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蟻 通 神 社
大阪府泉佐野市長滝
祭神--大国主命
                                                    2018.01.16参詣

 JR阪和線・長滝駅の北西約650mに鎮座する式外社。社名は“アリトオシ”と称する。

 駅北側の道路を西へ、長滝東交差点を右折して府道248号線を北上した右側に鎮座する。

※由緒
 拝殿横に立つ石碑に
 「由緒  祭神 大国主命 弥生中期 開化天皇の紀元93年に創祀さる。
 稲作りが始まり米が貴重な食料で、五穀豊穣長寿の神として祭られた。5世紀に朝鮮新羅より優秀な技術集団が渡来し、今日の条里制農地を造り、国土開発の神として崇められる。
 平安時代摂政藤原道真の領地となる。
 紀貫之が京都へ上る途中、馬が急に病み、
   かきくもり あやめも知らぬ大空に ありとほしをば思ふべしやは
と歌を奉ると馬の病がなおった。
 世阿弥がこの歌をもとに謡曲・蟻通を作り、和歌謡曲の神として崇敬された。
 清少納言は枕草子で七曲がり法螺貝に赤糸を通せとの難問を父の教えによって解決し、智恵と親孝行の神として崇敬された。
 熊野信仰が盛んになり、上皇貴族が行列をして神社前を通り、蟻の熊野詣でと呼ばれた。
 戦国時代根来寺の領地となり、日根郡の中心神社である。昭和16年境内が飛行場となり、現在地に移転す」
とある。


 由緒はは、当社創建を第9代・開化天皇・紀元93年というが(書紀による在位年BC158--BC98)、開化天皇は所謂欠史8代(神武を含めて9代ともいう)といわれる天皇の一人で(大和政権は10代・崇神から始まるとするのが有力)、その実在は疑問とされている。
 また、当社創建年次を紀元93年とする根拠は不明。
 10代崇神天皇が4世紀初期の天皇とすれば、その父とされる開化天皇の在位時期は3世紀後期頃と思われ、紀元93年とは結びつかない。

 開化朝あるいは紀元93年はいずれも弥生時代中期にあたるが、その頃に常設の神社があったとする確証はなく、上記の開化朝勧請は、当社を古くみせんがために作られた仮想年次であって、その点からみて、当社の創建時期は不明とみるべきであろう。

 当社公式HPには、当地には古くから人々が住みついていたとあるが、大阪府文化財センターの報告によれば、府道245号線を挟んだ当社の西方一帯には、弥生時代末から古墳時代にかけて営まれた集落遺跡(諸目遺跡)があり、その発掘調査(昭和24年)で、竪穴式住居跡(弥生末期)・掘立柱建物跡(古墳時代)数基のほか多数の土師器・須恵器などが出土したという。
 人々がいたことは、そこで何らかの神マツリ・先祖マツリが行われていたと想像はできるが、それを証するような遺構や祭祀関連土器等は見つかっておらず、そこからも、由緒がいう弥生中期創設というのには疑問がある。


 当社の存在を示す文献上の初見は、平安前期の歌人・紀貫之(866--943)の歌集・貫之集(946?)といわれ(公的史料には一切見えない)、そこには、
 「紀の国に下りて、帰り上りし道にて、にはかに馬の死ぬべくわづらふところに、道行く人々立ち止まりていふ、
 『これは ここにいますがる神のしたまふならん。年ごろ社もなく、しるしも見えねど、うたてある神(神威怖ろしき神)なり。さきざきかかる折には祈りをなんせよと申す』
といふに、御弊(ミテグラ)もなければ、なにわざもせで、手洗ひて『神おはしげもなしや。そもそも何の神とか聞こえん』ととへば、『アリトホシの神』といふを聞きて、よみてたてまつりける。馬のここちやみにけり(倒れた馬も回復した)
  かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば思ふべしやは」
とある(新潮日本古典集成80)

 この話を元にして創作されたのが謡曲・蟻通(伝世阿弥作)で、その粗筋は
 ・紀貫之が紀州の玉津島(和歌山市和歌浦中町、和歌の神)に参詣しようとして紀州路を下っていくと、俄に日が暮れ大雨が降ってきて、乗ってきた馬も倒れてしまう
 ・そこへ現れた宮守(明神の化身)が、「此処には物咎めをしたまう“蟻通の明神”が坐します。それを知ったうえで馬上で通ろうとすれば、命がなくなる」と告げる
 ・貫行が、「神前とは知らなかった」と言い訳をすると、貫行が歌人であることを知った宮守が、お詫びの歌を神に奉納せよ告げる
 ・そこで貫行が、『雨雲の立ち重なれる夜半なれば 蟻通とも思ふべきかは』と詠んで神に捧げる(貫行集とは上句が異なるが、歌意は同じ)
 ・それを聞いた宮守は、歌の功徳を説きながら、この歌が神慮に叶うたと告げながら鳥居の陰に姿を消していく
 ・歌の功徳で神の怒りを解いた貫行は、立ち直った馬に乗って紀州へと向かっていく
というもので、この能によって蟻通神社の名が広く知られるようになったという。


