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和泉(和泉郡)の式内社/粟神社
現在−−大津神社の境内摂社
旧址−−大阪府泉大津市式内町
祭神−−天太玉命
                                                       2011.03.26参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国和泉郡 粟神社』とある式内社だが、明治末期の神社統廃合により現泉大津市若宮町の大津神社に合祀され(明治41年-1908)、旧鎮座地には「式内粟神社旧址」との石標が残っている。

 南海本線・泉大津駅の南約800m、泉大津市南端、大津川右岸に隣接した式内町内に位置し、府営泉大津式内住宅(高層住宅)の西、ヨシミツ毛織(株)工場北側の小道を西(鉄道側)へ入った左に残る。

※由緒
 当社の創建由緒・年代について、合祀先の大津神社由来書には
 「宝亀7年(776)粟直氏当地に在住、粟氏の祖神天太玉命を祀ったのが即ち粟神社である」
とあるが、式内社調査報告(1929)によれば、
 「宝亀7年の創建と伝えられるが不詳」
という。

 粟氏が連なるという忌部氏系氏族は、阿波忌部氏・紀伊忌部氏など九州・四国・紀伊半島・房総半島など各地に拡がっており、房総半島の安房忌部氏がアワと称するのは、四国の阿波から移ったためという。
 当地に居たとされる粟氏は房総の安房忌部氏と関係すると推測されているが、アワの読みからくる付会とも思われる。
 なお、続日本紀・光仁天皇宝亀7年6月8日条に、
 「近衛・大初位(ダイソイ)下の粟人道足(アワノヒトミチタリ)ら十人に“粟直”(アワノアタイ)の姓を賜った」
とあり、8世紀後半、中央に粟直との一族が居たことは確かといえるが、その賜姓年次と当社創建年次とが同じことに作為も感じられる。

 曾ての当社について、旧址横に立つ“泉大津ふるさと文化遺産 粟神社跡(平成18年指定)”には、
 「泉州志(1700)・和漢三才図会(1712)・和泉志(1736)などの地誌では、この旧宇多大津村にあった粟神社を、延喜式中の粟神社に比定している。・・・寛政12年(1800)の“和泉国泉郡大津村神社之写”によれば、戦国時代に焼失するまで、式内社として一定の勢力を有していたことが伝承されている。
 江戸時代には大部天王社(別名「あはど-粟戸-宮」)と呼ばれ、室町時代に建築されたと考えられる社殿が建っていた」(大意)
とあり、防疫神・牛頭天王を祀る神社と解されていたらしいが、
 式内社調査報告には、江戸時代の状況として、
 「天保年間(1830--44)に、僧下覚の手になる“西国巡礼手控”に、『路の傍らに華表(鳥居)もなく屋根も敗れんとするささやかなる祠は人は粟堂と申しける。式内粟神社こそ此堂にておわすか』とあり、当時の状況がしのばれる」
とあり、江戸末期には既に頽廃していたらしい。

 明治時代の状況として、大阪府誌(1903・明治末)
 「南海鉄道の汽車大津駅を南し、左方直ちに一叢を認むるもの即是なり。社叢84坪にして村社なり」
とあり(大阪府史蹟名勝天然記念物-1929-にも同意記述あり)、その直後(明治41年・1908)に大津神社へ合祀されるまで、和泉郡宇多大津村粟戸(現式内町)に村社として鎮座していたらしい。

 合祀された際、社殿は大津神社内に移築され(上記案内)、今、大津神社本殿の左に建つ鞘堂内に収められているという(大津神社由来書)。ただし、本殿域内は禁足地であり、外からの実見不能。

 今、旧鎮座地は、工場敷地の一角の低いブロック塀で囲まれた中にあり、朱塗鳥居の奥に『式内粟神社舊址』と刻した石標(明治44年-1911-氏子による建立)が立ち、右に“南妙法蓮華経云”々と刻したやや小ぶりの石碑が立つ。

粟神社・全景
粟神社・旧址全景
粟神社/旧址石標
粟神社旧址の石碑

※祭神
 大阪府誌には
 「天太玉命を祀り俗に粟堂と称せり。蓋し、安房国(千葉県房総半島)に鎮座せる官弊大社安房神社(千葉県館山市・祭神天太玉命)と同神なるより称えしものならんといふ」
とあり、忌部氏系の粟直一族がその祖神を祀ったものという。

