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淡 路 神 社
大阪府岸和田市摩湯町576
祭神--伊弉諾尊・菅原道真
                                                 2019.09.14参詣

 延喜式神名帳に、【和泉国和泉郡 淡路神社】とある式内社。

 大阪市と泉北ニュータウンを結ぶ泉北高速鉄道の終点・和泉中央駅の西約2km。
 駅前を通る府道223号線を南西へ、4っめの信号(北松尾小学校南)を右折、府道226号線に入り箕形町信号(二つ目)を左折、二つ目の信号手前の北側に鎮座する。(駅から徒歩約1時間弱)
 南西方に近接して摩湯山古墳(地図には摩湯山公園とある)がある。

※由緒
 境内の拝殿横に立つ案内には
 「当社は延喜式神名帳に記載されている古社であるが、創建についての直接の資料は現存せず、言い伝えによれば、
 聖武天皇の皇女・不破内親王が延暦14年(795)に淡路より当地に移り住まわれた際に、伊弉諾神宮より分祀されたものとされている。

 永正14年(1537)に社殿が改築され、菅原道真が合祀された。 
 明治5年(1872)に村社となり、以降、摩湯の産土神として氏子たちに守られてきた。

 淡路神社は明治の廃仏毀釈により神社のみとなったが、それ以前は神仏習合であり、長泉寺が境内に存在した。その名残が長泉寺井戸であり、当時の仏像は町内にて保管され、現在は太子堂に安置されている。(中略)
 尚、新参道の大鳥居は昭和56年に建立され、新拝殿は平成10年の本殿修復に併せ立て替えられた」
とある。

 また、式内社調査報告(1986)には
 「当社は延喜式内の旧社でありながら、祭神も勧請年月もさだかてない。ただ、すぐ脇に摩湯山古墳があり、不破内親王の墓との伝承がある。
 社伝によれば、桓武天皇即位の翌年、延暦元年(782)1月、塩焼王(桓武の孫)を父とし不破内親王を母とする氷上川継の謀反が発覚し、川継は伊豆に流されたが、その生母不破内親王も連座して淡路に配された。
 延暦14年さらに和泉に徒せられた折、淡路国津名郷の伊邪奈岐神社より勧請されたのが当社であるといふ。
 もしそうであれば、当社創建は延暦14年ころといふことになる」
とあり、いずれも不破内親王にかかわる伝承を以て当社創建の由緒としている。


 不破内親王とは聖武天皇の皇女(生没年不明)で、聖武の孫の塩焼王(臣籍降下して氷上塩焼)に嫁ぎ氷上川継を生んだという。
 内親王の淡路配流について、続日本紀・桓武天皇段には
 ・延暦元年(782)閏正月11日--因幡国主・従五位下の氷上間人眞人川継が謀反を起こし、事が露見して逃走するも3日後に捕らえられた
 ・そのとき天皇は、「川継ぐは密かに叛乱を謀ったが、事件は既に発覚した。法によって裁断すれば極刑にあたるが、時節柄、その死を免じて遠流(伊豆国三島)に処し、不破内親王と川継の姉妹は淡路国に移配せよ」と詔りした
とあり、子供・氷上川継の反乱に連座して淡路島に流されたが

 その後、日本後紀・桓武天皇段に
 ・延暦14年(795)12月乙酉--淡路国へ配流されていた不破内親王を和泉国へ移した
とあることから、
 延暦14年に不破内親王が淡路より和泉国に移されたのは史実だろうが、和泉国の何処とは明記されておらず、その地が当地だったとする傍証はなく、当社創建を不破内親王に付託するのには一抹の疑問がある。

 なお、内親王は淡路配流以前にも、天平宝宇8年(764)、夫・鹽焼王が恵美押勝の乱に担がれて参加し、乱平定時に押勝とともに近江国で斬られという事件が起こり、この乱には内親王は連座していないが、神護景雲3年(759)の称徳天皇呪詛事件に連座して内親王の身分を剥奪され、後に冤罪だったとして内親王に復帰するなど、宮廷内での勢力争いに巻き込まれて有為転変の生涯を送った不幸な女性といえる。


※祭神
  伊弉諾命・菅原道真

 伊弉諾命--不破内親王が淡路の式内・伊邪奈岐神社からの勧請したということからのもの
 菅原道真--永正14年の勧請によるもの

 しかし、式内社調査報告(1986)
 「伊邪奈岐命・菅原道真を祀る。されど古来祭神一定せず。
  神社覈録(1870)が、古事記・仁徳天皇の条文を引用して、楠本神社を木霊、淡路神社は水霊を祀るものか、としている点は一考に値する。
 神名帳考証(1733)は大國魂神とする。あるいは摩湯山古墳の伝説と社名との関連から、不破内親王か ともする」
として、異説として水霊説・大國魂神説・不破内親王説があるという(大阪府全志-1922も同じ諸説ありという)

