社名もここからくるという。
石清水八幡摂社・石清水社
境外摂社・石清水社
石清水八幡摂社・石清水社泉殿
泉殿

 泉殿は元和4年(1618)に、それまでの泉を井戸に改められ、覆屋が設けられたという。
 また古く、当地には地主神として「狩尾社」(トガノオ)が鎮座していたが、八幡神遷座のとき橋本に遷られ、祀られていた3神のうちアメノミナカヌシのみが当地に残られた、との説もあるが、考古録では、「旧記にはこの大神を当社に祀るとは見えず、上古よりこの神を祀るという証拠も見えないので、何ともいえない」として、誤りとしている(後述)

 摂社・石清水社の祭神・アメノミナカヌシとは、天地初発のとき混沌に中から最初に成り出でた造化三神の中心神だが、その後は何の事績も記されていないという不思議な神で、近世になって、宇宙の中心神・最高神として再認識されて各地で祀られるようになったという。
 記紀神話で何らの事績がないため、かえって、いろんな神格が付加されたと思われる。

※狩尾社(トガノオ、境外摂社)−−祭神:アマテラス・オオナムチ・アメノコヤネ
 男山の西約1qの橋本・狩尾山に鎮座する境外摂社。
 京阪・橋本駅の東約500m。山裾をコンクリートで固めた山上、60段余りの急階段を登った上に拝殿・本殿が前後に並ぶ。
 疎林に囲まれた静寂な雰囲気の中にある神社だが、社殿は古びている。本殿は正面3間、中央にアマテラス、左右にオオナムチとアメノコヤネを祀る。
 奉斎されている御幣など新しいので、それなりの祭祀はおこなわれているらしい。

 社頭に「摂社・(3神名列記)・慈悲の神さま」との木札があるだけで、由緒などの説明なし。
石清水八幡摂社・仮尾社
石清水八幡摂社・狩尾社

 本宮由緒略記には、
  「摂社、地主神にして本宮鎮座以前からの社」とあり、考古録にも「男山西尾崎狩尾山にあり、・・・八幡大神御鎮座の已前より此所に鎮座也。一説に旧は今の石清水社(摂社)と同じ在所に坐しを、御本宮御遷座ののち、此所に遷し奉るといふは宮寺旧記に所見なし。決めて僻事也」
とある。
 応安7年(1374)に炎上したとの記録があるというから、室町以前からの古い神社ではある。
 古くは、本宮近くにも勧請されていて「地主神」と呼ばれていたというが、今はない。
 地主神といえば、現祭神のうちのオオナムチだろうが、本来の祭神は名もない山の神であろう。

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