 太玉命(フトタマ、天太玉命)とは忌部氏の祖で、古語拾遺(斎部氏系史書、807)によれば、造化三神の一・高皇産霊神(タカミムスヒ)の御子で忌部氏(後の斎部氏)の祖とあり、天の岩屋戸神話で、岩屋戸に隠れたアマテラスを連れ出すために、中臣氏の祖・天児屋根命とともに太占をおこない、勾玉や鏡を取り付けた天香山の眞賢木を捧げ持ち、アメノコヤネとともにアマテラスの徳を讃える祝詞を述べたとあり、アメノコヤネとともに宮中祭祀を司る神という。

 当地に忌部氏にかかわる氏族が居住した確証はないが、当社の東約1.6kmにある泉穴師神社(泉大津市豊中町)の祭神をフトタマ命に連なる天富貴命(穴師神主氏の祖神)とする説があることからみて、当地付近にも居住していた可能性はある。

付−大津神社
  祭神−−品陀別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)

 南海本線・泉大津駅の西約250m、駅前(西側)から府道204号線(堺阪南線)を越えて直進した右手(北側)に鎮座する。

 大津神社の公式ホームページによれば、
 「古く、当社の鎮座地辺りには“小津の泊”と呼ばれる良港があり、神功皇后の府中(和泉国府所在地)御幸のとき、当港に上陸され、府中に行かれたとの伝承がある。
 当社(若宮八幡宮)の創建年代についての明確な文献はないが、この頃に小津の泊の一地点に鎮座したといわれる」(大意)
とあり、別伝として、今、大津神社の由来記に記す
 「阿部朝臣広庭八世の孫三郎忠清が天喜年間(1053--58)源頼義に従い奥州安部頼時貞任等を追討した功により、京都に帰り和泉下条郷をたまわり和泉三郎と称するにおよび、源頼義が鎌倉に鶴ヶ岡八幡宮を創建した例に倣い、康平7年(1063)此の地に八幡宮を鎮際した。もと若宮八幡神社と称されていた」
との由緒を記している。

 “泉大津”との地名が、和泉国府の外港を意味する“小津”に始まり、後に“大津”に転じ、他の大津と区別するために“泉”を冠したといわれることから、当地付近に小津の泊があり、その守護神として小祠が祀られていたのはありうることだが、それを神功皇后の御代とするのは牽強付会。
 当社が若宮八幡神社と称していたことからみると、由来記にいう康平7年創建というのが順当であろう。

 なお、大阪府全志(1922)には、
 「もと若宮神社と称し、応神天皇を祀れり。創建の年代は詳ならず」
とある。

 その後、明治41年(1908)、宇多神社(旧大津村宇多−現上之町)・神明神社(同村下条−現神明町)・事代主神社(同村堀廻−現戎町)・粟神社(同村宇多粟戸−現式内町)を合祀・合併に際し、同年8月24日大津神社と改称したという。

*社殿等
 道路脇の鳥居を入った正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)、その奥、白壁に囲まれた神域内に本殿(流造・銅板葺)が鎮座するが、禁足地とかで近寄れず本殿大屋根の一部がかろうじてみえる程度。

大津神社/鳥居
大津神社・鳥居
大津神社/拝殿
同・拝殿
大津神社/本殿
同・本殿

 当社由来書および当社ホームページを参照すれば、明治41年以降に合祀された各社が、次のように祀られているらしい。
 (本殿に合祀)
  ・宇多神社(天王社)−−素盞鳴命−−遠い昔から奉斎されていたというが、牛頭天王としての祭祀らしい。
  ・神明神社−−船玉命・天照皇大神−−天正年間の戦乱を逃れた淡輪氏一族郎党が当地に隠れ、その氏神を祀ったもの
  ・菅原神社(天神社)−−菅原道真
 (摂社)
  ・粟神社−−上記
  ・広良神社−−彦五瀬命−−神武東征の折、日下の戦いで負傷された五瀬命が当地の海で血を洗い、
                    小津の泊から乗船され熊野に向かわれたとの伝承による
  ・事代主神社(戎社)−−事代主命・天照皇大神−−南北朝時代、当地の勤王家3者が摂津西ノ宮から勧請したもの
  ・広田神社−−春日四神(事代主神社・末社)
  ・住吉神社−−住吉三神(事代主神社・末社)
 (末社)
  ・稲荷神社−−倉稲魂命
 これらの内、今、境内に見えるのは戎社・稲荷社2社のみで、戎社を除く摂社4社は本殿横に鎮座しているらしいが、確認不能。

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