 当社社名・蟻通とは珍しい社名だが、蟻通の由来について枕草子(1000頃)・社(ヤシロ)(226段)には、
 【蟻通しの明神】  
 ・貫行の馬が倒れたので、「この神は祟りをなさる」として歌を詠んで奉ったというのは大変面白いことだ
 ・蟻通しと名づけたのは、本当かどうかはわからないが、昔の帝が、40歳になった老人を殺してしまわれたので、遠い他国へ逃げ隠れるなどして 都の中には老人がいなくなった
 ・その中で、ある中将が家の中に穴を掘り そこに作った部屋に 70歳近くになった両神を隠していた

 ・一方、唐土の帝が「この国の帝を計略にかけて攻め取ろう」と考え、幾つかの難題を吹きかけてきた(中略)
 ・ある時、七曲がりに曲がりくねった穴が貫いた玉(由緒では法螺貝)を送ってきて、「これに紐を通してみよ、わが国では皆が出来ることだ」といってきたが、人々は「どんな器用な人でも 手に負えない」と難渋した
 ・中将が隠していた両親にこの事を話したところ、父親は「向こう側の穴の口に密を塗り、大きな蟻に細い糸をつけて、こちら側の穴から入れてみよ」との策を授けた
 ・中将が帝に奏上してその通りにすると、蟻は密の香を嗅いで七曲がりの穴を通り、向こうの口から抜け出してきた
 ・この糸の通った玉を送り返したところ、唐土の帝は「日本は賢い国だ」として以後このような難題を持ちかけなくなった
 ・帝は、中将に褒美として官位を授けようとされたが、中将は「官も冠も頂きますまい。ただ老いたる父母が都で一緒に住むことを許して欲しい」と申し上げたところ、帝は「たやすいことだ」としてこれを許されたので、世間の人々は老人を殺さずにすむとして皆が喜んだそうだ

 ・その人が蟻通しの明神になったのでしょうか。明神が詣でた人の前に現れて、『七曲がり曲がれる玉の 緒を貫きて 蟻通しとは 知らずやあるらむ』と告げられたと、人が語ってくれた
とある(同集成12・蟻通関連部のみ古文意訳)

 この話は、仏典や漢籍にある同種の説話をわが国風に改変したものといわれ、枕草子が孝子譚として記しているように、その内容からみて、この説話と当社とが直結するかどうかは不詳。

 なお、当社社名・アリトホシは、中世以前の資料では“有通”と記されたものが多いといわれ、それが“蟻通”となったのは枕草子にいう蟻通しの由来が一般に広まった以降ではないかという(貫行集では“ありとほし”であって漢字は充てていない)

 ただ当社を蟻通と表記する由来について、異説として
 ・当社旧社地が旧熊野街道(府道・64号線、当地辺りでは紀州街道と重複)沿いにあったこと
 ・熊野詣の人々は、その途上にある九十九王子を詣りながら熊野に至ったといわれ、その一つ・籾井王子が当社の近くあったことから、熊野詣での人々は必ず当社社頭を通ったと思われること(当社の西方すぐの南中樫井町に籾井王子の旧跡がある)
 ・多くの人々が蟻のように連なって熊野に詣でることから“蟻の熊野詣”と俗称されたこと
などから、アリ=蟻との印象が強くなり、そこから蟻通との表示が定着したのではないかとの説があり、枕草子よりこちらの方がわかりやすい。


※祭神
  主祭神--大国主命

 貫行集あるいは枕草子にいうアリトホシの神と大国主命との接点は見当たらず、当社が出雲の大神・大国主命を祀る由縁は不明。
 当社由緒には、“五穀豊穣長寿の神”として祭られたというが、それが大国主命である必然性はない。

 何時の頃かに、当地一帯の鎮守の神として国つ神の頭領としての大国主命を勧請したかとも思われ、当社本来の祭神は別にあったかもしれないが、それを推測する資料はない。


※社殿等
 道路脇に「蟻通神社」との社標がたち、少し入ったところに朱塗りの鳥居が立つ。
 石灯籠にはさまれた参道をすぎ、朱塗りの神門をくぐって境内に入る。


蟻通神社・社頭 
 
鳥 居
 
神 門

 境内正面に、四方吹きはなちの舞殿(入母屋造)が建ち、その背後、少し離れて唐破風向拝を有する横長の拝殿が建つ。


舞 殿 
 
舞殿と拝殿
 
拝 殿

 拝殿の奥に朱塗り銅板葺き朱塗りの本殿が鎮座する。
 本殿は、一間の向拝をもつ三間社切妻造らしいが、周囲の壁が高く且つ隙間がなく詳細は実見不能。
 なお、本殿の左右に小祠2宇があるようだが、実見できず詳細不明。

 
本 殿
 
本 殿(背後より)