 *水霊説--大阪府全志(1922)・楠本神社の項に
  「神社覈録に、古事記仁徳天皇段に『兔寸河(トノキ)の西に高樹有り』と見ゆる高樹は楠なるべく、楠本神社は其の楠の本にありて木霊を祀り、今の山直下村大字摩湯の淡路神社は其の水霊ならんか」
 同・淡路神社の項に
  「神社覈録に、楠本神社の祭神は古事記仁徳天皇の段に見ゆる巨樹の霊にして、当社の祭神は水の霊ならんかと為し」
とあるのをうけたものであろう。(楠本神社は当社の南約1.6kmに鎮座する、別稿・楠本神社参照)

 仁徳天皇記にいう高樹伝承とは、
 「この天皇の御代に、兔寸河の西に一本の高い樹が生えていた。その樹に朝日が射すと、その影は淡路島に達し、夕日が射すと、その影は河内国の高安山を越えるほどであった。
 この樹を伐って船を作ったところ、たいそう速く走る船であった。当時、その船を名付けて枯野といった。
 そこで、この船で朝夕淡路島の清水を汲んで運び、天皇の御飲料水として奉った。・・・」
というもので、
 上記水霊説は、この高い樹が当地にあって、その許にある楠本神社は木の霊を祀り、近くにある淡路神社は運んだ水の霊を祀るとするものであろう。
 ただ、この高樹伝承に関連する神社としては、楠本神社以外にも高石市にある等乃伎神社があり、普通、こちらが有力という(別稿・等乃伎神社参照)

 *大國魂神説--度会経延の神名帳考証(1733)に「祭神 大國魂神」とあるのを受けた説だろうが、考証にその根拠は記されていない。

 *不破内親王説--大阪府全志は「摩湯の墓に縁由あるものならんかとの説あり」とあり、近接する摩湯山古墳を不破内親王の墓とする伝承によるものと思われる。
 ただ、摩湯山古墳は4世紀末から5世記初頭の築造と推測され、不破内親王(8世紀)とは時代が合わない。
 不破内親王が創建したという由緒からいうと、内親王を配祀してもおかしくはないが、境内に内親王の痕跡はみえない。

※社殿等
 府道223号線の北側に鎮守の森が続き、その西端近くに昭和56年(1981)建立という大鳥居が南面して立つ。
 大鳥居を入り、西からの延びる表参道に突きあたって右折した先、白壁に囲まれた中に社殿が鎮座する。


鎮守の森・南側(府道沿い) 
 
淡路神社・大鳥居
 
同・社殿域全景(右に見える社殿は拝殿)

 嘗ての当社は、社域の西側が正面だったようで、社域の西側にも鳥居が立ち、参道突き当たりの低い石段を上って、白塀に囲まれた境内に入る。

 境内には、拝殿横に案内板が立つのみで、社務所等もなく、閑散としたたたずまいをしているが、清掃等は行き届いている。


同・西側鳥居 

同・参道 
 
同・社殿域正面

 社殿域の正面に一間社向拝を有する横長の拝殿(入母屋造・瓦葺)が、
 その奥に本殿が西面(正確には西北西)して鎮座するが、高い壁で囲われていて正面からはみえず(拝殿の扉は閉まっており、拝殿横から奥へは行けない)、一旦社殿域をでて右に回り込んだ外側(東側)から壁越しに側面をみることになる。
 外からみたところでは、春日造・銅板葺きの社殿で、唐破風向拝を有するとみえる。

     



◎摩湯山古墳
 神社前の道路を西へ進んだ南側に摩湯山古墳がある。
 この古墳は、泉南地方の代表的な大型前方後円墳で、丘陵先端部に、前方部を北西に向けて位置し、
  全長:200m 後円部径:130m 前方部幅:100m 高さ:15m
  前方部のみに周濠が現存する
  表面調査で、埴輪・土師器などが出土したことからみて、泉南地方では最も時期のさかのぼる古墳で、4世紀末から5世紀初頭の築造と推測されるが、埋葬施設・被葬者等は不明(日本古代遺跡事典・1995) 。

 航空写真(ネット)でみると、前方部が余り開かない前期古墳の特徴を示しているが、後円部の東側部分は民家に浸蝕されて原形を留めておらず、また周囲は民家が密集していて全景を撮れるポイントはない。


摩湯山古墳
(右上森の中の赤丸が淡路神社)
 
摩湯山古墳・前方部北東角付近

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