◎末社
 参道の右手に末社2社が鎮座する。
 ・足神神社
   祭神--宇麻志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジ)
   この神は、天地開闢のとき最初に成り出た造化三神に続いて成り出た神で(4番目)、古事記には
   「次に国稚(ワカ)く浮ける脂(アブラ)の如くして、海月(クラゲ)なす漂へる時、葦牙(アシカビ)の如く萌え騰(ア)がる物によりて成りし神」
とあり、注記(岩波版)には、“葦の芽に象徴された万物の生命力・成長力を神格化した男性神”とある(書紀では一書2・3・6に出ている)。
 傍らの案内には、通称・足神様 御神徳・健脚・足の病の癒やし云々とあるが、この神徳とこの神とは直接には繋がらない。多分に、葦を同じ訓みの足と読み替えて付会したものであろう。

 ・弁財天社
  参道の右て、池の中に鎮座する小祠
  祭神--市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)  通称・弁天様

 
足神神社
 
弁財天社

 ・六社明神社
 拝殿の右手に並ぶ小祠群で、左から
  智恵神社--思兼神・蟻通明神分霊(一間社流造で、他に比べてやや大きい)
  愛宕神社--迦具槌命(火の神)切妻造妻入り、以下同じ)
  多賀神社--伊邪那岐命・伊邪那美命
  住吉神社--底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足姫命(住吉四神)
  和泉五社--大島神社・穴師神社・聖神社・積川神社・日根神社
  社名・祭神不明社(石祠であって他とは異なる)
と並ぶが、その鎮座由緒等は不明。


六社明神社中の五社 
 
右端に鎮座する石祠

 六社明神社の左(北)、カギ形に折れた長い石の台座の上に、小さな石祠11宇と石塊数基が鎮座しているが、案内なく詳細不明。近傍の道端などにあったものを当社内に集めたのかもしれない。


石祠-1 
 
石祠-2 

◎紀貫行冠之渕
 境内東南隅(鳥居を入った右手)、半円形の池の中に「紀貫之冠之渕」と称する小島があり、左に『紀貫之大人冠之渕』と刻した石柱が立ち、右に“かきくもり云々”の歌を刻した石碑が座っている。
 傍らの案内石板には
 「紀貫之は平安朝随一の歌人、905年醍醐天皇勅撰の古今和歌集の撰者であり、仮名文字の創始者である。
 紀伊国から京都への途中、急ぎ乗馬のまま蟻通神社の社頭を通り過ぎようとした。その時、一天俄にかき曇り風雨強まり、貫行その冠が吹き飛ばされ、馬が倒れて急死した。云々」
と、上記貫行集を簡略化した碑文が刻されている。
 ただ、貫行集には冠を落としたとの記述はない。


冠の渕・全景 
(左:冠の渕石柱・右:歌碑)
 
冠の渕・石標


※旧鎮座地
 当社は今、府道248号線沿いに鎮座するが、戦前までは北約1kmほどの旧熊野街道沿いにあったが、大戦末の昭和19年(1944)、その地に佐野陸軍飛行場が建設されたことから現在地に遷座したという。

 府道248号線・長滝東交差点(長滝駅の左手)を右折、次の信号を右折して北上、関西空港自動車道(JR関空線)高架のすぐ手前、植え込みの中に、「蟻通神社跡」との石碑が座っている。
 傍らに案内板が立つが、文字の摩耗激しく判読不能。

 
旧鎮座地・全景
 
同・正面

史跡・蟻通神社跡の碑 

 旧社地址石碑の右手少し離れて、小さな凸凹のある自然石の岩が座っている。

 案内等はみえず、これが何なのかははっきりしないが、岩の表面に刻まれた文字に、『・・・ほ羅貝いに 糸を通せし名のたかい・・・あ里とおしかな』とみえることから、枕草子にいう“蟻通の由来説話”に関わるものと思われる。
 そう思ってみると、この石の形は法螺貝に似ているとみえなくもない。




[付記]
 今、蟻通を称する神社として、ネット資料によれば、当社以外に次の3社がある。
 ・蟻通神社--和歌山県伊都郡かつらぎ町東渋田  主祭神:思兼命
   開化天皇の御宇勧請、 古くは意富多々泥古神(オホタタネコ)を祀る 
   社伝として、天武天皇の御代、唐の高宗から七曲がりの玉に糸を通せとの難題があり、その解決策(枕草子と同じ)を献じた老人は「吾は紀ノ國蟻通の神」といって姿を消した、とある。
 ・蟻通神社--和歌山県田辺市湊  主祭神:天児屋根命
   天平神護元年(766)勧請、古くは御霊牛頭天王社と称していたが文化9年(1812)に蟻通明神社と改称
   ほら貝に蜜をつけて、蟻に糸を結び通したという故事が伝わるという
 ・丹生川上神社中社の旧社名(蟻通明神)--奈良県吉野郡東吉野村  主祭神:罔象女神
   大正10年頃までは蟻通明神と呼ばれていたが、これは、平安末期頃に和泉国の蟻通神社を勧請したもので、大正11年(1922)に丹生川上神社中社と改称している。

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